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中原統一後の 秦の始皇帝 と 華南遠征


1、秦の始皇帝 年表

紀元前
年度
始皇帝
数え年

 事件
259年 1歳  誕生(趙の首都・邯鄲にて、人質生活中の子楚の子として)。
 名は「政」とされる。
250年 10歳  曽祖父の昭襄王が没する。
249年 11歳  祖父の安国君が即位し、孝文王となる。政の実父である子楚が太子と成る。
 これにあわせて、政とその母が趙より秦国の咸陽に帰還する。
 孝文王がわずか在位 3日で死没し、同年中に子楚が荘襄王として即位する。
 呂不韋が丞相に任命される。
246年 14歳  父の荘襄王が死没する。13歳で政が王位を継承する。
 呂不韋が政の補佐役として相国に就任する。
238年 22歳  元服する。大后、嫪毐(ろうあい。大后の愛人)、呂不韋の勢力を排除する。
237年 23歳  呂不韋の相国職を罷免し、封地の河南での蟄居を命じる。
236年 24歳  未だ勢力を誇った呂不韋に蜀への流刑命令を出す
 (翌年、呂不韋は服毒自殺する)。
233年 27歳  食客として招いた法家の韓非子が毒殺される。
230年 30歳  韓の王都・陽翟を占領し、韓が滅亡する。
228年 32歳  趙の王都・邯鄲を占領し、趙が滅亡する(王翦将軍を派遣)。
 母の大后が死去する。
225年 35歳  魏を滅ぼす(王賁将軍を派遣)。

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223年 37歳  楚を滅ぼす(王翦将軍を派遣)。
222年 38歳  燕を滅ぼす(王賁と李信が派遣される)。
 嶺南地方と長江水脈をつなぐ大運河「霊渠」の建設が開始される。
221年 39歳  斉が降伏し(王賁、蒙恬、李信が将軍を務める)、戦国時代が終焉する。
 全国を 36郡に分け、中央集権統治体制の導入を図る。

中原統一後の 秦の始皇帝 と 華南遠征

 始皇帝と称し、別邸の信宮を造成し、極廟と命名する。
 (天上で不動の北極星になぞらえた)
220年 40歳  第一回目の諸国巡遊を決行する。
219年 41歳  屠睢を総大将、趙佗を副将とし総勢 50万の第一次嶺南遠征軍を派兵する。
218年 42歳  第二回目の諸国巡遊を決行する。
215年 45歳  韓終・侯公・石生らに、仙人の不死薬を探索させる。
 蒙恬将軍に兵 30万を預け、胡を討伐し オルドス地域を平定する。

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214年 46歳  8年にも及ぶ大工事の末、運河「霊渠」が完成する。
 任囂を総大将、趙佗を副将として第二次嶺南遠征軍を派兵する。
213年 47歳  嶺南地方の平定に伴い、桂林・象郡・南海の 3郡を設置する。
 万里の長城の修築工事を開始する(オルドス地方に在陣中の蒙恬将軍が担当)。
 李斯の進言で書物をすべて焼く(焚書)。
212年 48歳  巨大王城・阿房宮の造成を開始する。
210年 50歳  全国巡遊中の7月に旅先で死去する。
209年 --  始皇帝の末子である胡亥が、二世皇帝として即位する。
 陳勝・呉広の農民反乱が勃発する。
207年 --  二世皇帝が宦官趙高により自殺に追い込まれ、子嬰が第三代皇帝となるも、
 翌年、劉邦に続いて項羽が咸陽城に入城してくると、一族ともども処刑される。
 秦の滅亡。
206年 --  劉邦により前漢王朝が建国される。
203年 --  趙佗により、華南地方に南越国が建国される



2、秦の始皇帝と華南遠征

前年に強敵・楚国を滅ぼし、中原統一が目前となっていた紀元前 222年、秦の始皇帝は嶺南地方(大庾嶺・騎田嶺・萌渚嶺・都龐嶺・越城嶺の「五嶺」より南部、現在の広東省と広西省一帯を指す)の越族らとの交易ルートの整備拡大、および百越族が跋扈する華南エリアの武力併合を 企図し、霊渠という運河建設を開始する。(中原側)北向きの長江水系である湘江南の広東平野へ流れる珠江水系の漓江とをつなぎ合わせる、東西34kmにも及ぶ高原地帯での運河工事となった。嶺南地方との間には、 巨大で分厚い山々が遮る上、華南の高温多湿の気温は、中原の漢民族が得意とした兵馬の機動力や水運ネットワークが活かせないため、この交通ルートの整備が手がけられたわけである。

しかし、この大工事の前後より、嶺南地方の諸部族(百越民族)らの反秦意識が急速に高まっていく。

その背景としては、

1、嶺南地方との交易を独占してきた旧楚領の人々や嶺南地方の有力者らが既得権益の喪失を危惧
2、運河工事の夫役要請や漢民族の流入といった秦朝側からの圧力への不満
3、前年に滅亡した楚側の残党勢力の後押し


そもそも春秋戦国時代以前、嶺南山脈以南に住む人々は、中原の漢民族から「南蛮民族」と呼称されていた。 春秋時代後期の紀元前 473年、越国が呉国を滅ぼし、呉文化を吸収した越国文化はますます隆盛を極める も、紀元前 334年に楚国により滅亡に追い込まれてしまう。このとき、大量の旧越国の民衆らが 流民と化して南方へ避難し、南蛮民族らとの融合が進むこととなった。こうして派生した数多くの 文化集団や集落地が、以後、中原の人々から「百越民族」と蔑称されていたのだった。

中原統一後の 秦の始皇帝 と 華南遠征

こうした背景により、嶺南地方の諸豪族らとの関係断絶が決定的となる中、運河工事が作業途上の中、紀元前219年、秦の始皇帝は屠雎を総大将、趙佗を副将として、総勢50万(多くの罪人らが捨て駒として含まれた)の大軍を嶺南征伐軍として派遣する。ここから足かけ5年、第一次、第二次に及ぶ嶺南戦線が始まる。

中原統一後の 秦の始皇帝 と 華南遠征

第一次遠征軍は5隊に分かれて、下記のルートから嶺南地方への侵入が図られた。

第一軍は、今の江西省の南にある康県一帯から東へ侵攻し、東越と閩越地域を平定する。ここは作戦が始まった紀元前 219年内に易々と平定に成功する。占領後間もなく、中央集権統治の一環として閩中郡(郡役所は今の福建省福州市に開設)が設置された。

また広東地方へは二方面から迫った。第二軍は南昌から大庾嶺を超えて広東省北部へ入り、第三軍は長沙から騎田嶺を経て番禺へ至るルートとされる。この 2ルートも大した抵抗を受けることもなく、難なく制圧に成功する。

しかし、残る西甌地方へ派遣された 2ルートは過酷な戦線となったようである。第四軍は萌渚嶺を超えて広西省賀県へ入るルートであり、また最後の第五軍は越城嶺を超えて広西省桂林およびその南部へ迫るルートであった。 密林地帯が続く華南地方、特に広西省一帯の山間部への進軍は、困難を極め、兵馬や物資の輸送がままならなくなり、疫病も蔓延し、かつ天然の地の利を活用したゲリラ戦術を展開する西甌部族らの頑強な抵抗という 3大苦に苦しめられることとなる。
特に、首領の譯吁宋とその配下の将軍である桀駿の率いる西甌軍の勢力が強大で、紀元前 214年には、秦軍総大将であった屠雎が伏兵に遭って戦死させられるに至る。ちょうど、夜半に西江河畔の三羅(現在の雲浮市下の羅定市、郁南県、雲安区と雲城区の一帯)に至って、ある大木を通り過ぎたときに、林の地面に伏せていた部族兵らが一気に立ち上がり、屠雎の軍めがけて弓矢を浴びせたという。屠雎はその顔面と体に 2本の矢を浴び落馬する。それらの矢は現地の毒蛇から採取した毒に浸されており、屠雎はそのまま即死したとされる。

過酷で不慣れな自然環境と困難な兵站ルートが、秦軍の死傷者を数十万にまで押し上げることとなる。

ちなみに、この三羅地区にある羅定瀧江河、羅鏡河、太平河の流域には、 4000~5000年前より人類の生息が確認されており、戦国時代期の巨大な墳墓(史書に「百粤之君」との記述あり)や貴重な埋葬品類が、羅平横垌背夫山にて発見されているなど、 2400年以上前に既に高度な文明が発達していたことが分かっているという。雲開大山と雲霧大山に挟まれた豊かな大地には、古代王国が成立していたようである。第一次遠征時の秦軍はすでに、この王国があった巨大な部族勢力の本拠地まで迫っていたようである。

紀元前214年後半、秦の始皇帝はすぐに任囂(?~紀元前 206年)を総大将とし、再び趙佗を副将軍に任じて第二次遠征軍を発する。ちょうどこのころ、運河「霊渠」の建設工事も完成し、湖南方面の長江上流域からの河川水運を活かした兵馬や物資の大規模かつ安定的移送ルートの確保が成る。任囂は湖南方面と広西省方面より 3ルートに分かれて進軍し、大庾嶺、騎田嶺、萌渚嶺のそれぞれを超えて嶺南地方に侵入する。

中原統一後の 秦の始皇帝 と 華南遠征

同年中に秦軍は嶺南地方の奥地まで侵入し、当地の首領だった譯吁宋を討ち取り、軍事的な制圧が成功する。そして、秦将軍の任囂と趙佗らはそのまま現地に残り、占領地に秦朝の中央集権統治の確立を企図し、桂林郡、象郡、南海郡を設置の上、さらにその下に県役所を開設していく。

中原統一後の 秦の始皇帝 と 華南遠征

いったんは嶺南地方の武力併合が完成されたかに見えたが、実際のところ、主要水脈の周辺のみ占領し得たに過ぎず、山間部の奥地は、引き続き、秦朝の中央統制が行き届かない部族自治が続くこととなったようである。


3、任囂将軍と、広州市のはじまり

ところで、第二次遠征軍の総大将となった任囂であるが、もともと秦国名将の任鄙(秦の武王時代の勇将)の孫にあたる人物で、紀元前 222年の第一次遠征の折は参加していなかった。このとき、総大将の屠雎に随行したのは、副将とされた趙佗であった。
しかし、この第一次遠征は総大将の屠雎の戦死もあり、失敗に終わる。
続く紀元前 214年の第二次遠征の折、任囂が総大将に任じられ、再び趙佗が副将とされて、嶺南方面へ進軍し、ついに数か月後、嶺南地方の平定を果たす。
翌年、南海郡、象郡、桂林郡の3郡が設置され、任囂はこれら 3郡をまとめる初代南海郡尉(軍事総督にあたる)となる(東南一尉、嶺南王とも別称された)。また、番禺(今の広州)に南海郡役所を開設し、ここを自身の居城とした。ちょうど、現在の倉辺路附に番禺城が築城され、別名、任囂城と呼ばれている。これが、現在の広州市の始まりとなる。

中原統一後の 秦の始皇帝 と 華南遠征

南海郡設置以後、秦朝廷に対し、民族同化と産業振興策を兼ねて、中原より 50万人もの漢族移民策が建議され、多くの移民が華南地方へ導入されていったという。しかし、紀元前 210年に秦の始皇帝が死去し、翌年より農民反乱や中原の豪族らの反秦戦争が巻き起こる中で、中原からの漢族移民が自然発生的に急増していく。任囂は中原の戦乱が飛び火しないように管轄地に激を飛ばし、移民受け入れを鼓舞するも、紀元前 208年、突然の病に伏し、腹心であった趙佗に南海郡尉の代理を委ねる。紀元前 206年、任囂は秦朝滅亡の報に触れ、ますます病状が悪化し、同年のうちに番禺城にて死亡する。その遺体は趙佗により手厚く番禺城内の法性寺(後に光孝寺へ改名)前の東 20 mほどに葬られたという。

今日でも、その任囂の墓が残されている。現在、広州市で最も中心地域に位置するホテル「広東迎賓館」の敷地にある古いガジュマルの木の下に、高さ 6~7m ぐらいの土崗製の石碑が残されている。

なお、任囂は儒教の創始者孔子の七十二弟子のうちの序列十七位とされた任不斉(紀元前 545~紀元前 468年) の 7代目子孫でもあった。


さて、後を継いで南海郡尉(軍事長官)に就任した趙佗であるが、もともと任囂が南海郡尉の時代、南海郡下には博羅県、龍川県、番禺県、掲陽県の 4県が配されていたが、この中でも、龍川県は最重要の要衝であったため、趙佗が県令として龍川県城に赴任されていた。ちょうど、現在の龍川県佗城鎮の旧市街地付近である。

任囂が進めた移民政策もあり、数十万人規模の軍事力を有するまでになった南海郡一帯は、北の匈奴族の冒頓と並んで、南北の雄と並び称されるまでになっていく。前任の任囂の臨終の言葉とされる、「秦は天から見離され、民は苦しむ。番禺の地は嶺南山脈― 江西省の大庾県と広東省の南雄県に連なる大庾嶺、湖南省の郴州市と広東の間に連なる騎田嶺、湖南省藍山県と広東西北部に連なる龐嶺、湖南省と桂林一帯にある萌渚嶺、そして広西省興安県と湖南省との境にある越城嶺 ―に阻まれる天然の要害で、東西南北に広大な土地を有する地であり、自立も可能である」という言葉の後押しもあり、それを実践していくことになる。
間もなく、主に元秦軍の駐留部隊で構成された南海郡の兵力を使って、象郡、桂林郡を併合し、紀元前 204年、南越国を建国するに至るのである(趙佗は南越武帝と称した)。任囂が築城し、自身が後継者となった番禺城が王城に選定された。

中原統一後の 秦の始皇帝 と 華南遠征

下の地図は、番禺城(広州城)域が、秦時代、前漢時代、後漢末・三国時代呉 ~ 唐代、宋、明、清代に渡って、拡張されていく様子を示す。

中原統一後の 秦の始皇帝 と 華南遠征

下の絵図は、清末の最終的な広州城域を表す。




4、中国最初の運河工事 と 「霊渠」遺跡

「霊渠」は秦代の三大水利施設の一つに数えられ、複数の陡門(水門)が設置されて、巧みに水位を上下させて船舶を移動させた。中国古代の中でも屈指の水利施設でもあり、世界で最古の運河の一つとされる。紀元前 222年に着工し、紀元前 214年に完成する。

中原統一後の 秦の始皇帝 と 華南遠征

この運河建設を担当したのが、「監禄」である。ただし、その姓は史書に記されておらず、不明とされる。「監」とは監御史という官職を表し、名を禄といい、後世になって「史禄」とも呼ばれていく。今の広西省桂林から北へ 66 km にある興安県附近に着任時より滞在し、運河「霊渠」の開発工事に携わった。最終的に湘江と桂江支流である漓江がつながったのは、ちょうど第一次嶺南遠征失敗の直後の、第二次遠征軍の兵站ルート確保が求められていたタイミングであった。この運河の開通により、秦軍の兵馬・物資輸送能力が格段に向上し、第二次遠征軍の短期間での嶺南平定に大きく貢献する。後に、霊渠は興安渠(興安運河)、もしくは湘桂運河とも呼称されることとなる。

そもそも、紀元前 221年に中原を統一した秦の始皇帝は、中華全土に中央集権支配の導入を図っていくわけであるが、その一環として全国的な道路網を整備している。
そもそも春秋戦国時代、敵国からの素早い騎馬軍団の侵入を防ぐべく、輸送能力の高かった馬車の車輪幅を自国独自の長さで製造させており、これが道路整備にも反映されていた。このため、他国の馬車が通過するとき、道路に設置された「わだち」が合致せず、移動に往生することになっていた。
始皇帝はこの車輪幅を統一したため、全国規模で道路のわだちが一定となり馬車での移動が格段に便利となる。始皇帝の治世下、整備道路は総延長 12,000 km に及んだというが、そのうち約半分が幅員 70m の大道で、「馳道(ちどう)」と呼ばれたそうである。そのうちの一部は、北方の匈奴戦線へ向けた約 750 km の軍用道路「直道(ちょくどう)」である。
この「馳道(ちどう)」の道路網は四川省や雲南省へも拡張されていく。下の地図の赤色の線が、当時、整備された街道である。

中原統一後の 秦の始皇帝 と 華南遠征

なお、嶺南地方への交通ルート、特に現在の広西省の地域において、湖南省との間に高い山脈が遮る中、 馬車移動よりも水運を活かしたルート開発が急務とされたわけである。

強敵の楚国平定の翌年より運河工事が開始されたわけであるが、これまで楚商人と嶺南地方の有力者らが独占してきた南部地域の特産品(犀角象歯や翡翠珠璣)交易への秦国による介入、さらに嶺南地方と関係のあった旧楚領の残党勢力からの加勢、そして、運河工事などの夫役への不満から、楚滅亡当時は秦国とは楚と同じように友好を結ぼうとした嶺南地方の部族らも、反秦へと結集したいったものと推察される。

こうした始まった 5年にも及ぶ嶺南戦線であったが、結果として、楚国も手出しできなかった嶺南地方の領有が成り、初めて中国華南が正式に中華文明に組み込まれることとなったわけである。「正式に」というのは、つまり古代よりすでに陸上、海上交易を通じて、漢族商人や中原文化の影響はすでに流入していたわけであり、政治的な意味で支配下に入ったのが、この時は最初である、という意味を込めた。
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