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海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代!


  1、はじめに
  2、清代の 台湾島 ~ 犯罪人、無法者が 跋扈した「五年一大乱、三年一小乱」の地
  3、清朝の 海禁(鎖国)政策が 生み出した、大海賊時代
  4、ベトナム海賊団による 福建省沿岸 支配
  5、ベトナム海賊団の滅亡 と 海賊王・蔡牽の台頭
  6、海賊王・蔡牽の 天敵、浙江省水軍提督・李長庚
  7、海賊王・蔡牽の 第一回 台湾上陸作戦(1800年春)
  8、海賊王・蔡牽の 第二回 台湾上陸作戦(1804年4月)
  9、蔡牽&朱濆グループ 連合海賊団 vs 李長庚の率いる 浙江省&福建省 連合水軍
  10、蔡牽&朱濆グループ 連合海賊団の崩壊
  11、海賊王・蔡牽の 第三回 台湾上陸作戦(1804年11月~1805年2月)
  12、海賊王・蔡牽の 第四回 台湾上陸作戦(1805年11月~1806年2月)① 北部戦線
  13、海賊王・蔡牽の 第四回 台湾上陸作戦 ② 南部戦線
  14、海賊王・蔡牽の 第四回 台湾上陸作戦 ③ 中部戦線(鹿港攻防戦)
  15、海賊王・蔡牽の 第四回 台湾上陸作戦 ④ 続・北部戦線
  16、海賊王・蔡牽の 第四回 台湾上陸作戦 ④ 続・中部戦線(鹿耳門海峡の 封鎖)
  17、海賊王・蔡牽の 第四回 台湾上陸作戦 ⑤ 続・中部戦線(安平、台南府城の攻防戦)
  18、海賊王・蔡牽の 第四回 台湾上陸作戦 ⑥ 清朝の 援軍、ついに到着!
  19、海賊王・蔡牽の 第四回 台湾上陸作戦 ⑦ 海賊反乱軍、ついに潰走!
  20、海賊反乱軍の 討伐戦役に絡む、清朝の 戦後論功行賞
  21、嫉妬と讒言がうずまく 政争劇 ~ 水軍総督・李長庚 vs 閩浙総督・玉徳 & 阿林保
  22、水軍総督・李長庚の戦死 と 名将・王得禄の 職位継承
  23、朱濆海賊団の 滅亡
  24、蔡牽海賊団の滅亡 と 大海賊時代の終焉
  25、考察① なぜ、海賊王・蔡牽は 台湾島の占領を 目指したのか?
  26、考察② 海賊史上 唯一無二の存在、蔡牽に 足りなかったものとは?
  27、考察③ 4か月の 台湾戦役で、清朝廷に 30億円もの出費を強いた 海賊反乱軍!




1、はじめに

中国史において、度々、その歴史の片隅に登場するも、主役級を張ることがなかった「台湾島」であるが、その中で特に注目を集めたものが、鄭氏政権による台湾支配(1662~83年)台湾最大の民衆蜂起「林爽文の乱(1786~87年)」、清代最大の海賊王・蔡牽による台湾侵略戦争(1805~06年)、日本による植民地支配(1895~1945年)、そして、国民党による「台湾立国(1945年~現在)」の 5大事件であった。

本稿では、これらの重大事件のうち、台湾外では全く知られていない、海賊王・蔡牽(さいけん、1761~1809年)による台湾占領作戦について、その歴史的意義を絡めながら俯瞰してみたいと思う。この海賊グループによる台湾進攻があまりに短期間のものであり、かつ内部資料が全く現存しないことから、勝者となった清朝側の編纂した歴史資料を基に、全容をあぶり出す他ないのが限界となっている点も、あらかじめ注意したい。

清朝水軍と海賊船団との海上戦イメージ(Youtube)

海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代!

2、清代の 台湾島 ~ 犯罪人、無法者が 跋扈した「五年一大乱、三年一小乱」の地

明代末期より台湾島を占領し、清朝に抵抗をつづけた鄭氏政権を討伐した清朝は(1683年)、当初、台湾島を直轄支配する意思はなかったが、鄭氏政権打倒を主導した水軍提督・施琅(1621~1696年)の建議により、福建省傘下の一行政区として、三県が配置されることとなる

しかし、清朝は台湾島や台湾住民らを心底から信用せず(ほとんどの台湾住民らの祖先は、明代末期に反清の意思をもって、主に福建省から移住した人々だった)、大陸側よりも過酷な政策で、困窮化と圧制を敷いたのだった(反清勢力による悪用を防ぐため、台湾島内の県城や府城は、石積み城壁が禁止され、竹やイバラを植林した垣根だけで整備されていた)。さらに中国本土から台湾島への新規移民を阻止すべく、本土女性の渡航を禁止しており、台湾島へ移民した中国人男性らは自ずと大陸側の犯罪逃亡犯などの荒くれ者、食いっぱぐれた貧民層や漁師、失業者らが主であった(本土から、これらの中国系移民らの密航、密貿易を手助けし暴利を挙げたのが、ここに登場してくる海賊集団だった)。当時、台湾島の山間部や東部には多くの原住民らが跋扈しており、このコミュニティに食い込んだ中国系移民も多く、この時に原住民との混血化が急速に進むこととなる。彼らはあくまでも清朝の統治システム外の存在で、山賊や海賊の人員供給源となっていくのだった。

こうした清朝廷による過酷な統制や、海禁政策による島経済の抑圧に加え、台風や地震などの度重なる天災も重なって、台湾島の住民らの反清意識や統治体制への不満は、日常的に煮えくり返っていたわけである。この民意は数々の民衆反乱、清朝に服さない反社会的組織や原住民コミュニティの存続、沿岸部での海賊、山賊の跋扈などで表出し、清末、さらには日本の植民地統治時代にまで尾を引く社会問題となっていく。戦前までの台湾社会は、今日に見られるような温和な親日ムードとは似ても似つかない、「五年一大乱、三年一小乱」と比喩される、民衆反乱が頻発した荒々しい土地柄だったわけである。

海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代!

特に 1786年11月に勃発した林爽文(1756~1788年。台湾彰化県出身。上地図)の反乱は、台湾島の中南部一帯を巻き込んだ大規模な民衆蜂起であり、全国初の反清闘争とも位置付けられている(台湾では、林爽文が元号を定めた「順天」にちなみ、「順天国」独立戦争とも別称される)。この時、淡水 の清軍拠点や 諸羅県城台南府城 を除く、ほとんどのエリアが民衆反乱軍によって占領されてしまい、さらに台湾南部では庄大田(?~1788年。今の 福建省漳州市平和県 五寨郷優美村出身。 1742年に台湾へ移住し、鳳山県で農業に従事する中で、鳳山県天地会【民間の秘密結社グループ】リーダーとして頭角を現す)が主導する民衆決起も同時連鎖して発生し、鳳山県城(左営旧城) を占領してしまうのだった(上地図)。最終的に、台湾内の守備隊では対応不能となった清朝は、大陸側から 4万もの正規軍を派兵して鎮圧し、1年4ヵ月もの時間と膨大な戦費支出を強いられる。これほどの長期間、台湾島が戦乱に荒れた事件は前代未聞で、台湾史でも最も有名な民衆反乱、として記録されている。下絵図は、民衆反乱軍が 諸羅県城(上地図)を手製の大砲で攻撃している様子。

海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代!

この 20年後、海賊王・蔡牽が台湾島に上陸し、島内各地の盗賊団や無法者らを糾合して、またまた大規模な反乱事件を勃発させることとなる。

当時、彼には懸賞金「銀 2,000両」が賭けられており、 清代中期~後期の銀相場から換算すると、 700万円弱の金額に相当する。一般庶民家庭(3名構成)の 年間収入が銀 2両(2,400 文銭) = 7,000 円程度であった時代、これは 1000年間、 庶民が仕事無しに生活していける金額に相当していた。しかし、当時は貧富の格差が大きく、 だいたい県長官レベルで年収 45両 = 16万円相当で、その地位が上昇するごとに 1.5倍ずつ 増額されていた(総督クラスで、180両 = 63万円相当)。こうした年収格差から、庶民、特に経済力のある地方富裕層は こぞって、自分たちの子弟に熱心に教育を施し、科挙合格を目指させたわけである。

3、清朝の 海禁(鎖国)政策が 生み出した、大海賊時代

そもそも蔡牽という人物は、福建省・泉州府同安県(今の福建省厦門市。下地図)で誕生した客家人で、その祖先は、明朝末期に清軍によって行われた 揚州大虐殺(1645年5月)から逃れた一族の出身であった。生家は貧しく、さらに幼少期に父母を亡くして以降、各地を流浪しつつ、綿花打ちや漁網の補修を手伝って成長する。最終的に霞浦県三沙港に流れ着き、漁船主に雇われる身となっていた。
しかし 1794年、地元で発生した水害によって職を失うと、生活に窮して盗みをはたらき、海へと逃れ出る(1795年)。他の多くの犯罪者、失業者、無頼の者、貧民らと同じように、福建省北部系の海賊団に加わって、浙江省~福建省の海域を荒らし回り、次第に頭角を現すこととなった。

当時、清朝廷が採用していた鎖国政策により、一般市民らは海へ出て漁業や交易活動を行うことが禁止されており、このため、人口過密地帯であった浙江省、福建省、広東省の沿岸部の住民らは生活に困窮し、度々、役所に対して抗議活動や武装蜂起を展開していたのだった。こうした中から、無法者や犯罪者、失業者が新規生産されては、海賊へと供給されていたわけである。

海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代!

この時代、福建省沿岸で勢力を張ったのは、ベトナム系海賊団「安南艇匪(安南=西山朝のこと。1778~1802年)」であった。

1700年代後期、北ベトナムを支配した後黎朝、南ベトナムを支配した広南阮氏(広南国)を相次いで滅ぼし、軍事クーデター「西山(タイソン)党の乱」によりベトナムを統一した西山朝(王都:フエ)に対し、清朝は後黎朝からの要請に応じて大軍を発して鎮圧を図るも、逆に大敗を喫してしまっていた(ドンダーの戦い。 1789年1月)。これ以降、西山朝と清朝廷は敵対関係にある中、清朝の採用する海禁政策を逆手にとって、中国側の海域に水軍部隊を派遣して沿岸部を荒らし回ることとなる。こうしてベトナム正規海軍は、西山朝の威信と正当性を盾に独自暴走を開始し、中国沿岸のみならず、周辺の東南アジア沿岸をも狩場として、テリトリーを拡張させたのだった(下地図)。

なお、明代末期に 5,000もの南明政権下の水軍兵士らがベトナムへ逃亡したという記録があり、その兵力を北ベトナムの後黎朝はそのまま吸収していたと考えられる。しかし、清朝の属国となった後黎朝の支配をよしとせず、さらに南部の広南阮氏(広南国)に帰順したのだった。それから 140年後、度重なる外征で国力の衰えた広南国内が荒れ、軍事クーデター「西山(タイソン)党の乱」が勃発すると、この南明政権からの移民子孫らも反乱軍に加わって挙兵し、その水軍部隊の主力を担ったと考えられている。

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当時、ベトナム南部を支配した広南国 は、ポルトガル人らによって船舶や大砲の技術を学んでおり、艦船も先進的なものを導入していた(上絵図)。この巨大戦艦(後に清朝に採用される「同安船」の原型となる)を主力とする海上戦闘力は、そのまま西山朝に継承され、当時の東アジアで最強となり、その活動テリトリーを拡張し、早晩、福建省の海域にまで勢力を伸張させてくることとなったわけである(下地図)。同時に、福建省や広東省からの無法者、さらに清朝の統治システム外にあった台湾島の荒くれ者も、旗下に加えて組織を拡大しつつ、ベトナム安南王(西山朝)の公認という建て前の下、爵位と特権を乱発し、ゆるい連合海賊グループ団を形成させていくのだった。

中国沿岸部で傘下に加わった地元海賊団は、ベトナム安南王が発給したという特権を振りかざして(安南王から爵位を下賜された前提)、沿岸を航行する商船から「警護活動費」や「通行料(出洋税)」を強制徴収し、支払い拒否する商船には容赦なく制裁を加えていく。彼らは中小の海賊団にとどまらず、地元福建省の最有力海賊団である鳳尾グループや水澳グループも含まれていた。こうして、1700年代末期の東アジア南部~東南アジア東部の海は、まさにベトナム正規水軍が凶悪化し、支配する時代となっていたのである。下地図。

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4、ベトナム海賊団による 福建省沿岸 支配

この清代中期、福建省には大小あわせて 100を超える数の地元海賊集団が存在し、その中でも特に大きなグループが、鳳尾帮(頭領は、林彩と庄有美)、水澳帮(頭領は、林亜孫)、林発枝帮、張表帮、紀培帮と呼ばれる各集団であった。「帮」とは、日本語で「一味、グループ」を意味する言葉で、要は鳳尾グループ、水澳グループ、林発枝グループ、張表グループ、紀培グループという解釈になる。この中でも、最強集団だったのが鳳尾グループで、寧徳府の海域(今の 福建省寧徳市 霞浦県にある半島部分)を根城とし、最盛期には 70隻以上もの船団を率いて、主に浙江省南部(温州台州)の沿岸エリアや、福建省の沿岸部を襲撃していたという。しかし彼らの船団は、烏艚船(広船、広東船)という小回りの利く小型船で構成されており、巨大戦艦を有するベトナム海賊団とは、戦闘力に大きな差があった。

本稿の主人公、海賊王・蔡牽も最初に参加したのが、この鳳尾グループであった。後にライバルとなる江文武(鳳尾グループから独立し、20隻をまとめる独立系の箬黄グループを創設し、今の 福建省漳州市詔安県 太平鎮にある狗洞門【九洞門】~今の 浙江省台州市 温嶺市にある松門沿岸を荒らし回った)も同時期、蔡牽と共に鳳尾グループの傘下に加わっていた。

海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代!

これら地元福建省の海賊集団は、強力な巨大戦艦を駆使して海を牛耳ったベトナム系海賊団と、何らかの形で連携し、その立場を正当化していたわけだが(官位や爵位を発給されるなど)、最終的に、通行料名目の「出洋税」を強制徴収するべく、通行手形にあたる旗「免劫」を商人らに買い取らせるスタイルに落ち着いていく。この旗を船に掲示させることで、同グループの海賊団からの襲撃を免除される、というルールとなっていた。ちょうど、日本の瀬戸内海航路を狩場とした、村上海賊団 と同じような生業だったと推察できる。

こうした海賊集団に対し、清朝廷は都度、水軍部隊を出動させて対抗するも、当時、海洋国家ベトナム王国の正規水軍の端くれであった、安南海賊団が有する巨大戦艦(下絵図。後の同安船の原型)には全く無力であった。

海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代!

これは海禁政策により、海上活動を制限した清朝廷が、その配下の軍船をも貧相なものに抑制したためでもあった(下写真)。これらの小船は烏艚船と通称され、地元福建省の海賊団も同種のものが一般的であった。

海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代!

海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代!
当時の海戦は、まず遠距離から大砲、鉄砲、弓矢を射撃し合い、最終的に船どうしを体当たりさせて、兵士らが乗り移り、敵の船を占拠していくスタイルで、船体の大きさが重要な要素を占めたわけである。
下写真は、清末に撮影された、海賊グループの「烏艚船」実物。

海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代!

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海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代!

こうした大海賊時代の 1798年、鳳尾グループがベトナム系(安南)海賊団とともに、百隻余りで徒党を組み、浙江省沿岸へ侵入してくる。

同年に 定海鎮 総兵官(最高軍司令官)へ昇進したばかりだった李長庚(1751~1807年。47歳)はすぐに水軍部隊を率いて迎撃し、大衢山と普陀山の海域 でこの海賊船団を撃破する。この時、鎮海水軍営守備の許松年(1767~1827年。31歳。清代当時の各地方部隊は、総兵官、副将、参将、游撃将軍、佐擊将軍、座営、号頭、中軍、千総、把総という 10階級に分かれていた。この営守備とは、上から 6番目の司令官職であった)も参戦していたが、その三隻の兵船が敵に包囲されて劣勢との一報を耳にすると、李長庚はすぐに救援に折り返し、海賊船団を追い払うことに成功している。この海賊船団の一部に蔡牽グループも含まれており、共に敗走したことが、清朝廷への報告書で言及されることとなる。
この報告書は、同年、閩浙総督だった完顔 魁倫(?~1800年)が、地元の福建省系海賊グループの頭領・林発枝を投降させた際の記述に併記したもので、「無法集団のうち、蔡牽の一味はそれほど名の知られた集団ではないが、現在、浙江省沖の外海を逃走中で、その追跡ができていない」という一文であった。これが、清朝廷の報告書内部に、初めて蔡牽グループのことが記録された瞬間となった。

なお、蔡牽の永遠のライバルとなる李長庚(1751~1807年。蔡牽と同じ、福建省厦門市 同安区の出身)は、この戦役での功績を認められ、翌 1799年10月、浙江巡撫の阮元(1764~1849年)の推挙を受け、浙江省水軍提督(提督府本部は、今の浙江省寧波市鎮海区に開設)に任じられることとなる。


 完顔 魁倫(?~1800年)
満州族出身。
両江(江南と江西)総督や吏部尚書、兵部尚書を務め、ロシアとの国境交渉でブリアンスキー条約(1727年)をまとめた、完顔 査弼納(1683~1731年)の孫。
清朝廷内でも名家の出身で、四川漳腊営参将(今の四川省アバ・チベット族チャン族自治州松潘県)、建昌鎮総兵(今の四川省涼山イ族自治州西昌市にあった、寧遠府城の最高軍司令官)などを務めて軍功を挙げ、1788年に福州将軍に抜擢される。しかし、当時の閩浙総督の愛新覚羅 伍拉納(1739~1795年)は海賊から賄賂を受け取って野放しにしていたため、魁倫の率いる水軍部隊の活躍を望まず、朝廷へ度々、魁倫を陥れる讒言を行う有り様であった。最終的に伍拉納の悪行が暴かれて更迭されると、愛新覚羅 長麟(?~1811年)が後任となって閩浙総督を継承し、続いて 1796年に魁倫自身が昇格され閩浙総督となっていた。そして 3年後の 1798年、当時、巨大海賊グループとして名を馳せていた頭領・林発枝の投降を受理する大功を挙げると、朝廷内で大絶賛されることとなる。
同年に母が死去し、帰京を願い出たため、吏部尚書(中央朝廷内の人事局長官)として 王都・北京 へ復帰するも、自身がかつて赴任していた四川省内で白蓮教徒の乱が勃発すると、自ら四川提督への転任を願い出る(1799年)。現地赴任後も民衆反乱はますます激化し、翌 1800年には歴戦の猛将・朱射斗(1724~1800年。今の 貴州省貴陽市 出身)へ援軍を送らずに戦死させた上、反乱軍に四川省の半分を占領される大失態を演じ、皇帝の逆鱗に触れて北京に呼び戻され、処刑される。その子も、新疆ウイグル地方へ左遷されることとなった。




5、ベトナム海賊団の滅亡 と 海賊王・蔡牽の台頭

次に蔡牽グループが清朝の資料で言及されるのは、翌 1799年、浙江巡撫の瓜爾佳 玉徳(1737~1808年。満州族出身。山東巡撫、河東河道総督、兵部侍郎などを歴任した後、1796~1799年に浙江巡撫を務めていた。 1799年1~10月に魁倫の後継として閩浙総督に着任していた書麟が離任すると、閩浙総督へと昇格することとなる)の報告書で、「福建省海域で跋扈する蔡牽グループの海賊集団は、 30隻あまりの船団を有し、その活動は 10隻以下、だいたい 7~8隻ごとに徒党を組んで展開されている。沿岸守備隊、および地元の漁師らの複数の目撃情報あり」との記録であった。

そして同年末、浙江巡撫の阮元(1764~1849年。1799年10月に玉徳の後任として浙江巡撫に着任していた。1805年6月に父の喪に服するため、いったん離職するも、1808年3月~1809年9月に再任されることとなる)の許可の下、浙江省水軍提督の李長庚が省内三鎮(定海温州黄岩)の水軍部隊を率いて、ベトナム系(安南)海賊団の殲滅に成功することとなる。しかし、これは自然災害に助けられた、棚から牡丹餅のような大勝利であった。

この直前、巨大戦艦を有するベトナム海賊団が、連携する水澳グループ、鳳尾グループの小型船団を従え、前後中の三隊に分かれて 100隻余りの徒党を組んで、台州~温州沖を航行していた。先発隊が先に石塘半島沖の松門山(今の 浙江省台州市 温嶺市松門鎮の沿岸。下地図)に到着し、後続船団の到着を待って停泊していたタイミングで台風が直撃し、多くが転覆、難破してしまうこととなる。沿岸部に残党らが漂着する中、清朝の水軍部隊によって一網打尽に逮捕される。この中に、ベトナム海賊団を率いたリーダー格 12名のうち、先発隊を率いた倫貴利や耀斬ら 4名が含まれており、すぐに磔刑に処されたのだった。続いて、動揺した後続の船団も撃破し、一方的な勝利を手にすることとなる。

海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代!

あわせてベトナム本国で 1802年、阮福暎(1762~1820年)が、クーデター政権・西山朝を滅ぼし、ベトナムを再統一して阮朝(南ベトナムを支配した広南阮氏 を継承)を再興すると、西山朝の公認特権が消滅してしまう。こうしてベトナム系(安南)海賊団はその存在意義を失い、中国各地に分派していた者は半独立化する集団、地元中国系の海賊集団に吸収される集団に分かれることとなる。さらに浙江省水軍提督の李長庚が、清朝廷を通じてベトナム新政権に海賊取締りを要請し、それが功を奏して、西山朝政権の公認特権と巨大戦艦でアジアの海を牛耳ったベトナム海賊団は、完全にせん滅に追い込まれていくのだった。

同時に、福建省地元の大海賊団だった水澳グループ、鳳尾グループの主要メンバーも苦境に陥り、烏合の衆だった海賊船団は散り散りになると、このタイミングで、それらの残党 100隻近い船団を順次、吸収していったのが、蔡牽グループなのであった。ベトナム系、福建省系(鳳尾グループ、水澳グループの主力を継承していた、王流蓋、沈振元らの諸派)の海賊集団を糾合した蔡牽グループは、一気に福建省、浙江省沿岸で最大海賊団にのし上がっていく。この時、広東省東部の海賊グループ・朱濆(福建省漳州市 を本拠地としていた)も、数十隻相当の残党勢力を傘下に吸収し、ますます勢力を拡大することとなった。

翌 1801年にはライバル関係にあった福建省海賊グループの頭領・候斎添を殺害し、その残党をも配下に吸収して、いよいよ東シナ海最大の海賊グループを形成するに至る。この頃より、蔡牽は海賊団から「掌柜(番頭、支配人の意)」や「大出海」と尊称されるようになる。
その後も、福建省各地から無法者集団を吸収しつつ、即戦力となる船舶や武器、メンバーを手に入れ、蔡牽グループはこの 3年でみるみる成長する。当時、蔡牽グループ本体の根城は、嵛山島(今の 福建省寧徳市 福鼎市の沖合にある巨大な島・大嵛山。上地図)や、 北関島(今の 浙江省温州市 蒼南県霞関鎮ー馬駅鎮東部の島・北関山。上地図)であったが、 同時に旧水澳グループの本拠地(今の福建省寧徳市霞浦県にある半島部分)をも占拠し、自身の拠点の一角に組み込むことで、福建省系海賊グループの継承者としての立場を明確にしていた。

福建省沿岸の商人とも関係が強化された蔡牽は、ベトナム海賊団が有した巨大戦艦「同安船(下絵図。後にアヘン戦争時の、清朝水軍の主力となっていく)」を模した同型のものを複数発注し、グループ船団の戦闘力向上にまい進していくこととなる。

海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代!

1802年5月初旬、この巨大戦艦を含む大船団を引き連れ、蔡牽は 厦門 の南湾岸にある大担島、小担島の清軍拠点を急襲し(下絵図)、傘下の部下 500余名が上陸して、清軍から大砲 13門を強奪する。
海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代!

福建省沿岸を完全に牛耳り、200隻近い船団と約 1~2万人もの部下を率いて、向かうところ敵なしとなっていた蔡牽グループは、さらに南下して広東省の海域にも進出するようになり、広東省東部の朱墳グループと摩擦を起こすこととなる。

また、この巨大海賊集団の結成は、福建省と海を挟んで立地した台湾社会にも大きな影響力を及ぼすこととなった。早速、多くの地元有力者や商人から献金を受け、密接な関係が構築される。艋舺エリア(台北市の旧市街地)の張秉鵬、清水(台北市の旧市街地) エリアの蔡源順、台南府城 の林朝英、金門島(今の 福建省厦門市 にある沖合の巨大島)エリアの黃俊以、また鼓浪嶼(コロンス)島(今の福建省厦門市思明区にある小島)の黃旭齋らの有力商人らがこぞって蔡牽と癒着し、黄色の「免劫」旗を下賜されて、航行の安全と市場独占を保証されるようになっていた。こうして海賊の力を背景に利権を構築し、ますます商売を拡大する者も現れる始末であった。

しかし、巨大に成長してしまった蔡牽グループを待ち受ける運命は、ますます過酷なものともなっていく。肥大化した配下の船団を維持し続けるには、食料などの必需品も莫大となり、必然的に商船や清朝廷の倉庫などを襲撃する犯罪行為も激増し、清軍と戦火を交える事態も重なっていった。また他方、大陸側の地場ネットワーク「福建天地会(民間の秘密結社グループ)」との間で共同発行した「免劫票照」により、海賊襲撃を免れる商船からの用心棒代が安定収入として入るようになると、逆に、庇護する商人から高値で食糧などを購入せざるを得なくなっていったという(略奪対象の商船の数自体が減少してしまったため。反比例の関係にあった)。こうして経済的、軍事的に行き詰まりを見せる中で、最大勢力の宿命として清朝廷のターゲットとされ、苦労が苦労を呼ぶサイクルに陥っていく。

海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代!


6、海賊王・蔡牽の 天敵、浙江省水軍提督・李長庚

この蔡牽グループの前に立ちふさがったのが、ルパン三世に対する”銭形警部”的存在の、浙江省水軍提督・李長庚(1751~1807年。上絵図)であった。当時、浙江省水軍の提督府本部は 鎮海古城(今の浙江省寧波市鎮海区)に開設されており、配下に 3鎮(定海温州黄岩)の地方支部を統括していた(対して、浙江省陸軍提督府は、杭州府城 内に立地されていた)。

この時代、ベトナム海賊団をはじめ、これを継承していた蔡牽グループが保有した巨大戦艦「同安船(下絵図)」は、同安梭舟ともいい、清朝水軍の烏艚船(広船、広東船)よりも操舵性に優れた上に、速度も出るものであった。さらに船体も非常に大きく、清朝水軍の小型船にぶつけて肉弾戦を繰り広げつつ、圧倒的な高度から大砲や鉄砲、弓で攻撃することができ、その戦力差は明らかであった。清朝の水兵はその高度差から、巨大戦艦に飛び移って白兵戦に持ち込むのも困難で、大いに手を焼いていた。

これに対し、浙江省水軍提督・李長庚は、浙江巡撫・阮元と協議を重ね、この海賊グループが有する巨大戦艦に対抗すべく、より巨大な戦艦の建造を決意する。全国各地に内乱を抱え国家予算が逼迫していた清朝廷へ直接、費用請求することは困難と判断した両名は、銀 10万両(現在価値で 3億5000万円相当)余りの義援金を集めることとし、最終的に李長庚自らが福建省に出向いて、商人に巨大戦艦 30隻の建造を発注したのだった(この建造工事の間、清朝水軍は大きめの民間商船を賃貸し、海賊討伐戦を続行した)。同時に大砲 400門余りを鋳造させ、この戦艦や各地の水軍拠点に配備させていく。この巨大戦艦は当時、「霆船」と命名されて、蔡牽グループらの船団を行く先々で撃破し、大いにその軍威を見せつけていくこととなる。
以後、清代を通じて、戦艦として大量建造され、これがアヘン戦争で清朝水軍の主力艦「大同安梭船」(最大の縦幅は 25m、左右に最大 8門の大砲を装備)として英国艦隊と激突するわけである。この同安船を大量に建造、保有した福建省水軍(閩浙総督が最高司令官)は、1884~85年の清仏戦争 前まで、その規模、戦力ともに清国トップに君臨したのだった(以後は、洋務運動を推進した李鴻章の率いる北洋艦隊【本部は、威海衛】が、「清国最強」の座を奪取する)。
また、これと同型の商船も大量に造られて、福建省沿岸に物流革命をもたらすこととなった。

海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代!

1803年1月、蔡牽グループが浙江省北部の 定海 に出現し、 普陀 沖の海域を航行中(この海域は、日本や琉球からの交易船や朝貢使節の航路となっており、高級外来品の狩り場となっていた)、李長庚の率いる清朝水軍による待ち伏せ攻撃を受ける。海賊船団よりも巨体な戦艦「霆船」を駆使し、雨あられのごとく弓や砲弾を撃ち込んでくる浙江省水軍に対し、全く不意を突かれた海賊船団は一方的に損害を受け、這う這うの体で逃走に追い込まれる。なんとか包囲網を突破し南へ逃走を図る蔡牽船団に対し、李長庚はさらに執拗な追撃戦を展開し、蔡牽の海賊船団は兵糧も尽き、船体も損傷した戦闘不能の 24隻のみとなって、なんとか福建省側の海域へ逃げ込むのだった。下地図。

しかし、浙江省水軍は 温州 沖から福建三沙湾(今の 福建省寧徳市 霞浦県の半島先っぽ。下地図)沖まで追撃し、さらに 6隻を大破するなど追い詰めるも、蔡牽は閩浙総督の瓜爾佳 玉徳(1737~1808年。総督府本部は 福州城 にあった)に対し、銀 10万両(現在価値で、約 3億5,000万円相当)を納める密約を結び、投降を願い出る。玉徳は興泉兵備道の慶徕(泉州府 の役人)を、今の福建省寧徳市霞浦県三沙鎮にあった港町まで派遣し、海賊側との交渉をまとめさせ、海賊側の要求通り、李長庚の率いる浙江省水軍の入港を禁止する。海賊集団をせん滅する千載一遇のチャンスを失った李長庚は憮然とし、帰路に就くこととなった(清代を通じ、満州族出身の官吏らは赴任先での腐敗が常習化しており、今回のケースも特に珍しいものではなかった)。

李長庚は浙江省側へ帰還後、この閩浙総督・玉徳に再考してもらおうと、浙江巡撫の阮元に直訴するも、漢族出身の阮元も満州族出身の上司・玉徳には逆らえず、とりあえず李長庚をなだめる他なかったという。ここで李長庚は朝廷からの恩義に深く感謝しているため、今回は朝廷の決定に従います、と答弁した記録が残されている。さらに付け加えて、この海賊グループが再度、力を盛り返した時、朝廷は再び、多額の費用と兵力を消耗しなければならないだろう、と愚痴ったとも言われる。

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他方、閩浙総督・玉徳の買収に成功した蔡牽は、この許された時間的猶予を有効に活用し、すぐに福建省の商人に多額の費用を払って、清朝水軍が導入した新型の巨大戦艦「霆船」よりも、速く巨大な戦艦を発注し、戦力の回復を図ることとなる。

このように、清朝水軍では各地方役所の管轄区画の問題で、蔡牽グループを徹底的に追い詰めることができず、また相互連携もとれていなかったため、その隙をついて度々、取り逃がすこととなっていた。浙江省の海域では、引き続き、浙江巡撫の阮元(1764~1849)と浙江水軍提督の李長庚(1751~1807年)の 2トップが協力し、陸海から徹底した包囲作戦を実施しつつ、海賊らに食料や水、港、物流ネットワークにアクセスさせないよう、総力を挙げて対策を図っていたが、福建省側の海域では特に組織的な防衛策が積極的に講じられておらず、賄賂などにより海賊を見逃す役人も多数おり(この時代、すでにヨーロッパ商船からのアヘン密輸も始まっており、役人らは賄賂漬けになっていた)、海賊グループは容易に身を隠すことができたのだった。こうした清朝側の弱点をついて、蔡牽グループは福建省側にあって勢力を復活させることができたわけである。


 李長庚(1751~1807年)
福建同安(今の 福建省厦門市)出身。
1771年、20歳のときに武進士(三甲)に合格し、末端の武官職「藍翎侍衛」となる。そのまま 浙江省衢州(今の浙江省衢州市)営都司に出仕し、ここで提標游撃や太平参将となる。間もなく、楽清鎮(今の 浙江省温州市 楽清市)協副将へ昇格する。
1787年、36歳のとき、福建海壇鎮(今の 福建省福州市 海壇島)総兵官となり、当地の最高軍司令官を任されるも、海賊討伐戦の最中、誤って管轄外の海域まで出て活動してしまったため解任されてしまう。以後、自らの私財を投じて民兵を組織し、自警団長として活動を展開する。間もなく、名のある盗賊集団を捕縛した手柄により、再度、朝廷に採用され、海壇鎮游撃将軍から再スタートする。すぐに能力が認められて、銅山鎮 参将へ出世する(清代当時の各地方部隊は、総兵官、副将、参将、游撃将軍、佐擊将軍、座営、号頭、中軍、千総、把総という 10階級に分かれていた。参将とは、三番目に高い指揮官であった)。
1794年に、ベトナム系(安南)海賊団が福建三沙湾(今の 福建省寧徳市 霞浦県の半島先っぽ)沿岸を襲撃すると、李長庚が急行して撃退に成功する。
1797年、前任の魏成名(?~1796年。福建省出身。1795年に前々任の李南馨の跡を継いで着任していた)が任期中に病死し、空きポストとなっていた澎湖水軍協副将に、李長庚が指名される。この職位は、台湾鎮総兵官(最高軍司令官)に直属し、台湾海峡を守備する武官で、官職で言えば、台湾軍制の中で数人いた副将格に相当した。 澎湖諸島 の両標水営を統括し、数千名の水兵を指揮する立場となる。李長庚の軍隊の規律は厳しく信賞必罰であったが、自ら部下や水夫らと積極的に交わり、人々の人気が高かったとされる。

翌 1798年、47歳のとき、(浙江省)定海鎮 総兵官(最高軍司令官)へ昇進する。同年、浙江省北部の舟山列島北部(衢港と普陀の間)の海域で、鳳尾グループとベトナム系(安南)海賊団の連合船団を撃破すると、この功績から、1799年10月、浙江巡撫に着任したばかりだった阮元(1764~1849年)により、浙江省水軍提督に抜擢される。そして、同年末に再びベトナム系(安南)海賊団が水澳グループ、鳳尾グループら百隻余りと共に徒党を組み、台州 の海域へ侵攻してくると、温州 沖でこれを壊滅する大功を挙げ、朝廷からクジャク羽冠”花翎”を下賜される。
その後も、浙江省&福建省の海域で勢力を伸張させていた蔡牽グループと死闘を繰り広げ、 1803年1月にはようやく壊滅寸前にまで追い込むも、海賊団に買収された閩浙総督・玉徳によって追撃を阻まれることとなる。翌 1804年から再び、海賊活動を再開した蔡牽グループの牙城を制圧すべく、1805年夏に福建省水軍提督へ異動する。
海賊団を率いた蔡牽は、宿敵・李長庚が福建省側へ赴任してくると聞くや否や、拠点を浙江省側へ移転するも、李長庚の率いる福建省水軍と前任地の浙江省水軍が共同して海賊船団を取締るようになり、両艦隊は浙江省北部の青龍港(今の 浙江省舟山市定海区)まで追撃してくる有り様であった。最終的に、南へ逃げた海賊船団を追尾し、台州の南に広がる斗米半島(今の 浙江省台州市 温嶺市あたり)沖で撃破したのだった。
この時の戦役で、リーダーの一人・李按を逮捕する功績を挙げ、再び浙江省水軍提督に復帰することとなる。

1805年11月~1806年2月、蔡牽が全船団 100隻余りを率いて台湾島に侵攻してくると、金門鎮総兵官の許松年、澎湖協副将の王得禄らを指揮し、海賊反乱軍の平定に成功する。その後も浙江省の海域を中心に蔡牽グループを追い詰め、いよいよ弱体化した蔡牽にとどめを刺すべく、1807年12月、集中砲火を浴びせつつ海賊船に体当たりし、蔡牽の搭乗する旗艦を追尾している最中に、不幸にも喉に銃弾を受けて戦死してしまうのだった。
時の皇帝・嘉慶帝(1760~1820年)はその死を悼み、壮烈伯の称号を贈り、以後、子々孫々に至るまで彼の爵位継承を保証した。以後、彼の子孫 16人が継承することとなる。

李長庚には実子がいなかったので、同郷同姓の李廷鈺(1792~1861年)を養子にとっており、そのまま嗣父の爵位(三等伯爵)を継承して武官となり、皇帝直属の近衛部隊将軍(二等侍衛)に任じられる。1820年代に(江西省)南昌副将となり地方へ赴任すると、各地の司令官を歴任し、ちょうど潮州鎮総兵官(最高軍司令官)の任にあった 1841年に、アヘン戦争を経験することとなった。
湖広総督として 広州 に赴任していた林則徐(1785~1850年)に従い、広東省潮州鎮 の軍司令官としてアヘン取締を強化していた最中、広州湾岸の守備を命じられて、潮州鎮から 418人の部隊を引き連れ、最前線となった 虎門の威遠砲台(下写真)の守備に着任する。虎門守備の総司令官だった関天培(1781~1841年)の指揮の下、英国艦隊と死闘を演じるも、圧倒的な戦力差から守備戦線は突破され、広州城も攻略されてしまうのだった。この対英戦争の経験により、嗣父と同じ浙江省水軍提督に抜擢されるも、1843年に浙江省沿岸での対英国艦隊対策の責任をとらされて提督を解任され、隠居させられる。 1853年、福建省水軍提督に再び大抜擢されるも、間もなく、病により海上任務が不可能となり、再び解任されてしまう。以後、隠居先で私財を投じて民兵を募り、自主的に 厦門、金門島、仙游(今の 福建省莆田市 仙游県)などで官軍に協力して戦功を挙げたことから、朝廷に再雇用され福建省陸軍提督に就任するも、朝廷工作に失敗して罷免される。1856年に再び 王都・北京 に呼び戻されて、中央朝廷内で官吏となるも、1861年に朝廷からの命により、廈門へ赴任中に病死した。彼は文武に通じた人物で、絵描きとしても才能を発揮し、多くの著書や絵画を今日に残している。
21人の子女がおり、その中の李経宝が祖父の爵位を継承した。

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 阮元(1764~1849年)下絵図左
江蘇省揚州市 出身。
祖父の阮玉堂は湖南参将に出世した地方武官で、父の阮承信は『左氏春秋』などを編纂した文学者であった。母の林氏は代々、官僚系の出身で、自身も非常に学問に秀でた人物だったことから、阮元が 5歳の時より文字を教えたという。
1789年、25歳のときトップクラスで科挙に合格して進士となると、皇帝直属の秘書室で、若手官僚の養成所だった「翰林院」に出仕する。そのまま翰林院の上級機関「詹事院」へ選抜され、いよいよ地方機関へ任官されていくこととなる。手始めは、1793~1795年に就任した山東学政の主任職であった。山東省に滞在中、済南府城 郊外の名所を巡っては、多くの詩歌を残すこととなる。その後、浙江学政の主任へ転籍し、1798年に再び、王都・北京 へ帰還する。
中央朝廷内で、戸部左侍郎(中央省庁「六部」の一角である、戸部の副長官職)、会試同考官(科挙の試験官)などを歴任後、再び地方へ派遣され浙江巡撫となって、約 10年間、現地に駐在することとなる。この間、政務以外にも浙江省在住の文化人らと接し、 1801年には赴任先の 杭州 で詁経精舍という教育機関を設立し、地元エリートを集めて英才教育を施したという。阮元は儒学の実証的解釈を志向する朴学(考証学)に参加し、揚州学派の筆頭でもあった。その著書も今に多くが伝えられるほどの学者でもあり、地元の郷土史や詩歌などの編纂事業も手掛けている。その後、詁経精舍は、朴学(考証学)の普及と習得を目指した研究教育機関となっていく。

1804年に父が死去すると、喪に服するべく、いったん 揚州 に帰郷する。その後、再び中央朝廷に復帰し、中央省庁の兵部に出仕した後、地方へ出向して湖南巡撫となり、すぐに空席となっていた浙江巡撫へ転任する。この赴任中に、海賊王・蔡牽グループを討伐することとなるのだった。
1813年に江西巡撫へ転任すると、直後に朱毛俚、胡秉耀らが王を自称し、反清朝を掲げて挙兵する。阮元は瞬く間に鎮圧し、そのリーダー格であった胡秉耀をはじめ、邱忝澤、楊易、盧勝輝らを捕縛すると、ことごとく凌遅刑に処したのだった。この迅速な平定戦を賞賛された阮元は、太子少保(皇太子の家庭教師担当官。実際には、名誉称号だけであった)の称号と、クジャク羽冠”花翎”を授与される。
1815年には河南巡撫となり、すぐに湖広総督へ昇格される。この任期中に、長江沿いの堤防、特に激しく曲がりくねり、度々、地元に水害を引き起こしていた箇所の堤防強化事業に着手するなど、治水事業に尽力した。例えば、今の 武漢市武昌区 の堤防や、今の 荊州市 江陵県郝穴鎮の堤防(范家堤)などが有名。

1816年、両広総督となる。この 広州 駐在中、アヘン禁止と対イギリス商人への厳しい制裁に関する意見書を、嘉慶帝へ上奏する。あわせて、翌 1817年12月、広州府城下に流れる珠江上の小島に、砲台基地の建造をスタートする。この時に着手されたものが、大黄窖砲台(別称:東歪砲台。今の広東省広州市荔湾区)と、 大虎山砲台(今の広州市南沙区にある大虎島)の 2か所であった。翌年 1月には、それぞれ大虎山砲台と蕉門砲台(今の広東省広州市南沙区蕉門村。虎門砲台陣地群の一角。珠江の西岸)への兵 200人増派を、朝廷へ建議する。さらに翌 2月には『預防英夷事略』を密かに朝廷へ提出し、英国人が暴利をむさぼることだけを考えており、さまざまな謀略(大砲での威嚇外交も含めて)を使って、ひたすら合法的に上陸地の拡大や交易交渉を図ろうとし、倭寇のように勝手に上陸して不法行為を働くのでははなく、取締りが困難で非常にタチが悪い、と指摘する。より厳格なルール整備を朝廷へ建議したが、嘉慶帝はこの意見に賛同せず、「英国人側が規則を守っている限り、特に清朝側から対処の必要なし」という、つれない回答に終わっている。

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1819年4月、珠江河口エリアでの水害対策として、桑園(今の 仏山市 南海区や順徳区の沿岸部)の低湿地エリアに、石堤の建造工事をスタートする。また翌 1820年には、広州にすでにあった羊城書院、越華書院、粤秀書院、応元書院の四大書院に加え、新たに学海堂書院を開校させて(上絵図右)、地元エリートのための教育門戸を広げる。
1821年、阮元は粤海関監督(税関局長)をも兼務し、アヘンを持ち込む外国船に対し、自ら厳しく対処する一方、同年 1821年~1826年の間、自腹で銀 4,000両を供出し、上記の学海堂書院の創立費(広州府城 内の北端にある越秀山【粤秀山】の麓。上絵図右)に充当させつつ、商売をはじめて、その利益を学校の運営費に回していくのだった。同時に、部下の官吏らにも寄付を募り、『皇清経解(清経解、学海堂経解)』1,400巻を出版して、その経費に充当させている。こうして完成した学海堂書院は、1824年に第一期生を募集し、1825年から授業をスタートして以降、広州における実証学の最高研究機関として君臨することとなり、多くの優秀な人材を輩出していく。
1826年に雲貴総督へ転任すると、汚職官吏らを罷免にしたり、塩税管理を強化する一方で、農民らに荒れ地を開墾させ、異民族や少数民族らの侵攻に備えさせた。

こうして、乾隆帝、嘉慶帝、道光帝の三皇帝に仕えつつ、軍事から政治、学問振興に幅広く関わってきた実績を評価され、 1835年、王都・北京 へ帰還後、体仁閣大学士(清代、皇帝直属の最高級秘書官である三殿、三閣の末席。上位から、保和殿、文華殿、武英殿、文渊閣、東閣、体仁閣があった。下組織図参照)に任じられ、中央省庁の刑部部と兵部などを統括することとなる。 1838年に老齢のため中央朝廷の職を辞し、揚州へ帰郷したい旨を上奏すると、道光帝はこれを許可し、太子太保銜(皇太子の家庭教師担当官トップに相当。実際には、名誉称号だけ)の爵位を下賜され、その給与半分の支給も受け続ける、という厚遇を得たのだった。 1849年、揚州府城 の南東端・康山(今の 江蘇省揚州市 広陵区にある康山文化園一帯)にあった邸宅で死去する。86歳での大往生であった。

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7、海賊王・蔡牽の 第一回 台湾上陸作戦(1800年春)

蔡牽グループと台湾との接触は、かなり早い時期にあった。
まだまだ小規模な海賊グループだった 1797年春、蔡牽グループは台湾島北部の沙淪(下地図。今の 台湾新北市淡水)に上陸し、周辺の集落を荒らし回ったという。

1799年、閩浙総督の高佳 書麟(?~1801年。満州族出身。大学士の高晋の子。 1787年から両江総督に抜擢され、各地の反乱討伐で功績を挙げる。1799年1~10月の 10ヵ月間だけ閩浙総督に就き、同年10月に湖広総督へ異動する。この後任として同年10月、玉徳が閩浙総督へ昇格されてくることとなる)の書簡に、「1798年5月の間、蔡牽は清軍の厳しい包囲作戦が奏功し、グループの船団は台湾島へ逃走した」と言及されることとなる。この時、わずか一文のみに触れられている存在であったが、すでに蔡牽グループが台湾島にまで自由に航行し、活動範囲を広げていたことが読み取れる。その後、ますます勢力を拡張させる蔡牽グループの経緯は前述の通りで、当然、その配下の船団らが引き続き、頻繁に台湾海域にも出没していたことは容易に推察できる。

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次に清朝廷の書簡で言及されるのは 1800年初めで、蔡牽グループが 台南府城のおひざ元「鹿耳門(上地図)」に出現したので、清朝守備隊が安平鎮の前衛陣地まで撤退したという記述であった。この時、鹿耳門の海峡に停泊していた、清朝守備隊の偵察兵船や商船は、ことごとく海賊集団に奪われたという(第一回台湾島侵攻作戦)。

その次の登場は 1803年5月の記述で、「蔡牽の海賊グループは大小 30~40隻に分乗し、 5月13日に 鹿港(下地図)の洋上に姿を現し、守備部隊を誘い出すかのように悠然と偵察していた」という記録であった。この時、閩浙総督の玉徳へ偽の降伏を行い、一般商船団と同じ扱いとなっていたので、海賊グループは特に攻撃を加えることはなかったという。しかし、鹿港に接近した際、清朝守備隊から威嚇射撃を受けて退散している。
この時の台湾島での「回遊」行為が単に偵察活動なのか、示威活動だったのか、海賊グループの内部資料が一切、残されていないため、真なる理由を追究することは不可能であるが、翌年の第二回台湾上陸作戦を鑑みると、蔡牽グループはこうした偵察行為を通じ、攻擊目標の下調べを繰り返していた可能性が高い。

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8、海賊王・蔡牽の 第二回 台湾上陸作戦(1804年4月)

1年余りの雌伏期間を経て 1804年3月10日、再び海賊活動を復活させていた蔡牽グループに対し、浙江省水軍提督の李長庚が福建省東部の浮鷹島沖まで出向いて決戦を挑み、両軍入り乱れての大海戦が行われる。戦線を離脱した海賊グループは戦力消耗を避け、浙江省海域への再進出(当時、大商都・寧波港 には沖縄、日本などを往来する外国船や、中国各地からの商船が往来しており、海賊にとっても格好の狩り場であった)を諦めて、東の台湾島へ矛先を変えることとなる。

60隻余りにまで回復させた大船団を引き連れ、一部は 澎湖諸島(上地図)を攻撃して清朝水軍の注意を分散させながら、主力船団 42隻が再び 台湾島東部の港町・鹿港(上地図。鹿仔港)の沖合に出現する(4月15日)。そのまま数日も経ずして南進し、台南府城の玄関口「鹿耳門(上地図)」の沖合に停泊したのだった。

この海賊大船団の襲来を前に、台湾島の清朝守備軍は大いに動揺する。水軍配下には偵察用の小舟が数隻と、小規模な防衛施設しか配備されていなかったため、巨大戦艦を有する海賊船団を前に清朝の守備隊は全く無力であった。
鹿耳門(現在、鹿耳門古廟【鹿耳門媽祖廟、媽宮】が残る)と、 安平鎮(旧オランダ植民地軍のゼーランディア城跡地)の各防衛拠点(下絵図)からの報告を受けた、台南府城の台湾鎮総兵官(最高軍司令官)・愛新泰はすぐに水師副将游撃らに伝令を飛ばし緊急を伝えるとともに、自らも前線へ出撃しようとするも、府長官は府城自体の守備が手薄になって危険だと激怒し、先に十分な兵力を準備してから、城外への援軍を派遣するように指示する。とりあえず、先に守備の王維光に 120名の兵を率いらせて出発させ、北汕(下地図)の陣地に着陣させる。大嵐の中、清軍は三日間かけて、防衛用の木柵や大砲などを再整備し、海賊軍の上陸に備えたのだった。

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いよいよ天候が収まり、海賊軍の上陸作戦がスタートすると、北汕(上地図)の守将を司っていた遊擊・武克勤(1748~1804年。甘粛省武威市 出身。24歳で武挙に合格すると、山東省高唐州の守備として地方赴任をスタートし、その後、都司游撃に昇進して、台湾に赴任中であった)は、自ら見張り台に登って敵の襲来を確認しつつ、援軍に来ていた王維光に命じて大砲に弾薬を込めさせ、発射指示まで待機させる。海賊軍が岸辺に接近したタイミングで、3門の大砲を一斉発射すると、海賊船 4隻は瞬く間に撃沈されてしまうのだった。この反攻に驚いた海賊軍はいったん撤収するも、さらに断続的な攻撃を続け、1日に 3~4回、もしくは 1~2回と繰り返されたという。この数日間、不幸にも南東の風向きが続いたため、海賊船団はうまく上陸かなわず、無為に砲撃の的に終始してしまうのだった。清軍陣地では、昼夜交代で守備兵らを当直させ警戒態勢を続けることとなる。

そして 4月28日正午、海賊の大軍勢が再び襲来すると、いつも通り、武克勤は大砲を駆使して応戦するも、この時の海賊軍はあまりに大軍勢で、おおいに苦戦を強いられる。そんな中、すぐに巡海千総の翁荣桂を府城まで派遣し、救援要請を出す。しかし、夕刻まで続いた海賊との戦闘の最中、大雨が降り出し、海風が急に北西方向に変わると、大砲は湿気で稼働しなくなり、海風に乗じた海賊船団の上陸を許してしまうのだった。清軍の守備軍はいよいよ白兵戦に切り替えざるを得なくなり、海賊軍からの砲撃や弓矢が浴びせられるようになると、武克勤自身も二本の矢を受けて負傷する。最期を悟った武克勤は、王維光に北線陣地の死守を指示して、自らは見張り台から飛び降り陣外へと出撃し、海賊らを 10人余り打ち倒した後、多勢に無勢の中、討ち取られてしまうのだった(17もの刀傷を負ったという)。そのまま海賊軍は清朝の陣地内へなだれ込み、王維光も戦死してしまう。この時、清兵 14名も戦死し、その他、把総の劉煥、外委の陳培も負傷するなど、さんざんに打ち負かされて府城へ撤退するのだった。清軍基地を占領した海賊軍は、基地は焼き払い、砲台を破壊して、大小の鉄器 50余りを強奪する。

当時、北汕と南汕の清軍陣地(上地図)は、台南府城 下の内海への出入口を成す鹿耳門の両端に位置しており、清軍守備の要となっていたわけで、同日夕方に、敗走兵が府城に逃げ帰って北汕陥落の一報が伝えられると、城内は大いに動揺することとなる。すぐに台湾鎮総兵官の愛新泰は府城外の南半分の守備を固めるべく、大西門から沿岸部へ通じる街道沿いに各部隊を配置しながら、内海の対岸にあった 安平鎮の前衛基地 へ急行し、自ら着陣したのだった。

同時に台南府城内では、台湾県書院(県立の最高学府)の教師であった鄭兼才が、門下生の貢生(エリート学生)・林朝英や廩生徐、生員(準エリート学生)・張正位らを抜擢し、続々と結集する民兵らの指揮をさせ、官民共同で守備を固める。しかし、清軍には軍船が皆無で、海上に停泊中の海賊船団に打撃を加えることは不可能であった。

海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代!

4月30日夜、北汕の陣地を占領していた海賊団は、続いて 安平鎮(上地図)の清軍基地 に夜襲をしかける。すでに陣地に進駐していた台湾鎮総兵官・愛新泰の率いる守備隊が大砲で応戦し、両軍大混戦となる。いったん海へと引き上げた海賊軍は、5月2日、沿岸にあった商船を 1隻、焼き払うと、翌 5月3日、12人の海賊メンバーの決死隊が密かに小船に乗り込み、清朝守備隊の小型偵察船 3隻を焼き払い、2隻を強奪する戦果を挙げる。この時、府城西門から内海沿いの街道上には多くの官兵や民兵が布陣していたが、軍船を持ち合わせておらず、何の抵抗もできずに襲撃を見守るだけしかなかったという。商船の船主ら(三郊商人組合メンバー)は為す術もなく、強奪されるぐらいならと、それぞれ蔡牽グループの陣地に赴いて、商船の売却交渉を進めるのだった(この時の恨みが、翌年 12月の三郊商人組合による、 台南府城 籠城戦への積極関与につながるわけである)。

5月13日、東南風が吹くと、海賊船は鹿耳門から悠々と立ち去ることとなった。結局、この一連の戦いで、官軍は大小の鉄器 50(大砲、鉄砲など)あまり、大型商船 10隻余り、米数千石もの物資(台湾島から清朝廷へ納付される年貢米だった)を奪われて、一方的な大敗を喫したのだった。
これが、蔡牽グループの第二回台湾島侵攻作戦の全貌であるが、結果論から言うと、この時の攻撃は、台南府城 の海峡入口であった鹿耳門の守備防衛力を測る、偵察戦を兼ねるものとなったわけである。

海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代!

こうして 2週間にわたって略奪を欲しいままにした蔡牽グループは、当時、深刻な食糧不足に陥っていた、広東省東部の海賊団・朱濆(1749~1808年。上絵図)や、新興海賊勢力の周済らに食糧などを分与することで、さらに多くの仲間を糾合することに成功する(同年 5月末)。こうして巨大海賊グループの蔡牽と朱濆が共同戦線を敷くこととなり、合計 80隻余りもの大船団を組織して、活動範囲を浙江省から福建省、広東省沿海にまで拡張させたのだった。

当時、廈門 の金門島は、福建省水軍(本部は 福州)の南部方面の拠点基地で、多くの清朝水軍の兵船が往来していたこともあり、蔡牽グループと朱濆グループの海賊船団は、自然と廈門を境界線として双方のテリトリーが南北に棲み分けされていたわけだが(閩浙海域と閩広海域)、両者の連合グループが成立すると、お互いの船団の活動海域がさらに広がったわけである。これはつまり、蔡牽グループが自由に福建省の海域から広東省まで侵入できることとなり、浙江省水軍に追跡された場合、福建省を越えて広東省にまで逃げ込むことができる海域を手に入れたことを意味した。

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9、蔡牽&朱濆グループ 連合海賊団 vs 李長庚の率いる 浙江省&福建省 連合水軍

これに対し、浙江巡撫の阮元(1764~1849年)と、閩浙提督の瓜爾佳 玉徳(1737~1808年)は連名で朝廷に上奏し、行政区の区画を越えた横断的な海賊取締りの方策を建議する。

この時、両名は「浙江提督の李長庚は勇猛果敢な性格で、自身の命を顧みずに浙江省、福建省の水軍部隊を采配し、時に自らの私財を投じて巨大戦艦を建造させ、一家の家計を狂わせるほどに献身的な忠臣である。歴戦にわたる海賊取締りで挙げた数々の手柄は、いずれも賞賛に値するもので、多くの兵士らも死をいとわず、彼に付き従っている。その生い立ちも一兵卒から身を起こし、数々の命の危険をおかして戦役を乗り越えた苦労人で、 1803年1月には福建省沖で海賊船団を撃破し、蔡牽の海賊船団との間で、火器や瓦、石などを雨のごとく降りそそぐ中の死闘を演じ、自身も体に多くの傷を負いながらも、一歩も引かずに前線に立ち続けたばかりであった。こうした驚異的な存在感から、海賊らの間では”千万の官兵でも恐れるに足らないが、李長庚だけは別物だ” として恐れられており、水軍を率いた諸将の中でも突出した英傑である」と推薦したのだった。

この建議通り、浙江水軍提督の李長庚が浙江省&福建省連合水軍総督に指名されると、直属(提督府本部は、今の浙江省寧波市鎮海区にあった、鎮海古城内に開設されていた)の水軍部隊 20隻、(浙江)温州鎮 総兵官の胡振声の 20隻、(福建)海壇鎮総兵官の孫大剛(1809年の蔡牽グループ滅亡まで、海壇鎮水軍を率いた)の 20隻を編成して左翼、右翼部隊とし、合計 60隻の地域横断的な水軍部隊が結成される(下地図)。こうして、これまでの縦割り制度から脱却し、海賊討伐を一元管理する体制が構築され、かつ海賊連合軍に匹敵する船数を確保して、海賊団と対峙していくこととなった。なお、この直前の 4月17日、福建省水軍提督の倪定得(上海市 崇明区出身。地方武官として出世し、 1800年に馮建功の後継として台湾水師協副将となり、台湾水軍を指揮した。その後に、 廈門 に赴任し、福建省水軍を統括していた)が、病気を理由に退任しており、しばらくの間、同職の空席が決定される。

李長庚が連合水軍総督に任命されると、福建省、浙江省下の多くの武官、文官らが賛辞を贈ったという。
この就任を阮元から直接、通知された際、「私はあなたが総督に昇格したことに賛辞を贈らないが、朝廷が優秀な大将軍を持ったことはうれしく思う。貴殿以外に他に誰が候補者足り得ようか」と声をかけられると、李長庚は謙遜しつつ、「官職が高くなるにつれ、責任も重くなり、人のねたみや嫌味も増えるもので、この先どうなるか想像すらできません」と答えたという。李長庚は総督拝命後、すぐに下部組織となった各地の水軍部隊に命を発し、昼夜の訓練を徹底させ、常に兵糧や兵器の手入れを進めて 24時間体制での出動準備を整えつつ、一方で、管轄区内の海域の情報収集活動を強化させたのだった。

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こうして双方ともにパワーアップした清朝の連合水軍と、蔡牽&朱濆の連合海賊団であったが、先にその威力を発揮したは、後者の方であった。

同年 6月5日、海賊船団は自身の根城があった浮鷹島(今の 福建省寧徳市 霞浦県)周辺で、 温州鎮 総兵官(最高軍総司令官)の胡振声の率いる温州水軍と遭遇する。上地図。
胡振声は数日前に結成された浙江省、福建省連合水軍の左翼担当で、すぐに他の水軍基地へ救援要請を発しつつ、自らは風下にあるにもかかわらず、果敢に海賊船団に突撃を敢行したのだった。この時、胡振声の率いた 26隻の軍船は、海賊連合軍 80隻余りによって完全に包囲されて集中砲火を浴び、うち 24隻が沈没するという一方的な大敗を喫してまう。被弾した軍総司令官の胡振声も、戦死する。

「総兵官(地方の軍司令官)を討ち取った」という武名は中国全土を駆け巡り、蔡牽と朱濆の連合海賊団の名声を最大化させるも、この大敗で面目をつぶされた清朝の第七代皇帝・仁宗(嘉慶帝)は激怒し、「総兵官を戦死させた、この海賊集団の罪は絶対に許してはならない」との厳命が下される。浙江省水軍提督の李長庚はこの一報を耳にして、地団駄を踏んで悔しがったという。
この時、浙江、福建水軍総督として李長庚が両提督職を兼務していたが、福建省水軍部隊は、李長庚と反目しあっていた閩浙提督・玉徳の裏の命により(温州鎮は浙江省最南端に位置し、南に隣接する福建省水軍との連携が不可欠であった)、李長庚に非協力的であったとも言われる。両省の水軍部隊を思うように采配できない李長庚であったが、戦死した胡振声の後継として李景会を温州総兵官へ昇格させ、ますます連合水軍部隊の監督を強化していく。こうして一時的に大勝した蔡牽グループであったが、結果的に李長庚の反骨精神に油を注ぐことになり、自らをさらに緊迫した情勢に追い込むこととなった。


 胡振声(?~1804年)
福建省厦門市 同安区懐徳社出身。
父の胡貴(?~1760年)は、1753年に広東提督となり、1757年に福建省水軍提督、同年 6月に浙江提督に、翌 1758年に広東提督に再任された後、任期中の 1760年に病没していた。 30年余りにわたって朝廷に仕え、多くの盗賊や海賊らを討伐した功績を称えられて、国葬が執り行われるほどの功臣であった。

そんな偉大な父の影響力により、胡振声は最初、 厦門提標(各省提督の直轄部隊長の一人)へ配属されると、1785年には澎湖把総(陸軍軍監に相当。官職は最下級の正七品。配下 440人の兵を有した)となり、澎湖副将に随行して現地に赴き、兵士の訓練や水連などを指揮するようになる。
間もなく 1階級昇進して千総となり、水師提標に昇格されて守備の責任者となる。 台湾で林爽文の乱が勃発すると、水軍部隊を引き連れて出撃し、主要な反乱軍リーダーであった陳来らを逮捕する手柄を挙げる。その功績により海壇鎮守備へ昇進し、続いて閩安水師協左営都司(今の 福建省福州市 馬尾区閩安古鎮)、玉環営参将(今の 浙江省台州市 玉環県の中心部)、広東龍門副将(今の 広東省恵州市 龍門県)へと出世していく。
しかし、広東省の内陸部である龍門県への転籍直前、浙江巡撫の阮元は胡振声が浙江省や福建省沿岸の地形に熟知していたキャリアを惜しみ、この赴任を停止させ、浙江省に留め置いて、温州鎮 総兵官に就任させる。その期待に応えるべく、胡振声は海賊討伐に積極的に絡み、数々の戦歴を積み重ねていくも、決定的な勝利を得られずにいた。
1804年には、浙江省水軍提督の李長庚と共に、蔡牽海賊団の台湾島に襲撃への援軍に出撃する。その後も、李長庚の指揮下で海賊らに備える中、同年 6月、提督と巡撫の協議により、浙江省と福建省との海域分断は非効率ということで、水軍提督の李長庚を総統として、温州鎮と海壇鎮をそれぞれ左翼軍と右翼軍とし、それぞれ各 20隻を当てて、地域横断的な連合水軍が結成される。

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この直後、胡振声は蔡牽海賊団が北へ航行中という情報を入手すると、福建省側の海壇鎮総兵官・孫大剛、閩安協・蔡安国、澎湖協・張世熊らに援軍要請を出しつつ、自らも水軍部隊を率いて浮鷹島(今の 福建省寧徳市 霞浦県)沖へ急行する。あわせても 20隻たらずの温州鎮水軍に対し、この時、蔡牽グループは 80隻近い船団で構成され、しかも、台湾商人から奪ったばかりの巨大商船も複数、含まれていた。
6月5日、数的、戦力的に圧倒的不利な上、強い北風に向かっての進軍となり、部下の戦意は著しく低かったが、胡振声は自ら水軍部隊の先頭に立って突進を命じる。把総の馮光昇が福建省水軍の到着を待つように進言するも、聞き入れずに攻撃を敢行したのだった。

蔡牽は温州鎮 水軍部隊が周囲に援軍の無い中、自陣深くに攻め込んだ様子を見てとり、新しく傘下に入った梁山帮の小船 20隻余りを背後に回らせて、四方を完全に取り囲んでしまう。それでも胡振声は多勢に無勢の中、船首に立って自軍を指揮し、自らも賊軍を数名、切り倒すも、顔面を狙撃されて重傷を負ってしまう。蔡牽は胡振声と同郷だったため、鶏の皮の裹に薬をつけて傷の手当を試みるも、胡振声はこれを頑なに拒否して、そのまま死を選んだという。この日、戦死した温州鎮水軍は胡振声の他に、把総の馮光昇、兵丁の葛錦高らを含む、 82名にも上ったという。
戦役の中で殉死した胡振声の死を痛く悲しんだ清朝廷は、提督レベルの国葬を執り行い、武壮の贈り名を送って、昭忠祠に合祀したのだった。あわせて、騎都尉の称号が下賜され、子孫への継承も保証される。同じく、生前からの雲騎尉の爵位も一族への継承が保証されることとなった。




10、蔡牽&朱濆グループ 連合海賊団の崩壊

しかし、蔡&朱グループの連合関係は、ごく短期間で終結することとなる。

浮鷹島(下地図)沖の海戦で、蔡牽&朱濆の連合海賊団に大敗してしまった清朝連合水軍は、この復讐戦に燃え、連合水軍総督・李長庚自らは本軍を率いて、蔡牽の連合海賊団を探し求めて金門島(今の 福建省厦門市 近郊)沖まで南下し、決戦を挑むこととなる。(浙江省)温州鎮水軍を左翼、(福建省)海壇鎮水軍を右翼部隊として総動員し、見事に連合海賊船団を撃破したのだった。同時に黄岩鎮、定海鎮(下地図)、台湾鎮などの沿岸各守備隊にも港湾部分の守備を強化させ、敗走する海賊船団を効果的に追撃し、一勝一敗に持ち込む。

ますます対立を深める両連合艦隊は、同年8月、浙江省北部の馬蹟山(今の 浙江省舟山諸島 の北側。下地図)沖で、再び大海戦を迎える。
清朝連合水軍は、李長庚自ら率いる主力艦隊を中心に、各地の水軍拠点から軍船を結集させて迎え撃つ。当時、清朝水軍は李長庚の指示の下、24時間体制で戦闘準備を整えていたため、即座に対応できたのだった。連合水軍は二手に分かれて、蔡牽グループ、朱墳グループへそれぞれ攻撃をしかけ、双方を分断する作戦に出る(これは、浙江巡撫の阮元による、離間の計の一環だったとされる)。提督自らは蔡牽の本隊を急襲し、両軍死闘の末、最終的に清朝連合水軍の勝利が決定的となるのだった。清朝水軍に包囲されかけた海賊船団は、這う這うの体で突破口を開け逃走していく。

このとき、巨大戦艦に乗り込んでいた蔡牽は先に逃げてしまい、朱濆グループの船団のみが戦場に取り残される展開となり、置き去りにされ散々な目に遭った朱濆は大激怒し、海賊連合を解消してしまうのだった。こうして離間の計が見事に的中し、再び広東省東部の海域へのアクセスが断たれた蔡牽グループは、自力で清軍と対峙せざるを得なくなり、兵力と食料、資金に余裕がある間に新拠点の確立を目論み、東にある台湾島への本格的な上陸、占領作戦に本腰を入れていくこととなる。

海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代!


 朱濆(1749~1808年)
今の 福建省漳州市雲霄県 火田鎮岳坑村、出身。海賊王・蔡牽と同様に、祖先は明朝末期に清軍によって行われた 揚州大虐殺(1645年5月) から逃げ延びた客家の出であった。懸賞金「銀 2,000両」の蔡牽に対し、朱濆には銀 1,000両が賭けられていた(当時の一般庶民家庭 年収の 500年分に相当)。

彼の父親(長男に朱濆、次男に朱渥がいた)は地元で造船業&海運業を営んでおり、裕福な家庭であったという。朱濆自身も若い時分から、父親と一緒に海上へ出て活動し、部下からも自然と次なる後継者と目されるようになっていた。しかし当時、清朝廷は海禁政策を採用していたことから、海にまつわる取引先はほとんどが無法者たちで、自然と朱濆の人脈も粗悪な輩が多くなり、地元での評判も良くなかったという。
1772年、朱濆が 23歳のとき、父から主力の造船業&海運業を継承すると、それまでの人脈を生かし、海上交易業へとさらに家業を伸張させていく。この時、中小の船運業者や漁師、船大工らを傘下に組み入れ、さらに広東省エリアからも無頼の者、自営の漁民や船舵手らも雇い入れていく。こうして、犯罪に手を染めた者、台湾への密航を図る漁師らが、続々と集結することとなった。地元の人々から「粵盜」と通称されるようになり、その評判がますます悪化する中で、役所へ海禁政策違反を密告されると、朱濆はすぐに妻や子供を連れて海上へ亡命する。そのまま商船に大砲を積んで武装化し、本格的に海賊団を結成していくこととなった。こうして、傘下に 3,000~4,000人規模の無法者たちを従えた朱濆は、今の 漳州市雲霄県 を根城として数十隻の船団を擁し、 福建省廈門広東省汕頭市南澳島 一帯を縄張りに海賊活動を展開したのだった。巨大化した朱濆グループは、当然のごとく清朝の注目を集め、「江洋大盜」と称されて懸賞金付きのお尋ね者として追われるようになる。この頃には、朱濆自身も「海南王」と名乗っていたという。

1780年に一度、ピンチを迎える。南澳島沖の海上で清朝水軍の集中攻撃を受け、数倍もある軍船に取り囲まれる中、岩礁の間を何とかすり抜けて、追いすがる清朝の水軍部隊を振り切って逃走に成功する。それ以降も広東省東部の海を牛耳るも、ベトナム海賊団が跋扈するようになると、これと協力関係を築くこととなった。1799年末にベトナム海賊団が壊滅すると、その残党勢力の数十隻を傘下に加えて勢力を伸張させるも、度重なる清朝水軍との抗争で徐々に追い詰められていく。1803年5月、浙江省から福建省沿岸の海を荒らし回っていた大海賊・蔡牽と連合を組むこととなり、勢力挽回を図る。連携した両者は、大陸 ー 台湾海峽間の交易、海運事業を牛耳り、特に海禁政策下での海峡間人員輸送ビジネスを共同経営するようになる。しかし、同年 8月に蔡牽グループとの連携が破綻すると、再び自力で広東省東部での勢力回復を図っていくのだった。

1805年11月~1806年2月にかけての台湾侵攻作戦の失敗以降、蔡牽グループが弱体化する中、逆に清朝水軍の取締りが強化される。同年 9月、何とか汀州鎮(今の 福建省龍岩市 長汀県)総兵官・李應貴を、大膽島(福建省厦門市 中心部南の海上)沖で戦死させるなど気勢を挙げるも、清朝水軍により徐々に追い詰められていき、1807年に至ると、自身の根城を 広東省汕頭市澄海区 の方へ移転しようと図る。しかし、ちょうど間が悪く、福建省の外海で清朝水軍と遭遇し、戦闘に発展してしまう。当初は、清軍に投降を願い出るも、前年に李應貴を討たれていた清朝水軍はこれを受理せず、敵討ちとばかりに攻撃を加えてきたのだった。なんとか逃走に成功するも、同年、一年前の台湾島侵攻作戦が忘れられない海賊王・蔡牽と再度、連合を組んで体制を立て直すきっかけを得る。連合海賊団は間もなく清朝水軍によって撃破され、再び連合解消に追い込まれると、朱濆は起死回生を図り、自ら広東省の船団を引き連れて台湾島へと移動し、同じ 1807年10月、鹿港 沖に到着すると、北上して 淡水 に至り(この時、末尾のエピソード④が発生する)、そのまま東隣の 雞籠港(今の基隆市)に停泊したのだった。

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しかし、当時、南澳鎮 総兵官に就任し、朱濆グループの宿敵となっていた王得禄(1770~1842年)も台湾島へ救援に駆け付けてくると、すぐに雞籠港の朱濆一味を急襲する。朱濆の船団は大慌てで逃走し、東の 噶瑪蘭 地区にまで落ち延びる。朱濆はこのエリアの地元リーダーらと協力して、蘇澳港(上地図)の周辺を開墾し、自身の根城にしようと図る。

だが、この朱濆の噶瑪蘭支配計画は清軍に密告され、楊廷理(当時の台湾府長官。1747~1813年)と王得禄は、朱濆海賊団への急襲を計画する。
この時、蘭陽平野の中心集落であった五圍村(現在の宜蘭市の旧市街地)の村長・陳奠邦は、台湾府長官の楊廷理から依頼を受け、海賊軍排除で協力することを約束し、海賊軍を油断させて地元に留め置く作戦に出る。そのまま秘密裏に海より迫った清軍であったが、朱濆は事前に海底に杭を打って障害物を構築しており、清朝水軍部隊が接岸できずにいたところ、海賊軍に気づかれて急襲作戦は失敗に終わる。
このまま数日が過ぎる中、朱濆は清朝水軍に恐れおののき、地元有力者の潘賢文に泣きついて、台湾府長官の楊廷理への投降取次ぎを依頼する。しかし、楊廷理はさらに高額な報酬を提示して潘賢文を内通させており、そのまま時間稼ぎに協力させるのだった。そうとも知らない朱濆は、ひたすら待たされた挙句、陸路から忍び寄ってきた王得禄と林永福(泉州 出身移民らを束ねた民兵リーダー)の一団による夜襲攻撃を受け、潰走する。朱濆は闇夜にまぎれて東へ逃れ、なんとか対岸の北方澳(上地図)に暫定的な拠点を構築する。ここでも再び、楊廷理に対して投降を願い出る親書を提出するのだった。
その返事を待っている間に、駐屯中の北方澳の陣地内で疫病が流行るようになり、朱濆が最も溺愛した妹の朱寶珠も感染して死去してしまう。彼は妹の死を悼み、多くの貴重な品々を埋葬してここに墓を作る。いよいよ北方澳の地を離脱することを決した朱濆は、わずか 16隻の小船に分乗して台湾島を脱出することとなる。

翌 1808年4月、勢力を回復させた朱濆の海賊船団は、再び 台湾島北部の淡水 に出現するも、金門鎮水軍部隊を引き連れて来援した許松年(1767~1827年)によって撃退され、 さらに追撃を受けて朱濆自身も戦傷を追ってしまう。同年 10月には 香港 エリアに隠棲していたところを許松年に急襲され、さらなる深手を負ってしまい、翌 1809年1月に死去するのだった。

海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代!


 楊廷理(1747年—1813年) 
広西省柳州府馬平県(今の柳州市) 出身。
1777年、30歳の時に科挙に合格すると、以後、福建省下の歸化県、寧化県、侯官県などで長官職を歴任する。1786年8月、台湾海防同知に着任するも、直後の 同年 11月に林爽文の反乱が勃発する(1786~87年)。この時、楊廷理は地元有力者らと共に民兵を集めて、台南府城 に立てこもり籠城戦を戦い抜いた。その後、政治手腕を買われて台湾道兼提督学政、按察使銜(分巡台湾兵備道)となるも、 1795年に政争に巻き込まれて讒言により罷免されると、翌 1796年には伊犁(新疆ウイグル自治区イリ・カザフ自治州)へ流される。刑期を終えて 王都・北京 に戻ると、1806年9月、台湾府長官に任命され、再び台湾の地に赴任する。この台湾島への赴任前、嘉慶帝に謁見し、噶瑪蘭地区(下地図)の開拓を精力的に進める旨の抱負を述べたこともあり、現地に着任後、自ら五度も現地入りして土地測量や住民の生活実態調査などを進めることとなる。
この噶瑪蘭の地元との早い段階からの接触が、上述の朱濆グループによる噶瑪蘭占領作戦を阻止する、大きな下地となるのだった。朱濆排除後も府長官職を継続しつつ、1810年から本格的に噶瑪蘭開発をスタートさせる。 1812年9月には自ら噶瑪蘭通判を務め、噶瑪蘭庁(役所機関。下地図)を開設することとなる。こうして台湾島東部開発に尽力し、そのまま台湾島で死去する(1813年9月29日)。その功績は地元民から大いに感謝されて開蘭名宦と称えられ、各地に楊公祠が建立されており、今も複数がそのまま現存する。また、著書として『知還書屋詩鈔』、『東瀛紀事(林爽文の反乱時の籠城戦回想録)』、『議開噶瑪蘭節略』なども残している。
上写真『楊廷理望島』は、出身地・柳州市に残る楊廷理の墓前に設置された石碑。人生を噶瑪蘭開発に捧げた功績を称えられ、噶瑪蘭市民から寄贈されたものという。




11、海賊王・蔡牽の 第三回 台湾上陸作戦(1804年11月~1805年2月)

1804年11月24日、蔡牽は配下の全船団 50隻余りを引き連れ、 台湾北部の淡水&滬尾沿岸(台湾北部最大の港町。下地図)に出現する。第三回台湾侵攻作戦の開始である。

1000人余りの海賊団が滬尾から上陸し、新莊まで侵入してくると(下地図)、この時、現地守備を司っていた中営都司の盧植(山西省朔州市 出身。 1784年に武挙に合格すると、1787年に福建汀州鎮標左営守備へ配属される。1791年に台湾北路協右営守備を経て、1803年から鎮標中営都司へ出世していた。この戦役後に北路協副将へ昇格される)が奮戦するも、砲擊を受けて負傷してしまう。なんとか 台南府城 への救援要請が通じ、早くも 12月3日、浙江省水軍提督・李長庚が淡水沖に到着し海賊船団を包囲すると、慌てふためいた海賊らはすぐに船に飛び戻って逃走する。この時、数十人もの海賊らが海に落ちて溺死したという。

何とか南方向へ逃走し、12月15日には台湾島の 鹿仔港(下地図)の外洋に至った蔡牽グループであったが、引き潮のタイミングで港に接近することができず、いったん海上に停泊する。 12月17日にはそのまま 台南府城の玄関口「鹿耳門(下地図)」まで至り、内海への侵入を開始する。守将の廖国統が兵船を率い、鹿耳門沿岸の防備を固めるも、巨大戦艦を有する蔡牽グループによって突破されてしまう。

このまま翌 1805年1月15日まで、内海と外海の間で一進一退の攻防戦が繰り返される中、蔡牽の海賊船団は鹿耳門~北汕に至る海上に、まるまる 1ヵ月以上も停泊を余儀なくされる。この間、蔡牽は蔡九、謝基、呉平らを台湾島へ派遣し、台湾民衆らの内応者をたきつけて反乱を勧誘して回ったが、いずれも台湾島の清兵に通報されて捕縛されてしまい、民衆扇動は失敗するのだった。

海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代!

1月16日、蔡牽集団はついに 鹿耳門 を離脱して北へ移動する。しかし、猴樹港(上地図。今の嘉義県東石港。清代末期に、泉州府晋江県東石出身の移民が多く住んだことから、東石港へ改名されることとなる)附近の外海を航行中、嵐に遭遇し、20隻余りの船舶が転覆して、配下の千余りのメンバーが溺死する大損害を被ってしまう。こうして、蔡牽グループはわずかに 30隻のみを残すだけとなった。
いったん台湾島から離れて澎湖諸島へ向かい、虎井嶼の小島(上地図)への上陸を試みるも、澎湖水軍副将となっていた王得禄(1770~1842年)の率いる守備隊が、大量の大砲で応戦したため、擊退されてしまう。
1月21日、蔡牽グループは再び鹿耳門に引き返し、外海に停泊する。この時、蔡牽は台南府城の内通者からの情報により、清朝水軍が接近してくるとの情報を得たため、海賊船団はさらに南へ逃避し、岐後(旗後)地方の東港(上地図。今の 台湾高雄市 旗津区)に停泊することとなる。

台湾鎮総兵官(最高軍事司令官)の愛新泰と、台湾府長官代理の慶保(満州族出身。1801年に按察使分巡台湾兵備道として台湾島へ派遣され、翌 1802年に代理長官へ昇進し、当時の台湾統治の最高責任者であった)は 台南府城 から大軍を率いて出陣し、東港一帯の海賊船団を奇襲する。この攻撃で海賊団は大打撃を受け、杉板船 4隻が撃沈、200名余りが溺死し、リーダー蔡牽の妻・呂氏(「紅衣賊目」として通称されていた)までもが負傷してしまうのだった。台湾南部での上陸を図っていた蔡牽グループは、仕方なく、鹿耳門へ引き返すこととなる。

閩浙総督の玉徳の命により、金門鎮総兵官の許松年(1767~1827年)が援軍として台湾島へ渡海してくると、1月26日に 鹿仔港(上地図)に到着する。蔡牽集団は清軍来援の一報を聞くと、すぐに再び南進して 打狗港(上地図)へ逃走するも、その途上、またまた暴風雨に遭遇し、甚大な損失を被ってしまうのだった。
2月5日、なんとか蔡牽グループは東港に上陸し、港町を襲撃するも、警戒していた官兵と民兵らによって再び擊退されてしまう。
2月9日、金門鎮総兵・許松年の率いる水軍部隊が、小琉球島(台湾島南の小島。上地図)沖合いで蔡牽船団と交戦するも、後続の援軍(閩安鎮巡検司協副将・邱良功の部隊)が来ず、多勢に無勢の中、海賊グループによって兵船 2隻を奪われ、また 1隻が焼き払われるという大敗を喫してしまう(この不手際により、戦役後、邱良功は罷免・逮捕される。後に潔白が証明されて復職)。これまで連戦連敗だった海賊団は、なんとか全滅の危機から脱することができたのだった。最終的に 2月26日、蔡牽グループは 鹿港(鹿仔港。上地図)沿岸に集結後、そのまま台湾島を離れ、大陸中国側に撤退することになる。

海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代!

この 3か月(1804年11月~1805年2月)にも及ぶ、第三回台湾侵攻作戦はこれで終結するわけだが、この時の活動範囲は、台湾島北部から西部、南部に至る重要港(淡水・滬尾港鹿港、猴樹港、澎湖鹿耳門打狗港、旗後の東港)と、小琉球(台湾島の南の小島)などの沿岸にまで及んでおり、台湾島を一周巡る規模となっていた。この間、海賊メンバーらを島内に潜入させ、諜報・調略活動を活発に行い、内通者らを募っていた ことが新たな特徴であった。これまでの一過性の略奪行為を超える内容で、長期占領を見据えた計画的なものだったと言える。

しかし、これまでの 2回における台湾襲撃での連戦連勝の記憶から、蔡牽グループは台湾の防衛能力を過小評価しており、完全に事前準備を怠った作戦に終始してしまい、場当たり的な行動ばかりであった。あわせて、台湾島周辺の海域に見られる荒々しい気象や海流についての知識不足もあり、ひたすら傘下の勢力を削りながらの滞留となってしまう。危うく自らの自滅を招く、危険な旅路となってしまったわけである。
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いったん福建省側へ戻った海賊船団は、すぐに船舶の修復と新たなメンバー募集により勢力復活を図りつつ、先の台湾襲撃の教訓と現地に築いたネットワークの深化を図るべく、再び、3月21日に北部の淡水地方を襲撃する。この時、淡水・滬尾港(下地図)の商船を数隻、強奪するのみで、撤退する。4月初めにも再来すると、淡水の地元有力者 4人を味方につけることに成功し、以後、これらの商船を優遇して、ますます内部分裂を図る戦略に出る。あわせて、島内の各集落(淡水、鳳山嘉義、及び大小慷榔、鹹水港、蕭壟、北埔諸莊など)の有力者、他に山賊や原住民らとのネットワークをさらに広げ、台湾島にその橋頭堡を築いていく。この時、台湾島内の協力者らは、この海賊との連携が自らの死滅を早めるとは露とも考えず、多くが呼応することとなった。彼らは 20年前に勃発した林爽文(1756~1788年)の乱 を知る者も多かったはずで、今回は外部勢力の海賊グループと共闘すれば、清朝の台湾圧制を覆すことができるかもしれない、と期待したのかもしれない。

そのまま 4月を通じ、蔡牽グループは 台湾北部・竹塹(新竹城。当時、淡水庁役所が開設されていた。下地図)から、鹿港(別名:鹿仔港。下地図)の沿岸部を席巻する。これら一連の上陸作戦の途上、配下の 5~6隻の船が上陸しては一部のメンバーが山中や各集落に侵入し、内通者や反乱分子らと接触を図っていたと考えられる。また海賊船団を分散し、7~8隻で 福建省厦門 沖の小島・獅嶼(今の 福建省泉州市 金門県)を襲撃したり、さらに 40隻余りの船団で 澎湖諸島の媽宮港(下地図。澎湖庁役所が開設されていた)を襲撃するなど(最終的に 5月14日、清方の守備隊により撃退される)、多方面に分散して軍事行動を展開し、清朝水軍を翻弄していた。

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6月4日、再び、蔡牽の大船団は 淡水・滬尾港(上地図)に集結する。
そのまま南下し 澎湖諸島(上地図)へ向かうも(6月8日)、途中から南進して 鹿耳門(上地図)へ移動する。この時、浙江水軍提督・李長庚自らが主力船団を率いて、本拠地・鎮海 を出航し澎湖諸島に進駐しつつ、台湾方面を警戒しているという一報が入ったため、急いで大陸側へ移動し、本拠地・水澳(今の 福建省寧徳市 霞浦県にある半島部分)に帰還したのだった(上地図 ↑)。このように清朝水軍の動静を的確に把握できたのも、すでに蔡牽グループの情報ネットワークが、台湾、福建省、澎湖諸島一帯の住民や漁民らにかなり浸透していたことを意味していた。

12、海賊王・蔡牽の 第四回 台湾上陸作戦(1805年11月~1806年2月)① 北部戦線

その後、台風シーズンの海峡移動を避け、福建省沿岸で力を温存しつつ、メンバーの新規募集と軍備増強に注力し、半年後の同年秋ごろには 100隻余りの大船団を回復することとなる。
これらの全船団を引き連れ、いよいよ台湾島占領を目指して出航した蔡牽グループは、1805年11月13日、 台湾北部最大の港町である淡水港(滬尾港。下地図)に出現し、翌 14日、小船 30~40隻に配下のメンバー 2,000人余りが分乗して、一斉上陸を開始する。蔡牽グループによる、第四回台湾侵攻作戦のスタートである。

これに呼応した山賊・洪老四らもすぐに武装蜂起すると、多くの地元勢力が集結し、現地反乱軍は瞬く間に数千人規模に膨れ上がる。同年 4月から台湾島北部へ度々、上陸する中で、洪老四を始めとする地元の山賊頭目や無法集団らに接触し、何度も資金援助を行って、台湾内の失業者や無粋の者をかき集める準備を進めさせていた成果であった。

ますます勢いづく蔡牽グループの中に、にわか書生も参画しており、「天の時、地の利、人の和が成った」として、蔡牽に王を自称すべきと提案する。蔡牽もこれを快諾して「鎮海威武王」を称し、「光明」の元号を定めたのだった(反清を唱え、漢民族による明王朝の復興を示した)。

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海賊上陸部隊と山賊の連合軍は、瞬く間に 滬尾(上地図。今の台北県淡水鎮)、八里(上地図。今の新北市八里区)一帯を席巻し、淡水河沿いに新莊、新庄まで破竹の勢いで攻め登る。そのまま 11月16日、 台湾島北部の最大都市・艋舺(上地図。今の台北市龍山区)に至る。

当時、艋舺の港町には清兵 298名が配属されており、急遽、徴収されていた民兵らも加勢するも、多勢に無勢の中、銃撃された淡水営(本部は、竹塹と呼ばれた新竹城 に開設)都司の陳廷梅(今の 福建省厦門市 同安区出身。行伍から出世し、台協中営守備として 10年あまり従事していた)や、千総の陳必升を含む、多くが戦死に追い込まれる。援軍にかけつけた淡水庁長官の胡応彪も刀傷を負ってしまい、戦線離脱を余儀なくされるのだった。
そのまま海賊集団は艋胛の港町に攻め入り、役所倉庫(武器庫、食糧庫)や都司開新庄県丞衙署の建物を焼き払ってしまう。これらをターゲットとしたことは、味方の各部隊への武器、食料の補給のためであり、また自軍の長期的な戦いを有利に進める目的があったことは疑いない。また、衙署とは地方官吏の役所施設を指し、この焼き討ちとは地方の旧秩序破壊を意味していた。反清革命を暗示する行動だったと言える。

なお、この時、すでに台湾各地の官軍へ救援要請が発せられており、北路協副将の盧植(前年の 1803年に鎮標中営都司へ昇格後、直後にあった蔡牽海賊団の上陸作戦で負傷する。この時の功績がもとで 1804年、台湾北半分の最高軍司令官である台湾北路協副将へ昇格されていた)も、本部・彰化県城(上地図)から夜を徹して艋舺へ救援に駆け付けるも、現地反乱軍の大軍勢を前に、再び砲撃を受けて負傷してしまう(翌年、この傷がもとで偵察任務中に死去する。この後任として、1808年になってようやく、モンゴル出身の什格が赴任されてくる)。

この一連の初戦で、艋胛、新庄、桃園(桃仔園)の三集落(淡水庁下の水運拠点の港町)の占領に成功したわけであるが、蔡牽グループも海賊部隊をかなり割いていたはずで、これと山賊反乱軍が共同で暴れ回ったと考えられる。その後、16日夜に蔡牽グループの主要部隊は淡水港に引き上げ、ここから南へ出航することとなる。これら一連の行動は実にすばやく、蔡牽グループは台湾島の地形に相当に熟知していたことが伺い知れる。

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以降の北部戦線は、山賊リーダー洪老四に委ねられると、さらに街道沿いを南進し(上地図)、現在の新竹市一帯へ攻め込むも、淡水庁本部が開設されていた 竹塹城(淡水庁城。下絵図)では、城内の官民が一体となって土壁を補強し、徹底した籠城戦を展開したため、最後まで攻め落とせず、3か月もの間、にらみ合いが続くこととなる。この時、地元の郷賢(村長クラス)であった鄭崇和が、自ら義勇兵を集めて指揮し、多いに活躍した記録が残されている。

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13、海賊王・蔡牽の 第四回 台湾上陸作戦 ② 南部戦線

他方、11月17日になってようやく 台南府城 に海賊襲来の報が届くと、台湾全土に対し、厳戒体制が発令される。
翌 11月18日夜、台湾府長官・馬夔陛(山東省出身。1802~1805年に長官だった慶保の後継として、台湾府長官に就任したばかりだった。その前の 3年間は福建省・興化府長官を司っていた。反乱鎮定後の翌 1806年、楊廷理が同職を継承する)と、台湾鎮総兵官(台湾の最高総司令官)・愛新泰、および 彰化県 出身の金殿安(北路協副將の前任者)らが 300名の援軍部隊を引き連れ、台湾北部へ出発する(いったん 鹿港 に至り、ここで蔡牽自らが率いる海賊中路軍の上陸部隊と遭遇することになる)。
同時に、台南府城でも守備体制の準備が進められ、 台湾鎮標左営游擊の吉凌阿、都司の許律斌(漳州市詔安県 出身。行伍からスタートし、1807年9月から北路中営都司委署へ、 1809年11月には南路下淡水営都司へ昇進し、1810年10月に病気のため離職して隠居する。これまでの数々の軍功を称えられ、朝廷からクジャク羽冠”花翎”を下賜されることとなる)に府城守備が委ねられた。あわせて、偵察船 8隻を 鹿耳門 の入り口に配置し、海賊船団の動きを警戒させるとともに、游擊の盧慶長と千総の王賛に 安平鎮の陣地 守備を担当させたのだった。

対する蔡牽は、さらに清方の守備部隊を 攪乱、分散させるべく、海賊団を 3隊に分け、その大部分を即刻、 海路から南進させることとなる。その行動は実に素早く、11月14日の淡水上陸の翌 15日には先に南路軍を出航させ、蔡牽自らの中路軍も翌 16日に出発している。これは半年にも及ぶ事前工作により、北部戦線の戦力に十分な目途がついていた証左でもあった。

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陳棒らをリーダーとする南路方面軍の船団は、鳳山県 出身の李中を先導役として、一路、台湾島の南部(東港及び旂後港【旗後】)を目指す。一年前に失敗した、鳳山新城とその城下の港町(今の鳳山市)を急襲するためであった。上絵図。
すでに同年 2月18日に始まる折衝により、鳳山県下の山賊・呉淮泗とも連携が確約されており、この陸上反乱軍と合流する算段であった。

こうして「海賊反乱軍、接近」の一報を受けた鳳山新城(今の高雄市鳳山区。 1786年の林爽文の反乱で戦火に巻き込まれた左営旧城 から、県役所が移転されたばかりであった)では、当時、わずか 500名足らずの守備兵しか駐屯しておらず、城内外は大いに動揺する。

鳳山県城の城壁は、台湾島内の他の県城と同様に、竹やイバラを植林しただけの簡素なもので、石積み城壁を有していなかった。 鳳山県長官の呉兆麟は、前年の 1804年に海賊団の襲撃を受けたことから、 6つの城門を再整備して強化に務めたばかりであったが(現在、そのうちの 1城門が現存する)、四方は開けた平野で籠城に適さないと判断し、千総の王正華と共に北門外に 野外陣地を築き、防衛戦を展開することとした。この北門は、台南府城 へと通じる街道上にあり(下地図)、鳳山県の生命線でもあったわけである。もともと原住民や山賊らが多く跋扈した鳳山県下では、こうした守備スタイルが一般的となっていたようで、守備隊らの行動も素早いものであった。

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一方、鳳山県城 からも救援要請を受けた、台南府城 の城番・慶保(1802~1805年まで台湾府長官を務めた前任者で、この時、分巡台湾兵備道の職にあった。この役職は、福建巡撫と同列の按察使の直轄で、台湾府長官より上位であった)は、南北からの反乱軍出現に慌てふためく部下らをなだめて、「台湾各地の官軍や民兵に応援要請を出したので、間もなく民兵団が続々と集結してくるはず」と鼓舞する。援軍 300を引き連れて台湾北部へ進軍中だった台湾鎮総兵の愛新泰に急報を告げると、愛新泰はすぐに府城に帰還し、自ら援軍 200(官兵&民兵の混成部隊)を率いて鳳山県城へ出発しようとするも、鹿耳門 に海賊船団が出現すると、自身の出陣を取りやめ、代わりに 21日、署把総の会日瑞、署城守営左右軍守備の陳名声、王正華らに援軍 200名を付けて派遣したのだった。
なお、清軍はこの時、すでに常備軍以外に、民兵の協力にも依存するようになっていた。南北からの緊急要請に対応した現段階で、台湾駐在の常備軍では到底、数的に不足してしまっていたのである。この兵力不足の情况もまた、台湾島内での戦線拡大を容易にしてしまう原因を生み出していたのだった。総司令官の愛新泰が救援部隊を率いて北へ南へと無駄な往復を重ねて、時間と労力を浪費している間に、蔡牽の海賊反乱軍に隙をつかれ、台湾争乱を拡大させてしまったわけである。

しかし、台南府城からの援軍到着前の 23日、北門外の陣地や 鳳山県新城 が陥落してしまい、港町の多くが灰燼に帰すこととなる。この時、署都司の涂鍾璽、黃雲台らが奮戦するも、いずれも戦死に追い込まれる。台防同知・錢澍(?~1809年。浙江省出身。反乱平定後の 1806年、離任した馬夔陛に継いで台湾府長官となっていた高叔祥が、1809年に離職したため、台防同知と兼務する形で府長官職をも兼務するも、数か月後に病没することとなる)と、鳳山県長官の呉兆麟は、何とか北門外の陣地から脱出し、郊外に避難する。
その直後に、台南府城 から陳名声の援軍が到着する。陳名声は、郊外の呉兆麟らと合流し、反転攻勢して港町の再奪取を図るべく、下淡水渓(下絵図。現在の高屏渓。台湾南部を流れる河川で、台湾島では 2番目に長い)に移動して野営し、海賊反乱軍とにらみ合うこととなる。

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錢澍と呉兆麟はなんとか兵力を再結集させると、鳳山県新城 の再奪還を目指して攻勢に打って出る。両軍激闘の中で、反乱軍 120~130名を戦死させ、反乱軍棟梁の一人、李添賜を捕縛する戦果を挙げるも、さらに反乱軍を追擊中、手痛い反撃に遭ってしまう。台防同知の錢澍が暗闇の中を行軍中、磚仔窯莊(大寮郷義和村)付近の溪墘にて、地中に埋められた火薬を爆破されてしまい、全身に大やけどを負わされるのだった。そのまま待ち伏せしていた反乱軍の急襲を受けた官軍は、把総の呉高や鳳山県長官の呉兆麟も負傷するという、大敗を喫っしてしまう。大惨敗した官軍は粵莊まで撤退し、野営して兵を立て直すこととなる。さらに、この戦乱の最中、県印を喪失してしまう失態をしでかしたのだった。

こうして、鳳山県城(下絵図)の奪還作戦は失敗し、台南府城との街道も封鎖されてしまうと、以後、80日余りの間、鳳山県城は海賊反乱軍によって占領される。しかし、城内にあった火薬庫施設のみは、守将の藍玉芳の部隊が一環して死守したため、反乱軍は足を踏み入れることができなかったのである(福建省汀州府長汀県出身であった藍玉芳は、この功績により、 1807年8月~1808年まで鎮標左営游撃へ昇格される)。つまり、南路反乱軍は、いまだに鳳山県下を全面占領していたわけではなかった。あくまでも県城や街道、いくつかの集落など主要部分を封鎖、支配しただけで、広大な南部地方には引き続き、清軍の残留兵や民兵らが放置されたままであった。この間、粤庄に駐屯中の清軍は義勇兵 6,000人余りを集めるなど、反乱軍の空白地帯には清軍が公然と活動しており、まさに官軍と反乱軍が混在する戦場だったわけである。

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南路軍はそのまま主要な港町(東港や烏石など)も容易に攻略し、リーダー呉淮泗は一部の反乱部隊を南部に残して、大部分の兵力と共に台湾府城へ北上することとなる。この途上、たまたま府城から派遣されてきた、追加の援軍部隊 300人余りと楠梓坑で遭遇する(11月29日)。これは、分巡台湾兵備道・慶保の判断により、民兵をメインとする増援部隊で、台湾鎮標左営游擊の吉凌阿が率いていた。清軍は多勢に無勢の中、何とか計略を用いて府城まで無事に撤退することに成功する。

間もなく、南路軍は 台南府城 下に到達し、蔡牽の本隊と合流を果たす。この時、先に府城下に到達していた蔡牽本隊は、頭目の一人・陳棒に、南路軍用の駐屯陣地を桶盤棧(下絵図)に整備させ、待ち構えさせていた。

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14、海賊王・蔡牽の 第四回 台湾上陸作戦 ③ 中部戦線(鹿港攻防戦)

台湾島の南北で戦火が広がる中、台南府城 内では厳戒態勢をとりつつも、南北各地へ救援部隊を派遣してしまったため、わずかに 330名の守備兵を残すのみとなっていた。過度な兵力分散で清軍が翻弄される中、その隙をついて、11月24日、蔡牽自らの率いる主力船団が 滬尾 から鹿耳門へ南進してくる(蔡牽の四回目の鹿耳門侵入)。この中路軍のターゲットは、台湾府城のみに絞られていた。

この時、一年前の第二回上陸作戦時(1804年4月)と同じく、遊擊・武克勤の水軍部隊が守備に就く中、廖国の率いる水軍が台南府城から 鹿耳門 の入り口を防衛すべく待機していた。つまり、この時も台湾水軍はいっさい外海へ討って出ずにいたため、蔡牽の海賊船隊は全く無抵抗で、空き巣同然となった鹿耳門まで至ったわけである。

ただし、中路軍はこの前日の11月23日、先に 鹿港 を襲撃していた。
南進してくる北路軍を側面支援する意味でも、この港町の占領を図ったわけであるが、ちょうど台南府城から北へ救援に出向いていた台湾鎮総兵官・愛新泰らが先に到着しており、これと遭遇してしまう。杉板敷の小船に分乗して上陸を図ろうとした海賊軍団であったが、清軍らの激しい砲撃に晒され、40~50名の死者を出して撃退されてしまうのだった。この鹿港の上陸作戦では何らの軍事的戦果も挙げられなかったが、清朝守備隊の注意を鹿港に惹きつける効果を発揮し、台湾各地での攪乱作戦の一環となったわけである。

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なお、この 鹿港 は台湾三大港町の一角で、大陸中国と最短距離に位置し、交易ゲート的存在であった。南の 鹿耳門、北の 淡水港(八里坌)と並ぶ重要港湾都市で(上地図)、いずれにも役所と清軍部隊(巡検)が配置されていた。あわせて、台湾南北を貫通する街道が集落を通っており、陸路交通上の要衝でもあった。蔡牽が前年の 1804年4月に台湾島を襲撃した際にも、まずこの鹿港に出現し、ここから南下して鹿耳門に至っている。
しかし、鹿港は歴史的に見ても、台湾島上陸作戦の最適地というわけでもなかった。鹿港は台南府城との距離が比較的遠く、府城の奇襲には限界があり、また、20年前の林爽文の乱 に際し、清朝援軍はこの鹿港から順次、上陸しており、もし蔡牽の船団がここから上陸した場合、清朝水軍の援軍に囲まれて、退路を断たれる恐れがあったわけである。

上陸作戦が失敗し手痛いダメージを受けた蔡牽海賊団は、すぐに船団をまとめて南下を継続し、翌 24日には鹿耳門に到達する。こうして、台湾北部での清朝守備隊との交戦、および街道封鎖は、陸路を進む洪四老の北路軍に委ねられることとなった。

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ちなみに、この鹿港戦役に関する遺跡は、今日にも残されているという。
蔡牽の海賊船団が鹿港の王宮港口(王功)に出現すると、 地元名士らも官兵に協力し、民兵を率いて防衛戦に参加する。 その名士の一人に、郭欣という人物がいた。戦後になり、 朝廷は郭欣に七品の爵位を下賜すると同時に、台灣巡道の慶保も 直筆の匾額「仗義可風(”正義と忠義一徹”の意)」を授与することとなる。この栄誉の匾額が現在、 郭氏の末裔が多く住む、彰化県埔鹽郷瓦磘村に現存する。

15、海賊王・蔡牽の 第四回 台湾上陸作戦 ④ 続・北部戦線

洪四老は蔡牽の期待に応え、行く先々で反乱軍メンバーを糾合しながら、 彰化県、嘉義県内を荒らし回って南進を急いでいた。
この時、清軍が守りを固める 竹塹城(新竹城。淡水庁が入居)彰化県城(上地図)、鹿港(上地図)、嘉義県城 の攻略には失敗するも、その他の集落地を襲撃して回り、台湾府城に通じる街道沿いをメインに占拠しつつ、南下作戦を進めていく。南部の山賊反乱軍と比べ、圧倒的な数を有した北路軍であったが、結局、清軍拠点陣地はほとんど攻略することなく放置していたようである。

しかし、街道上にあった嘉義県下の蕭壟(今の台南市佳里区六安里)、鉄線橋(今の台南市新営区鉄線橋)、大里溪(今の台中市一帯の河川沿い)には、2,000~3,000人単位の人員を割いて集中攻略しており、特に塩水港(今の台南市塩水区。当時、嘉義県の最南端に位置する内海港で、台湾府城からも近接距離にあった)の攻略戦では、1万もの人員を投入する力の入れようであった。県城などに籠城する清軍殲滅よりも、街道沿いの拠点制圧を優先し、 台南府城の孤立化を最終目標としていたわけである。こうして、実に 1か月もの間、台湾島南北の交信寸断を成功させるのだった。

南進を急いだ北路軍は、彰化県下の集落よりも、さらに南の府城に近い嘉義県一帯を集中的に襲撃していたという点も、 台南府城 攻撃を優先していた作戦が読み取れる。実際、北路軍の主力が台南府城下に到達し、蔡牽グループの本隊と合流して府城攻撃を繰り返していた当時、北路軍の別動隊は嘉義県から北の彰化県一帯にも繰り出して攻撃を加えるようになっていた。時間差が生じていたわけである。

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この時、彰化県城 に援軍と共に駐屯していた台湾府長官・馬夔陛は、その報告書の中で「沿海部に上陸していた反乱軍が(1806年)1月9日に、斗六門(今の雲林県斗六市)を攻撃してくる。署興化協副将の什格、南路営参将の英林、北路協副将の金殿安(山東省出身。 1805年、前任の海隆阿に代わって着任していた。台湾北半分の最高軍司令官。戦役後、盧植が後任となる)、 前淡水同知の胡応魁らが民兵をかき集めて応戦し、西庄尾で反乱軍一千数百人と遭遇すると、混戦の中で多くの反乱軍を討ち取り、 また騎馬に乗っていた棟梁格一名と、その副将格四名を捕縛することに成功した。反乱軍の残党は西螺(今の雲林県西螺鎮)、東螺(今の彰化県東螺地区)一帯へ退散し、態勢を整えて、この彰化県城を攻めとろうと協議していた」と言及している。ここに記述されている斗六門、西庄尾、東螺、西螺は当時、彰化県下の集落であり、つまり、台南府城の包囲戦の最中にも、彰化県城一帯では反乱軍が攻勢をかけていた実態が伝わってくる。

しかし特筆すべきは、嘉義県、彰化県の県長官らは自由に城外へ出て、反乱軍の動向を直接、偵察できていた、という事実であった。つまり、山賊反乱軍は直接的に両県城を包囲していたわけでなかった。また、山賊らは度々、県城攻撃のうわさを市中に流すことで、県城内へ守備部隊を集中させる戦術を常用しており、実際に本格的な攻城戦があったか否かは不明である。この噂を信じた官軍や民兵らのほとんどが県城に集結する一方、手薄となった各地の集落や山間部は無法地帯と化し、大慷榔、小慷榔、鹹水港、蕭壟、北埔諸莊などの山賊や原住民らも呼応して決起すると、彰化県下の南海豊布嶼、深耕、二林、東螺、西螺などの集落を襲撃し、住民から容赦なく金銀を強奪していったという。こうして一時期、北路軍は、県城をのぞく大部分の土地の占拠に成功するのだった。
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一方、県城側は官兵、民兵を集めて、徹底抗戦に備えていた。
特に 嘉義県城 では、県長官の陳起鯤(生没年不詳。江西省撫州市 崇仁県出身。1786年に科挙合格。 1803年、翟灝の後継として嘉義県長官に着任していた)が、嘉義県書院(県立の最高学府)の教授・謝金鑾に善後策を相談し、20年前の林爽文(1756~1788年)の反乱時 と同様、官民で力をあわせて都市の防衛設備の強化を図り(木柵、外堀など整備)、十分な武器を備えて専守防衛に徹して時間稼ぎすることが決定される。こうして陳起鯤は、謝金鑾と共に嘉義県城の四城門を視察して回り、各所の守備補強を指示していく(上絵図)。
昼夜三日にわたって準備が進められる一方、台南府城 から派遣されてきた軍監・瓜爾佳 武隆阿(?~1831年。満州族出身。白蓮教の乱を鎮圧した四川提督・瓜爾佳 七十五の子で、 1805年から 潮州鎮 総兵官の任にあったが、地元海賊リーダー李崇玉の討伐戦において、先に広東省総督・那彦成に投降していたにもかかわらず、自分の手柄にしようとしたことを咎められ、地方武官の二等侍衛に降格されて台湾島へ左遷されていた。この蔡牽の台湾侵攻戦後、台湾鎮総兵官の愛新泰が提督銜を授与されて引退すると、代わりに武隆阿が筆頭侍衛へ昇格され、台湾鎮総兵官を継承することとなる。1820年まで務めた後、直隷提督、江西巡撫、太子少保へと出世した)の来援もあり、3か月に及ぶ籠城戦を成功させることになる。

同様に、台南府城から援軍にかけつけ、彰化県城に駐屯していた台湾府長官の馬夔陛もまた、県下の各地が席巻される中、ひたすら県城の専守防衛に徹するだけであった。

なお、ここまでの戦役で明らかな通り、清朝の守備兵は数的に全く不足しており、地元の民兵団の協力がなければ成立し得ない、脆弱なものであった。これは、清朝廷が長らく台湾島の防衛に無関心で、十分な防衛施設や守備兵団を配置していなかった事実を露呈していた。また、庶民の情報ネットワークも反乱軍側に味方し、官軍の動向を逐一、漏れ伝えており、清朝廷の支配が浸透しきれていなかった事実をも暗に示すこととなった。こうして、海流や自然環境、地形の研究を含め、 入念に事前準備を行ってきた海賊グループの後手に追い込まれた清朝の守備部隊は、相互連携が不完全なまま押し込まれ続けたのだった。

海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代!

前述の清朝側の支配体制の弱点をつく形で、電撃攻撃をしかけた海賊反乱軍は、台南府城 を基点に広がる南北の街道を封鎖し、各守備隊を分断させ、最終ターゲットである台南府城を空き巣同然の危機にさらすことに成功する。
この時、蔡牽の海賊軍は主力の大部分を中路軍として引き連れていたが(周添秀、葉豹、陳棒、陳齊ら)、北路軍、南路軍のそれぞれの山賊反乱軍内にも一部が加わって、相互連携をうまく図っていたようである。 滬尾(淡水)に駐屯する部隊には李光と高貂が、淡水から 嘉義県 下に至る北半分のエリアを席巻した北路軍(リーダー洪四老)には、邱紅、邱恩、呉三池、馬美らが、そして 鳳山県城 へ攻め込んだ南路軍(リーダー呉淮泗)には、李添賜、許和尚、呉利萬らが派遣されていた。
こうして各地を転戦した北路軍、南路軍は、計画通りスムーズにうまく地元勢力や反乱分子の調略を進め、移動途上でますますメンバーを加増させながら、最終目的地の台南府城へと集結することになる。最終的に 台南府城 を包囲した反乱軍は、2万弱を数えたという。さらに、府城下の内海には海賊船 100隻あまりが結集していた。
ここまでは、万事計画通りであった。


 伊爾根覚羅 愛新泰(?~1807年)
満州族出身。皇帝直轄の特殊部隊・健鋭営(健鋭雲梯営)に所属した後、さまざまな戦地で功績を挙げ、1783年に一般兵に転籍して地方へと赴任し、江西遊撃補を皮切りに、同年中に四川建昌遊撃、1788年には浙江寧海営参将、1791年には 嘉興 協副将、1795年には延平協副将、 1798年には江蘇蘇松鎮総兵へと出世していく。1799年、哈当阿(?~1799年。満州族出身。1791年から台湾に着任していた)の後任として台湾鎮総兵に就任し、早速、台湾島内の小規模な反乱などを鎮圧して、統治手腕を発揮していく。
海賊王・蔡牽の台湾襲撃に際し、苦戦を強いられた際には、清朝廷内でも罷免が議論されるも、嘉慶帝の計らいで一年ほど様子を見られることとなる。最終的に 鳳山県城 を無事に奪還したことから、提督銜へ昇格される。あわせて、雲騎尉と騎都尉の爵位を下賜され、その世襲を保証される。蔡牽の台湾戦役後、鎮北部(淡水)総司令官へ転任し、主に滬尾の守備を総監督することとなる(後任として、瓜爾佳 武隆阿【?~1831年】が、台湾鎮総兵官を継承する)。その任務中、艋舺軍営 内にて病死すると、清朝廷により、国葬レベルの盛大な葬儀が執り行われたという。




16、海賊王・蔡牽の 第四回 台湾上陸作戦 ④ 続・中部戦線(鹿耳門海峡の 封鎖)

しかし、蔡牽の自ら率いる本隊は、11月24日に 鹿耳門 へ侵入した後も、すぐには 台南府城 に攻撃をしかけることはなかった。海賊船団はこの内海に数日間、停泊中、ただ船中から清朝軍を偵察するのみで出撃することはなかったという。南北の友軍が府城下に合流するタイミングを、ひたすら待つ作戦であったと推察される。
しかし、この当初からの作戦に固執した判断により、蔡牽の中路軍は最高の攻城チャンスを逸してしまうこととなるのだった。

3日後の 11月27日、台湾北部への救援のため府城を出払っていた台湾鎮総兵官の愛新泰が、蔡牽本隊の鹿耳門侵入の急報を聞きつけ、急いで帰城する(北への援軍に同行していた台湾府長官の馬夔陛に手勢の大部分を預けて、彰化県城 に詰めてもらうこととし、自身は府城へ戻ってきたのだった)。
それから 2日後の 11月29曰、台湾南部へ派兵されていた台湾鎮標左営遊擊の吉凌阿が、その道中に大軍勢の海賊反乱軍(南路軍)と遭遇して引き返してくると、愛新泰はすぐに千総の陳安、陳登高らを追加し、今度は台湾北部へ援軍に向かわせる。馬夔陛の籠る彰化県城や 嘉義県城 への後詰めと共に、各地で発生していた民衆反乱の鎮定と治安回復を図る目的であった。しかし、彼らも街道途中、南下してくる北路軍と遭遇し(12月1日)、大惨敗を喫して府城へ逃げ帰ってくることとなる。
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この愛新泰の府城帰還を聞き及んだ蔡牽本隊は、中国本土からの清朝援軍の到着をも警戒し、即座に 鹿耳門(上絵図の×印)に船を数隻沈め、海峡の封鎖を決行する(鍋を爆破し、船ごと沈没させたという)。当初、船を連結させて海峡を封鎖していたが、満潮時には隙間ができてしまうことから、船を数隻沈めて完全に封鎖することで、清朝水軍の大型船舶が一切、内海へ侵入してこないように図ったのだった。この大胆な作戦は、鹿耳門が有する地形と気候条件に密切に関係するもので、蔡牽とその甥の蔡添が協議して決めたものとされる。

当時、台南府城安平鎮 との間には、台江という内海が広がっていた。下絵図。
安平鎮の大員港を先頭に、北汕(北線尾)を北端ラインとし(現在の四草、媽祖宮エリア)、南汕へ向かって順番に、隙仔嶼(隙子港、鹿耳門)、一鯤身(安平鎮の陣地、旧オランダ要塞跡地)、二鯤身(大砲台)、三鯤身(漁光里)、四鯤身(鯤身)、五鯤身、六鯤身(喜樹)、七鯤身(湾裡)などの小島が、一本の天然の防波堤のように連なって構成されていた(下絵図)。それぞれの小島間の海峡は狭く、また水底はすべて砂州で、大船が通行するには非常に困難な地形となっていた。しかし、海風と潮の流れによりその様子は一転し、干潮のタイミングだと、小船ですらも竹竿を海底に差し込みながら進むほどに水深が浅くなったが、満潮時には巨大船舶も十分に航行できる水量を有したという。
この「満潮のタイミング」という不確定要素を取り除くため、蔡牽はやむを得ず、船を沈めて鹿耳門の海峡を完全に封鎖したわけである。当時、外海から内海(台江湾)へ入るには、複数の小島の並ぶ海峡部分を小船で通過するルートが残されていたが、唯一、巨大船舶が航行できた「鹿耳門」のみを、この力業で強制封鎖したのだった。これは逆に言えば、自軍の大型船の逃走口も完全に喪失させてしまうことを意味した。

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海峡の封鎖が完了すると、蔡牽本隊はすぐに上陸を開始し、清軍の軍事拠点があった洲仔尾(下地図。当時の地名は「隙仔寮」といった)を占領する(11月29日)。ここは当時、台南府城 の北門からはわずか 10kmの地点にあり、北へと続く街道が通過し、また港湾設備をも有する交通の要衝であった。ここを占領された清軍は北部側との交信ネットワークが遮断されることとなり、台南府城は本格的に孤立してしまう。
蔡牽は早速、この清軍陣地施設に大量の武器、食料などを陸揚げし、自らの本部陣地と定めると、北路軍との合流ポイントとする(12月1日)。ちょうどこの作業タイミングで、台湾北部へ援軍として派兵されていた、台湾鎮標左営遊擊の吉凌阿、千総の陳安、陳登高らの敗残兵が、この街道を迂回し府城に帰還してきたのだった。この事実から、12月1日時点では、未だ海賊軍は 府城の完全包囲を完遂し切れていなかったことが伺える。

蔡牽はこの本部陣地「洲仔尾」から、一週間前に名乗った鎮海威武王の名義で、各地で転戦する友軍や参加した地元反乱軍に軍旗を配り、また官職などを下賜するなど、政治的な活動を展開していくのだった。また同時に、頭目の一人だった陳棒を台南府城の南郊外へ派遣し、南路軍のための駐屯陣地を桶盤棧(下地図)に構築しつつ待機させている。

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これら陸上陣地の整備に加え、蔡牽は100隻の船団のうち、小型船 80~90隻余りを鹿耳門の海峡入口から、この洲仔尾の本部港までの海上に鎖で連結して、並べ置いたのだった。これは、洲仔尾の本部が陸と海から挟撃されることを防ぐため、この台江という内海が有する地の利を生かし、内海全体を完全に支配する体制を整えたものであった。残りの 10~20隻あまりは、同海賊団が誇った巨大戦艦だったと推察される。

こうして 台南府城 の南北に攻城基地、および台江一面に船団部隊を配置すると、蔡牽の率いる海賊反乱軍は、陸と海から完全に府城を包囲することとなった。翌週に北路軍、南路軍が集結してくると、鹿耳門から府城下までの 15kmは、まさに万を数える人員と船で溢れ返る状態となるわけである。

なお、12月1日、南進してくる北路軍は、街道上の木柵(今の台南市新市区豊華村)にて、 11月29日に台南府城から派遣されていた援軍部隊(遊擊の吉凌阿、千総の陳安、陳登高らの官兵&民兵混成部隊)と遭遇し、圧倒的多数の兵力差で撃破する。この時、清軍に同行していた民兵リーダーの陳鳳を戦死させ、黃興を捕縛し、さらに千総の陳安にも戦傷を負わせて圧勝したのだった。
こうして清方の援軍を大破した北路軍は、そのまま順調に南進を続け、街道沿いの鉄線橋庄(別名:鉄線里。今の台南市新営区の南端)や蕭壠(今の台南市佳里区六安里六安)などの集落地を占領、封鎖しながら、洲仔尾にあったリーダー蔡牽の本隊と合流を果たすこととなった。この時、未だ 彰化県城嘉義県城 での攻防戦は継続中であったため、一部の部隊を残し、北路軍の主力が先に到着したわけである。

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17、海賊王・蔡牽の 第四回 台湾上陸作戦 ⑤ 続・中部戦線(安平鎮、台南府城の攻防戦)

12月5日、南路軍と北路軍が大合流すると、まず 安平鎮にある清軍陣地 を攻撃する。上絵図。
この拠点は、内海を隔てて 台南府城 の対岸正面に位置し、府城の咽喉元に相当するロケーションにあった。当時、このオランダ要塞跡地には砲台陣地と水軍拠点が設置されていたが、岸辺には偵察用の小船がわずかに 8隻停泊するのみで、まったく内海を守備できる体制にはなかった。しかし、陸上の防衛体制はひと通り機能し、反乱軍の攻撃をことごとく跳ね返すこととなる。

この日、最初に漁船を装いつつ柴や火薬を満載にした小船 10隻余りを接近させ、清朝水軍の偵察船や漁村の船などを焼き払ってしまい、 そのまま先発隊が上陸して、周辺の漁村を襲撃し、すべてに火をつけて回る。続いて、後続の部隊が大小の船 70~80隻に分乗し、安平の集落地へ上陸して攻撃を加え、 さらに南に連なる鯤鯓の小島群の集落地も制圧していったのだった。また外海からも、反乱軍の別動隊 700~800人が小島群に上陸し、両面から集落を挟撃したという。しかし、安平鎮の清軍陣地 自体は、游擊の盧慶長と千総の王賛が死守したため、蔡牽の反乱軍は結局、陥落させることができなかった。

その後、12月18日と 12月23日にも、外海、内海の両岸から上陸して攻撃を試みるも、ことごとく撃退されてしまう。この安平攻略の失敗は、後に海賊反乱軍にとって 大きな禍根を残すこととなり、1ヵ月後に清朝の援軍部隊が反攻を開始する際、 真っ先に解放されるのだった。戦後、ここを死守した台湾水師協標右営游擊の盧慶長(福建省寧徳市 霞浦県出身。1805年6月から游擊の職にあった)と千総の王賛は、朝廷からその戦功を称えられ、クジャク羽冠”花翎”(下絵図)を下賜されることとなる。

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第一回安平攻略戦が失敗した翌 12月6日、海賊反乱軍はそのまま、大本命の 台南府城 攻撃に取り掛かる。
しかし、海賊反乱軍が府城北門へ攻撃をしかると、遊擊の吉林阿が「まずは、この烏合の衆の出鼻をくじくことが肝要だ。そうすれば、すぐに敵は瓦解する」と部下を鼓舞し、自ら賊軍の中央に切り込み、別動隊で左右から挟撃させると、反乱軍は大破され、大いに気勢を削がれたという。
この時、大西門の守将であった林奎章(福建省厦門市 同安県出身。幼くして台湾へ移住し、台湾府下で科挙候補生となっていた。1796~1820年に役人として清朝に出仕し、1805年4月以降、台南府城に詰めて 3年ほど、蔡牽グループとの戦役を戦い抜き、六品の爵位を授与されることとなる)の部隊も協力し、北門の防衛戦を成功させたのだった。

海賊反乱軍は、続いて 12月9日に小東門を、12月19日には大南門を攻撃するも(下絵図)、単に多くの死傷者を出すだけに終始してしまう。このように、蔡牽の海賊反乱軍は各回、東南北の各城門を単発で集中攻撃するスタイルを繰り返すだけで、台湾府城方の火力が効果的に集中して応戦されてしまい、一方的に撃退される日々が続くこととなった。

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この時、海賊反乱軍は単なる無法者が寄せ集まった即席の集団であった。海賊軍メンバー自体は常日頃から火器を伴っての戦歴も豊富であったが、陸上で募った無法者たちは全く軍事訓練も施されておらず、また攻城兵器も持ち合わせていなかったため、単なる突進による肉弾戦に終始していたのだった。さらに、上述の戦闘経過からも明らかな通り、総勢 1万数千にものぼった海賊反乱軍ではあったが、その攻撃は散発的に各部隊が一つの城門を個別攻撃しただけに終始しており、厳密な意味で包囲作戦を展開できていなかったわけである。これは指揮系統がまとまっておらず、大小さまざまな賊軍リーダーがそれぞれに配下の部隊を率いる、烏合の衆で構成されていたことが背景にあった。

当時、籠城軍の官兵は 400人程度で、さらに台湾府城自身の城壁は石積みではなく、竹やイバラが植林されただけの簡素な構造で(上絵図)、決して籠城戦に向いているわけではなかったが、その周囲には平地が広がり、何らの遮断物もなかったことから、籠城軍の放つ砲弾はまともに蔡牽の海賊反乱軍に命中し、その損害を甚大にしていたという。また、西門に至っては、府城から直接、海岸へ通じる城門となっており、潮の満ち引きに応じて地形が変わるため、攻撃軍にとっては不確定要素の高いポイントで、かつ、西門は沿岸を守る意味でも、巨大な砲台が 2か所と物見台、城門楼閣などを有するフル装備が施されていたこともあり、結局、一度もターゲットにされることはなかった。
こうして、各城門の守備兵らが効果的に相互連携をとり、応戦できたわけである。

清代を通じ、台湾島の総動員兵力は官民合わせて 1万~1.5万人と考えられており、この時、その 2~4割近くが府城に籠城していたと推察される。城内外から民兵リーダー 250人が部下らを引き連れて集結していたといい、官兵のほとんどが台湾島各地への援軍で出払っていた分、籠城軍の主力は民兵が担っていたと考えられる。これら民兵は、台湾県長官の薛志亮(江蘇省無錫市 江陰市青陽鎮鄧陽村出身。1793に科挙に合格後、福建省下の松溪県、南靖県長官などを歴任し、1803年から程文炘に代わって、台湾府下の台湾県長官に着任していた。1817年に 鹿港 海防兼北路理番同知へ、1823年に 淡水 同知へ昇格されるも、任期中に過労のため死去する。1807年、嘉義県学教諭の謝金銮と、台湾県学教諭の鄭兼才の協力の下、台湾初の郷土資料『続修台湾県志』を編纂したことで、特に有名な人物である)と、台湾鎮総兵官の愛新泰らの指揮下に入って、海賊反乱軍に対峙したのだった。

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この民兵団の活躍は、蔡牽の海賊反乱軍にとっては全くの想定外であった。それまで順調に台湾全土を席巻したパターンとは、全く計算違いの事態を生み出していたのである。特に、海賊らの活動で大損害を被っていた台南府城下の三大商業組合(1720年ごろに組織化された商人グループで、三郊商人と通称された。主に 安平港 と台江の内海一帯の商業圏を牛耳っていた。北郊の初代リーダは蘇萬利、南郊の初代リーダーは金永順、糖郊の初代リーダーは李勝興が務めた。三郊をまとめる商業組合本部は、現在の台南市中西区にある三郊水仙宮に開設されていた)が積極的に関与しており、資金供給から民兵募集まで主導したという。
当時、三郊商業組合理事長を務めていた陳啟良は、さらに自ら多額の資金を供出して西門外に木造の出城陣地を建造したり、林長清は自らの商船を提供し偵察任務などで積極的に協力していたという。こうした大商人らの関与は、淡水 で協力した 4大商人とは全く対照的な反応となっていた。

これに対抗すべく、海賊反乱軍は 台南府城 に立てこもる守備軍の内部分裂を図り、陳啟良、郭援華、洪秀文、呉春貴ら主要商人や民間リーダーらに多額の報奨金をかけ、内部からの暗殺を謀っていたことが分かっている。こうして陰謀をもちいて城内の不安をあおって府城内部の住民らの内応を誘いつつ、城外からも散発的ながら、度々攻撃をしかけてプレッシャーをかけたのだった。南北の街道を抑えられ、鹿耳門の海峡には船を沈めてられて外海からの援軍が入港できない孤立無援の台南府城内では、大いに民意が揺れたと推察される。

18、海賊王・蔡牽の 第四回 台湾上陸作戦 ⑥ 清朝の 援軍、ついに到着!

しかし、蔡牽の率いる海賊反乱軍は、攻城に手間取ってしまった結果、清朝廷の援軍部隊を先に台湾島に到着させてしまうこととなる。

蔡牽グループが 台湾北部の淡水 を襲撃し、台湾島全土へと反乱が拡大している一報を受けると、閩浙提督の玉徳(1737~1808年)はすぐに、 浙江&福建省水軍総督の李長庚(1751~1807年)に水軍部隊 3,000名を引き連れて、 台湾島へ出航させる。 と同時に至急、王都・北京 へ急報を発する。

早速、清朝廷は 広東省・広州 から赫舍里 賽冲阿(?~1826年。満州族出身。隴西省・四川省方面の山賊退治で功績があり、広州将軍に任じられていた)と、四川省・成都 から伍弥特 徳楞泰(1749~1809年。モンゴル出身。同じく隴西省・四川省方面の山賊退治に功績があり、侍衛内大臣の爵位を下賜されていた。当時、成都将軍を司っていた)を、それぞれ福建省に派遣する。両将軍を正副の欽差大臣に任命し、台湾平定戦の指揮を委ねたのだった。
結局、この欽差大臣の両将軍が福建省水軍と共に台湾島へ到着するのは、浙江省水軍の李長庚の率いた 先発隊の 鳳山県城 奪還後となる。

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海賊反乱軍が 台南府城 を包囲して 1か月後の 12月24~25日にかけて、鹿耳門の外海に李長庚の率いる援軍船団が順次、到着する。しかし、海賊船団が先に海峡に沈めておいた障害物(上絵図の × 印)により海峡へ突入できず、外海で立往生してしまうのだった。
いったん清朝水軍は、李長庚の率いる浙江省水軍は北汕に、金門鎮総兵官・許松年の率いる福建省水軍は南汕に陣取り、蔡牽の船団を内海に完全に閉じ込めることとした。

外海に援軍到着の報を受け取った台湾鎮総兵官の愛新泰は、援軍部隊の上陸を催促するかのように、12月24日当日、自ら兵を率いて北城門から、また配下の将軍・吉凌阿も東城門から出撃し、蔡牽の海賊反乱軍と柴頭港(台南府城と洲仔尾の中間地点)で激突する。さらに翌々日の 26日にも再び、大北門から出撃し、郊外の馬房山(今の延平国中学校の立地する丘陵地帯。台南市北区公園路)へ、また大南門の郊外にある五妃廟山(魁斗山。今日の台南運動公園一帯)などで、連日のように海賊反乱軍と激闘を繰り広げる。こうして外海の援軍部隊の上陸チャンスを作るように奔走したのだった。

これに対し、蔡牽の海賊反乱軍も、清の援軍を 鹿耳門 の外海に足止めしている間に、12月25日、12月27日、攻城部隊をさらに増員して果敢に攻撃を加えるなど、次々と作戦を繰り出していく。さらに年が明けた 1月2日にも、台南府城の大南門めがけて大攻勢をしかけるも、またしても失敗に終わる。同月中、海賊反乱軍はさらに 5回、総攻撃を加えるも、悉く撃退されてしまい、一方的に損害を積み上げるだけに終始するのだった。これら一連の攻防戦で 30隻以上の小船を喪失し、1,000人余りの死傷者を出したという。

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対して、外海に釘付けにされた水軍提督・李長庚の率いる清朝水軍部隊の方でも、いよいよ突入作戦が決定される。現地調査により、南汕、北汕、大港門の小規模な海峡に関しては、小船で通過できることが確認されると、すぐに金門鎮総兵官の許松年(1767~1827年)を主将に、澎湖協副将の王得禄(1770~1842年)を副将として、先鋒隊(福建省水軍で構成)が組織される。
1月5日夜、彼ら先鋒隊が小船に分乗し、小さな海峡から内海へ突入すべく、邱良功(1761~1817年)が誘導部隊を請け負い、鹿耳門 海峡で海賊船団との間で衝突戦を引き落とす。この隙に、友軍の内海突入を無事に成功させるのだった。突入時、王得禄自らが小船の帆柱に登って安平港へ接近し、敵状を偵察した武勇伝が残されている。

内海に侵入した先鋒隊はすぐに大港口から上陸し、安平鎮の清軍拠点 を包囲していた海賊反乱軍の陣地群を火攻めで急襲する。この時、郊外に潜んでいた民兵らも清軍に呼応し、海賊反乱軍を襲撃したのだった。この一連の戦闘で、海賊軍は船舶 20隻余りを焼き打ちされ、さらに 9隻を奪われてしまうこととなる。
こうして内海へ入り込んだ許松年と王得禄の率いる先発隊は、海賊船に火を放って混乱させる一方、同日夜のうちに台南府城の北にある柴頭港(下地図。台南府城 と洲仔尾の中間地点)まで進撃し、この上陸ポイントの確保に成功する。 こうして、清軍は一夜のうちに、内海の両岸に拠点を確保したのだった。ここに至り、情勢が一気に逆転し、海賊反乱軍の旗色は明らかに悪化していく。

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19、海賊王・蔡牽の 第四回 台湾上陸作戦 ⑦ 海賊反乱軍、ついに潰走!

翌 1月6日、清朝援軍が目と鼻の先まで迫る中、焦った海賊反乱軍は 台南府城 の北門エリアを再び攻撃する。このとき、柴頭港にまで進駐していた先方隊副将・王得禄が、自ら兵を率いて救援に駆け付けるとの一報が伝わると、反乱軍らは王得禄の武名に恐れおののき、攻撃を止めて退却してしまう。この好機を逃さず、城内から籠城軍が討って出ると、 海賊反乱軍は一方的に大破されたという。
その後、両軍は小競り合いを続け、時間だけが過ぎていく中、先鋒隊主将を務めた許松年が槍傷を負って、一時、戦線を離脱することとなる。

そして 2月2日、再び戦況が動く。
この日は、福建省出身者にとって伝統的な土地神の生誕日に相当し、海賊一味らの多くは福徳神へのお参りなどを行っており、海賊反乱軍の陣内はもぬけの空となっていた。この好機を逃さず、清軍は一気に海賊反乱軍の本部陣地・洲仔尾めがけて攻め上がると、台南府城側の愛新泰も官民兵らを率いて出陣し、城内外から一気に洲仔尾を攻撃することとなる。こうして全く防衛の備えを怠っていた海賊軍の陣地網は、簡単に突破されてしまい、守備隊長だった周添壽や陳番らは、ことごとく敗走に追い込まれるのだった。

同時に鹿耳門の外海からは、李長庚がさらに別動隊を派遣し南汕の陣地へ突入させ、自軍の船に火をつけて海賊船団を焼き討ちにする。内外からの挟撃を受けた蔡牽ら海賊反乱軍は散り散りに逃げまどう中、海賊メンバーを中心にいったん北汕の陣地と湾内の船団上に立てこもることとなる。
この当時、李長庚が独自に発注し乗船していた巨大戦艦「霆船」は未だ外海にあり、内海に突入していた清朝水軍は小船ばかりで、巨大戦艦内に立てこもる海賊軍に太刀打ちできず、北汕の陣地は攻略が困難となっていた。

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こうして 2月2~3日の戦闘で、海賊反乱軍の最重要拠点であった洲仔尾の本部基地を占領した清軍は翌 2月4日、府城内の愛新泰がさらに南路軍が陣取る桶盤棧の基地を攻撃しようと出撃するも、南路軍は前日に洲仔尾の本部陣地が攻略されたことを知り、すでに陣地から逃走してもぬけの空となっていたのだった。

いったん北汕の陣地と船内に逃げこんでいた蔡牽も、30隻あまりの船団に分乗し、2月6日深夜、強風が吹いて海面が異様な満潮となったタイミングを見逃さず、沈めた船よりも海面が高くなった海峡を突破し、2月7日未明に鹿耳門の外海への逃走に成功する。

一方、清軍は残党狩りを行って府城一帯を平定した後、いよいよ 2月12日、愛新泰が軍勢を率いて南進し、80日余りに渡り海賊反乱軍に占領されていた、鳳山新城 の奪還に成功する(2月15日)。 この戦役後、鳳山新城は放棄され、鳳山県役所は旧城側へ再移転されることとなり、それまでの土壁が石積み城壁へと大改修されるのだった(あわせて、亀山を城内に取り込み、防衛力強化が図られることとなる)。下絵図。

海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代!

なお、北路軍が一部の守備兵を残していた 台湾島北部の淡水・滬尾艋舺 のエリアであるが、そもそも小部隊のみであったため、台南府城 の攻防戦が行われていた最中の 12月26日に、すでに北路淡水営都司の陳階陞(福建省興化府仙遊県出身。この戦役での功績により、1806年、クジャク羽冠を授与される)によって再奪取されてしまっていた。

さて、2月7日未明に台湾島の外海に逃れた蔡牽の船団は、南路軍の残存部隊も再結集させた後、 2月16日、17日、嘉義県 下の塩水港(下地図)を襲撃する。数千人もの海賊集団が上陸し、内陸の港町「塩水港」に雪崩込んで席巻するも、ちょうど大陸中国から大軍勢を引き連れて来援したばかりだった、福建省水軍提督・許文謨の率いる清軍が急行してきたため、予想外の新手の強敵出現で、海賊反乱軍はさんざんに打ち負かされることとなる。許文謨はさらに部隊を上陸させ、竹園尾、太史官庄一帯に展開していた反乱軍を一気に掃討してしまうのだった。こうして、4ヵ月もの間、全台湾を騒がせた海賊王・蔡牽の上陸作戦は、完全に終わりを告げる。

海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代!

その後、蔡牽グループはすぐに浙江省、福建省沿海、および台湾島で新たな人員を募集し、勢力の回復を図ると、同年 4~5月にかけて 2度ほど 鹿耳門 を攻撃し、さらに台湾島東部へ移動して 噶瑪蘭 地方を占領して大暴れする。しかし、清朝水軍部隊と台湾地元の民兵の活躍もあり、最終的にすべて失敗に終わるのだった。

20、海賊反乱軍の 討伐戦役に絡む、清朝の 戦後論功行賞

同年 5月、これら一連の戦役に関する論功行賞が清朝廷で行われると、1799年より台湾鎮総兵官の任にあった愛新泰は、反乱鎮圧の功を称えられて提督銜へ昇格され、雲騎尉の爵位の代々世襲も保証されることとなった。そのまま鎮北部(淡水)司令官へ異動され、主に 滬尾 の守備を総監督することとなる。代わりに、瓜爾佳 武隆阿(?~1831年)が台湾鎮総兵官へ昇格される。彼はこの戦役直前に左遷先として台湾に赴任していたが、軍監として嘉義県城の 籠城戦を指揮し、その戦功が評価されたのだった。武隆阿は 1809年まで当地で総兵官を務めた後、中央朝廷へ召還され帰京し、この後任として、台湾水軍協副将(台湾島の水軍最高総司令官)の林承昌が昇格されることとなる。

また、最初の 鹿耳門 突破戦で先鋒隊副将を務めた王得禄は、澎湖協副将から福寧鎮(今の 福建省寧徳市 霞浦県)総兵官へ昇進する。同じく、先鋒隊を率いた主将の許松年であったが、初戦時に槍傷を負い、早々に戦線を離脱してしまったため、特に昇進の恩恵を預かれなかったという。

他方、この戦役直前に台湾鎮副将に任官されたばかりだった邱良功(1761~1817年)は、そのまま台湾島に残留することとなり、新たに台湾鎮総兵官に着任した武隆阿と共に、混乱した台湾島内の治安維持を司っていく。同年 5月には、再び 鹿耳門 に侵入してきた蔡牽グループに対し、福寧鎮総兵官に就任したばかりだった王得禄の援軍も得て撃退に成功し、朝廷からクジャク羽冠”花翎”を下賜されることとなる。

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清朝廷から今回の台湾戦役の総司令官として正副欽差大臣に任命されていた、 広州 将軍の賽冲阿(上写真左)と 成都 将軍の徳楞泰(上写真右)は、福建水軍提督・許文謨(?~1824年。甘粛省ムスリム反乱、台湾島の林爽文の乱、ベトナム西山朝との戦役などで功績を挙げた、広西提督・許世亨の孫で、四川省出身。 1786年に武挙に合格後、湖北興国営参将、黄州協副将、四川建昌鎮総兵などを歴任し、徳楞泰の指揮下にあった四川省で、山賊討伐などに功績を挙げる。1805年5月に広東提督へ、同年 6月に福建水軍提督へ昇格していた)と共に、2月15日の 鳳山県城 の奪取後に台湾島に上陸しており、その後、軍を南北に分けて島内の鎮圧戦に向かわせていた。

わずかに残っていた残党らを駆逐した後、同年 7月、正副欽差大臣は福建水軍提督・許文謨と共に 福州 に帰還し、そのまま福州将軍に任じられて、しばらくは臨戦態勢を指揮することとなる。この時、水軍は李長庚(引き続き、浙江水軍提督を継続)に、陸軍は許文謨(1805年6月に福建水軍提督に着任後、翌 1806年8月に福建陸軍提督へ異動。1824年1月には浙江提督となり、同年 7月に死去する)を総責任者と定め、蔡牽グループの再起の芽を徹底的に摘み取っていくのだった。なお、許文謨は台湾島に福建水軍の半分(金門鎮総兵・許松年の部隊)を残留させており、海賊軍の襲来に備えさせていた。

この水軍部隊は、同年秋に蔡牽グループが 鹿耳門 に再来した際に威力を発揮し、海賊船 11隻を撃沈、11隻を焼き討ちにした上、頭目の一人だった林略らを捕縛する戦果を挙げることとなる。翌 1807年には、蔡牽グループ、朱濆グループの海賊軍団はほぼ壊滅状態となり、ようやく臨戦体制が解かれて、二人の正副欽差大臣はそれぞれの赴任地(広州と成都)へ帰任したのだった。



 王得禄(1770~1842年)下写真左
台湾島の諸羅県溝尾(今の 嘉義県 太保市)出身。清代の台湾出身者の中で、最も出世した人物として知られ、台湾で最も有名な英傑の一人である。最高位は、太子太保(もともとは、皇太子の身辺警護役主任を意味する爵位であるが、実質的には名誉称号だけとなっていた)。

1786年11月勃発の林爽文の乱に際し彰化県城鳳山県城 などが陥落し、 諸羅県城台南府城 のみが完全包囲の中で奮戦する。この諸羅県城の籠城戦に 17歳で民兵として参加したことから、彼の軍人生活がスタートする。当時、地元でも裕福な家庭で育ち、一族が私財を投じて義勇兵を募り、官兵を助けて大いに貢献したという。
翌 1787年春、福建省水軍提督の黄仕簡(1722~1789年。当初、鄭成功の南明軍に従軍するも、後に清朝に寝返り、世に名高い「遷海令」を朝廷に献策して鄭氏台湾を苦しめ、最終的に太子太保まで昇進した黄梧【1617~1673年】の、ひ孫にあたる人物。黄梧の一族は、後世にわたり、清朝廷内で優遇されて繁栄していた。黄仕簡自身も 福建省漳州市平和県 出身で、 1763~85年の長期にわたり提督職を務め、高齢と病気のため引退していたが、この戦役のため復職した)と、福建省陸軍提督の任承恩(?~1797年。山西省大同市 出身。 1764年に福建陸路提標游撃、参将、副将を歴任し、1784年3月に江南提督へ、同年4月に福建陸路提督に昇格していた。反乱平定で台湾へ急行するも、後から渡海してきた福建水軍提督の黄仕簡との手柄争いに起因し、「留守となった福建省側の治安を悪化させた職務怠慢」を朝廷へ通報されたため、免職&逮捕される。皇帝自らの計らいにより死罪を免れ、後に京師巡捕営参将へ復帰する)らが援軍として渡海してくると、 10カ月もの間、諸羅県城 の守備を司っていた台湾鎮総兵(台湾最高軍司令長官)の柴大紀(1729~1788年。福建省漳州 の出身。17歳のとき、父母と共に台湾島の 彰化県 へ移住し、1763年に武進士に合格すると、福建省福寧鎮提標左営守備、右営游撃、澎湖水軍営游撃、澎湖水軍営参将、南湖洞庭協副将、福建海壇鎮総兵などを歴任し、1783~88年の間、台湾鎮総兵を務めていた。最終的に反乱鎮圧の不手際を問われ、皇帝命令により処刑されることとなる)も城外に討って出て、諸羅県城を包囲する反乱軍の掃討に成功したのだった。
籠城戦後、王得禄はそのまま民兵を率いて清軍と共に南下し、 台南府城 の包囲網も撃破して、反乱の鎮定に大きく貢献する。さらに南部へ移動し、大坪頂(今の 高雄市 小港区)に立てこもった反乱軍一味もことごとく捕縛し、 拠点陣地を焼き払う手柄を挙げる。その後、反乱首謀者の一角・庄大田を捕縛する大功を挙げたことから、 戦後になって、乾隆帝からクジャク羽冠”花翎”と五品(職位)を下賜され、 地方武官職の末席である「千総」に任官されることとなる。
また、台南府城 と共に 最後まで籠城に成功した諸羅県は、その忠義を大いに称えられ、1787年に嘉義県へ改称される
千総となった王得禄はその後、主に海賊征伐で功績を積んでいく。 1796年には、海洋パトロール中に海賊の根城を発見すると、王得禄が先頭を切って上陸し、棟梁の呉興信らを捕縛する大功を挙げるなど、その勇猛さは抜きんでており、自ら勇敢と号したという。最終的に、金門(今の 福建省厦門市 付近)水軍基地の部隊長に抜擢される。
1802年、東濾沖(今の 浙江省温州市)にて浙江水軍提督・李長庚が蔡牽海賊団を攻撃すると、王得禄も参陣し、頭領の一人である徐業ら 100人余りを捕縛し、さらに崇武沖(今の 福建省泉州市 恵安県)まで追撃して呂送を捕縛し、戦功を重ねる。
1804年には、金門鎮総兵の羅仁太に随行して虎頭山(今の福建漳州市漳浦県の六鰲半島に築城されていた、六鰲古城 )沖で海賊船団と激突し、ここでも海賊船を多数、捕獲する手柄を挙げる。
1805年、蔡牽グループを 虎井嶼(台湾の澎湖諸島にある離島)沖で攻撃し、これを撃破すると、澎湖協副将に昇進する。
1805年9月、再び、蔡牽グループと水澳(今の 福建省寧徳市)で遭遇すると、その船団を焼き払い、リーダーの朱列ら 100人余りを捕縛する。
1805年11月より、蔡牽グループが台湾島に上陸し、府城を包囲すると、翌年 1月に浙江水軍提督・李長庚が援軍として駆け付ける。李長庚は、鹿耳門 を封鎖した海賊軍に対し、すぐに先鋒隊として許松年((1767~1827年。当時、金門鎮総司令官の任にあった)と王得禄を正副将軍に任命し、出撃を命じる。王得禄は自ら小舟に乗って 安平港 へ接近し、帆柱に登って敵状を偵察したという。同日夜、海賊船に火を放って混乱させ、そのまま対岸の柴頭港突入にも成功する。
翌日、焦った海賊グループは攻城戦の拠点基地・洲仔尾から 台南府城 の北門エリアを総攻撃する。この時、王得禄が自ら兵を率いて援軍に駆け付ける知らせが入ると、海賊たちは王得禄の武名に恐れおののき、攻撃を止めて退却してしまったという。この時、城内からも守備隊が討って出ると、海賊の包囲軍を徹底的に撃破し、余勢をかって海賊軍基地の洲仔尾まで攻め込み、その占領に成功してしまうのだった。 海賊反乱軍はちりじりに逃げ出し、台南府城の攻防戦は終結を見る。そのまま反乱軍の掃討戦を完了させると、同年 5月、この戦功により福寧鎮総兵(最高軍司令官)へ昇進する。
翌 1807年には、南澳鎮 司令官へ転籍する。同年 7月、朱濆の海賊グループを 雞籠港 で撃破し、海賊船 14隻を捕縛する。また、11月には再び朱濆グループを古雷半島(今の福建省漳州市漳浦県の南端)沖で撃破し、頭領の一人だった朱金を射殺し、張祈を捕縛する大功を挙げる。

それから間もなく、蔡牽グループとの海戦で浙江省水軍提督・李長庚が戦死すると、 1808年、王得禄が後任の浙江省水軍提督に、邱良功(1761~1817年)が 浙江定海鎮 総兵に抜擢される。
翌 1809年、王得禄が福建省水軍提督、邱良功が浙江水軍提督へ異動されると、いよいよ同年 8月に台州の漁山列島沖で、海賊王・蔡牽を戦死させることとなった。 14年もの間、海で暴れ回った海賊王・蔡牽を自滅に追い込んだ戦功は大きく、王得禄は二等の子爵と双眼花翎(貴族の冠)が下賜されることとなる。こうした功績が評価され、王得禄は歴代の福建水軍提督ベスト 10に名を連ねる存在となり、その特殊な船団の編成手法は以後の清朝水軍の手本として、他地域でも採用されていく。

1820年には浙江提督に昇進するも、翌 1821年、病のため帰郷を願い出る。
1832年に台湾島で張丙作の乱が勃発すると、王得禄は郷里から民兵を引き連れて参陣し、棟梁の張紅頭らを捕縛する戦功を挙げ、太子少保(もともとは、皇太子の身辺警護役副主任を意味する爵位であるが、実質的な名誉称号となっていた)へ昇進される。 1838年に台湾の盗賊・沈和肆が反乱を起こすと、食料部隊を守備し、さらに太子太保(同じく名誉称号で、皇太子の身辺警護役主任を意味する爵位)へ昇進される。
1841年にアヘン戦争が勃発し、イギリス艦隊が厦門に侵攻すると、澎湖の守備を命じられるも、翌 1842年正月、病死すると、伯爵を下賜される。その長男・王朝綱は山東済東泰武臨道に就き、次男・王朝綸が父の子爵を継承し、官戸部員外郎に就任することとなる。
なお、王得禄の遺体は故郷の 嘉義県 に葬られ、目下、台湾島における最大規模の墓所として、嘉義県下で唯一の 1級史跡墳墓に指定されている

海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代! 海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代!

 許松年(1767~1827年)上写真右
浙江省温州市 瑞安市の出身。大柄な身長で恵まれた体格もあって武挙に合格する(1787年。20歳)。温州水軍に配属されると(1789年。22歳)、温州総兵官(最高総司令官)の直轄部隊に編入される。その後、海賊討伐などで功績を挙げ、1794年には黄岩鎮標左営「千総(地方武官職では最下級。下絵図)」へ、翌 1795年には 鎮海 水軍営「守備(地方武官職で、下から 2番目。下絵図)」へ昇進する。
1799年、当時、定海鎮 総兵官だった李長庚に同行し、沿海部に跋扈していた海賊船団の鳳尾グループを、温州の洞頭列島沖で撃破する。その功績により、翌 1800年、定海鎮標右営「游撃将軍(地方武官職で、上から 4番目。下絵図)」に抜擢される。その後も浙江省沿岸で海賊退治を継続し、1804年2月には水軍鎮標「参将(地方武官職で、上から 3番目。下絵図)」に昇格され、同年 3月、浙江省水軍提督の李長庚に付き従い、蔡牽の海賊船団を撃破する。
1805年1月、金門鎮総兵官へ昇進する。これは、閩浙総督の玉徳が李長庚の了解を得て、福建省水軍へ引き抜いた結果であった。
同年 11月、海賊王・蔡牽グループが台湾を席巻すると、閩浙総督の玉徳は李長庚らを援軍として台湾島へ派兵する。この時、福建省水軍に属した金門鎮総兵官・許松年も参陣することとなり、台湾島への渡海準備を進める。
ちょうどこのタイミングを見計らい、広東省出身の烏石二の率いる海賊船団が福建沿岸に侵入し、海賊・朱濆グループと共同して各地を荒らし回ると、許松年は台湾島への遠征前にこれを鎮定する。
翌 12月、いよいよ台湾島への渡海が決行され、台南府城を包囲する蔡牽グループと海上で対峙する。李長庚から先鋒を託された許松年と王得禄は、小船に分乗して 台南府城 下の内海へ侵入し、海賊反乱軍の撃破に大きく貢献する(最終的に、翌 1806年2月に反乱鎮圧が完遂される)。

以後も、金門鎮総兵として、福建省沿岸での海賊征伐、治安維持活動を担当した。翌 1807年には、蔡牽の海賊船団を大早嶼や浮鷹島沖などで撃破し、蔡牽の旗艦にまで乗り移るほどの勇猛さを見せつけて、大いに賞賛される。
また同年、朱濆の海賊グループが 淡水 エリアを襲撃してくると、金門鎮水軍部隊を引き連れて急行し、海賊船団を撃破して、リーダーの朱濆を負傷させる。翌 1808年10月、香港・大嶼山の東涌沖に雲隠れしていた朱濆の海賊船団にとどめを刺すべく、許松年は自ら広東省側の海域まで遠征し、香港・西貢の長山尾まで追い詰めて病床にあった朱濆の旗艦を攻撃し、致命傷を与えることに成功する。朱濆はこの傷がもとで、翌 1809年1月に死去することになる。

1809年1月、これまでの海賊討伐の功により、仁宗皇帝(嘉慶帝)との謁見機会を与えられ、直接、クジャク羽冠”花翎”が下賜される。あわせて、子々孫々まで雲騎尉の爵位世襲を保証されることとなった。8月、香港 を根城とする大海賊・張保仔が福建省の沖合に進出してくると、これを迎撃して海風に乗って攻め込み、棟梁の一人・何来ら 61名と海賊船 7隻を捕獲、6隻を撃沈する戦果を挙げる。翌 1810年には、ついに大海賊・張保仔も清朝に投降し、大方の著名海賊団は消滅したのだった。
1813年末、8年間務めた金門鎮総兵を退任すると、その功績をたたえられ、仁宗帝と 2度目の拝謁のため上京する。この時、朝廷は鎮圧に手こずっていた北西部の山賊反乱の鎮圧を委ねるべく、許松年を真逆の内陸部へ転任させることとした(1814年1月~。甘粛省西寧鎮総兵、陝西省延綏鎮総兵など)。しかし、福建省南部の 漳州 一帯でも山賊や民衆争乱が問題視されるようになると、福建省方面の地の利に長けた許松年が漳州総兵官に指名され、再び中国南東部へ異動となる(同 1814年4月)。現地へ赴く直前、彼は 3度目の仁宗帝との謁見に及び、皇帝自ら激励の言葉を下賜される。こうして早速、漳州へと出発した許松年は、同地での 3年間、時に自腹負担しながら(全国に反乱問題を抱えた清朝廷の国庫には、予算的余裕がなかった)、兵士らの訓練と船舶の造船、さらに各方面へのスパイ派遣(60人余りの”金門健児”部隊の創設)と、要塞拠点網の構築などを手掛け、また自らも戦場へ赴き陣頭指揮を取るなど、徹底的した山賊鎮圧、治安対策を行ったことから、みるみる領内の治安が安定化したという。この当時、客家の多かった漳州内では、度々、村落や宗族間のいざこざ紛争が勃発しており、この仲裁も積極的に介入する。また、1815年秋には大洪水が発生し、漳州城の城内水路がふさがってしまうと、城内に汚水がたまるようになり、住民らの間に伝染病が流行する。この対策として、許松年ら州役所の幹部らは、自身の私財を寄付し合って汚泥や土砂などの撤去工事を進める決定を下し、彼は率先して年俸の半分を出資したという。こうして半年の工事を経て(退職していた元広州太守・李威長が座長となった)、 漳州城 の水利環境は正常化され、許松年は住民らから大いに賞賛されることとなる。1817年に現地で 50歳を迎えた許松年は、住民らから賀寿を大いに祝われた記録が残されている。

同年、新設された天津鎮鎮総兵への異動命令が朝廷から下される。この時、イギリス艦隊が 天津 の内海まで無断侵入してきたため、天津港の防備を固めるべく、熟練した水軍指揮官だった許松年が指名されたのだった。湾岸の扎塘沽口に赴任するなり、水軍創設と水兵の訓練、水軍基地建設と船舶建造などに日夜まい進し、後に清朝が誇る北洋艦隊の基礎を作り上げることとなった。
その後、外国船が頻繁に出没した広東省へ異動され、碣石鎮 総兵に着任する。 1821年には広東陸軍提督へ昇格されるも、同年すぐに福建水軍提督へ転任する。着任直後より、厦門、金門、大担、小担にあった水軍要塞の大改修工事を手掛け、その他、金門に昭忠祠を建立し、また漳州に運河を整備するなど、土木工事を指揮した。

1823年、台湾島を巡視中、噶瑪蘭 地区の技術者だった林泳春の率いる民衆蜂起に遭遇し、自ら鎮圧戦を指揮する。しかし、1826年4月に台湾島の 彰化県 で勃発した李通の武装蜂起(広東省、福建省移民らの反乱で、 嘉義県淡水庁(新竹城) などの台湾島北部を席巻した)に対し、台湾島へ出兵した許松年は反乱軍に降伏を勧めて事態を丸く収めたため、閩浙総督の孫爾準(1772~1832年)はもともと許松年とそりが合わなかったこともあり、反乱軍への甘い対応を朝廷へ通報され、朝廷から提督職解任を言い渡される。この朝廷の決定に、多くの民衆らが再審を嘆願するも、許松年は持病の悪化を理由に退職し、古郷・温州府城 の郊外(今の浙江省温州市瑞安市水心街)に帰って、翌年に病没することとなる(60歳)。

なお、長男の許錫麒(1815~1859年)は、かなり誕生の遅い待望の世継ぎで、父と同じく浙江省温州市瑞安市で生まれる。父の爵位である、雲騎尉を継承し、平陽鎮(今の浙江省温州市)守備に就いていた。太平天国軍が迫る中、 1859年に浙江省の清軍に編入され、その戦役で 杭州 にて戦死する。以後も、許松年の子孫は清朝滅亡まで、雲騎尉の爵位を継承している。

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 邱良功(1761~1817年)
福建省厦門市 同安県出身で、末端の一兵卒から身を起こし、盗賊討伐などで功績を積む。その過程で順調に出世し、 兵隊長(部下 25人)などを経て、閩安鎮巡検司(福建省福州市 にあった水軍基地)協副将へ昇進する。
1805年春に蔡牽グループが台湾襲撃した際、金門鎮総兵の許松年(1767~1827年)と共に、小琉球の海域で蔡牽海賊船団と遭遇するも、惨敗を喫する。この時、台湾水軍の艦船 2隻が海賊船団に包囲されて危機に陥り、許松年の船団が旗を掲げて火急を通知するも、邱良功の船団が反応せず、救援作戦が失敗に終わってしまったのだった。この不手際を朝廷から弾劾され、逮捕されてしまうも、その後、なんとか潔白を証明して復職すると、すぐに台湾鎮副将に任命される。

同年 12月、台南府城 を完全包囲した蔡牽の率いる海賊反乱軍を駆逐すべく、浙江水軍提督・李長庚が援軍を率いて台湾島へ出撃すると、台湾鎮副将に任命されたばかりだった邱良功も随行し、反乱軍の本部基地であった洲仔尾を占領し、海賊軍を潰走させる戦功を挙げる。同年 5月、再び 鹿耳門 に侵入してきた蔡牽グループを、金門鎮総兵官の許松年と共に迎撃し、朝廷から花翎(クジャク羽をつけた清朝独特な冠帽子)を下賜される。

翌 1807年、広東省東部の最大海賊・朱濆グループが 台湾島北部の淡水 を襲撃すると、南澳鎮 総兵官の王得禄(1770~1842年)が台湾島に急行し、両軍共闘して 雞籠港 で撃破する。そのまま 噶瑪蘭 地方へ逃れた朱濆海賊団を追撃し、多くの海賊残党らを捕縛する功績を挙げる。1808年、 浙江定海鎮 総兵(軍最高司令官)へ、翌 1809年には浙江水軍提督へ昇進する。

1809年8月、浙江省水軍を率いた邱良功は、早速、福建水軍提督に昇格していた王得禄と共に、蔡牽グループの海賊船団と漁山列島沖で激突し、自らも一兵卒に交じって海賊船団を激しく追尾する。しかし、海上の風はきつく、夜中には波も高くなっていたが、再び海賊集団らを取り逃してしまうことを恐れ、船同士をぶつけあっての死闘が延々と繰り広げる。海賊船団も相互に船を連結させて固定しつつ、清朝水軍を迎え撃ち、双方は雌雄を分かつ大乱戦を演じたのだった。その混乱の最中、邱良功はふくらはぎを矛で刺されて負傷すると、配下の浙江省水軍共々、戦線を離脱することとなる。ここで、王得禄の率いる福建水軍のみ、さらに追撃戦を継続し、黒水洋を経て緑水まで逃走していた蔡牽グループもついに弾薬が尽き、援軍もない絶対ピンチの中、自らの旗艦を爆破して滅亡してしまうのだった。
戦役後、海賊退治の功績を称えられ、三等の爵位を下賜される。この時、蔡牽グループにとどめを刺した王得禄は二等の爵位を授与されており、彼は「海賊の殲滅はもうほとんど目前にまで迫っていた段階で、この序列を決めるのに、何のトクがあるのだろうか??」と愚痴をこぼした記録が残されている。

1817年、朝廷に参内して恩賞を賜り、皇帝からその武勇を称えられた後、再び任地の浙江省へ帰任する道中、不幸にも病死することとなる。その死を惜しんだ清朝廷は盛大に国葬を執り行い、建威将軍の称号を贈り、太武山の山麓にある小径村に立派な墓を設けたという。
子の邱聯恩にも三等の爵位継承が許され、河間鎮(河北省滄州市 河間市)協副将に任官されている。 




21、嫉妬と讒言がうずまく 政争劇 ~ 水軍総督・李長庚 vs 閩浙総督・玉徳 & 阿林保

この一連の台湾戦役で蔡牽グループへ大打撃を与えた浙江省水軍提督・李長庚も、その功績を称えられて、二度目のクジャク羽冠”花翎”の授与を受けるも、蔡牽を取り逃がした悔いの方が勝っていた。鹿耳門 から逃走した海賊船団はわずかに 30隻余りであったが、一度、福建省の本拠地に戻り、傷んだ船舶を修復させた上に、食糧や弾薬の補充も済み、再び、勢力を盛り返すのは確実だったためである。

しかし、同 1806年4月には、福寧(今の 福建省寧徳市 霞浦県)沖で蔡牽の海賊船団を撃破し、そのまま北へと逃走する海賊船団を追って台州の斗米半島(今の 浙江省台州市 温嶺市)沖まで追撃し(下地図)、頭目の一人だった李按を捕縛するなど、確実に海賊船団の戦力を削ぐことに成功していく。

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こうした事態に対し、手柄をねたむ閩浙総督の瓜爾佳 玉徳(?~1809年。満州族出身。 1700年代後期に官学生から合格し内閣中書となる。1800年に前任の覚羅長麟の跡を継いで、閩浙総督に赴任していた)は、朝廷へ李長庚の讒言を繰り返し上奏するも、すでに彼の功績を大いに認めていた朝廷は取り合わず、同年、逆に玉徳を罷免し、伊犁(今の中華人民共和国新疆ウイグル自治区北部に位置するイリ・カザフ自治州)へ追放してしまうのだった。

代わりに福建省に着任したのが、舒穆禄 阿林保(?~1809年。満州族出身)であった。彼は 1766年に下級文官として朝廷に出仕後、順調に出世し、 1804年1月から湖南巡撫の任にあった。1802年に発生していた地元原住民(苗族)龍六生の率いる民衆蜂起があったことから、赴任中、原住民に対する統制を強化し、軍事拠点を増設するなど統治手腕を発揮していた。その功績を買われ、 1806年、玉徳の後任として閩浙総督に抜擢されたのだった。彼は詩人としても有名で、著書『適園詩録』を残している。

阿林保は着任早々、当地での主な仕事が海賊討伐と山部での客家民族らの統制であることを認識しており、その進捗状況を部下に確認する。配下の文官、武官ともに海賊討伐の進捗状況に関し、その困難さの説明に四苦八苦する中、最終的に浙江省、福建省の連合水軍総督を務める李長庚の責任に言及する者も現れる始末であった(これは、前任の玉徳に近かった文官らの意見かと思われる)。実際、海賊対策には水陸両面からの統制が必須であり、海賊らの強奪品を換金する、沿岸部の住人や商人、役人らまで、広範囲に及ぶ管理が求められるもので、その責任の所在を明確にすることは困難だったわけである。

海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代! 海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代!

これらの事実を確認すべく、阿林保はひそかに浙江巡撫の費莫 清安泰(1760~1809年。満州族出身。1799~1805年まで浙江巡撫を務めた阮元は、同年 6月に父の喪に服するため、いったん離職していた。この時、代わりに清安泰が着任したのだった。結局、1807年12月に蔡牽を取り逃がした上、水軍提督・李長庚を戦死させた責任を取らされて罷免されることとなる。そのまま河南巡撫へ転任し、赴任先で死去する。1781年、21歳の時に進士に合格し、刑部主事や員外郎などを歴任後、甘肅涼州府長官として蘭州府 に駐在し、1793年には衡永郴桂道へ出世する。湖南按察使へ転任した後、1800年3月に広西布政使に着任する。1802年12月から浙江布政使となり、1805年に江西巡撫に着任すると、阮元が離職した浙江巡撫をも一時的に兼任していた)から話を聞くと、全く真逆の意見で、李長庚提督の働きを絶賛したため、先の玉徳と同様、阿林保も嫉妬心を抱くようになる。朝廷に上奏された阿林保の讒言に、時の嘉慶帝は「そんな讒言をして恥を感じないのか?これを信じて、これほどの功臣を失えというのか?玉徳にせよ、阿林保にせよ、足の引っ張り合いは同じ穴のムジナではないか!」と大激怒し、閩浙総督を叱責したという(正式に解任されるのは、1809年。この後任に、方維甸【1759~1815年】が赴任してくる)。

この皇帝の言葉を聞いた李長庚は非常に感動し、戦闘中に失った歯を妻に贈って、殉国の覚悟を伝えたという。同時に、次なる戦闘に備えて、損傷した巨大戦艦 15隻の修復作業を造船商に委託し、その間、巨大な商船を借りて、引き続き、海賊討伐戦を続行させたのだった。これらの費用は、自身と配下の三鎮の軍司令官らが寄付し合ったもので、李長庚自身も銀 4万~5万両(現在価値で 1億 5000万円相当)の借金をかぶっていたという(当時、清朝廷は各地での民衆反乱に対応すべく、方々に軍隊を派兵しており、国家予算が逼迫していたため、朝廷に請求できなかった)。

下記の表は、清朝時代の高級武官、高級文官の給与リスト。
この表から、李長庚は年収の 70年分もの借金を抱えていたことが分かる。

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22、水軍総督・李長庚の戦死 と 名将・王得禄の 職位継承

1807年春、李長庚の清朝水軍は蔡牽グループを追って南下し、福建省南部の星島(今の 福建省厦門市 中心部に近い、海峡の小島)沖で撃破する。さらに同年 11月には福建省沖の浮鷹島(今の 福建省寧徳市 霞浦県の半島南の小島)沖でも撃破し、かなりのダメージを蔡牽グループに与えたのだった。この頃になると、海賊グループ自体が求心力を低下させており、さらに 2年近くも船舶の修理ができずに、応急処置をとっただけの状態で航行を続ける落ちぶれようであった。

同年 12月、福建水軍提督の張見昇(?~1814年。広東省東莞市 出身。下級武官から出世し、福寧鎮総兵へ昇格する。 1800年、台湾水軍協副将【台湾島の水軍最高司令官】に就任し、浙江水軍提督・李長庚と協力して海賊征伐を続け、 1806年8月より福建水軍提督に就任していた。前任の提督・許文謨は福建陸軍提督へ異動していた)が、牽牽グループを根城の水澳(今の 福建省寧徳市 霞浦県にある半島部分)に追い込むと、海賊船団はたまらず外海へと逃走する。

そのまま北上してきた牽牽グループにとどめを刺すべく、同月 24日(現在の暦で、1808年1月11日)、浙江水軍提督・李長庚も 舟山列島 沖で待ち構え、両水軍が協力して激しく挟撃したのだった。
この時、蔡牽グループの海賊船団はわずかに大船 3隻、小船 10隻あまりで、かなり小勢力にまで低下させていたが、残ったメンバーらは百戦練磨の強者たちで、皆、死や降伏を拒否する強面たちであった。これに対し、福建・浙江水軍連合艦隊は優に 10倍以上もの艦船を有し、圧倒的に優勢にあった。長年、蔡牽と対峙してきた李長庚は、この勝機を逃すまいと、深夜にもかかわらず、自ら火器をとって蔡船の乗船する旗艦を追尾し、その船に体当たりして乗り移ろうと奔走する。部下らに先駆けて先陣を切っている最中、 不運にも海賊船から発砲された銃撃が李長庚の喉に命中し、重傷を負ってしまう(翌 25日早朝、死去する)。

なお、福建省の言い伝えでは、この発砲は蔡牽の旗艦に乗り込んでいた 蔡牽の妻・呂氏が行った狙撃、とされる。彼女は海賊団の中では「蔡牽媽」「老板娘(女主人の意)」と 通称されており、蔡牽の後妻であった。先妻は鄭氏といい、堅実な才女であったが、 1801年に激怒した蔡牽の手で斬首され亡くなってた(末尾のエピソード②参照)。 そして、勝ち気で武闘派だった呂氏が、後妻に迎えられたのだった。呂氏は今の 浙江省温州市 平陽県の出身で、一度、地元で結婚するも、 性生活に奔放で嫁ぎ先を勘当されると、最終的に地元の理髪店に住み込んで下働きしていた際に、 店に立ち寄った蔡牽に買われて、そのまま海賊船に乗り込んでいたのだった。 自由闊達で好奇心旺盛な気質で、海賊団に参加後、鉄砲の狙撃方法を学び、 蔡牽を助けて勢力拡大に大いに貢献していた。

こうして歴戦の総司令官・李長庚を狙撃されて戦列が 動揺した清朝水軍は、まだまだ数的に圧倒的優位であったが、 福建省水軍提督の張見昇が追撃休止を決断し、いったん戦場を 離脱する命令を下す。こうして、みすみす蔡牽グループをすんでの所で 取り逃がしてしまうのだった。無事に外海まで逃れた蔡牽グループは、 ギリギリ滅亡の危機を脱したわけであるが、この水軍提督を討ち取ったニュースは、彼の名声と威厳を再び、盛り上げることとなる。

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対して、水軍提督戦死のニュースは、清朝廷に激震を走らせた。
すぐに後任として、翌 1808年正月、李長庚の指揮下で各地を転戦してきた 南澳鎮 司令官の王得禄(1770~1841年)、台湾鎮副将の邱良功(1761~1817年)を、それぞれ浙江省水軍提督、浙江定海鎮 総兵へ昇格させる(福建省水軍提督は張見昇のまま。しかし、その敵前逃亡の職務怠慢を朝廷は問題視した)。さらに、閩浙総督・阿林保と共に李長庚を貶めるような讒言を行い、彼を戦死させた責任を問われて、清安泰が浙江巡撫を罷免されると、前任者だった阮元が浙江巡撫に復職する(1808年3月~1809年8月)。こうして、新体制下で李長庚の敵討ちにまい進する清朝水軍の目の敵とされた蔡牽の海賊船団は、ますます執拗な追い込みをかけられ、また内部分裂も重なって着実に弱体化していくのだった。

23、朱濆海賊団の 滅亡

なお、この王得禄の浙江省水軍提督への大抜擢は、前年 1807年10月に台湾島を襲った朱濆海賊団を掃討した、論功行賞を兼ねたものでもあった。
鎮海王まで自称した蔡牽による台湾侵攻作戦の失敗後、清朝廷がより厳しい取締り策を採用すると、このトバッチリを恐れた朱濆(1749~1808年)は、自身の地元・漳州 一帯の親族らにも罰が及ぶことを恐れ、福建省水軍提督の張見昇に降伏を願い出る。しかし、前年の 1806年9月に汀州鎮(今の 福建省龍岩市 長汀県)総兵官の李應貴(?~1806年。四川省成都 出身。 台湾での林爽文の乱の援軍として活躍し、都司に昇進する。白蓮教の反乱鎮圧などで戦功を挙げた)を大膽洋で撃破し戦死させた恨みもあり、張見昇に拒否されると、 1807年はじめ、福建省側の縄張りを放棄し、広東省澄海(今の広東省汕頭市澄海区)へ本拠地移転を図るも、不幸にも福建省の外海で清朝水軍部隊と遭遇してしまう。再三の降伏申請も受理されず、海戦を挑まれて大損害を被ってしまうのだった。そのまま福建省水軍に執拗に追撃された朱濆グループは、ますます勢力を減退させていくも、同年 10月、なんとか台湾島まで東進して 鹿港 から北上し、淡水 を経て、雞籠港 に停泊したのだった。
なお、この時、前台湾鎮総兵官の愛新泰が鎮北部(淡水)司令官となって、 滬尾 の陣地守備に就いていたため、上陸した海賊軍はすぐに反撃を受けて 撃退された、と考えられる(末尾のエピソード④参照)。下地図。

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しかし、この朱濆を追って台湾島まで乗り込んできた 南澳鎮 司令官の王得禄が、 雞籠港 で海賊船団を襲撃して大破すると、朱濆グループはたまらず東の 噶瑪蘭 まで逃走することとなる。ここで、当地の盗賊らと協力し、蘇澳港を根城として噶瑪蘭平野の占領を企図したのだった。上地図。

この計画を伝え聞いた台湾府長官の楊廷理と、援軍に来ていた王得禄は、再度、朱濆を急襲することを決定する。これに対し、海賊団は事前に湾岸の海底に杭を打って、清朝水軍部隊の襲来に備えていたため、数日間、清朝水軍部隊は入港を阻まれることとなる。この間に、朱濆は当地の有力者だった潘賢文に仲介を依頼し、投降の手助けを依頼するも、楊廷理はさらに高額の報酬で潘賢文を買収してしまい、朱濆を欺かせて時間稼ぎさせる作戦に出る。そして、地元民兵のリーダー林永福の協力を得て、上陸した王得禄が海賊軍に夜襲をしかけると、慌てた朱濆一味は夜通しで東へと逃れる。対岸の北方澳に仮の拠点を定めて、引き続き、楊廷理との間で投降交渉を進めるも、タイミング悪く、北方澳の駐屯陣地内で疫病が流行ってしまい、朱濆の妹であった朱寶珠が不幸にも感染して死去するなど、多くのメンバーを失うこととなる。ますます弱体化した朱濆の海賊団は、わずか 16隻の小船でなんとか台湾島を脱出したのだった。

翌 1808年4月、再び勢力を挽回した朱濆グループが、台湾北部の淡水 に出現すると、今度は、金門鎮総兵官の許松年(1767~1827年)が急行し、海賊船団を撃退する。

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こうして、蔡牽と朱濆の海賊団は相当に勢力を減退させる中、両者は再び接触し、連合海賊団を結成することとなる。同年秋、蔡牽&朱濆の連合海賊団は浙江省を北上し、定海 沖まで進出してくると、浙江巡撫の阮元が自ら 杭州 から 寧波府城 に進駐して陣頭指揮を執りつつ、浙江省水軍提督の王得禄に配下の三鎮(定海温州黄岩)の水軍部隊を動員させて迎撃する。再び大惨敗を喫した蔡牽&朱濆の連合海賊団は、そのまま南下して福建省側の海域へ逃げ込むこみ、連合も自然解消となってしまうのだった。

この弱体化した朱濆海賊団に対し、間もなくの同年 10月、出世競争に後れを取ってしまった金門鎮総兵・許松年の率いる水軍部隊が追撃し、朱濆自身も戦傷を負わされるまでに撃破されてしまう。何とか朱濆船団は広東省西部へ逃走し、香港 の大海賊・張保仔グループに匿われるも、これを追撃してきた許松年が、香港・大嶼山(下地図。今の香港空港がある巨大島)の東涌沖まで接近してくると、朱濆の旗艦は香港東部の西貢区(下地図。長山エリア)まで逃走するも、病床にあった朱濆は致命傷を受け、船団も壊滅的な被害を被ってしまうのだった。朱濆はこの傷がもとで、翌 1809年1月に死去することになる

この大功により、1809年1月、許松年は時の皇帝・仁宗(嘉慶帝)との謁見を許され、直接、花翎(クジャク羽冠)を下賜される。さらに、その忠義を称えられ、子々孫々まで雲騎尉の爵位世襲を保証されることとなった。

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24、蔡牽海賊団の滅亡 と 大海賊時代の終焉

ますます勢いに乗る浙江巡撫の阮元は、暫定的に福建巡撫に着任(阿林保は両江総督へ転任され、新たに方維甸が着任されるまでの期間)したばかりだった張師誠(福建省陸軍提督もそのまま兼務した。自ら 厦門 に駐屯し、陣頭指揮をとった)と協議し、李長庚の部下として活躍した王得禄と邱良功にタッグを組ませるべく、1809年春、王得禄を浙江省水軍提督から福建省水軍提督へ(前任の張見昇は、職務怠慢とみなされ逮捕されていた。後に水軍に復帰するも、末端の守備に降格され、1813年末に病死する)、邱良功を 浙江定海鎮 総兵から浙江省水軍提督へ昇格させる。こうして、朱濆海賊団をせん滅させた金門鎮総兵・許松年を加えた三者は、互いに協力し合い、残る蔡牽グループの撃滅作戦を続行することとなる。

いよいよ同年 8月26日、王得禄の率いる福建艦隊と、邱良功の率いる浙江艦隊が同時作戦で東進し、蔡牽の海賊船団を 浙江省台州 にある漁山列島沖で挟撃して追い詰める。 多勢に無勢の中、海賊船団も相互に船を連結させて固定しつつ、 清朝水軍を迎え撃ち、清軍船を数隻撃沈して気骨を示しつつ (この時、海壇鎮総兵官・孫大剛の乗船する旗艦も大破された)、 終日にも及ぶ、執拗な追撃戦を振り切って何とか 温州 沖からさらに外海の台湾海峡方面まで逃走する。下地図。

提督だった王得禄と邱良功自らも、一兵卒に交じって先頭に立って海賊船団を激しく追尾するも、海上の風はきつく、夜中には波も高くなっていた。しかし、海賊船団を再び取り逃してしまうことを危惧し、船体同士をぶつけあっての死闘が延々と繰り広げる。その混乱の最中、邱良功がふくらはぎを矛で刺されて負傷すると、配下の浙江省水軍共々、戦線を離脱することとなる。
翌 8月27日になっても、王得禄は引き続き、自らの福建省水軍のみで追撃戦を継続する。黒水洋を経て緑水まで逃走していた蔡牽グループであったが、船団の戦列はバラバラに寸断されてしまい、相互に連携を図ることが不可能に陥った上に、蔡牽の旗艦も大砲の弾丸が尽きてしまい(蔡牽の妻・呂氏が砲弾造りを担当していた)、蓄えてあった銀貨を砲弾代わりに発砲するなど、やけくその抵抗を続ける。

この激しい戦闘の中で、部下を鼓舞して陣頭指揮をとっていた王得禄自身も、額や腕に多くの傷を負っていたが、ついに蔡牽の旗艦を友軍の兵船 10数隻で包囲し、舟尾楼に放火し、その操舵能力を奪うことに成功する。海賊王・蔡牽もいよいよ逃走の不可能を悟り、投降を拒否し、自ら旗艦に向けて大砲を放ち、木っ端みじんとなった旗艦ごと幹部一味(妻子や部下 250名余り)は海底へと沈み、海賊団は壊滅したのだった(一説には、蔡牽は自ら錨を抱いて海に身を投じたとされる)。各地の拠点に残っていた残党ら 1,200人も皆そのまま投降し、ここに蔡牽グループの海賊船団は滅亡に至る。この未曽有の海賊事件を通じて、その逮捕者はのべ 4,000名を数えたという。

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蔡牽を戦死させた功績を称えられた王得禄は、朝廷から二等の爵位を授与される。負傷のため戦線離脱を余儀なくされた邱良功は、一階級下の三等の爵位を下賜されるも、これに不満を示し、「海賊の殲滅はもうほとんど目前にまで迫っていた段階で、この序列を決めるのに、何のトクがあるのだろうか??」と愚痴をこぼしたという記録が残されている。

ちょうど同じタイミングにあった同年 8月、香港・大嶼山を根城とする大海賊・張保仔が、朱濆&朱渥グループ亡き後、空白地帯となっていた福建省外洋まで進出してくると、金門鎮総兵の許松年(1767~1827年)がこれを迎撃し、海風に乗って攻め込み、棟梁の一人・何来ら 61名と海賊船 7隻を捕獲、6隻を撃沈する戦果を挙げる。
この頃には、李長庚が自腹で建造させた浙江省水軍の巨大戦艦が、福建省、広東省の清朝水軍でも同型の軍船が配備されつつあり、各地の有力海賊団の殲滅に威力を発揮していた。

1809年1月に死去した朱濆に代わり、海賊グループ頭領を継承していた実弟の朱渥は、配下の 3,000人余り、42隻の船団、大砲 800門余りを放棄し、度々、清朝へ投降を申請していたが、当初は受理されなかった。福建省、広東省の役所機関へ直訴していたが、いずれも取り合われなかったという。しかし、ある時、台湾から文官らを乗せた官船が航行中に、蔡牽グループの海賊船団に包囲されて襲撃される事件があり、ちょうど朱渥の率いた海賊船がこれを追い払って守ったことから、閩浙総督の方維甸と福建省陸軍提督の張師誠は、その投降願いを受理することを決定したのだった。 こうして、1809年 8月の蔡牽グループ壊滅、そして朱濆・朱渥の巨大海賊グループの投降により、いよいよ清朝水軍の矢面に立たされることとなった広東省海賊団の大頭目・張保仔(1783~1822年。下絵図)も、翌 1810年、清朝への投降を決意するのだった。ここに、当時、名の知れた大海賊集団は、悉く消滅に追い込まれたのだった。

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なお、張保仔は本名を張保といい、香港 を根城とした大海賊団のリーダーであった。 広東省新会県江門鎮 水南郷の漁民の家で生まれた後、 15歳で父と共に漁業をしている最中に、海賊グループ「紅旗帮」に拉致され、そのまま海賊となる。そのリーダーだった鄭一に気に入られて養子とされ、その妻・子石氏(鄭一嫂と通称された。1775~1844年)からも信頼されて頭角を現す。1807年10月に鄭一が台風によって水死すると(42歳)、妻の子石氏が紅旗帮リーダーを継承し、養子であった張保仔が補佐する中で二人は恋仲となり、そのまま張保仔がリーダーを兼ねることとなる。彼は香港の大嶼山に本部を、香港島に造船拠点を設けて根城とし、最盛期には 7万人余りのメンバーと、大小 1,000隻以上の船団を抱える大海賊となっていく。しかし、最終的に 1810年4月に清朝に投降し、以後、清朝水軍の旗下に加わって福建閩安副将となり、澎湖諸島 に配属されることとなる。海賊時代の名義を改めて、張宝と改名した。 目下、香港で最も有名な歴史上の人物の一人となっている

なお当時、広東省 沿岸部では、清代初期に鄭氏台湾が滅亡して以降、その残党水軍が残存して、各地で海賊船団を組織していた。彼らは鄭氏、石氏、馬氏、徐氏の四姓に大別され、紅旗帮、黄旗帮、藍旗帮、白旗帮、黒旗帮、紫旗帮の 6グループを形成し、広州南の珠江沿岸部に割拠したのだった。

ここに、1700年代末期にベトナム内戦でベトナム王朝の正規海軍が野放しとなると、その強大な軍事力を背景に、中国や東南アジア沿岸を荒らし回り、その海域の海賊らを傘下に組み込むようになる。その代表格が、莫官扶、梁文庚、樊文才らの海賊頭領で、1788年に陳添保の軍門に下り、ベトナム正規水軍から官職を下賜って、下部組織に組み込まれる。こうした中小の海賊集団らは次々とベトナム海賊団の傘下となり、ベトナム海賊団はそのテリトリーを拡張させていったのだった。

しかし、1799年末に福建省のベトナム海賊団が壊滅し、さらに 1802年にベトナムで新王権が確立されて、正規水軍のお墨付きがなくなると、ベトナム海賊団の支配システムは崩壊する。再度、バラバラになった海賊船団のうち、莫官扶グループ内で頭角を現したのが、鄭一であった。彼は 6大グループの一角、紅旗帮リーダーとなり、各グループや大小の海賊団を傘下に収めて 6グループをまとめる総帥になった直後に、台風直撃により死亡してしまったのだった。その巨大海賊連合団を継承したのが、若き妻の子石氏(鄭一嫂)であり、後にその夫となる張保仔なのであった。

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 張師誠(1762~1830年)下絵図左
浙江歸安(今の 浙江省湖州市 呉興区の中心部)出身。
1789年、トップクラスで科挙に合格すると(27歳)、官僚養成機関「翰林院」を経て「庶吉士」に出仕し、幹部候補としての験算を積む。1796年に初めて地方任官となり、山西・蒲州府 長官を皮切りに、雁平道、河南按察使、江蘇按察使、山西布政使などを歴任した。この間、地方の州や県などの役所財政の多くが赤字状態であることを発見し、担当役人らの管理機能が有名無実化していることを見抜いて、彼らを一斉交代させ、退任までにそれらの役所すべての黒字化に成功する。
1805年に江西巡撫となり、翌 1806年に福建陸軍提督へと転任後、地方行政にさらなる手腕を発揮する。この時、福建省沿岸部には蔡牽、朱濆らの海賊船団が跋扈していたが、これの退治に血眼となっていた浙江省水軍提督の李長庚と、閩浙総督の玉徳の対立に苦慮することとなる。李長庚への讒言を行ったとして玉徳が罷免されると、その後任に阿林保が派遣されてくるも、同様に李長庚と反目するようになってしまう。それでも、張師誠は福建省の陸上部隊を統括する立場から港湾や沿岸部を厳しく統制し、不法者たちの上陸を阻止しつつ、自軍の軍船装備を向上させて、李長庚に協力した(この当時の福建省水軍提督は 張見昇)。同年冬、李長庚の率いる水軍部隊が広東省まで蔡牽グループを追尾して撃破すると、蔡牽の残党グループはそのまま台湾島の 噶瑪蘭 地区に逃げ延びて上陸を果たすも、台湾原住民の協力を得て撃退に成功する。あわせて、張師誠は原住民らに戸籍を配給し、清朝の統治を浸透させることに成功したのだった。これら一連の業績を称えられて、クジャク羽冠”花翎”を授与される。
1808年には、朱濆グループが蔡牽との連合を解消し、自力で福建省沖の外海を航行中、金門鎮 総兵官の許松年がこの海賊グループを急襲し、さらに広東省の海域まで追尾して朱濆に重傷を負わせることに成功する(朱濆は間もなく死去する)。その実弟の朱渥が頭領を継承するも、すぐに全面投降してくることとなった。この直前、文官らを乗せた官船が台湾から渡海中、蔡牽グループの海賊団に取り囲まれて襲撃されそうになると、朱渥の船団がこれを救助したため、張師誠は福建省陸軍提督の立場で投降を受諾したのだった(これより前に、朱渥は広東省水軍提督にも投降申請していたが、拒否されていた)。閩浙総督の方維甸もこれを追認した。

この海賊退治が佳境を迎えていたタイミングで、若き官僚・林則徐(1785~1850年。下絵図右)を見出し、自らの幕僚に大抜擢する。 林則徐は、後に欽差大臣となって英国商船のアヘン取締りを強化し、アヘン戦争の引き金を引いた人物である
1806年当時、林則徐は厦門海防同知書記(厦門に来航する外国船の商材などを記帳し、また兵糧や兵士に関する文書記録を担当する部署)に在籍していた。この時代、厦門 ではアヘンを横流しする密貿易が横行しており、歴代の厦門海防同知らは皆、汚職に手を染めて、外国商人から賄賂を受け取って、私欲に走っていたわけであるが、林則徐はこのアヘン密貿易を問題視し、密売業者の手口を暴き、それを明るみに出す功績を挙げる。汀漳龍道の張百齢(1748~1816年)と福建巡撫の張師誠はこれを称賛し、張師誠は自らの秘書官に引き抜くこととなる。以降、自らの知識や技術のすべてを、林則徐に伝授するほどの惚れ込みようだったという。 1809年8月に海賊王・蔡牽を鎮圧する際も、張師誠は林則徐を伴って厦門に進駐しており、前線の指揮現場を見せていたのだった。同年末には、張師誠は楽正書院主持の林賓日を紹介し、林則徐に科挙試験の勉強をさせるも、この年は不合格になってしまう。引き続き、林則徐は張師誠の幕閣で起用され続け、1811年、ようやく 27歳で科挙試験に合格することとなるのだった。

また、ちょうど 1809年という年は、閩浙総督の阿林保が両江総督へ転任され、張師誠が暫定的に閩浙総督を継承して昇格されたタイミングでもあった(正式に、方維甸が赴任されてくるまでの期間。下解説参照)。そして、自らは 厦門 に駐屯し、福建省水軍提督の王得禄と、浙江省水軍提督の邱良功らに指示を出して、蔡牽グループを壊滅に追い込むことに成功したのだった。この後に、前述の朱渥が、配下の 3,000人余りを率いて、張師誠に投降してくることとなり、福建省の海域はほぼ平定される。長らく苦しめられた海賊反乱であったが、それは福建省、浙江省の両軍が協力し合えなかったことが背景にあったが、張師誠が福建省を統括し、阮元が浙江省を再統治し出してからは、両者の連携がうまく成立し、手早く鎮圧に成功できたのだった。

1814年、江蘇提督に転任する。ここでも、両江総督の張百齢(1748~1816年)と、江蘇巡撫の初彭齢(1749~1825年)との政争に巻き込まれる。1816年に父が病床に伏した際、朝廷からの許可を得ないまま勝手に故郷へ帰省した罪を問われ、罷免される。喪が服し終わると、再び朝廷に出仕し、中允(皇太子の執事役。満州族、漢民族から一人ずつ選任されていた)となる。その後、再び地方へ派遣され、江西布政使、安徽布政使などを歴任した。1821年には広東巡撫、1825年に安徽巡撫となるも、継母が死去すると、再び、離職して帰郷する。その後、復職して山西巡撫、江蘇巡撫などを歴任し、1826年に中央朝廷に召されて、総督倉場侍郎(地方から朝廷に献上された兵糧米などの、食料備蓄を担当する役所の最高責任者)となる。最終的に病気を理由に離職し、隠棲した後、自宅で息を引き取った。

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 方維甸(1759~1815年)
直隷総督(王都・北京 周辺の直隷省、河南省、山東省を統括。首都圏の行政官トップとあり、地方行政官の中でも筆頭格であった)にまで昇進していた、実父・方観承(1698~1768年)の功績を称えた乾隆帝直々の判断により、方維甸(19歳)は内閣中書(朝廷で取扱いされる文書類の整理、翻訳、執筆作業を担当)の職を与えられる。ここで、軍事に関する庶務を任された。
1781年に方維甸自身も科挙試験に合格すると(23歳)、吏部主事(中央省庁での最高役人)の身分のまま、福康安(1754~1796年。満州族出身。武英殿大学士兼軍機大臣にまで昇進した)に随行し、 台湾で発生した林爽文の反乱(1786~1788年)鎮圧のため、台湾へ遠征する。最終的に御史(朝廷役人の検査官)へ昇格され、クジャク羽冠”花翎”を授与される。
1789年には広西省へ派遣されて科挙試験責任者(典試)、光禄寺少卿(朝廷内部での催し物全般を担当した部署)などを歴任する。また同年、第一次ネパール遠征にも随行する。さらに戸部尚書の職にあった他他拉 蘇凌阿(1717~1799年。満州族出身)の山東省出張にも同行して、太常卿(寺社などの宗教組織の統括官)となり、順天副考官(科挙試験の面接官)などを歴任した。
翌 1790年、長芦(今の 天津市)塩政を担当するも、諸事情により離任し、後に軍を指揮して台湾平定に尽力する。反乱軍を特赦して早々に鎮定を成功させると、員外郎(朝廷中央省庁の副主任)となり、軍事に関する事務を専門的に担当するようになる。
1799年には内閣侍読学士へ昇格し、礼部尚書の章佳 那彦成(1763~1833年。満州族出身。大学士・阿桂の孫で、工部侍郎・阿必達の次男であった。1789年に科挙に合格すると、方維甸と同様に翰林院、庶吉士に進んだエリート官僚であった。間もなく翰林院編修となり、内閣学士、工部侍郎、戸部侍郎、翰林院掌院学士、工部尚書を経て、礼部尚書の任にあった。この反乱平定後、そのまま陕甘総督となる。後に、直隷総督、理籓院尚書、吏部尚書、刑部尚書などを歴任した。書道家としても非常に有名で、その作品は今日にも残る)に随行し、陕西省関中へ遠征している。
その後、山東按察使、河南布政使、陕西巡撫へと出世する中で、白蓮教の乱(1796~1804年。陕西省、河南省、湖北省一帯の白蓮教徒らが反清を掲げて挙兵した事件)の平定戦を自ら指揮した。

1809年に空席となり、張師誠(上解説参照)が暫定代行となっていた閩浙総督を継承し、海賊王・蔡牽らの残党掃討戦を指揮した。自らも台湾へ渡海し、原住民らの平定戦を長期にわたって陣頭指揮する。同時期、台湾に残る老母を面倒見るべく、皇帝に暇乞いする。間もなく、母が死去すると、喪に服した。
ちょうどこの時、天理教に参加した林清(1770~1813年)と李文成(?~1813年)が 王都・北京 の王宮を襲撃し、また滑県城(今の 河南省安陽市 滑県)を占領して天皇を自称するなど、反乱を拡大させると、朝廷は方維甸を特命の軍機大臣、直隷総督に任じ、喪に服していた実家から呼び戻す。彼はすぐに戦地に赴いて平定すると、再び、公職を辞して、台湾へ戻って喪に服したのだった。そのまま 1815年6月に自宅で死去することとなる。その死を惜しんだ朝廷から、太子少保(皇太子の家庭教師職。実際には、名誉称号であった)の爵位を贈られる。
その子の方伝穆も科挙に合格し、翰林院、庶吉士へと進み、同じくエリート官僚となっていった。




25、考察① なぜ、海賊王・蔡牽は 台湾島の占領を 目指したのか?

以上、海賊王・蔡牽グループの、波乱万丈なる足跡をたどってきたわけだが、福建省、浙江省の海域という自身の縄張りを超越し、蔡牽はいったいなぜ台湾島の上陸作戦という、陸の王者を目指したのだろうか??

清朝側の史書では、この蔡牽グループの行動に関し、「主に台湾東部に広がる 噶瑪蘭 地区を占領して田畑を開墾しつつ、安定した食料供給基地の確保を図るとともに、上流の山間部に根城を築いて陸上での拠点作りに努め、同じ福建省沿岸部の移民らが定住化していた台湾島に便乗して住みつこうと目論でいた」、と分析されている。このため、海賊集団はまず 台湾島北部の淡水 を襲撃しており、「この滬尾地区を占領後、東部の噶瑪蘭に広がる平野部を支配する意図であった」と分析し、「北部や東部を制圧後、全軍を台南府城へと南下させた」と指摘する。つまり、島内北半分の清軍を駆逐した後、ようやく南進作戦に移行しており、この過程で、中南部エリアの山賊や在地勢力などを味方に糾合しつつ、 台南府城 攻略のために総結集した、と結論付けていたのだった。

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この海賊グループ自体が、無学の徒、無法者の集団であり、また短命に終わってしまったことから、海賊内部で作成された資料は皆無であり、彼らの真なる意図を正確に把握することは困難であるが、前章まで見てきた海賊グループの盛衰史とその台湾島の上陸作戦を俯瞰するとき、前述の清朝記録とは大きくことなる事実が浮かび上がってくる。

第四回台湾上陸作戦(1805年11月~1806年2月)のスタートとなった 11月13日、蔡牽海賊船団が 淡水 沖に到着し、翌 14日に海賊団 2,000名が上陸する。11月16日には 台湾島北部の最大都市・艋舺 が陥落することとなるわけだが、この 11月15~16日にかけて、数千もの台湾北部の山賊集団が海賊軍に一気に合流しており、これは綿密な事前準備なしにはあり得ないスピードと組織規模であった。そして全く同じタイミングで、蔡牽は自らを鎮海王と称し、改元や王印を準備して、政治集団的な役職(爵位)や軍旗などを制定する。そして、速やかに手下のメンバーや地元協力者らに配給したのだった。

11月15日中に早速、南路軍を出航させ、16日に自身も中路軍を率いて船団を出発させており、あとの北部戦線は山賊リーダーの洪老四に一任する。こうしてわずか 3日の間に、台湾島を南北中の三方面から席巻することとなり、この初動の速さは、まさに周到に練られた作戦の賜物であった。このため、上記の史書が指摘する「北部支配が完成されたので、中部地方の山賊勢力を糾合しつつ、満を持して南方へ進駐した」のではなく、すべては巧妙に 台南府城 を最終ターゲットに定めて考案された上陸作戦だった、と解釈して差支えあるまい。府城奪取とは、すなわち、台湾島自体の政治的占領を意味しており、ここに王権樹立を図ろうと企んだわけである。

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そもそも清代中期に跋扈した海賊船団は、明代や清代初期に活動した林鳳(林阿鳳。広東省潮州市饒平県 出身。最終的に鄭成功の部下となり、台湾へ移住する)、会一本、顏思斎、鄭芝龍(1604~1661年。鄭成功の実父)らの貿易商人系の武装海賊集団とは異なり、海禁政策により困窮した沿海部出身の貧しい漁村民や農民、失業者、無頼者の寄せ集めで構成された無法集団で、その主たる活動も、武力で海上の商船らを襲撃する古典的なものであった。明末清初の貿易商人系の海賊集団は南明政権と結びついて影響力を保持したが、清代中期の海賊は完全に私空間での活動を余儀なくされていたわけである。こうした典型的な犯罪活動以外でも、海禁政策の規制下にあって、物資や人員の密貿易、当時から流入していたアヘン交易などにも手を染めていた。彼らには合法的な範囲内での建設的なビジネス創造や、政治理念などの認識や知識は皆無であり、単に犯罪行為と闇取引を繰り返す烏合の衆だったわけである。

そうした無法な海賊集団にあって、この海賊王・蔡牽グループのみが台湾島占領をねらって大々的な上陸作戦を決行し、また王を称して政権樹立を図ったわけであるが、その背景として、以下の 3点が考えられる。
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1つ目の理由は、台湾島内に蔓延していた反清朝の気風を、この海賊集団がうまく汲み取った点であった。
100年前の独立王国「鄭氏政権」時代の復活を期待する台湾島民や、清朝の圧制に苦しめられる庶民層、さらに清朝の支配体制外にあった原住民や山賊勢力(旧・大肚王国の残党ら)などが、ある種のヒーロー登場を待ち望んでいた、と考えられる。そして、この台湾島内の気運を吸収すべく、海賊王・蔡牽は今まで意図したことはなかったが、鄭氏政権にならい、反清復明を掲げるべく「光明」へ改元を行い、鎮海威武王を称するに至ったわけである。このとき、「光明正大」の玉璽印を鋳造させ、また各種機構を設置して部下らに官位を与え、初めて正式な組織化を図るのだった。

1683年に鄭氏政権を打倒した清朝は、以降、反清意識の高かった台湾住民に対し圧政を続けており、「五年一大乱、三年一小乱」と比喩される、民衆反乱の絶えない土地柄となっていた。こうした鬱積した不満と期待感が、タイミングよく蔡牽グループの追い風となったわけである。そもそも蔡牽グループがここまでその勢力を拡大させたのも、清朝の海禁政策により職にあふれた沿岸部の漁民、困窮農民、無法者、そして他の海賊グループの残党をうまく糾合した結果であり、今回の台湾上陸のタイミングを見るにあたり、蔡牽グループの盛衰史は、まさに時代が生みだした負の結果的産物が、奇跡的に積み上げられて生成された歴史上のエピソード、と言える。まさに「天の時、地の利、人の和」が交差した、その接点上に位置した人物だったわけである。

第三回台湾上陸作成に失敗し(1804年11月~1805年2月)、這う這うの体で台湾島を脱出した蔡牽グループは、同年 11月、捲土重来を期し、再度、台湾島へ大規模攻勢をしかけるわけだが、この時、海賊軍が台湾島北部に上陸するや否や、半年かけて下準備してきた山賊団が一斉に呼応し、瞬く間に数千もの反乱軍が集結される。最終的に、1~2週間強かけて 2万弱もの人員を糾合し、台南府城 の攻城戦に至るのだった。この地元勢力との連携、という作戦展開は初の試みであり、まさに土地と領民の完全占領を目指した、決定的な証拠と言えよう。元来、海賊団の中には、すでに相当数の台湾出身者も抱えており、こうした台湾島の内情を正確に把握していたと考えられる。

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2つ目の理由は、蔡牽グループが台湾島へ襲撃する度、現地守備隊に対し連戦連勝の記憶しかなく、台湾島の軍事攻略は十分に可能、という楽観的な見通しを持ってしまっていた、ことが挙げられる。

蔡牽グループは早い時期から、幾度となく台湾島を攻撃した記録が残されており、すでに台湾島や 澎湖諸島 に習熟していた。とりわけ、1804年4月の 鹿耳門 襲撃の際(第二回台湾上陸作戦)、福建商人に特注し建造させた巨大戦艦が威力を発揮し、清軍の守備隊を一方的に撃破し、圧倒的な戦力差を見せつけていた。あわせて、ちょうど台湾島から大陸中国側へ搬出予定であった大量の兵糧米、また清軍陣地に設置されていた大砲などを奪取するという、完全勝利のまま撤収しており、その甘い記憶から清朝守備隊を侮っていたのである。実際、台湾島の支配にあまり乗り気でなかった清朝は、正規の官兵配置を最小限に抑え、臨機応変に徴兵される民兵の存在を見込んで、守備体制を構築していた。多くの砲台や正規軍が配置された澎湖諸島に比べ、台湾島は明らかに貧相な防衛能力のまま放置されていたのだった。当時、台湾鎮総兵官の指揮下では 1~1.5万の動員兵力が前提とされていたが、その 8割は民兵を前提としていたと考えられる。

ここで味をしめた蔡牽グループであったが、福建省側へ帰還後、ちょうど困窮中だった朱濆グループへ食料などを援助した結果、蔡&朱の巨大海賊連合軍が結成される。その勢力圏は浙江省から福建省、広東省東部の海域に及び、しばらくの間、優勢を保つも、清朝の浙江省・福建省連合水軍によって大破されると、両者は対立し連合は解消されてしまう。こうして同年 11月、蔡牽グループは再度、甘い蜜を求めて東へ向かい、台湾島を襲撃することとなる。
この第三回台湾上陸作戦は、従来の単純な収奪目的ではなく、上陸して土地を占領する領土的野心を持った、初の軍事侵攻となった。しかし、台湾側の防衛力は引き続き、低かったにもかかわらず、台湾島の海風や海流に習熟していなかったため、度々、台風や嵐の直撃を受け、ひたすら傘下の船団と部下らを失う手痛いダメージを被った上に、あやうく自身も壊滅の危機に直面するまでに追い込まれる。なんとか難を逃れた蔡牽海賊団は、この時の教訓を胸に、綿密な事前準備を経て、翌 1805年11月、完成度の高い第四回上陸作戦を決行するに至るわけである。

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3つ目の理由は、単純に清朝水軍部隊による執拗な圧迫で、元々の縄張りだった浙江省、福建省沿岸の海域が脅かされるようになり、新天地を求めて台湾島や 澎湖諸島 をメイン・ターゲットとした、という点である。

蔡牽海賊団は組織が巨大化し、目立つようになってしまったが故に、清朝水軍の目の敵とされ、ますます自らを危険にさらしてしまう結果となっていた。あわせて、肥大化した巨大組織を維持運営するため、略奪、襲撃などの犯罪行為に、より一層、手を染めることとなり、必然的に清朝の官兵との摩擦も増大し、無尽蔵に兵力を供給できた清軍との総力戦に陥らざるを得なかったわけである。こうして、増え続ける組織内外からの圧力や摩擦により、蔡牽グループは本来の縄張りであった福建省北部の海域から離脱せざるを得ず、新しい根城と持続可能な活動空間を求めたと考えられる。

なお、海賊集団は商船強奪、海上交易にかかわる様々な闇取引、商人からの「みかじめ料」徴収などを家業とするも、基本は沿岸部の住民や商人らとの接触や交易が必須であり、彼らを通じて必要な物資や情報、モノを調達していた。時には地元役人に賄賂を払って目こぼしをもらいながら、沿岸エリアで活動したわけである。場所によっては、海賊勢力に非協力的な地域も当然、存在し、千差万別の手ごたえがあったと考えられる。こうした中で、台湾島は反清朝の気風が強く、また海上交易に依存した社会構造だったことから、この海賊集団に対する人々の態度が協力的に映ったはずである。この住民らとの親和性も、海賊グループを台湾へ惹きつける魅力の一つになったと推察される。
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これらの背景から、台湾占領にターゲットを定めた蔡牽グループは、それまでの海上漂流スタイルを放棄し、土地と住民を支配する領主スタイルへの転換を図って、台湾全土を席巻することとなる。前述の通り、綿密な事前準備を経て決行された、1805年11月の第四回上陸作戦は、台湾島を同時進行で 3方向から攪乱し、清官兵を大いに追い込むことに成功する。その作戦は実に巧妙で、蔡牽の海賊反乱軍は、大陸中国側から来援する李長庚の水軍部隊よりも、1か月も早くに 台南府城 を包囲するのだった。府城攻撃に十分過ぎる時間的猶予を作ることができた上、府城へ通じる南北の両街道を封鎖し、完全孤立化を成功させたわけだったが、最後の最後で大逆転されてしまうわけである。

26、考察② 海賊史上 唯一無二の存在、蔡牽に 足りなかったものとは?

貧しい家庭に生まれ、幼くして両親を失った苦労人の蔡牽は、個人の才覚だけで、浙江省、福建省沿岸の漁民や困窮農民、失業者、無法者らを糾合し、清代最大級の海賊グループを結成させた大人物であったことは確実である。明末清初の当時、商人系海賊集団の鄭成功が台湾島を侵攻したのは、南明朝所属の一将軍としての立場があったから、その傘下に兵士や武器を豊富に率いることができたわけで、海賊王・蔡牽は純粋に、自前の海賊集団だけの力で準備を進め、台湾侵攻作戦を決行させており、その背景や条件は段違いの差があった。

また当時、広く流通していた大砲などの火器の効果も大きく、馬術や腕力とは異なる次元での戦闘力が問われた時代で、さらに兵数がものを言う陸上戦とは異なり、無限の広さを誇る海上を縦横無尽に移動できたことも、間接的に蔡牽海賊団の存続を手助けする要因を成したと考えられる。清代の嘉慶年間は、中国史上でも稀にみる大海賊時代に相当し(1700年代後半以降、白蓮教徒の乱など中国各地で民衆反乱が勃発しており、清朝はその鎮圧に多額の予算を投入したため、年々、増税を進めていた。これが返って民衆生活を圧迫し、ますます民衆反乱や無法者集団を発生させる悪循環に陥っていた)、その海で最大勢力を一代で築き上げた蔡牽は、まさに「天の時、地の利、人の和」を味方につけた、時代の寵児だったわけである。

その彼の人生のピーク・イベントが、台湾島の心臓部「台南府城」を総兵力 2万人で完全包囲し、府城史上、最大のピンチを現出させた、第四回台湾上陸作戦なのであった。

そもそも清代を通じ、台湾島では三つの大乱があった。 朱一貴の乱(1721~1722年)林爽文の乱(1786~1788年)、戴潮春の乱(1862~1865年)である。これら 3大事件は、蔡牽の台湾事変に比べると、持続時間もその高揚感もはるかに巨大であった。特に、台湾島を攻め立てて清朝支配を揺るがした朱一貴の反乱事件には規模の面で、また台湾最大の内乱だった林爽文の事件には時間の面で、全く及ぶレベルではなかった。そうした中にあって、蔡牽グループの台湾進攻作戦の比類ない点は、この中心都市「台湾府城」を絶対絶命のピンチに陥れたことにある。

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蔡牽グループは、この第四回上陸作戦決行の半年前から、台湾島内で地元協力者を活発に募り、多額の資金援助を実施して、地元戦力をかき集めさせていた。この上陸作戦時の、台湾北路軍と南路軍のほとんどを構成したのが、この地元戦力であった。海賊船団の主力は中路軍を構成し、直接、台南府城下の 鹿耳門 の内海へ突入している。

この役割分担は、地形の習熟度や戦歴、移動のしやすさなどが計算されていた。蔡牽の海賊船団は、数度にわたって台湾島を襲撃した中で、沿岸部の地形や潮流の複雑な鹿耳門海峡の特徴を熟知しており、片や山賊部隊は陸上の地形に慣れた地元民で構成されていたこともあり、両者はお互いに有利な舞台を分担したわけである。また、あわせて山賊部隊は臨時で徴収されたメンバーばかりで、十分な軍事訓練を受けておらず、陸上での粗暴な暴力をふるうだけの無法者ばかりだったこともあり、海上移動よりは陸路を進むのが妥当、というわけであった。対して、海上での戦闘に慣れた蔡牽海盗団のメンバーは実戦経験も豊富で、かつ、大砲などの重火器戦にも慣れていたわけである。こうして山賊部隊が陸の街道を抑え、海賊部隊が海上交通を抑えることで、 台南府城 を完全封鎖したのだった。

しかし、にわか集団の海賊反乱軍は、台湾最大の中心都市「台南府城」の包囲戦で、その組織力の脆弱性を露呈してしまう。その事の経緯は、前章までの史実で明らかな通りである。

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この組織力不足の原因としては、この海賊反乱軍の組織内部で官僚的な人材が不足し、全体を統率する指揮系統の整備が未成熟であったことに尽きる。そもそも、この海賊反乱軍を組織化する人材も時間もノウハウも足りなかった以前に、実際には、そもそも中核となった海賊グル-プ自体も、決して一枚岩の集団ではなかったことも見逃してはなるまい。

蔡牽グループに関して言うと、蔡牽の養子である蔡三來が、1808年に清軍に捕縛されて監獄で自白した内容によると、一味は明確な上下関係のないフラットな集団であったようで、蔡牽や各リーダーらはメンバーから推薦されて頭目に就いており(蔡牽自身は文句なしの大頭目であった)、基本的にメンバー全員は緩い上下関係だけを保持しつつ、盟友関係にあったようである。その彼らの結束力を保証したものは、あくまでも上位者が分配する資金、物資、地位なのであった。この無法者たちで構成された海賊組織のベースは目先の利益のみであり、上位者は下級の部下らの支持と忠誠心をつなぎとめるために、官職や報酬、各種物資などを分配し続ける必要があったわけである。この仕組みは、古今東西を問わず、あらゆる王権や政府、企業などに当てはまることで、上位者から下賜される恩恵が少ないと、それらの組織は下部組織から容易に瓦解してきた。特に、不法者集団であり、また日常的に違法行為に手を染めていた海賊らにとっては、その見返りが大きく確かなものでない限り、その上位者に従属し続けるデメリットの方が圧倒的に大きくなってしまうわけである。

この時代、特に海上での犯罪行為だけで富を生産し続けることは、清朝の取締りもあり、いよいよ困難となっており、特に組織が肥大化していた蔡牽グループにおいては、常に分配する資源獲得に悩まされていた。上位者が側近の部下(第一階層)に何とか恩賞や分け前を与えることができても、そのさらに下の部下(第二、第三階層)に対しては十分な分け前を与えられないと、結局、組織は末端から崩壊せざるを得ない。実際、蔡牽グループでも同様の問題が発生しており、広東省東部の大海賊・朱濆との連合決裂後、諸々の資源が不足し苦境に立たされた蔡牽海賊団は、第二、第三階層の部下の離反を招いており、いくつかの下部集団が清朝側へ寝返ったりもしている。

例えば、1805年に第四回台湾上陸作戦の準備中、台湾への攻勢に反対する頭目の一人、蔡擯が清朝側に投降する事件が起きる。この蔡擯自身は、もともと浙江省の海域で活動した黃葵グループに属した人物で、リーダーの黃葵が清軍に投降したため、その残党勢力を引き連れて蔡牽グループに参画していたわけであるが、今度は蔡擯自身も進退窮まり、182名の部下とともに投降してしまったのだった。
また、同じく蔡牽集団の中核を成したグループ「小臭幫」のリーダー張然も、蔡牽の台湾襲撃戦に反対して、離反している。

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こうして、主力メンバーの離散と清朝への投降が相次ぐ中、後に引けなくなった蔡牽は、ますます綿密な計画を立て、台湾上陸作戦の下準備を進めていくわけである。求心力の維持と組織経営に腐心した蔡牽は、1805年11月の台湾占領作戦に際し、綿密な攻撃戦略を練る中で、地元協力者をうまく糾合するための「エサ」の準備も怠らなかった。それが各協力グループへ支払った番銀(各 50両 = 現在価値 17万円前後)であり、また、台湾到着後に名乗った「鎮海威武王」の称号であり、改元と各種爵位(軍師、大元帥、将軍、総兵、総先鋒、先鋒、巡捕など)の発布であった。あわせて、帥旗、木印などの権威シンボルも次々と作成し、一気に王権体制の構築を進める。淡水 上陸早々の翌日にこれらに着手しており、結集した地元反乱軍をまとめて一気に 艋舺 の清軍拠点を攻略したのだった。

しかし、その後の 台湾府城 の攻城戦を見る限り、爵位や各役職は厳格には運用されておらず、全く組織の体を成していなかったことは明白であった。本質的に、この海賊反乱軍の根本は、金銭関係や出身地、地元グループや派閥ごとの単位で構成される烏合の衆であり、全く一枚岩になり切れていなかったわけである。ちょうど、ネット上の掲示板で知り合ったメンバーが、即席で役割分担を決めて「王権ごっこ」に興じていた、と言えば分かりやすいだろう。
実際、淡水地方の山賊リーダーだった葉豹は、自身の妻子を人質として蔡牽海賊団に引き渡して海賊反乱軍に参画しており、双方に完全な信頼関係が構築され切れずに、見切り発車された乗合バスだったわけである。今となっては、当時の海賊集団の内部構造やその実情に関する資料は皆無であり、実際の運用などを検証する術はないが、結果論から見る限り、全く機能していなかったと言える。
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そもそも無法集団であった海賊グループには、知識人や官僚層が欠落しており、かろうじて従軍した落ちこぼれ書生の言に従い、皇帝理論「天時、人事」の下、鎮海威武王と自称し、王印「正大光明」や軍旗などを作成したわけである。これは 100年前の鄭氏政権を彷彿とさせる政治的所業であったが、日数も人材も不足する中、あくまでも組織上層部の一部における変革に終始するのだった。
それでも、清朝中期以降の海賊集団がいずれも脱法行為だけに集ったグループにあって、この海賊王・蔡牽は王を自称し、清朝廷に政治的に異を唱えた特異な存在だったことは明白である。これまで内陸部で王を自称し、朝廷に対し反旗を翻した例は数多く存在するが、一海賊団棟梁が時の王権に反して挙兵し、領土の物理的占領を図った例は、後にも先にも彼一人であった。

もし、台湾上陸作戦と同時進行ではなく、これより数か月、1年ほど早めに傘下の海賊集団の組織化と部下の掌握を率先して進めていれば、台湾現地で糾合した即席の反乱軍をもうまく鼓舞して、数の力に物を言わせた組織的攻撃により、台南府城 を見事、陥落させていたのかもしれない。そうすれば、彼の歴史上の取り扱いはもっと大きくなっていたことであろう。もしくは、明末清初の時代であったならば、南明政権に組み込まれ一定の将軍格の地位を与えられて、より強固な組織的活動ができていたのかもしれない。そもそも、彼より 10年前に福建省海域を支配したベトナム海賊団が、そのベトナム王権発布の官位や特権をうまく利用し、傘下の地元海賊団を組織立てて軍隊化していれば、その勢力で台湾島を占拠できていたのかもしれない。

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しかし、上記いずれの場合も、海賊軍の上陸から 1ヵ月後に中国本土より急行してくる清朝正規軍に対し、年単位で 台南府城 を守備し続けることは不可能であっただろう。台南府城がまともな城壁を有しなかったこと、台湾北部や西部から上陸していた清朝の陸軍部隊に対し、軍事訓練を施されていない 反乱軍が、陸戦でどこまで対抗できたかは心もとないためだ。 鄭氏政権のように 30年近い政権保持 は不可能だったにせよ、台南府城を再奪取された後も島内各地に飛散して抵抗を続けつつ、海上の海賊船団も福建省などの清軍空白地帯を荒らし回った場合、 1年半もった林爽文(1756~1788年)の反乱 以上に善戦したのかもしれない。

27、考察③ 4か月の 台湾戦役で、清朝廷に 30億円もの出費を強いた 海賊反乱軍!

1805年2月、台風などの悪天候に苦しめられた蔡牽グループは、第三次台湾上陸作戦を中止して台湾島を離脱した際、わずかに大小 20隻余りの船団しか残っていなかった。しかし、同年 5月14日に竹塹 鹿井頭(鹿港) に出現した際、60隻余りの船団に回復していた記録が残されている。わずか 3か月足らずで、半年前の水準まで戦力を急回復させていたわけだが、これは元々のテリトリーだった浙江省、福建省の海域から味方や武器を補充した結果であった。さらに補強を進め、同年 11月に 台湾島北部の淡水 を襲撃したタイミングでは(第四次台湾上陸作戦)、100隻余りの大船団に膨れ上がっていたわけである。

蔡牽は大陸側での増強作業と同時に、台湾島内での地場勢力の内応工作も進めており、多額の支度金をばらまいて地元の無法者らを募集、勧誘させていたのだった。そして、蔡牽海賊団が台湾島に上陸するや否や、地元山賊団が数千ものメンバーで結集し、最終的に 2週間後の 台南府城 攻略戦時には 2万もの大軍勢に膨れ上がっていたわけである。

半年もの間、入念な下準備を積み重ねてきた蔡牽の動きを、清側は知る由もなく、大軍勢の一斉挙兵に後手に回った清軍は、水陸からの同時攻撃を受け、正確な全貌がつかめない中、情報が錯綜してしまうこととなる。 こうして、清守備隊は大慌てで大陸中国側へ救援要請を発するわけだが、誇大情報が伝えられる中で、清朝廷も混乱し、各地で続発していた白蓮教徒の反乱と同様に大いにてこずると踏んで、大規模な軍事動員を発令することとなる。

海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代!

こうして、清朝廷は大規模な人的、物的、および経済的負担を強いられるのだった。
即戦力の福建省水軍の出撃以外にも、閩浙総督の玉徳はさらに多くの陸上部隊も動員し、 福建省駐屯中の満州八旗軍を含む、正規軍を台湾島へ派兵することとなる。この他、嘉慶帝は 王都・北京四川省、東北三省からも駐屯軍を動員して移動させており、 清朝にとっては過重な戦費負担を強いられたのだった。しかし実際には、蔡牽の台湾攻撃は早々に鎮圧されてしまい、 福建省に集結しつつあった大軍勢は、結局、渡海することはなかった。
この他、膨大な量の武器や兵糧をかき集めており、それに伴う多額の 出費もあり、清朝廷は合計で銀貨約 86万両余り(現在価値で、約 30億円)にも及ぶ国費を消耗することとなる。

1804年にようやく、四川省楚白蓮教の乱を平定したばかりで(下地図)、国庫が厳しい中でさらに負担を強いられ、 即金で閩浙総督の玉徳に資金支援ができなかったため、当初、福建省内部の 予算(銀庫)からの全額捻出が指示されていた。この時、閩浙総督府は広東省税関から借金して対応し、 戦役後、塩税などを増税して庶民に負担を転嫁せざるを得なくなるのだった。 さらに、台湾島内で協力した名士や地主層からも借金して、戦費を賄ったとされる。 つまり、蔡牽の台湾侵攻作戦は、清朝廷に対し、軍事的、政治的なダメージよりも、 財政的ダメージを最も与えたと言えるわけである。

海賊王・蔡牽の栄枯盛衰から見る、中国 大海賊時代!

海賊王・蔡牽との丁々発止の海上戦を戦い抜く中、 浙江省水軍提督の李長庚が自腹で巨大戦艦を建造した際、清朝廷に直接、 請求できなかった理由も、この朝廷内の財政難にあったわけである。特に、 1796~1804年に 四川省湖北省河南省山東省 など広域に渡って勃発した 白蓮教徒の反乱鎮圧戦では(上地図)、膨大な国費を消耗しており、 当時、すでに始まっていたアヘン流入と相まって、清朝崩壊は着実に進行していた。 それから 30年後にアヘン戦争勃発清仏戦争太平天国の乱日清戦争 と、内外からの 圧力が続く中で、清朝は転げ落ちていくのだった。

こうして、その後の歴史をも視野に入れて見るとき、海賊平定戦で命を賭し、清朝廷のために 戦った将軍や兵士らの死は償われたのか、いささか疑問に残る。 目下、大麻やマリファナの合法化が進む世界の諸施策を見るにつけ、 「禁止」にこだわり続けることの社会的コストを正確に把握すれば、 清朝も海禁政策を改めて貿易立国化することで、海賊団自体が自然消滅し、 その鎮圧に要してきた人員、費用負担を別の分野へ発展的に投入し得たのではないか、と いう教訓を、今日の我々に示すエピソードだったように感じる。


 蔡牽エピソード ① 卡野蔡牽(卡橫過蔡牽)
福建省漳州市 エリアの方言で、「卡野蔡牽」「卡橫過蔡牽」という俗語が残されている。
蔡牽は世に知れた大悪党であり、上陸作戦後、台湾住民の間で「蔡牽」の名を耳にして、 顔色を変えない者はいなかったくらいに、悪名をとどろかせた人物であった。この俗語は、 「その蔡牽を越えて、さらに悪玉(卡野=存在しないの意)」という言葉で、 つまりは「大悪党・蔡牽より悪者!」と相手をののしったり、なじったりする ときに使用されるという。
この俗語が使用される際、彼の少年期のエピソード話が 必ず添えられるという。極貧家庭に生まれた蔡牽は、早くに 両親を亡くすと、自力で生き抜かざるを得なくなる。 ある時、エビの入った桶をかついで、市街地を巡るエビ行商を行っていた。 たまたま、市街地の鐘氏という豪商の邸宅前を 通りかかったとき、不注意にも鐘氏の家人が着ていた 絹の着物上に、エビの入った桶から汁をこぼしてしまう。 その悪臭に激怒した鐘氏の家人は、舌でこれをなめて 綺麗にするよう蔡牽に命令する。この侮辱に怒りを覚えながらも、 蔡牽はその指示に従うのだった。翌日、再び鐘家の邸宅前で待ち構えた蔡牽は 、今度はその家人の頭上からエビの桶ごとひっくり返し、 嬉々として手をたたいて罵ったという。

 蔡牽エピソード ② 黄金人頭
1801年のある日、蔡牽の海賊団は台風を避けるため、 現在の 浙江省温州市 蒼南県霞関鎮ー馬駅鎮東部の島「北関島」に停泊していた。 この島は、大小 7つの島嶼からなる小島群で、当時、ほぼ無人島であったという。 清朝廷の斡旋により、1862~1874年の間に、大陸側より 移民投入が図られ、荒れ地を開墾しつつ、漁業で生計を立てさせる こととなる(当初は、100余りの家族が移住し、その人口は 400人余り になったという)。

その停泊中、蔡牽の旗艦内で、堅実な才女だった妻・鄭氏が服を縫っていた。 しかし、作業中に針を落としてしまい、半日たっても見つけられずにいた。 ちょうどそのタイミングで蔡牽が部屋に入ってくると、 一目でその針を見つける。すぐに拾い上げて 鄭氏に手渡した際、彼女は大変に喜んで、 「你這双賊眼真好(あんたの目は、本当に抜け目ないよね!)」と 口走る。ここには「賊」という単語が含まれているが、 閩南語では特に人を小バカにした言い方でもない 口語だったが、蔡牽は自身が最も忌み嫌っていた単語を耳にするや否や、大激怒する。 ちょうどこの時、蔡牽は海上で清朝水軍と 遭遇し手痛いダメージを受けたばかりのタイミングで、異様にピリピリしていたこともあり、 その怒りに任せ、持っていた刀で妻の首を切り落としてしまう。 その際、飛び散った頭部が窓から海へと落ちてしまったという。 蔡牽はもともと血の気の多い人物だったが、 すぐに自分の行き過ぎた行為を悔い、部下に 海に落ちた妻の頭部を探させるも、発見できなかった。 仕方なく、地元の著名な彫刻士に依頼し、 妻の頭部を金で作らせて遺体に接合させ、その地に 埋葬したのだった。
その墓所は、今でも北関島にある王沙宮附近の海底付近に 現存し、潮が引いた際にその石造りの棺を目にすることが できるという。

 蔡牽エピソード ③ 還冬戯
毎年冬になると、現在の 浙江省温州市 平陽県 一帯では、演舞「還冬戯」が催される風習が続いていた。 これは広く沿岸部地元民が土地神を祭るべく、執り行ってた年中行事で、 現在の浙江省温州市蒼南県霞関鎮一帯も、その例外ではなかった。
ある時、蔡牽は地元協力者たちへの慰労と、清軍との戦勝を 祝うべく、わざわざ後妻・呂氏の出身地である浙江省温州市平陽県 から地元の劇団グループを北関島の王沙宮に招聘し、舞を披露して もらうこととなる。盛大な演舞と宴は三日三晩続き、この間、 招待した地元霞関県の人々も北関島へ渡海してきたのだった。 しかし、あまりの大人数で海上移動が困難だったため、 蔡牽は配下の部下に命じ、艦船 99隻を連結させて浮き橋を構築し、 南坪里から北関島の深湾岙口まで通じる、船の道を作ったという。 これらを無料で手配し、また観劇も無料でふるまった上、さらに 集まってきた地元民らにお金を配って回る大盤振る舞いだったという。

 蔡牽エピソード ④ 敗滬尾
滬尾エリア(今の新北市淡水区)に残る俗語に「敗滬尾」 というものがある。
清代、台湾島には大陸中国から多くの漢民族が移住しており、 彼らは出身地ごとに徒党を組んで対立しあっていた。 その中でも特に大きな派閥が、泉州 同郷グループと 漳州 同郷グループであった。 両派閥は台湾島各地で闘争を繰り広げており、この淡水地区でも例外ではなく、 泉州グループと漳州グループ間は反目し合っていた。海賊王・蔡牽の 船団が淡水に上陸した際、自分の出身地だった泉州同郷グループと接触し、 漳州グループへの圧力をかけることで、協力関係の構築を図ったという。
しかし、泉州同郷グループは、清朝廷から「海賊」のレッテルを 貼られた賊軍である蔡牽に対し、万が一、協力関係が露見すると罰せられか ねないということで、協力関係解消を提示してくる。期待を裏切られた蔡牽は激怒し、 「この蔡牽から距離を置くのならば、朱濆が出現した際、必ずその報いを受ける!」と 言い残したという。
蔡牽が台湾島を離脱後、その言葉通り、漳州同郷グループは 海賊リーダー朱濆を手を結び、1807年4月18日に淡水に上陸した際、海賊団と 共に淡水地区に住む泉州移民集落を急襲し、多くの住民らが惨殺されることとなった。

この事件後、当エリアでは虐殺された泉洲移民の慰霊と戒めのため、 旧暦 4月18日を例祭日と定め、毎年、淡水地区 の泉洲移民の子孫たちは自宅の門前に 弔慰の飾りつけを施し、「敗滬尾」のための慰霊祭が続けられているという。



中之島仙人

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