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訪問日:2016年2月中旬 『大陸西遊記』~


ドイツ ケルン市 ~ 人口 104万人、 一人当たり GDP 41,000 USD (国全体)


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  南門と城壁(15世紀)
  ライン川沿いの城壁と楼閣
  北門と城壁
  ローマ時代の旧城壁と円塔跡
  西門と城壁(ケルン・リング)
  ケルンの歴史
  ケルンと香水の秘話
  第二次大戦時の空襲とケルン




ケルン市

ケルン駅前から南へ1.3km にある、南門からスタートした。ちょうど目の前が、路面電車のChlodwigplatz駅である。左右にも城壁の一部が保存されていた。下写真。

ケルン市 ケルン市

下写真左は、城壁時代の南門からライン川の一帯の様子。
下写真右は、20世紀初頭の同じエリア。現存する城門や円塔などが見える。

ケルン市 ケルン市

ライン川沿いまで移動する。途中に円塔の楼閣と城壁の一部があった(下写真)。

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下写真左はライン川沿いの城楼。ここから、北側の旧市街地へ延々と城壁が連なっていたわけである(下写真右)。

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下写真は、城壁時代のイメージ。

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川沿いを北上中に、かつての城壁の一部残骸を発見した(下写真左)。なんと、その石には鉄の郭が撃ち込まれたままとなっており、かつては船か馬でもつなぎとめていたのであろうか。

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下写真は、かつてのライン川沿いの城壁と市街地だが、現在は、川沿いに道路が敷かれ、また、河川の一部も埋め立てられて、事務所ビルや住宅、さらにはチョコレート博物館(1993年にチョコレート工場主の私費で開設されたドイツ唯一のチョコレート関連の博物館。入館料9EUR)まで建設されている。

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南側の城塔から北の城壁跡まで踏破してみたが、その距離は、じつに45分ほどかかる。
下絵図は、北側城壁から南側を眺めたもの。

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途中通過したケルン大聖堂(1248年着工、1880年完成)の後方広場にも、もちろん城壁は続いていた(下写真)。
この旧市街地エリアに現存する旧市庁舎(Rathaus。1330年~)は、ドイツ最古という(戦争時に破壊され、戦後に復元された)。

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川沿いの城壁の北端にあった城楼は、現在、存在しない(下写真左)。しかし、北側城壁の跡地は広大な公園となっていた。
下写真右は、城壁時代の北門一帯の様子。外濠が二重に巡らされていた。

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下は現存する北門である。左は城外、右は城内の概観。

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ここから、南下して、ケルン中央駅まで戻ってみる。このEigelstein通りは、貴金属ショップや中華系のスーパー、格安ホテルなどがあって、旅行者には穴場エリアかもしれない。線路高架を過ぎ、駅近くに至るとヒルトンホテルがあった。

そして、駅前のZeughaus通りを西へ移動してみた。
ちょうどこの通り沿いには、ローマ時代期に城壁が築かれており、その一部が今も所々に現存している。下写真。

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下地図は、ローマ時代のケルン城壁の位置。赤い部分が、現在のZeughaus通りに重なる。

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下は16~17世紀のケルンの様子で、この時代でも、ローマ時代の城壁が市街地に残されていたことが分かる。当時は、住宅地の一部として利用されていたようである。

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下は、城壁時代の西門の様子。右上の教会は今も残る。

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下は、現在の西門の様子。左は城外、右は城内の外観。

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城壁時代、この西門の外にも二重の外堀がめぐらされていたが、現在は、その跡地には住宅が立ち並ぶ(ケルン・リング)。下写真左。
このまま南下して、スタート地点の南門まで移動してみた。途中、一部の城壁と外堀が残されていた(下写真中と右)。

ケルン市 ケルン市 ケルン市

再び、ケルン大聖堂一帯の旧市街地へ戻る。
このエリアでも、たくさんのローマ時代の遺跡が保存されており、付近の出土品類はローマ・ゲルマン博物館内に展示されている。下写真。

ケルン市 ケルン市
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下写真左は、北側城壁のライン川沿い。2月中旬は、雪解け水で、河沿いの遊歩道が水没していた。きっと城郭都市時代も何度か、浸水があったのではないだろうか。
下写真右は、ケルン大聖堂の裏手にあったトルコ料理屋の地下。建設途上にローマ時代の遺跡が出土したのであろう、きちんと照明をつけて保存されていた。

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筆者は、パリ 北駅からタリスでケルン駅に入った(35 EUR。3か月前にネット購入)。所要時間4時間。
翌日、ケルンから飛行機(ライアンエアー)でデンマーク・コペンハーゲン 空港(CPH)へ移動した。

ケルン=ボン空港(CGN)であるが、ケルン中央駅からはSバーンS13系とS19系、またはRE8系で行ける。所要時間は15分ほど(2.8 EUR。券売機で購入)。




ケルンの歴史

現在、ドイツ第四の大都市ケルンであるが、ドイツでも最古の都市の一つとして有名である。

紀元前1世紀に、ローマ帝国の初代皇帝として欧州に覇を唱えたアウグストゥスは、さらに北へと軍を進め、ついにライン川の河畔までその勢力を拡張することに成功する。以後、この河をはさんで、ゲルマン系諸部族らと対立した。

そして紀元前38年、ローマ軍はこのケルンの地に本格的な軍駐屯地を建造し、新たに開拓したライン川以西の領土を防衛していくこととなる。月日とともに、要塞の周囲に市街地が形成され、紀元50年、当地出身の妻アグリッピナに勧められる形で、皇帝グロチウス1世はケルンを植民都市(Colonia)へ昇格させる。
当初、コロニア・クラウディア・アラ・アグリッピネンシスと命名された。後に名前は短縮され、ケルンとなっていく。下地図。

ケルン市

ローマ時代は、ケルンが最も栄えた時代の一つで、当時の繁栄を物語る遺跡が市内に数多く出土している。なお、このローマ時代にキリスト教が伝播されている。

そのローマ植民都市ケルンも、455年にゲルマン系フランク族らに占領されてしまう。一時はフランク族により建国されたフランク王国の王都が設置されるも、508年にパリへ遷都される。

中世に至っても、ケルンの繁栄は続くこととなった。795年、フランク王国のカール大帝により、ケルンに大司教座が設置され、各地の司教座や教会の上に君臨する中心都市としての立場を確立する。
これ以後も、大司教都市ケルンはますますの拡大を遂げ、その都度、城壁は拡張されていった。12世紀に至り、ほぼ今日に現存する城郭都市の規模が完成される。
半円形の城壁は全長6kmに及び、その間に12ヶ所の城門(そのうち3城門が現存)が設置されていた。この時代、人口は4万人を数え、当時ではドイツ最大の大都市に成長していた。人口規模で言えば、パリロンドン を上回るレベルであったとされる。

ケルンの繁栄の源泉は、その地理的なロケーションにあり、ライン川の南北の水運と、東西の陸路が交わる交通の要衝という背景にあった。大司教によりケルン市は、当地を通過する荷物類を3日間、留め置く特権的な権利を付与されており、莫大な税収が約束された都市でもあった。
こうして富を蓄えた商人らにより、結果的に大司教は南のボンへ追放され、数世紀もの間、ケルンの統治者として戻ってくることはなかった。以後、ケルンは自由都市、そしてハンザ同盟の重要メンバーとして周囲にを轟かせることとなる。


「オーデコロン(ケルンの水:eau de Cologne)」は、1709年にケルンに住むファリナによって発明されたものである。
当時は、地元の上流階級向けの高級品としての香水で、以後、代々、ファリナの一族が製造・販売を担っていく。

しかし、1794年にナポレオン率いるフランス革命軍がケルンに入城すると、かつて諸権利が保護されていた自由都市ケルンは一変し、人々は信仰の自由を失い、ケルン大聖堂もフランス軍の兵馬により占領されることとなる。
このとき、多くの商習慣も破壊され、当地で流行っていた商品や事業の模倣や偽造がはびこることとなった。

商標登録の概念すらなかった当時、すでに一定のブランドが確立されていたファリナ家の香水もたくさんの模造品が出回るようになる。

ついに1803年、イタリア出身の投機商人ヨハン・マリア・ファリナがケルン市から、自分の名前ということで「ファリナ」の商標を買い取り、既に存在していた当地のファリナ一族の香水の模倣品を、正式な「ファリナ」ブランドとして正規品かのごとく製造・販売するようになる。

もともとの発明者であるファリナのオーデコロンは高級品で、貴族や上流階級向けであったが、イタリア人のファリナは品質を落とし、庶民向けの安価な商品へと改造を加えたのであった。以後、後発の改良香水「ファリナ」ブランドが、ケルンの香水市場を独占することとなる。

1888年、ケルン市により、ファリナ社は「ファリナ」名の使用を禁止される。以後、店の道路住所の番号であった4711を新会社名として使用するようになる。
これが、現在に残る香水ショップ4711の正体ということらしい。



近代が始まり、製鉄業と蒸気機関が時代を席巻するようになると、ケルンの街はさらなる大発展を遂げる。1815年、ナポレオン戦争を経てフランスに併合されていたケルンが、プロイセン帝国に吸収される(1821年にはボンから大司教がケルンに戻される)。ドイツ国内の鉄道網と連結され、同時に付近でガス田開発が進むと、一気に近代都市へ飛躍していった。1917年には城壁の撤去が進められ、 ますます都市は郊外へ拡大していくこととなる。
下絵図は、20世紀前半のケルン全景。赤ラインは、かつての城壁の位置を示す。

ケルン市

第二次大戦中には、英米の猛烈な空爆とドイツ軍との市街戦が展開され、都市の90%が破壊されてしまう(下写真)。

ケルン市

戦後になって、ローマ時代の遺跡や城壁、城門跡も含め、都市全体の復元作業が進められ、今日のドイツ第四の巨大都市へと奇跡の復活を遂げたのであった。


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