『大陸西遊記』ホーム 韓国地図




豊臣秀吉の朝鮮出兵と倭城


  はじめに
  文禄の役の始まりと、日本軍の快進撃
  倭城築城のはじまり ~今は無き、朝鮮半島内部にあった多くの倭城たち~
  朝鮮内陸に築造された倭城への明・朝鮮軍の攻撃戦
  半島南岸にて倭城築城はじまる ~18城~
  慶長の役、はじまる ~南岸倭城の築城(7城)~
  倭城のその後と遺跡研究




1、はじめに

現在、朝鮮半島の南岸に集中して残る倭城跡であるが、420年前のまさに朝鮮出兵の戦役に際しては、「土窟」「賊窟」「賊塁」などと現地朝鮮人や明兵らに呼称されていた。
日本軍の完全撤兵後、それらの城郭要塞は日本軍により破却され、そのまま野ざらしに放棄されることとなる。長い年月が過ぎる中で、日本の蔑称「倭」を冠して、それらの古城跡はいつしか「倭城」と通称されるようになったという。
この朝鮮半島現地での通称が、今日でも使用されている。

日本軍は朝鮮半島内で戦闘を展開する中で、占領した朝鮮軍の軍事拠点や邑城(環濠集落や県城)などの多くを改修して、自分たちの防御施設として再利用していた。
また、それらとは別に、一から純粋に荒野や山地を開拓して築城したものもあった。
戦役後、日本軍が破却した城郭の資材は、地元民らにはぎとられて家屋などの部材に使用されたり、新たな軍事基地や政府施設の一部に援用されていったわけであるが、山上部分の石垣はそのまま放置されてしまったものが多く、これらが現在の「倭城」遺跡となっているわけである。

朝鮮出兵資料

現在、一般的に「倭城」として史跡指定されているものは、1593年4月に第一次講和に基づきソウル漢城を放棄し、日本への帰国を開始した日本軍の一部残留兵により、同年7月中旬から8月下旬に 西生浦 から 熊川 の間で築城された18城と、 1597年の慶長の役に際し、半島南部の海岸戦上に築城した7城の、合計25城を指している。

しかし戦役当時、朝鮮半島内において、日本軍により新築、改築された軍事要塞は非常に多数あり、本稿でその概況を見てみたいと考えている。
今日、我々が目できるものは前述の25城のみ、それも山上や僻地に築城されたが故に遺構が残されていたもの、というだけであり、我々の先祖は、かの半島にて戦闘以外にも、非常に多くの土木工事を手がけていたのであった。


当時、日本軍により手がけられた軍事要塞は、以下の3種類があった。

 1、狭義の意味での「倭城」 > 現存する25城跡

 2、もともと朝鮮式要塞や邑城(ソウル漢城釜山鎮城、平壌城など)を改修したもの

 3、秀吉の命で主要幹線路上に築造された「繋(つなぎ)城」や「御座所」


これらすべて含んで、広義の意味で「倭城」と呼称するのであれば、その実数は数倍以上に膨らむ。

ちなみに 20世紀に入り、日本が韓国を併合すると、日本軍は自軍の軍事拠点としての再活用も 視野に入れ、朝鮮半島の倭城群の調査を実施している。結局、実際に使用されることはなかったわけであるが。すでに朝鮮の役から300年以上経っていた、このころには半島内部の倭城跡(繋城、御座所、朝鮮式邑城の改修バージョンなど)はすでに存在していなかったためか、 調査対象には入れられず、現在、指摘される半島南岸に集まる「倭城」遺跡群のみが対象とされていたようである。

朝鮮出兵資料

この頃から、すでに「倭城」と呼称される遺跡は、現存する25城に限定する考えが広く受け入れられるようになっていた。

それにしても、この近代日本による調査当時、半島南岸の倭城群にはまだまだ多くの城郭遺構や地形がかつてのまま残されていたようであるが、戦後の韓国の経済発展の途上で、海岸線は埋め立てられ、遺構も取り壊れていき、また公園整備などの手も加わり、大きく原型が歪められていくことになったわけである。


2、文禄の役の始まりと、日本軍の快進撃


朝鮮出兵資料

1591年10月ごろから、名護屋城の築城が開始され、5か月ほどで大城郭の基幹部分が完成する。

1592年4月、日本軍が9隊に分けて半島への進軍を開始する(文禄の役)。
第一軍の小西行長、宗義智ら、第二軍の加藤清正、鍋島直茂ら、第三軍の 黒田長政、大友義統ら、第四軍の島津義弘、毛利吉成ら、第五軍に福島正則、蜂須賀家政ら、第六軍に 小早川隆景、 立花宗茂、吉川広家 ら、第七軍に毛利輝元の部隊、第八軍に宇喜多秀家の部隊、第九軍に羽柴秀勝、細川忠興ら、総勢 158,700人の大軍であった。
この他に、水軍 9,200人で九鬼嘉隆、藤堂高虎、脇坂安治、加藤嘉明らが指揮を取るものとされた。

朝鮮出兵資料

4月13日正午に、小西行長の率いる第一軍 18,000が対馬の大浦を出港し、同日夜にも釜山近海に到着する。 朝鮮軍の方でも、ここに至って海に浮かぶ大量の軍船を発見し、すぐに 釜山鎮城東莱城 で臨戦態勢の準備が 始められるも、翌日14日の正午ごろ、日本軍は 釜山 港に上陸を開始し、すぐに攻城戦が始まる。 朝鮮側とは旧知の仲であった宗義智ら対馬勢は、何度か朝鮮側に降伏を促してきたが、聞き入れられることなく、やむなく軍事進攻が強行されることとなった。 釜山鎮城、東莱城などを一両日で陥落させた後、第一軍は破竹の勢いで慶尚道、忠清道、京畿道などを経由・平定し、 5月3日には首都 ソウル漢城 へ入城する。このとき、ソウルでは下人や庶民などが日本軍の侵入に乗じて、王室の皇城などを焼打ちし、日本軍が入城するころには、その大部分が焼土と化していたという。当時は、王城内に取り残された朝鮮庶民らの歓喜で日本軍は迎え入れられることとなる。

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加藤清正の第二軍は、4月18日に釜山上陸後、5月3日夕刻に ソウル漢城 に入城した。
また、第二軍の加藤清正隊と同じ4月18日、第三軍の黒田長政、 大友義統らと、第四軍の島津義弘、毛利吉成らの軍勢も釜山港に上陸している。 第三軍と第四軍はともに、海路をとり、竹島海口から金海城を攻略し、その後、洛東江の沿岸の諸城を 陥落させて、秋風嶺を超えてソウル漢城へ北上している。第五、六、七軍は4月20日以降に順次、上陸し、 同じく陸路で漢城を目指し北上していく。

全軍が 漢城 に集結後、各将らは協議を行い、漢城には、5月8日に入城した宇喜多秀家(八軍)が滞在し、 毛利輝元軍は慶尚道一帯を、小早川隆景(筑前国の兵力 1万を動員) は全羅道一帯を、 蜂須賀家政は忠清道一帯を、戸田勝隆と長曾我部元親は京畿道一帯を、毛利吉成は江原道一帯を、 小西行長と宗義智は平安道一帯を、黒田長政は黄海道一帯を、加藤清正は咸鏡道一帯の軍事平定を担当するものと され、各軍はそれぞれすぐに進軍を開始する。

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3、倭城築城のはじまり ~今は無き、朝鮮半島内部にあった多くの倭城たち~

4月25日、豊臣秀吉も朝鮮遠征の前線基地であった名護屋城に入城する。

そこから朝鮮半島に展開中の各将に宛てた手紙には、自身も半島へ渡って 前線指揮を取るという旨が記されているほどに、やる気満々であった。 特に、第三軍を率いた黒田長政宛ての手紙に、釜山からソウル漢城へ天皇が 移動するための「御座所」の設置アイデアが初めて言及されていたという。

5月16日、日本軍により首都漢城が占領されたという一報が秀吉の 下に届く。この瞬間、秀吉は朝鮮半島への渡航へ向けて、ますます気持ちが昂ったことであろう。
同日、朝鮮遠征先の諸将に対し、秀吉の直令状(朱印状)が発せられる。 すなわち、釜山 から 漢城 までの道中に、各将はそれぞれ分担して13拠点「御座所」 を築城しておくように、という具体的指示であった。 その築城場所などの選定は細かく指定されており、毛利輝元、小早川隆景、戸田勝隆、 長曾我部元親、蜂須賀家政、宇喜多秀家がそれぞれ指名されて、この任に当たることになる。 このうち、10近くを毛利輝元が担当されることとなり、直接的な戦闘には加わらなかった が、過大な労役が中国地方の大大名「毛利家」に押しつけられる格好となっている。

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話を半島遠征軍に戻すと、5月10日、まず最初に第二軍の加藤清正が動く。清正は漢城を出発し、 5月19日には小西行長隊もまた出撃した。同月28日に、両軍は臨津江の南岸で合流し、 翌29日に開城を占領する。この後、 小西行長、宗義智、黒田長政らの軍勢は平安南道へ進軍し、6月13日に平壌城を攻略する。 小西行長らの平壌城内の進駐軍は、以後の北上を控え、それから2か月かけて、平壌城の大改修工事を手がけることとなる。

元来、平壌城は東面と南面に河川があり、西には枕山が切り立ち、北にも牝丹台が広がる 要害の地として、当時の朝鮮ではその勇名を轟かせていた。日本軍はここを占領後、すぐに城門と城門楼閣を改造し、 築地塀を設置していく。朝鮮時代の平壌城は大同門側(河川沿い)は石垣造りであったが、 普通門側は土塀であったらしく、日本軍はその上に築地塀と櫓を建造して補強することとした。 この築地塀にたくさんの鉄砲間を設けており、「まさにハチの巣のように見えた」と朝鮮側の記録に言及されることとなる。

平壌城内でも日本軍は高地に陣を張り、周囲に巧みな軍事砦を構築していた。 つまり、朝鮮や大陸中国のような城壁都市の中に、さらに自軍用の小城郭を築城していた というわけである。これら要塞群全体で、当時、数万単位の軍勢を収容できたようである。

後に、この小西行長らが改造した平壌城が、明・朝鮮連合軍の猛攻撃を受けることとなるのであった。

朝鮮出兵資料


さてさて、朝鮮半島各方面への遠征軍に話を戻す。

6月1日、加藤清正は開城を出発し、同月17日には咸鏡道の安辺まで到達する。 6月24日に咸興を陥れ、さらに北上を続行する。7月末から8月末の期間には、 豆満江を渡河し、女真族らが住むオランカイ(兀良哈)地方へ侵攻している。そして、9月20日に 咸鏡道の安辺まで戻っている(このときに侵攻を受けた女真族は激怒し、 明軍に援軍を申し出ているが、明側はこれを断っている)。

朝鮮出兵資料

加藤清正と同じ第二軍を構成していた鍋島直茂隊は、加藤清正による攻略の翌日の6月18日に、 咸鏡道の安辺に到着する。また、21日には咸興に到着し、鍋島直茂は当地に軍事拠点を設けて本陣とした。 ここを拠点に、咸鏡道各地の平定戦に乗り出したわけである。そして征服地には、 加藤清正軍と鍋島軍の家臣たちがわずかな守備兵とともに配置されていった。

下絵図は、朝鮮の役後の咸興府城の絵図。李氏朝鮮の発祥の地とされる(上地図参照)。

朝鮮出兵資料


漢城 攻略後、半島から明入りへ現実味を帯びてきたことも受け、天皇滞在のための「御座所」とは別に、豊臣秀吉は「繋(つなぎ)城」の築城を命じている。 これは、占領地の統治と補給ラインの確保を目的する、拠点網整備を意味していた。
特に、6月3日、加藤清正と鍋島直茂宛てに発せられた文書には、漢城から明国にまで つながる街道沿いに「繋(つなぎ)城」を設置していくように具体的な命令が下されている。

さて、他の朝鮮遠征軍であるが、黒田長政は漢城出発後、黄海道へと進軍していく。 毛利吉成の率いる軍勢は、江原道へと進軍し、6月20日に鉄嶺で朝鮮側将軍の李揮が率いる朝鮮軍を 撃破した後、朝鮮半島東海岸まで到達している。その後、南下して慶尚北道へ入っている。8月中旬に 原州へ進軍し、ここに軍事拠点を設営している。

島津義弘と伊東祐兵の軍勢は、漢城から大灘、連川を通過して江原道へ侵攻し、この 周辺地域の鎮圧にあたった。毛利軍もまた進軍し、2か月半かけてこの江原道全域の 平定に注力していくことになる。毛利軍は慶尚北道へ進軍したとき、その拠点を咸昌へと移転している。

蜂須賀家政と長曾我部元親は忠清道と京畿道の全域平定を担当する。蜂須賀家政は 忠州に、長曾我部元親は慶尚北道の北部にある聞慶に、それぞれ拠点を設け、軍を展開していた。

福島正則隊は竹山を拠点に一帯の平定に乗り出していた。

小早川隆景と立花宗茂、小早川秀包らの築後地域の諸大名は、 全羅道の攻略を担当した。小早川隆景は5月25日に南下し、 その後に続いて、立花宗茂も全羅道への進軍を開始し、錦山に拠点を設けている。 しかし、立花宗茂の軍は7月9日の錦山の戦いの後、戦局が膠着し、結局、朝鮮半島の穀倉地帯である全羅道の攻略戦は、錦山、茂朱地区のみを完了したに過ぎず、9月中旬にはこの地も放棄され、全軍が漢城へ撤退してしまう。 立花宗茂隊は小早川隆景の軍と合流し、戸田勝隆と交代で、 11月より開城付近(漢城の北部の高陽から開城の一帯と平山、牛峰などの 地域)に拠点を設けて守備を担当することになる。


11月10日付で小早川隆景が秀吉宛てに発しした書状に、釜山から平壌までを結ぶ 「繋(つなぎ)城」が完成したことが報告されている。

このときに設置された「繋(つなぎ)城」の順

釜山海浦→東莱→梁山→安陽(密陽)→新城→新城→開府城→新城→仁同→開寧→ 善山→新城→尚州→咸昌→聞慶→新城→新城→忠州→陰許(陰城)→竹山→新城→ 湯賀→新城→新城→果川→新城→新城→開府城→新城→平山→新城→鳳山→黄州→ 中和→平壌→順安→粛州→定州→郭山→宣州→鉄山→龍山→義州


※新城とは、つまり、新規に築城した城で名称はまだ決定されていなかったことを意味する。
※その他の地名は、もともと朝鮮側にあった城壁都市や軍事拠点を改造し、
 その地名をそのまま流用している。
※ちょうど一日分の移動ポイントごとに拠点が設置されていた。


朝鮮出兵資料


これはあくまでも軍事拠点目的以外での、食糧輸送や備蓄、秀吉や天皇のための宿泊拠点などを 指した。90%は朝鮮側の軍事施設や集落拠点を改修したものであった。

ところで、この日本軍による補強工事であるが、それは以下の点に集約できる。

1、鉄砲による防衛ライン(築地塀など)の再構築

2、城壁の改造(多聞櫓や長屋を建てて内情が外から見れないように工夫)


当時、朝鮮側の軍事施設はだいたいが石積みであったが、国内レベルの弓矢での攻防戦を 前提とした設計であったため、城壁は低く、また城門部分以外の城壁上には凹凸の矢間が設置されていなかった。戦争時に急遽、木板などで矢避けを仮設するスタイルであった。

日本軍は、何重にも郭と守備砦を設けて複合的な防衛網を設置するなど、できるだけ多くの日本式の城郭スタイルを全体や部分的に導入していった。

下の絵図は釜山沖海戦のものであるが、手前の日本軍陣地を見てみると、朝鮮式城壁の上に 日本式の築地塀が築造されているのが見える。

朝鮮出兵資料

また例えば、1592年4月20日に攻略された慶州城では、福島正則の家臣である 多川内記が守備を担当し、城内整備に取りかかったものの、 同年9月には朝鮮軍により慶州城が再奪還されてしまうわけであるが、 その時に城内を見た朝鮮側の官吏は以下のように記している。 「城内にあった建物は焼失されており、またこれらの資材を基に防護壁が無数に 張り巡らされ、その壁には丸や四角の鉄砲間が巧みにあけられていた」。

その他にも各地の占領地で日本式の防衛施設が増築されていっている。 多重櫓、楼閣、天守、屋根瓦を持つ築地塀、空堀などである。基本的に前述のごとく、 朝鮮側の城壁は低く、矢間塀の部分がなかったため、容易に外から 内部の様子を見渡すことができた。しかし、日本軍の築地塀によって、 内部の日本軍の様子が外からは分からないように改善したわけである。 もちろん、矢や鉄砲を放つ上でも有効な防護壁であることは言うまでもない。


4、朝鮮内陸に築造された倭城への明・朝鮮軍の攻撃戦

1593年1月6日、李如松の率いる明軍が平壌へ南下し攻城戦が開始される。

朝鮮出兵資料


当時、朝鮮側になかった大砲を、明軍が本国から持参し、平壌城攻撃で使用している。

大陸式の城壁は防衛戦線が広くなり過ぎ、さらに大砲による破壊もあって、日本軍(総兵力 15,000)の外城壁の守備ラインは容易に突破されてしまう。

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しかし、その城内に構築されていた日本式の軍事砦はなかなか陥落させることができなかったという。 まさに日本式城郭の三の丸、二の丸、本丸のような複数郭式の防御態勢が 形成されていたわけであり、その複雑かつ細かい防衛ラインに明軍は手を焼くことになる。鉄砲を多用する日本軍にとって、防衛ラインをできるだけ狭めて、多重に鉄砲を発砲するスタイルが得意であったわけである。

朝鮮出兵資料

ちなみに、平壌城内には、小西行長の要塞は「石垣城(もともとあった平壌城の内城を改造した)」、松浦鎮信の要塞は「松山城」と通称されるほど、各武将が独立系の防衛ラインを構築していたことが分かっている。
また、七星門や普通門一帯に設置した日本軍の要塞陣地も堅固で、明軍は最後まで攻め落とすことができなかった。

幸先良く、大陸式の外城壁を突破した明軍も、不慣れた日本式防衛ラインには全く手出しできず、最終的に日本軍の自主撤退を待つこととなる。

朝鮮出兵資料

翌1月7日、小西行長、黒田長政、および平山、牛峰地域に展開していた立花宗茂と 小早川秀包らの諸将は平壌城を放棄して、開城へ撤退する。

1月17日、防衛ラインが未構築であった開城も放棄され、小西行長や黒田長政、小早川隆景らの諸軍はさらに 漢城 へ撤退する。2月に入ると、江原道に展開していた 島津忠豊と毛利吉成らの軍勢も漢城近郊へ帰還する。果川と龍仁に在陣していた 宇喜多秀家は漢城に帰城後、果川と龍仁の両地方は、島津義弘と伊東祐兵らの軍勢が 代わって駐留することとされた。鍋島直茂と加藤清正の軍勢は、2月末日に漢城に 帰還している。

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1月25~27日の碧蹄館の戦いの後、日本軍の主力は漢城に集中しており、 明軍の主力軍は開城に滞陣した。日本側は食料事情も悪く(明軍に食糧庫があった龍山を焼かれてしまったため)、また先の 大戦の痛手を負った明軍も追撃には出られないことが分かっていたため 明側との講和交渉を開始する。同時に、漢城内外にて、日本の各将は陣地築造 工事を急ピッチで進めていくことになった。

しかし、中国地方、九州地方出身の兵士で構成されていた日本軍は、朝鮮半島の寒さと食料供給不足から、 多くの餓死者、凍死者を出したようである。朝鮮の役での日本軍の死者は早計5万人とされるが、 非戦闘期間であった、この冬に亡くなった者が最も多かったとされる。


以下は、ここ漢城の守将として在城した宇喜多秀家が構築した城郭の説明である。

最初、王都・漢城の中で唯一焼失を免れていた 宗廟 の建物を利用し、 周りに堀を巡らせて、その出た土と木材で数百もの小屋を建てて居住空間を 整えていたが、平秀家が夜に亡霊を見聞し、これを恐れて燃やしてしまう。 こうして宇喜多秀家は、朝鮮王朝側の皇子邸宅(別南宮)へと居所を移すことになる。 同様に、木柵を幾重にも張り巡らせて、居所の防備を固めていたようである。 宇喜多秀家の家臣団も、この周囲に陣地を構えていた。

この皇子邸宅(南別宮)は、当時、宣祖(在位 1568~1608年)の第三子であった 義安君の居所として使用されていたものであった。

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また、前年7月16日に、宇喜多秀家の守る漢城に入城していた 石田三成、大谷吉継、増田長盛、前野長康、加藤光泰らの五奉行らも漢城内に陣所を設置していた。 石田三成は明体洞に、大谷吉継は墨寺洞に、増田長盛は鋳字洞に、前野長康は好賢坊洞に、 加藤光泰は長興庫洞に布陣している。彼らの業務は遠征軍のお目付け役であり、戦闘参加目的ではなかったため、護衛兵のみ同伴しているだけであった。 いずれも南山の麓一帯に固まっていた。

また、平壌での敗戦後、日本軍の各武将らも漢城へ帰還してくる。 加藤清正、鍋島直茂、相良長毎らの第二軍は南大門の外に陣を構えた。 黒田長政、大友義統らの第三軍と、立花宗茂と小早川隆景、吉川広家らの第六軍は、 だいたい南大門から 西大門 の外の一帯に陣を敷いた。小西行長と宗義智らの第一軍は 龍山に陣所を設置し、食料庫の守備任務とされた。 ここは平野部であったため、石垣を巡らせる。また、その上に鉄砲射撃用の櫓も 組み上げられた。
毛利吉成(森吉成)、島津忠豊、高橋元種、 秋月種長、伊東祐兵らの第四軍は、金化、金城方面に展開していたが、2月17日、18日に 東大門、および東小門から入城し、城壁内側の興徳洞、柏子亭洞に陣を構えた。

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あわせて、日本軍は漢城の改修工事を急ピッチで進めていく。 城門には石垣が組み上げられ、多数の鉄砲間を設けた築地塀が設置された。 しかし、明軍が有する大砲の前には、日本軍の突貫修復工事も無力であり、漢城でも外城壁の防衛ラインはあっさり突破されてしまう。

しかし、平壌城内と同様に、漢城内でも日本軍の各将による複雑かつ細かい何重もの防衛ラインが多数構築されており、漢城内の川を挟んで明軍と日本軍が対峙する構図となった。

1593年2月の幸州の戦いで外城壁を突破されていた日本軍は、宇喜多秀家の別南宮の居所を含む、南山の山麓一帯に集合して陣を構えていた。漢城内の北側、および中央部は明軍の兵士らがひしめき合う状態であったと想像する。


5、半島南岸にて倭城築城はじまる ~18城~

しかし、講和が進むにつれ、その条件に従い、日本軍は漢城を放棄し、朝鮮半島南側へと撤退していくことになる。 この和睦交渉において、僧侶の沈惟敬と日本軍との講和会談で、宋慶昌が派遣される。

4月18日、漢城を放棄した日本側全軍が半島南岸に帰陣する。

4月20日、明軍が 漢城 に入城する。
総大将の李如松もまた、皇子邸宅(別南宮)に本陣を置く。 朝鮮側の体察使の柳成龍も同伴して漢城へ入城するも、その 荒廃ぶりと 宗廟 の焼失を目の当たりにして涙したという。

これ以後、一方では講和交渉がもたれつつ、また一方では、日本軍の帰国準備が 進められていくことになる。

まず、伊達政宗や佐竹義久らの東北出身軍、および、宇喜多秀家、細川忠興らの 第八軍、第九軍、および奉行、小部隊ら、合計 49,719名が帰国している。 その他の武将や将兵らは、引き続き、朝鮮半島に駐留し、軍事要塞の築城の任務に 当たることとされた。これらの駐留部隊も、順次、帰国されることになる。

5月1日付で発せられた秀吉からの朱印状で、東は 西生浦 から、西は 熊川 まで、 各駐留軍はそれぞれ軍事要塞としての18城郭の築城命令を出す。 さらに5月20日に発せられた朱印状では、築城予定範囲を熊川よりさらに 西の方まで拡大させ、全羅道侵攻の前準備としての城郭建造が指示されている。

しかし、6月29日に無事に 晋州城 が攻略されたという一報が入ったことを受け、 熊川より西側への築城命令は中止される。

晋州城の占領と破壊後、各将は半島南部の持ち場に散らばり、 7月初旬にも、担当城郭の築城工事に取り掛かる。だいたい2か月の工事を経て、 9月上旬には、各将は日本へと帰国しているので、このときまでにはすべての 城郭が完成していたことを意味する。

このときに築城が開始された18城が、西生浦城、西生浦支城、林浪浦城、機張城東莱城釜山城、 支城唯木島、支城出崎、亀浦城、(金海)竹島城、竹島支城、安骨浦城熊川城明洞城(熊川支城)、加徳島城、長門浦城、 永登浦城(唐島城)、松真浦城(唐島支城)であった。

朝鮮出兵資料

それでは、これらの倭城築城に際し、どのような視点からその選定が進められたのであろうか。

基本は、防衛と輸送経路の確保を最重視して、海岸線上で、しかも見通しの聞く山城か平山城の 築城ばかりとなった。そのロケーションの選択であるが、朝鮮水軍がいくつか支部を設置していた 場所を中心に、倭城も築造されていることが分かる。そもそもは倭寇の襲来が多かった 地域に、朝鮮水軍の支部も配置されていたわけであり、ここに日本の正規軍が根城を築くというのも 何とも皮肉な感じがする。
蔚山は1417年に慶尚道の水軍支部の一つが設置されいた場所であり、 西生浦 は慶尚道左水営の3支部のうちの一つがあり、かつまた、朝鮮半島の東南海岸線上おける 重要な戦略的要地であった。機張、すなわち豆毛浦 にもまた朝鮮水軍の支部があり、 亀浦、金海(竹島)、密陽、大邱などへと続く交通の要衝地域であった。 釜山 は対馬と最も近い場所にあり日本との窓口都市であったし、熊川安骨浦鎮海湾 をまたいで向き合っており、ここを制することで鎮海湾自体の制海権をも 支配することが可能な場所であった。馬山城(昌原城) もまた鎮海湾に面しており、 加徳城と熊川城との連携で、加徳水道と鎮海湾岸をコントロールすることができた。 また、永登浦は南海を支配し、松真浦と長門浦の両城をもって長木湾と松真湾の抑えとなり 倭城洞城は見及梁海峡を制御する場所にあった。このように、それぞれの築城場所の選定は、 もともと朝鮮水軍の支部が設置されていた要衝の地か、港湾や水上交通の要衝地帯を抑える 形で選定されており、占領地の支配と朝鮮水軍対策上、練りに練った決定であったわけである。


しかし、1595年5月22日付で、秀吉は小西行長と寺澤正成宛てに発した書状の中で、 熊川城 に沈惟敬が朝鮮皇子を人質として連れてくることが同意されて、 日本が築城した城郭15箇所のうち、10城を放棄するように指示している。

翌23日は、せっかく築城した要塞の半分以上を放棄することになり、わずか 6城-機張東莱釜山、金海竹島、熊川、巨済島の一城のみに日本軍は 撤収することになる。これらの城に、加藤清正、相良頼房、宗義智、小西行長、 鍋島直茂、小早川隆景、島津豊久、秋月種長、高橋元種、伊東祐兵、毛利吉政、島津義弘 らの九州の諸大名らが残ることとされた(武将本人らは日本へ順次帰国し、 自身の家臣団を在城させていた)。

最終的に、西生浦城 を破却した加藤清正は、帰国準備に入っていた黒田孝高、長政父子が築城を手掛け 完成間近であった 機張城 へと移り、1596年にはここも破却して、自身も 日本へと帰国している。


6、慶長の役、はじまる ~南岸倭城の築城(7城)~

だが、1596年8月 に大阪城での和議交渉が破綻すると、豊臣秀吉はすぐに 再出兵を決定する。このときは、8軍構成の総勢121100人の軍勢が 新たに朝鮮半島へ送り出されることになった。 この時点で、未だ朝鮮半島に駐留していた、釜山城小早川秀秋 (1595年に隆景から家督を継承)西生浦城 の浅野長慶、安骨浦城 の立花宗茂、竹島城の小早川秀包、 加徳城の高橋直次と築紫広門、及び軍事目付の太田一吉らの兵力を あわせれば、総計 141,500人となったわけである。

二回目の出兵、すなわち慶長の役では、朝鮮半島の穀倉地帯であった 全羅道の占領と、朝鮮半島の実行支配の強硬、および、再度、 北上して忠清道への進駐が目的とされた。1597年1月、加藤清正と 小西行長に率いられた先方隊が釜山に上陸する。後続部隊は、もう少し 暖かくなる5月、6月に続々と上陸してくることになった。

朝鮮出兵資料

8月に軍を二手に分け、右軍は毛利秀元を総大将とし、加藤清正が先鋒を司り、 左軍には宇喜多秀家を総大将とし、小西行長が先鋒隊とされた。

両軍は全州に侵攻し、協議の上、右軍は忠清道を北進(黄石山城を最初のターゲットとする)し、その目標を 京畿道境界線とし、左軍は南下する(南原城を最初のターゲットとする)こととされた。9月16日、全軍は 再び、全羅道井邑にて集合して協議を行い、この井邑の地を中央拠点とすることに 決定する。そこから全軍を全羅道全域へ派遣し、制圧することとされた。 また別働隊も編成され、朝鮮半島の過酷な冬越え支度を進めるべく、 城塞の拠点作りも同時進行することになった。
全羅道全域を平定後、左軍、右軍ともにすぐに全羅道から撤退し、 10月中旬には海岸線上に移動して、各将ごとに築城作業に取り掛かる。

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有名なところでは、島津忠恒は 泗川 にて、加藤清正は 蔚山 にて、黒田長政は梁山にて、 小西行長は 順天 にて築城作業に取り掛かっている。 このとき、蔚山、梁山、馬山固城泗川、南海、順天 の7城が新規誕生することになる。 また、一度は破棄した 西生浦釜山、竹島、熊川安骨浦城 の5城も改修され、いずれも 同年12月下旬に完成している。これ以降の新規築城は見られなくなる。

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文禄の役では 西生浦 から 熊川 までの海岸守備・輸送範囲が、この慶長の役の 際には、蔚山 から 順天 まで拡大しており、実に3倍もの面積まで守備戦線を拡大 させることになる。

1598年1月3日の 蔚山籠城戦 を経て、同月24日、25日に各将らは 安骨浦城 にて 協議を持ち、守備戦線の縮小案について議論される。 宇喜多秀家、毛利秀元、蜂須賀家政、生駒一正、藤堂高虎、脇坂安治、中川秀成、 長曾我部元親、山口宗永らは蔚山、順天、梁山の3拠点を放棄することを主張し、 小西行長、宗義智、加藤嘉明、立花宗茂、鍋島直茂らは拠点放棄に反対し、 結論がつかなかったため、秀吉の最終決定を仰ぐこととされた。 1月26日、3城放棄派の武将たちが連名で、前田玄以と石田三成、増田長盛、 大谷吉継の3奉行に意見書を提出する。3月13日付で返書し、秀吉は梁山城の 放棄を認めるも、蔚山城順天城 の放棄は不可とされた。 日本軍は、これ以後、海岸沿線の11城を守備することとなった。

1598年8月18日、豊臣秀吉は病没し、11月下旬に全軍の撤兵が開始され、 12月11日、全日本軍の帰国が完了する。


7、倭城のその後と遺跡研究

朝鮮半島に残る倭城研究は20世紀初頭からすでに開始されており、 その成果は相当に蓄積されている。しかし、それらは半島南岸に点在する 、所謂、狭義の意味での「倭城」に特化されたものであり、文禄の役で築造された 「繋(つなぎ)城」や天皇の明入りのための宿場要塞「御座所」の実情については 一切、明らかになっていない。1592年~93年にかけて、相当に張り切り頑張って築城して いった前線の武将らの努力の結晶は、残念ながら、今日に伝えられなかった。 そもそも秀吉自身や天皇の半島渡航が実現しなかったことが大きいわけであるが、 また前線部隊が直面した異民族の地の統治と軍事行動の大変さから、 早々にも和平交渉が開始され、1年後には全軍が半島南岸へ撤退していることもあり、 この文禄の役で築造された「繋(つなぎ)城」や「御座所」はついに歴史のスポットを 当てられることなく破却されていったものと推察される。

また、半島南岸の倭城築城に際しては、日本側の資料がかなり残っており、この 方面の研究は非常に進んでいる。

倭城築城に際し、日本軍は日本式の石垣構築にこだわっていたわけでもなく、朝鮮式の 垂直型石積みもそれなりに多用されたようである。また、城郭内の建物や築地塀に用いられた 瓦に関しては、日本式のものは一切、発見されておらず、すべて朝鮮式瓦が使用されていた ようである。これらは周囲の仏閣や朝鮮側の邑城都市内の家屋から転用されたものと考えられており、 さらに木材の調達も原野から伐採したものもあれば、周囲の建築物を壊して転用したようである。

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そして、この築城に要する膨大な労働力であるが、蔚山城 の築城に関する文書資料が 細かく触れているらしい。日本本土から治匠、番匠、船子、百姓らが徴用され、その 作業に当たったという。また、それでも人数が足りず、周囲の朝鮮占領地の労働力も酷使されたという。 西生浦城の築城に際しては、一日の動員数を3263人と計算され、3~4か月の作業100日分で、 のべ総勢326300人が作業に取り掛かったという見解も示されており、朝鮮側の労働力が重要な割合を 占めていたと推察されている。

戦役後、 朝鮮側でも城郭築城の考え方を大きく改められることとなった。

まず一点目は、元来、朝鮮では山城形式が多かったが、その何れもが山の中腹あたりから 麓あたりに築城されたものばかりで、簡単に敵により視察され、内情を 把握されてしまう。日本軍は戦いや築城に際し、必ず山頂を選択し、守りを 固めていた。特に、漢城内の南山麓に構築していた日本軍の防衛戦線を見た 朝鮮官吏たちはその防御の工夫ぶりに驚嘆したとされる。

2点目は、大陸中国式の垂直城壁の見直しである。17世紀初頭に築造された朝鮮側の 要塞には、一部、日本式の傾斜をもった石垣が転用されるケースも出てきたほどであった。籠城戦に際し、死角を少なくする日本式石垣の工法が大いに参考にされたのである。 しかし、再び、太平の世となった17世紀後半以降には、引き続き以前の大陸式石垣のみ が使われるようになり、倭城の記憶は完全に消えていくことになる。 日本軍の滞在期間の短さと、領土内自体が長期戦乱に見舞われる機会が基本的に少なかった李氏朝鮮時代において、 日本式城郭のインパクトを強烈に残すまでには至らなかったようである。

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また後に、明軍を率いた李如松は、女真族らとの対峙のため、満州へも遠征しているが、そのとき、部下から「日本軍と女真族がどちらが手ごわいか」と質問されたときに答えが史書に残されている。
曰く、「日本人は人も馬も小さく、武力では女真族の10分の1しかないが、鉄砲を見事に使いこなし、その戦術と数量はすさまじい」と評している。
当時の大陸人の体格や馬は日本のそれよりも圧倒的に大きく、白馬戦では日本の兵士らは到底、勝てなかったようである。しかし、鉄砲を主体とした戦術には一日の長があり、明・朝鮮連合軍を圧倒したわけであった。
当時、すでに明軍は大砲を有していたが、これは鉄玉を火薬で飛ばして、城壁や城門を破壊する、という目的のもので、日本軍の鉄砲のように対人での殺傷を直接の目的とするものではなかった。後に、日本軍が築城した倭城は全てが山上にあり、明軍の大砲は全く届かずに有効な攻城作戦を立てられなかったとされる。あくまでも、朝鮮式城郭を日本軍が改造していた初戦で、何度か有効であった程度である。

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最後に忘れてはならない点は、九州、四国の大名らが6年に及ぶ朝鮮出兵で払わされた5万人近い兵士らの死の損害に対し、何らの代償や対価が得られることがなかったことである。文禄の役では、朝鮮半島や中国での領土獲得などの野心があった大名らも、慶長の役では期待できる戦果は元々立っていなかったため、できるだけ損害を少なくしつつ、自力で対価を得ようと奔走することとなる。

すなわち、文禄の役は朝鮮側の降伏を最終目的とした、 武力重視の「拠点制圧」戦争と言えるのに対し、慶長の役は単純に「奪うだけ」の戦争であった。 その「奪う」対象は、朝鮮側の高度技術と単純労働力(主に子供、女性ら)、その他の物的財産となった。

こうした背景を有して、慶長の役では積極的な人さらいが横行することとなる。
日本側の歴史観では朝鮮の陶器工らが日本へ連行されて有田焼などが生まれたという指摘にとどまるが、実際に朝鮮から連行された朝鮮人らの大部分は子供と女性であった。
九州、四国地方の大名らは本戦役で被った人口減と労働力不足の代償を、この朝鮮人狩りにより穴埋めしていたわけである。その数は5万とも20万とも言われている。 その一部は、欧州船や中国船を通じて、奴隷貿易商品として海外へ転売されていったとも言われる。

徳川時代に入って、朝鮮通信使が派遣された最大の目的は、この 5万を超える朝鮮人らを本国へ連れ帰ることであった。江戸幕府は朝鮮通信使のこの目的に関し、大名らにその協力を命じるも、どの大名らも朝鮮人らを隠匿し、結局、数百人程度しか朝鮮半島への帰国がかなえられなかったという。


しかし当時、荒廃した朝鮮半島では、無事に連れ戻された朝鮮人らの再就業の機会は全くなく、通信使らも釜山港に彼らを放置する他、術がなかったという。


なお、城郭都市を前提とする大陸中国や欧州では、前近代の戦争で敗退した方の城内兵士や住民らにとって、 大虐殺されたり奴隷転売されることは日常茶飯事で、特に、上記の日本軍の動きが異常であったわけでは 決してないことも、最後に附記しておく。

中之島仙人

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