BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2015年 11月上旬 『大陸西遊記』~


浙江省 寧波市 鎮海区 ~ 区内人口 25万人、 一人当たり GDP 105,000 元(寧波市 全体)


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  鎮海県城跡(望海鎮城、定海県城)
  招宝山上の 威遠城跡
  鎮海口海防遺跡 と 安遠炮台
  かつての海岸線 と 鎮海県城、砲台の古地図
  甬江の河口 と 金鶏山砲台跡
  清仏戦争で激戦となった 1885年3月の 鎮海戦線 ~ フランス海軍の 敗走
  寧波市鎮海区の 歴史



【 鎮海口海防遺跡 】

鎮海区

この招宝山公園への入場には 60元かかる。
しかし、鎮海口海防歴史記念館(毎週月曜休館)は無料なので、公園ゲートと反対側へ進む形で園内に入ればよい。

また、海防歴史記念館の裏手の海岸沿いには、清末の対仏戦争時の 防塁遺跡(安遠炮台)が残されていた。高さ 6.8 m、厚さ 2 mもある防壁であった。当時、この中に大砲が配置されたわけである(下写真)。
実際のところ、本遺跡は、清仏戦争(1885年)の後の 1887年に、防衛強化を図る清朝により新設されたものであり、直接的に戦火に巻き込まれたことはなかった。

鎮海区 鎮海区

当時、海外線に沿って、累々とこのような砲台が配置されていたわけである(下写真左)が、その遺跡内に、150年前の大砲や石碑などが無造作に放置されているのには驚いた。。。(下写真右)

鎮海区 鎮海区
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下は、対仏戦争時の海岸防衛地図。安遠砲台も記載されている。

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同じ砲塁沿いに、日中戦争時代に日本軍の上陸を阻止すべく構築された中国軍の トーチカ(掩体)跡の一部が残されていた(下写真)。1936年秋に建造されたもので、1941年4月18日、19日の 両日にわたる日本海軍の上陸戦では最前線に位置し、現在でも多くの弾痕が刻み込まれていた。

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ちょうど、この上に甬江の河口部を渡る大橋がかかっている(下写真)。
この対岸の 山頂(金鶏山)一帯にも、平遠砲台など多くの防塁が築かれていたわけである。

鎮海区


史書によれば、「浙江省の鍵穴(入り口)」とも比喩された当地では、東晋朝以来、実に大小 46回もの戦闘が行われた記録があるという。東晋時代の 400年には、孫恩の率いる宗教反乱軍が 当地(この頃、浹口と通称されていた)より上陸し、江南一帯を戦火に巻き込むこととなる。

現在でも、鎮海区周辺の南北両岸の 2㎢にわたる範囲には、海岸防衛のための要塞遺跡が 30箇所以上も残されているという。

特に、明代中期、倭寇の襲撃は 江蘇省、浙江省、福建省、広東省などの全域に及んだ。明朝政府からは名将の 盧鏜、俞大猷、戚継光などが派遣され、鎮海地区の防衛を委ねられている。この時代、招宝山の山上に威遠城が築城され、甬江の上流域にわたって、広範囲に戦闘が繰り返されることとなった。

英国との アヘン戦争(1840~1842年)では、舟山諸島 が占領されてしまう。
ここに至り、鎮海地区が対英戦争での最前線となり、名将の葛雲飛が鎮海での防衛を任せられることとなった。

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1883年のベトナムの宗主権を巡る清仏戦争が勃発すると、フランス東洋艦隊アメデ・クールベ提督の率いる艦隊が鎮海口へ侵入する(上地図。1885年)。浙江巡撫の 劉秉璋(1826~1905年)と、浙江提督の 欧陽利見(1824~1895年)、寧紹台道の 薛福成(1838~1894年)らが大軍を率いて海岸防衛にあたり、鎮遠砲台の守将 の呉傑らを前線部隊として壮絶な砲撃戦が 3日間に繰り広げられ、ついに 3月3日、 清側の砲弾がフランス艦隊の旗艦に命中し、クールベ提督に重傷を負わせ、フランス艦隊を撤退に追い込むことに成功する。
一時撤退したフランス艦隊は鎮海沖で 45日間も停泊した後、ついに鎮海攻略を諦めて台湾島へ矛先を変えることとなった。 この鎮海での戦闘は、清国が対外戦争において数少ない戦勝を飾った防衛戦線と記録されている。
なお、負傷したクールベ提督は、同年 6月、占領していた澎湖諸島の湾内に停泊中の軍艦バヤール号内にて病没することとなる(台湾の澎湖県馬公鎮 にクールベ提督の墓が現存する。彼の遺体は本国フランスへ移送されたが、その形見の遺物と 近侍の従者 2人が合葬されている)。

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また、日中戦争中も当地では激しい戦闘が繰り広げられる(上地図)。
1940年4月18日、日本軍(海軍)が鎮海古城と今の北倉区の小港から同時に上陸作戦を開始すると、鎮海区の守備隊は 招宝山、戚家山などに籠って応戦する。中国側の記録では、日本軍に 100人近い死傷者を出させ、 初日は撤退に追い込むことに成功する(中国側の死傷者は 200人以上)も、翌 19日には上陸を許し、そのまま県城も陥落することとなる。


  交通アクセス

2015年11月初旬には、未だ地下鉄赤色ラインの終点が清水浦駅であったため、ここで下車して、路線バスに乗り換える。
27番バスか 827番バスで、北の鎮海区の一番終点となる招宝山まで行ける。
筆者は、このとき後者の 827番に乗車した(2元)。この路線バスは、工場地区を迂回するルートだった。おかげで道路は広く静かで、乗り心地はよかったと思う。30分ほどで終点の招宝山に到着した。

もしくは、寧波 南バスターミナル(寧波鉄道駅に隣接)から、541番の路線バスでも直接、招宝山へ向かえる(3元)。



鎮海県城跡(望海鎮城、定海県城)

続いて招宝山公園の西側に続く長城跡を見た。かつての海岸線である。下写真。
当時は、海岸線上に延々と長大な防壁が構築されていたわけである。

鎮海区 鎮海区

下写真左は后塘路沿い。防壁の裏側にあたる。下写真右は、現在の防壁跡の上部。

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招宝山に最も近い東側には天然の 巾子山(古代中国の学者が着用した帽子に似ていたので命名された)があり、かつて、この上に物見楼閣が設置されていたものと推察される(下写真左)。
下写真右は、巾子山から招宝山を眺めた様子。清末期、招宝山の上には、威遠城が築城されていた。

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上写真右の招宝山公園の山裾にある施設は、中国解放軍の体験公園となっており、戦車や飛行機などが展示されていた。日本人が間違って入ると、わざと武器の標的にされかねない妄想が脳裏をよぎった。

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上の古地図は、かつての古城地区。巾子山を含め海岸線の防塁が、そのまま県城の城壁を兼ねていたことが分かる。 なお、水害のあった明代の 1573年以降、内側に城壁、外側に防波堤がある二重構造となっていたが、 清代の 1750年4月、防波堤の上に城壁が建造され、一枚の巨大防壁が完成している。
下写真は、巾子山から古城地区一帯を眺めたもの。

鎮海区

ここから 城河東路(かつて東側の城壁と外濠があった)を南下しつつ、古城地区を巡る。散策してみて分かったのは、城内はかなり広大であった、ということだ。
下写真左は后大街。下写真右は鼓楼東路。

鎮海区 鎮海区

この鼓楼東路を西進し、鼓楼を発見した(下写真左)。この鼓楼は上に管理人が住んでいるようで、城壁上では布団が干されていた。。。。残念ながら、内部は一般開放されていない。

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鼓楼前には南大街が続く(上写真右)。
そのすぐのところに、壕橋があった(下写真)。かつて城内に巡らされていた水路の残りであろう。

この鼓楼一帯には、古い清代の家屋や街並みが保存・復元されていた。

鎮海区 鎮海区

鼓楼東路から西へ至り、鼓楼を超えて鼓楼西路へと名前を変える東西の通りには、かつての古城時代の名残が数多く残されていた。

下写真は東長営弄とその付近にあった古い池。
この池は、鎮海中学の前にある学生用の高級マンション内の中庭にあった。
この学生居住空間でおもしろいレストラン名を発見した。それは、Meet Friday (星期五レストラン = 金曜日食堂)と称していた(末尾に写真あり)。

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鼓楼西路を西に進み、西街や西長営弄を通過して、武寧広場まで至る。

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この広場には、鎮海県城時代の 武寧門(かつての西門)跡の土台が残されている(下写真左)。ちょうど苗圃路と 城河西路(下写真右)との交差点付近である。両通りは、かつての西側城壁と南側城壁に相当する。

鎮海区 鎮海区
鎮海区 鎮海区

このまま苗圃路を南下して甬江まで移動してみた。
古城時代、この県城と甬江までの間は、城内に住めない庶民らの居住区間となっていたらしい。その名残が、路地名に色濃く刻み込まれていた。上写真右の 猪行弄(かつての 豚解体業者街)や、魚豊弄(かつての魚市街)、長生橋弄、遠望道頭弄(渡し舟埠頭へ通じる通り)などなど。

鎮海区 鎮海区

甬江沿いの河岸公園には観光船らしきものが停泊していたが(上写真左)、ここにもブラジャーとシーツが干してあり、管理人に私物化されている様子が伺えた。
上写真右は、Meet Fridayという命名センスに心を奪われた学生食堂の入り口。

この後、甬江沿いの河岸公園をそのまま東進し、南対岸への渡しフェリー乗り場まで歩いた。かつては、このフェリー乗り場の正面にバス・ターミナルがあったが、現在は市街地の 北側(聯園路と雄鎮路との交差点)へ移転されていた。


寧波市鎮海区の 歴史

鎮海地区の歴史は長く、今の北倉区小港鎮から横山、沙溪蛇山に連なる山麓部分では、新石器時代の集落跡が複数、発掘されているという。
春秋時代末期、越国が建国されると、この版図下に組み込まれた。

中原の統一を成し遂げた秦の始皇帝は、紀元前 222年、会稽郡を設置する。
このとき、句章県(今の 寧波市江北区城山村の一帯)と 鄮県(今の 寧波市鄞州区五郷鎮同岙村)が新設される。現在の鎮海地区は、この句章県役所の東側に位置したため、句章東とも別称されることとなる。

唐代初期の 621年、句章県(東晋朝末期の 401年、今の 寧波市鄞州区小溪橋へ移転されていた)が分割され、姚州と鄞州が新設される。625年、鄞州が 鄮県(今の 寧波市鄞州区鄞江鎮)へ降格されるも、現在の鎮海地区は引き続き、鄮県内に所属された。
809年、鄮県城の北東に位置した甬江の河口付近に望海鎮が新設される。これが鎮海地区での最初の役所開設となった。海岸線に位置していた巾子山沿いに最初に防塁が構築されたのも、この時である。

後梁朝の治世下の 909年5月、呉越王の銭鏐が 明州(現在の 寧波市)一帯を視察した折、望海鎮に新たな要塞の築城を決定する。同年 8月、東シナ海へ通じる玄関口にあたり、また周辺漁業の中心地でもあった地の利から、最終的に銭鏐は望海鎮を望海県へ昇格させるに至る。後に、幾度かの改編が加えられ、定海県へ改名される。
定海県下には、清泉幸、霊緒郷、崇邱郷と 金塘郷(舟山諸島)の4郷が配された。

鎮海区

北宋時代の1077年、鄞県(今の 寧波市鄞州区鄞江鎮) 下の 霊岩郷、泰邱郷、海晏郷の 3郷が 定海県(今の 寧波市鎮海区)へ移籍されてくる。上地図。
翌 1078年には、金塘郷(旧翁山県の県城跡地:舟山諸島)が昌国県へ昇格され、清泉郷が東西に分割される。
ここに至り、東清泉郷、西清泉郷、霊緒郷、崇邱郷、霊岩郷、泰邱郷、海晏郷の 7郷体制が確立された。

元代も北宋時代の統治体制が踏襲される。
明代の 1374年、それまでの木柵だけの城壁が、石積みによる堅固な城郭へ大改修される。

鎮海区

明初代皇帝の朱元璋の幼馴染で建国の功臣として活躍した湯和が、1384年に対倭寇戦の指揮を委ねられ、山東から江南一帯、浙東地方の沿海に城塞を築城していく。
この過程で、定海県城の城郭も大幅に拡張され、東は巾子山から西は平川、北は海岸線から南は甬江のギリギリ河畔までにも及ぶ広大な城域となる。 城壁の全長は 4,300 m、その高さは 7 m強にも及んだという(城門 6カ所。すべてに 甕城、楼閣、吊り橋が配されていた)。

同時に、昌国県が昌国衛へ改編される。 もともとの 昌国県(今の 舟山市定海区)下の県域はすべて定海県の管轄下に組み込まれた。この行政区は清代の 1700年ごろまで継承されることとなる。
この定海県城の完成を機に、湯和は朝廷を離れ、故郷の鳳陽に隠居することとなる。そのまま朱元璋の功臣粛清の被害に遭うことなく、1395年、69年の生涯を閉じている。

明代後期の 1573年、高波により北側の城壁が破損したため、北側のみ二重に城壁が建造されることとなる。

鎮海区

清代の 1687年、定海県(今の 寧波市鎮海区)が鎮海県へ改称される。翌年、昌国衛(今の 舟山市定海区)が定海県へ置き換えられる。上地図。
以後、300年にわたり、舟山諸島(定海県)は鎮海県役所が監督することとなった。

中華民国時代の 1929年7月、道路の敷設工事にともない、南薫門と武寧門が撤去される。 1941年に日本軍の侵攻を受けた際は、城内外は相当な戦火の被害を受けたという。戦後に入り、さらに都市開発が進められ、1951年には清川門、1957年には鎮遠門、1962年には向辰門が撤去され、最終的に 1980年代、北側の城壁を除く、すべての城壁が撤去され、あわせて外堀が埋め立てられ、城河東路と城河西路が敷設されることとなった。


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