この運河建設を担当したのが、「監禄」である。ただし、その姓は史書に記されておらず、不明とされる。「監」とは監御史という官職を表し、名を禄といい、後世になって「史禄」とも呼ばれていく。今の広西省桂林から北へ 66 km にある興安県附近に着任時より滞在し、運河「霊渠」の開発工事に携わった。最終的に湘江と桂江支流である漓江がつながったのは、ちょうど第一次嶺南遠征失敗の直後の、第二次遠征軍の兵站ルート確保が求められていたタイミングであった。この運河の開通により、秦軍の兵馬・物資輸送能力が格段に向上し、第二次遠征軍の短期間での嶺南平定に大きく貢献する。後に、霊渠は興安渠(興安運河)、もしくは湘桂運河とも呼称されることとなる。
そもそも、紀元前 221年に中原を統一した秦の始皇帝は、中華全土に中央集権支配の導入を図っていくわけであるが、その一環として全国的な道路網を整備している。
そもそも春秋戦国時代、敵国からの素早い騎馬軍団の侵入を防ぐべく、輸送能力の高かった馬車の車輪幅を自国独自の長さで製造させており、これが道路整備にも反映されていた。このため、他国の馬車が通過するとき、道路に設置された「わだち」が合致せず、移動に往生することになっていた。
始皇帝はこの車輪幅を統一したため、全国規模で道路のわだちが一定となり馬車での移動が格段に便利となる。始皇帝の治世下、整備道路は総延長 12,000 km に及んだというが、そのうち約半分が幅員 70m の大道で、「馳道(ちどう)」と呼ばれたそうである。そのうちの一部は、北方の匈奴戦線へ向けた約 750 km の軍用道路「直道(ちょくどう)」である。
この「馳道(ちどう)」の道路網は四川省や雲南省へも拡張されていく。下の地図の赤色の線が、当時、整備された街道である。