BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2014年5月中旬 『大陸西遊記』~


湖南省 益陽市(中心部)資陽区 / 赫山区 ~ 市内人口 465万人、市内一人当たり GDP 27,000 元


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  三国時代の 益陽市
  青龍州(関羽の 夜襲予定場所)
  関羽 と 魯粛の単刀赴会
  魯粛堤 と 益陽県城
  馬良湖(夷陵の戦い、馬良の死亡場所)
  魏公廟
  城郭内の旧市街地 と 城皇廟
  資水の渡し船 と 墓石
  旧式住宅街 と 公衆便所



益陽市は、三国志ネタの尽きない街である。

そもそも、水脈の豊かだった荊州一帯では、5000年前の新石器時代から人類の生息が確認されているという。
現在の益陽市一帯は、春秋戦国時代、一貫して 楚領(紀元前 223年滅亡)に属していた。当時から河川の合流地点とあり、水上交通の要衝で、ある程度の人口を抱える都市集落であったに違いない。

紀元前 221年に、秦により中原が統一された後、中央集権統治の確立が図られ、全国に郡県制度が導入される。このとき、長沙郡と益陽県が設置される。その名の由来は、近くに流れる益水の 南側(陰陽でいう「陽(南)」にあたる)にある都市という意味から、「益陽」と名付けられたという。当時の益陽県は、現在の市域をはるかに上回る、周辺 18,000 km2もの面積の地域を管轄するものとされた。

下記の地図は、後漢時代 の荊州中部の様子。現在の湖や河川とは位置や流れが大きく異なっていた。現在の水脈は赤色で、当時のものは青色で明示されている。

益陽市

そして、時は三国時代。
この地は、赤壁の戦い(208年)で曹操の南方進出を阻止した劉備と孫権が、長らく対立してきた荊州帰属問題を一気に表出させた場所である。

211年後半より蜀入りしていた劉備が、214年に龐統を失うも、諸葛亮、張飛、趙雲の援軍で 成都 を陥落させ、益州占領を果たす。これを受け、翌 215年、荊州を「一時的に貸していた」呉の孫権から、約束の履行として劉備側に荊州返還要求が出る。これを劉備が断ると、呂蒙、魯粛、甘寧らが大軍を荊州へ進出させてくる。

呉の呂蒙は真っ先に、荊州南部の 3郡(零陵郡、桂陽郡、長沙郡)を難なく降伏させてしまう。そして、そのまま北上し、洞庭湖の南の 益陽県城(先に程普が在陣していた)へ軍を進める。

他方、呉挙兵の一報が入った蜀でも、益州成都から劉備自身が 5万の大軍を率いて出陣、荊州・公安(江陵)までやってくる。軍師孔明は成都に残り、荊州に人脈と土地勘を持つ馬良が帯同された。そして、荊州城(江陵)にて関羽と合流する。蜀呉は一触即発の事態に直面する。

劉備は関羽に兵 3万(関平、周倉も同伴)を与えて、呉軍の主力が陣取る益陽県へ向かわせる。関羽軍 3万は河を挟んで南側に対陣する。劉備は残りの兵力で、洞庭湖の西湖畔の 公安(江陵城)に駐留し、荊州西部ににらみを利かせた。

同時に、魯粛軍も洞庭湖の東岸の「巴丘(今の 岳陽市)」にあって、公安に滞在する劉備をけん制しつつ、間もなく、精鋭 5,000を率いて、最前線の益陽県城内に陣取る呉の程普軍と合流する。南部 3郡平定後の呂蒙と甘寧はやや遅れて到着する。

劉備は荊州南郡を領有してから5年しか時間がたっていないということもあり、荊州 3郡の領主たちは呉の軍門に簡単に下ってしまったようである(呉の呂蒙が偽の情報を流して太守らを攪乱)が、一部の地方豪族は 劉備方、関羽方に味方して、対呉反乱を各地で起こし、呉軍の背後を脅かしたが、順次、呂岱(161~256年)らによって平定されていった。

南側に川を挟んで陣取った 関羽軍 3万は、一部の兵を割いて、上流 5 kmあまり先の 浅瀬(青龍州あたり)より渡河を決行し、呉陣に夜襲をしかけようと準備するも、魯粛が甘寧軍に夜襲警戒体制を敷かせていることを察知し、夜襲を中止して、自陣にて守備を固めることに専念することとなった。

下の写真左は、ちょうど関羽が夜襲決行のため、渡河しようとした一帯である。今日でも、河の中心部に中州が広がっていた。
下写真右は、この河辺にあった 関帝廟(六中学校の裏)。二人の地元女性が定期的に掃除しているらしかった。賽銭を置くように言われたので、この人たちの懐に入ることは目に見えていたものの、関羽亭に献上してきた。

益陽市 益陽市

さて、蜀では、益州内も完全に平定し切れていない中、もう一つの脅威に直面することとなる。

同年、曹操が漢中の張魯討伐遠征を開始し、蜀領内でも魏の勢力南下が浸透しつつあった(漢中 から巴郡一帯が魏に寝返る)。こうした中、蜀側で呉との長期戦を警戒し、平和的解決を図る機運が高まる。呉側でも、魯粛を筆頭に、劉備を対曹操戦に活用するべく、蜀との戦争は避けたいとの思惑があり、平和的解決が図られた。

こうして、益陽にて関羽と魯粛との会談が実現する。世に名高い「単刀赴会」である。わずかな兵士をつれて、敵陣へ乗り込み、会談に臨んだという関羽の豪胆ぶりを評した言葉であるが、実際は、魯粛の説く道理と、約束を度々反故にしてきた蜀代表の関羽とでは、最初から立場が異なり、ほぼ一方的に魯粛の弁が通ったようである。

小説『三国志演技』では、関羽が夜分、呉主催の宴に出席した後に、「見送ってください」と魯粛の手を引っ張って、人質として岸部の自軍船まで同伴させ、呉軍の刺客たちに手出しさせなかったというエピソードが出てくる。


益陽市

しかし、現実には、この会談は両軍対陣の下に執り行われたようである。会談場所は、今の 大渡口東岸(かつては碧津渡と言った)のどこかで、史書には「陸賈山の河岸」と記されているだけで、場所の特定自体は不可能となっているようである。
関羽と魯粛の会談場所より 100歩後ろに下がって 両軍(関羽軍は船 10漕程度)が観覧していたようである。ここでは『三国志演義』のように周倉が大口をたたく場面もなく、真相は魯粛による一方的な弁舌で、二者会談では関羽もぐうの音も出なかったという。このとき、魯粛は程普らに護衛され、また、甘寧には別働隊として益陽県城の東南側の亀山に駐屯させていたという。

益陽市

このエピソードにちなんで設置された 関羽像(2011年)には、通行人が皆そろって手を合わせていた。毎日の日課となっているようであり、地元の人々の散歩道になっていた。

益陽市 益陽市

関羽と魯粛による「単刀赴刀」の会談の結果、洞庭湖へ南から北へと注ぎこむ「湘水(衝陽を通る大河)」を境界線とし、「長沙・江夏・桂陽」は呉領に、「南郡」「武陵」、そして一度は奪われた「零陵」の 3郡が蜀領ということで確定される。さらに、この蜀領 3郡も、まだ暫定的な貸し付けであり、将来的な返還を約束させることも魯粛は忘れなかった。

この会談の後、対蜀の 荊州最前線 (西の 武陵城(臨沅県城) はすぐ近い)となった(長沙郡)益陽県城の防衛力を高めるべく、魯粛は城外に複数の軍事要塞を建設する。魯粛の死後、後継者となった呂蒙は引き続き、この要塞を活用し、蜀領の武陵ににらみを利かせ続ける。
220年の関羽の死後、最終的に呉が荊州全土を掌握するに至り、これらの要塞はいったん破棄されることになる。そして、要塞の資材や土塁跡がいつしか河川堤防として地元民に利用されることになることになったことから、「魯粛堤」と総称されるようになる。また、益陽県城壁の拡張工事にも活用されたという。


益陽市

その名残として、益陽県城跡の東側に「魯粛巷」という小道まで残されている。河沿いに走る五一路から、川べりまで続く農道であるが。。。

益陽市 益陽市
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余談ではあるが、219年の関羽討伐戦にはじまり、翌年の関羽処刑後、呉は念願の荊州全土の併合に成功するわけであるが、実際は北部は魏領のままであり、荊州内の蜀領を完全に排除する方針が採られていた。荊州を魏呉で分割すべく、呉の孫権は魏の曹操に形上、帰順し、同時に南北より関羽攻めの敢行を促している(呉の呂蒙はもともと対蜀主戦派であった)。
魏側は、呉の降伏を見せかけのものと認識しており、呉の皇太子を人質に出すように要求しているが、呉は拒否している。


関羽の死後、劉備の対呉憎悪は増し、ついに 222年に呉領へ進軍する。当初、蜀軍は快進撃を続ける。その怒涛の勢いに押されて、荊州や嶺南一帯の呉に帰順した領主や部族らは呉を見限り、蜀になびき出す。このとき、荊州出身の馬良は、荊州時代の人脈を頼って方々の 勢力(主に武陵郡下の異民族ら)を味方につけるべく各地を奔走していたらしい。あわせて、帰順を約束した領主や異民族の首領らへ、次々と蜀の官位と印綬が下賜されていったようである。
この異民族らを引き連れて、蜀本軍へ帰任する道中で、馬良は呉の守備軍であった 甘寧・歩騭の軍勢とこの益陽県城外で遭遇したのだった。

当時はまだ県城周辺に 魯粛 が築いていた軍事施設の廃墟が所々に残されていたはずであり、これを修築して、 甘寧・歩騭軍が陣地を構えていたと考えられる。 この呉軍と交戦し、馬良の率いる異民族連合軍が圧勝したとされるが、その途中、不運にも馬良は落馬事故を起こし、間もなくこの地で死亡する。なので、馬良は劉備に従軍し、夷陵の戦いで戦死したことになっているが、実際は、最後の陸遜による火計を見ることなく、その少し前の前哨戦で命を落としていたようである。
彼の死を惜しむ地元の農民らがこの馬良落命の地となった湖を、馬良湖と呼ぶようになった、という。なお、この一戦での矢傷がもとで、呉の甘寧も後に死亡する。
甘寧軍を継承した歩騭は、そのまま武陵郡下の異民族を平定していったのだった。


かつての馬良湖はそれなりに広い湖だったらしい。

益陽市

しかし、近年の都市開発により、どんどん埋め立てられて、今では 25 m四方ぐらいの部分しか残っていない。もともとは細長い湖であったらしい。

益陽市

馬良湖はもう数年すれば、都市開発で埋め尽されてしまうであろう。この最後の「水たまり」状態の池(もともとは湖)を見つけるのに、2時間半を要した。小生はこの馬良小区の近くにあった関帝廟内にて、ようやくご老人からこの湖の場所を教えてもらえた。「馬良湖」と言っても大多数の人は知らず、「馬良村土地湾組」と言えばその場所が分かるらしい。
実際は、益陽北バスターミナルから、徒歩で 15分ほどの距離にある。

この一帯は、「馬良」一色の街であった。道路名、マンション、商店の看板などが、「馬良」という名を冠している。しかし、実際の現地の住民たちはその地名の語源的意味を知っていない(他の地方からの流入者が多くを占めるため)。

益陽市

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なお、この馬良湖一帯は、昔は農村であったようで、その面影があちこちに残る。
道路や宅地建設により多くの農地を切り取られ、路端ギリギリにまで迫った小さな畑を耕し続ける元農民たちの姿。農家の家々の間に、どんどんと新築されてきたであろう、コンクリート住宅。ここで新しい住民たちが移住して商店街ができ、急速に昔の記憶が忘れ去られていっているわけである。また、農家の畑内や道路脇には、住民たちの先祖代々からのお墓がたくさん残されていた。かつての湖畔の農村地帯が急激に都市開発されてしまっている過渡期にあたる様を目にできる。農園は農園のまま、農民は農民のまま、墓地は墓地のまま、取り残され、その間々に新住民のための家屋や商店、道路が設置されていく。かつての馬良湖一帯はきっと下のような農村風景であったに違いない。

益陽市


呉の孫権も 252年に死去し、2代目皇帝・孫亮の治世下の 257年、長沙郡が分割され西部に衡陽郡が新設される。益陽県はここに帰属された。また益陽県域は大幅に縮小され、新陽県や高平県などが分離・新設されていく。


明代に入って、魯粛の築造した軍事要塞跡の土塁などが活用されて、益陽県城 の城壁拡張工事が進められたようである。

益陽市

北門巷と五一東路の交差点に、「城皇廟」がある。かつて古城時代に宗廟があった場所である(下写真上段の左)。また、旧市街地には古い家屋がたくさん現存しており、まだまだ地元民らが普通に生活している。

益陽市 益陽市 益陽市
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上の古城地図の「懸治」と記された場所が、益陽県役所の位置である。下の写真左が現在の姿。廟となっている。現在の川辺の教会は、古地図の中では小南門付近にあたる。

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また、この古城の市街地と対岸との間には、今でも往復の 渡し船 が現役で動いていた。乗り場は古城跡の教会下と、対岸の「治水記念」の石碑が立つ場所の東端である。

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なお、古城対岸の船着き場の石段に、墓石も混ざっていた(下写真)。。。。

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さて、古地図にある通り、古城内は非常に狭く、行政施設と庭園だけで一杯いっぱいになっていたようである。
このため、益陽県城の 繁華街(市場や観劇場など)は城外の西河岸沿いに広がっていたようである。

益陽市

現在でも、同市最大の ショッピング・エリア を形成している。
この商店街をずっと西まで行くと、歩行者天国となり、 そして伝統家屋を模した ショッピング・ストリート「古道街」へと続く(下写真中)。途中に露店形式の寿司屋さんがあった(益陽市唯一の日本料理屋)。この 歩行者天国(下写真左)も「古道街」まで行くと、もうシャッター街になってしまう。政府や商店街が音頭を取って「伝統と現代の融合」みたいな商店街を開発してみたんだろうが、花形となる名所もなく廃れ果てていた。

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さらに西側に、「魏公廟(造船業の父とされる)」がある(上写真右)。奥に相当に深い。ちなみに、中に人も住んでいた。。。。内部の見学は自由。道教寺らしく、関羽、孔明、釈迦などなど、ありとあらゆる神様が同時に祭られていた。 また、道路の向かいには将軍廟があり、三国時代の甘寧が資江の守り神として祭られている。これら一帯の家屋はどれも古いものばかりで、路地裏など見応えがある。
なお、対岸にある「黄泥湖村」には、たくさんの「甘」姓の人々が住んでいるらしく、甘寧の子孫たちと言われているらしい。

益陽市 益陽市

益陽市は農村的な雰囲気を色濃く残す歴史都市であった。かつては荊州中部あたりから生産される茶葉が集積する中継地点としても繁栄しており、その古道が部分的に山間部に残されている(上写真)。

この街のバイク・タクシーは、スクターとバイク型の二種類が混在していた。
馬良村のメインストリート沿いに「龍馬投資」という会社を 発見(下写真左)!
また、スクーターにカラフルな屋根を付設した実用性に感じ入ってしまった(下写真右)。

益陽市 益陽市

ある団地の一角の 1階部分に、七公廟の寺院を発見。かつてはきちんと独立した社を有する廟であったに違いないが、都市化の波に飲み込まれ、かろうじて団地の一角に保護されておられるご様子。

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旧市街が広がる 一帯(古城跡、「魏公廟」付近など)の至る所に 公衆便所 があった。これは、現地の人々が自宅にトイレがないため、この共同トイレで用を足している(古城時代の下水システムは、城内に流れる溝や運河に汚水を流したり、農民などが定期的に回収するなどしていたため、悪臭が激しいだろうから、今は使用をやめて、政府による公衆便所を使用していると考えられる)ためである。老若男女、皆、同じである。この公衆便所が多さは、長い歴史と風情ある旧市街を有する益陽市ならではの特徴であろう。

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益陽市内にはケンタッキーを一カ所だけ目にした(益陽北バスターミナル前の交差点)。マクドナルドは一級都市にしか出店していないが、ケンタッキーは地方都市でも度々見かける。
全面広告の四つ角 歩道橋(下写真左)。そして、その橋桁の中はなんと、ローカル飲食店(下写真中)。。。写真を撮ろうとしたら、店員に逃げられた。。。

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夕方、バスで益陽市の北にある 沅江市 へ移動した。
小さなワゴン車で、一定の人数が集まり次第、発車するシステム(上写真右)。途上国でよく見かける仕組みだ。

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