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訪問日:2016年2月中旬 『大陸西遊記』~


フランス・パリ市 ~ 人口 1,230万人、 一人当たり GDP 38,000 USD (国全体)


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  シャルル5世~ルイ13世時代の城壁(15世紀)
  サン・ドニ門とサン・マルタン門、そして太陽王ルイ14世
  シテ島とポン・ヌフ
  ルーブル要塞(後に宮殿・美術館)とルイ14世
  ローマ時代のパリ
  サン・ルイ島
  現存するフィリップ・オーギュストの城壁(1200年~)
  バスティーユ広場からレピュビリック(共和国)広場へ




パリの城壁は、過去5回の拡張を経験している。

今回の城壁巡りの基本は、中世フランスのそれである。
ボン=ヌーヴェル通り上にあるサン・ドニ門からスタートする。下写真。

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この道路上に、かつて城壁があった。英仏百年戦争に対応すべく、シャルル5世(在位1364~80年)からルイ13世(在位1610~1643年)の治世下で建造された城壁(下地図:緑ライン)である。しかし、間もなく近代に登場した大砲による攻城戦法の前に、その旧態依然の城壁は用をなさなくなり、急遽、太陽王ルイ14世(在位1643~1715年)により多角形型の城壁へ再改修が施されることとなる(下地図:赤ライン)。
最終的に、これらの城壁は1670年、ルイ14世自身の手により完全に撤去される。

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サン・ドニ門から、ルイ13世時代の城壁跡を南へ進むことにした。アブキール通り、狭い路地だ(下写真左)。
途中に、ヴィクトワール広場があり、中央にルイ14世の騎馬像があった(下写真右)。
城壁撤去にあわせ、壁沿いにあった民家を城外に移築させ、ここに自身の戦勝記念の銅像を設置させたという。

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ちなみに、現存するサン・ドニ門(下写真左)とサン・マルタン門(下写真右)も、この撤去時に建造された記念碑である。

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また、近くにはフランス中央銀行の本店(実際には、パリの街中に分散して中央銀行の事務所拠点が複数、存在している)があった。下写真左。

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そのまま南下すると、ポンピドューセンターと、パリ商工会議所(ブルス・ド・コメルス)があり、その間に、ネルソン・マンデラ公園(南フリカの国旗である『虹色』をイメージした公園)が建設中であった。上写真右。

そして、セ-ヌ川にかかるポンヌフまで出る。「最新の橋」という名称だが、パリ最古の橋として有名だ。
ちょうどシテ島の先端部に通る。かつて、ここにも城壁があった(下絵図)。

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ここから、ルーブル美術館方面を臨む(下写真右の後方に広がるセーヌ川沿いの巨大な建物)。

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かつての、ルイ13世時代、ルイ14世時代の城壁はここまでつながっていた。この時代、現在のルーブル美術館の一帯は、城壁の端っこのルーブル要塞(もともと1200年頃、セーヌ河岸に貴族用の城館として建設されていた)を成していた。下絵図。

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ルイ14世は、このルーブル要塞の宮殿への改修を試みる。しかし、ベルサイユ宮殿の造営に没頭するようになったルイ14世は、ルーブル宮殿の規模を縮小することとなる。現在のルーブル美術館は 1852年~57年に、ナポレオン3世がパリ改造を実施した際に完成したものである。

セーヌ川の流れに沿ってシテ島の南岸を東進する(下写真左)。

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この対岸地帯は、丘陵を成しており、古代ローマ人が入植した時から、河川の洪水でも沈没しない山の手地区として、石積みの建築物が立ち並んでいたとされる(下絵図)。
対して、シテ島側は庶民らの居住区が集まっていた。

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しかし、ローマ帝国後期には度重なる異民族の攻撃を受け、山の手地区は幾度も破壊されるも、シテ島内は防衛に成功する。

こうしたシテ島の防御性が重視されるようになり、以後は王宮や行政機関などが島内に設置され続けることとなる。

シテ島にあるノートルダム寺院(1163年着工。下写真左)の地下では、ローマ帝国時代の住居跡や土塁などの基礎が出土しているという。

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さらに、ノートルダム寺院を通過して、サン・ルイ島へ移動する(上写真右)。ちなみに、シテ島は結構大きく、その面積は22万㎡強で、だいたい大阪の中之島の3分の1に相当する。
それに対し、サン・ルイ島はシテ島の半分程度。
ここは、観光地ではないため、ひっそりとした居住地区らしいたたずまいが広がる。下写真左は、この中央通り。

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下絵図はルイ14世時代のパリ全景であるが、この時代、サン・ルイ島は二つの小さな中州となっており、わずかな人々が暮らす荒野に近い場所だったようである。下地図。

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現在は、小学校があり、保護者らが子供たちを迎えにきていた(上写真右)。数人の日本人主婦らも目にした。

さて、かつて、この対岸に1200年ごろから建造が始まった中世城壁があった。

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この中世城壁(下地図の赤ライン)は、フィリップ・オーギュストの城壁といい、南岸の城壁は1190年ごろに、北岸の城壁は1200年ごろ建造が開始されている(北岸には、すでに先代のルイ7世により、グラン・シャルレとプリ・シャルレという出丸的な城壁が建造されていた。下地図の点線部分)。
このフィリップ・オーギュストの城壁は高さ6m、厚さ3m、全長5.3kmに及び、城門6つに、塔楼閣67箇所を有する大規模なものであった。しかし、まだ外堀は掘削されなかった。

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この当時、フランスは北にイギリス、ブルゴーニュ公国、東に神聖ローマ帝国の脅威を抱え、その防衛力の強化が迫られていたわけである。この強国との戦争に勝利し、フランスの威厳を欧州に見せつけた王、それがフィリップ・オーギュスト王であった。彼は、今でも多くのフランス人らの尊敬を集める人物である。

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現在、その城壁跡の面影は、北岸の高校の壁にのみ見られる(上写真)。
子供たちがサッカー場の壁に利用しており、ボールがぶつかって、城壁の壁面がすり減ってしまっていた。。。。

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また、この付近の路地は中世の名残を感じさせてくれる(聖ポール小路:上写真右)。
そのまま北へ少し進むとセント・ポール教会(やたら新しい!)があるセント・アントワヌ通りに出る。

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ここを少し東へ行くと、バスティーユ広場がある。
ここに立つブロンズ銅像は、フランス7月革命(1873年7月27日、28日、29日の3日間)を記念するものである。
1789年のフランス革命でナポレオンが台頭するも、間もなく敗退し、欧州を支配したウィーン体制で擁立されたブルボン朝がフランスに再び擁立される。しかし、その王政復古は、すぐにパリ市民により打倒される(フランス7月革命)。このときの革命闘争を記念したものである。

なお、この広場には、かつてフランス革命で有名になったバスティーユ監獄があり、現在の運河が外堀を兼ねていた。この牢獄の場所には、シャルル五世、ルイ13世、ルイ14世の時代、東の城門を守備するバスティーユ城塞が設置されていた(1370年~)。この南北に城壁が通っていた。上地図。

後に城壁が撤去されると(1670年)、このバスティーユ城塞跡は牢獄へ援用され、重大政治犯などを収容する国家最高級の監獄となっていく。 時は下って、徴税請負人の壁の工事の後(1784~1788年)に大量の失業者が街にあふれるようになると、その翌年の1789年、絶対王政の象徴であったこの監獄が襲撃され、フランス革命が勃発することとなったわけである。

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バスティーユ広場の南に残る外堀跡の運河であるが、この運河上に現在、バスティーユ駅がある(上写真右)。

このままボーマルシェ大通り(タンプル通り)を北へ進み、ルイ13世、ルイ14世時代の城壁跡をたどる。ここは、ルイ14世により撤去された城壁・外堀跡で、当時、欧州最大幅の36m級の大通り(グラン・ブルヴァール)が整備された場所である。現在もオペラ座まで続く。下写真左。

途中に、カニ食べ放題のどぎつい店を発見(下写真右。赤色の物体はすべてカニ!)。平日にも関わらず、店内は大賑わいであった。

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レピュブリック(共和国)広場に到着すると、物々しい警察車両と、人々の顕花が目に飛び込んできた。パリ同時多発テロ事件(2015年11月13日)に絡むものだろう。下写真。

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そのままサン=マルタン大通りを西へ進むと、サン・マルタン門が見えてくる。
これで、ちょうどデニム門から一周巡りが終わった算段だ。

徒歩で、だいたい2時間強ほどのルートであった。


日本を正午過ぎに出発し、パリ空港到着17:00前。ここから、パリ北駅までの普通列車で40分ほど(10ユーロ)。乗車券は自販機で購入できる。

宿泊ホテルは、Hotel Europe (Gare de Nord)だった(48 USD:アゴダ予約)。
このホテルは、値段の割にはかなり良い設備であった。浴室は相当に広いが、その割に、シャワースペースは異様に狭い。体のでかい西洋人や黒人らは本当にシャワーを浴びれるのだろうか???。
タオルも十分にあり、石けん類やシャンプーも多めに装備されている。しかし、歯ブラシ、髭剃りはない。

フロントの青年、そしておじさんは日本語を話す。ロケーションもすばらしい。




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