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ジョホール王国、その苦節 200年の歴史

東南アジア 三国志物語


  1、マラッカ王国の 滅亡、ジョホール王国の 幕開け(1513~1528年) マフムード・シャー
  2、初代国王(1528~1564年):スルタン・アラウディン・リアヤット・シャー 二世
  3、2代目国王(在位 1564~1570年):ムザッファル 二世
  4、3代目国王(在位 1570~1571年):アブドゥル・ジャリル 1世
  5、4代目国王(在位 1571~1597年):アリ・ジャラ・アブドゥル・ジャリル・シャー 二世
  6、5代目国王(在位 1597~1615年):アラウッディン・リアヤット・シャー 三世
  7、6代目国王(在位 1615~1623年):アブドゥラー・マアヤット・シャー
  8、7代目国王(在位 1623~1677年):アブドゥル・ジャリル・シャー 三世
  9、8代目国王(在位 1677~1685年):イブラヒム・シャー
  10、9代目国王(在位 1685~1699年):マフムード・シャー 二世
  11、10代目国王(在位 1699~1718年):アブドゥル・ジャリル・シャー 四世
  12、11代目国王(在位 1718~1722年):ラジャ・クチル
  13、12代目国王(在位 1722~1760年):スライマン・シャー(ジョホール=リアウ王国)
  14、ジョホール=リアウ王国の その後 ~ ジョホール州へ




1、マラッカ王国の滅亡、ジョホール王国の 幕開け(1513~1528年) マフムード・シャー

1402年の建国以来、インド洋交易の中継都市として栄えたマラッカ王国だったが、その栄華を強奪しようとするポルトガル勢力により、1511年7月、本拠地の王都マラッカが陥落してしまう。王都を追われた マラッカ国王(スルタン・マフムード・シャー)は、ビンタン島(シンガポールの南側の島。下地図)へ落ちのびるも、翌 1512年にポルトガル軍の追撃を受け、さらに逃走を余儀なくされる。

この時の戦いに、後に世界一周航海で名を馳せることになる若き フェルディナンド・マゼラン(31歳)も、艦船 16隻のうち、1軍船の艦長として参戦している(1513年に母国ポルトガルに帰国)。最終的にマゼランは 1519年8月、スペイン王に雇用される形で、世界一周のスペイン艦隊を率いて出航したのだった。

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以後も、マラッカ王国の残党勢力は ビンタン島(上地図)を拠点とし、1526年まで繰り返し、マラッカ奪還作戦を展開し続けるも(下絵図)、ことごとく失敗し、最終的にビンタン島を脱出してマラッカ王国時代の属領であるスマトラ島の カンパル(Kampar)へ落ちのび、 国王 マフムード・シャーは 1528年、ここで失意のうちに崩御する。

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2、初代国王(1528~1564年):スルタン・アラウディン・リアヤット・シャー二世

マフムード・シャー 1世と トゥン・ファティマ王妃(Tun Fatimah)との間の 王子(次男)が、臨時王都であったスマトラ島の カンパル(Kampar)で、スルタン・アラウディン・リアヤット・シャー二世として即位する(1528年)。下絵図。

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翌 1529年、彼は王都を自身の任地であったマレー半島南端の ジョホール川流域(ウジョン・タナ=Hujung Tanah と呼称されていたエリア)へ移転させ、プカン・トゥア(Pekan Tua、現在の コタ・ティンギ町 スンガイ・テロール Sungai Telor)の地に王城建設を開始し、コタ・カラ(Kota Kara)と命名する。

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完成後、新王都コタ・カラに入城し、この時からジョホール王国がスタートしたと一般的に定義されている。

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ジョホール王国は王都を移転しただけで、これまでのマラッカ王国の王権体制がそのまま踏襲されたものであった。なお、この地に王都が遷都されたために、後に「宝石」を意味する「Jauhar (Jim,Ha,Ra) 」と通称され、その土地の人々が「ジョホール」と発音するようになった、と考えられている。

ジョホール王国は以後、陸路でも旧王都マラッカへの攻撃が可能となり、ますます戦線が拡大することとなった(ペラク Perak王国を建てた実兄 ムザファル・シャー Muzaffar Shah の協力もあった)。なお、この時代、マラッカではポルトガル軍が ファモーサ(Famosa)要塞を完成させており(下絵図)、より守備体制が整ってしまっていた。

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この地に遷都後も、ポルトガル軍は執拗に王権せん滅を図って追討軍を度々派遣しており、王都コタ・カラを含む、各地で局地戦が行われている。

マラッカを占領したポルトガルは、その周辺領主らも武力制圧し、マレー半島西岸のマラッカ周辺部に存在したマレー人首長(Sang Naya)をも暗殺し、一帯の勢力圏を絶対のものにすると、マレー人の間でポルトガル人への復讐心がますます高まる。ちょうど同時期に、ポルトガル陣営より ジョホール王国の王都に使者が派遣されると、同じくその全員を処刑し報復する、という有り様だった。

この応酬を受け 1535年、エステヴァオ・ダ・ガマ(Estêvão da Gama)を総司令官とする 400名のポルトガル軍がジョホール川流域へ派兵され、上流までさかのぼり、王都 コタ・カラ(下地図①)へ侵攻してくる。
王城は猛烈な艦砲射撃を受けるも耐え抜き、それから数日後に、上陸してきたポルトガル軍の総攻撃をも防ぎ切ることに成功する。

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この防衛戦勝利で士気の上がったジョホール側は、王城から打って出て、ポルトガル船団への急襲を試みるも、ポルトガル軍の集中砲火の前にマレー軍は散々に打ち負かされ、そのまま王城は陥落し内部の王宮や屋敷は徹底的に破壊されてしまう。

この大敗により、同年中に国王 アラウディン・リアヤット・シャー二世は、王都をジョホール川のさらに上流に位置する サヨン・ピナン( Sayong Pinang : 別名 Kota Sayong )へ移転させる(下地図②)。

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彼の重臣で右腕でもあった宰相 Seri Nara Diraja が、間もなく死去すると、国王は再び、サヨン・ピナンから、旧王都 コタ・カラへ戻るも、因縁の総司令官 エステヴァオ・ダ・ガマの率いるポルトガル軍が再攻撃をしかけてくる。これより少し前、エステヴァオ自身も、実弟の パウロ・デ・ガマ(Paulo da Gama)とその従者 30 名余りの兵士らを、別の地でマレー軍により殺害されており、 ジョホール王国に強い憎悪を抱いていたとされる。

このときの攻撃で、旧王都 コタ・カラ、さらに上流の果てに設けていた王都 サヨン・ピナン(コタ・サヨン)が陥落し、ジョホール川沿いの多くの集落地もことごとく焼き払されたという。
初代王都 コタ・カラはそのまま放棄され、完全に荒廃してしまい、現在は宅地開発のあおりを受け、正確な位置すら把握できない状態という。わずかに、アチェ様式の墓石が複数、残されているだけという。

王権の危機に追い込まれたジョホール王国は、翌 1536年、ポルトガル軍との間で一時的な休戦協定を結ばざるを得なくなる。こうして、一時的にせよ平和が回復されたため、国王は上流の王都 サヨン・ピナンを復興させつつ、ジョホール川中流域の コタ・バトゥ(Kota Batu)に新城塞の建設を大号令する。

この同時期に建造された二つの城塞であるが、両者ともに マラッカ王国時代から続く土塁だけの建築スタイルで、ポルトガル軍の大砲に対抗する 設計スタイルが確立されていなかった。

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そして5年越しの大工事を経た 1540年、コタ・バトゥ城塞が完成し、正式に王都が移転される。

もともと当地は、原住民から タンジュン・バトゥ(Tanjung Batu:バトゥ岬の意)と呼称されたエリアだったので、その王都も コタ・バトゥと命名され、これが今日の ジョホール・ラマ要塞の 跡地(ラマ博物館)へとつながっている。上絵図。

この地が選定された理由は、川辺に張り出した急峻な高台から、ジョホール川一帯を見渡せるロケーションが重視されたためと指摘される。また、高台を形成した急好配の土壌はすべりやすく、敵の侵入を妨げる効果も期待できたという。

王都の建設工事が着工されると、住民らが日に日に増えることとなり、さらにポルトガル側との一時的な和平が成立していたタイミングとも重なり、交易に便利な当地は大集落地へと急成長を遂げることとなった。
東南アジア産の 香料(スパイス)を求めて来航した、インド、アラブ、中国人らの商人で大いににぎわい、川沿いの港湾設備も急ピッチで整備され、マラッカ港と並び、この新王都コタ・バトゥは中継貿易港として大いに繁栄を謳歌することとなった。

以後、当地での 24年の治世の間、ジョホール王国はかつてのマラッカ王国時代の栄光を取り戻し、海峡交易立国としてのプレゼンスを回復させることに成功する。

王宮が移転されると、上流部の旧王都 サヨン・ピナン(コタ・サヨン)はそのまま放棄されるも、現在、無名の 墓石(墳墓遺跡 7と 12。下写真の左下の二つ)が発掘されており、当時の記憶を残す数少ない資料として保存されているという。

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しかし、新王都コタ・バトゥ に遷都後、急速に国威の回復を成功させたジョホール王国の存在は、マラッカを占領したポルトガルの貿易独占のねらいを妨げる結果につながり、ポルトガル軍はマラッカ皇室の断絶と王国自体を崩壊させようと、再び、攻撃をしかけてくるようになる。

これにあわせて、マラッカ王国時代からのライバルだった アチェ王国(スマトラ島北部を拠点。下地図)が、領土的野心からジョホール帝国の各地の属領へ侵攻を繰り返しており、ジョホール王国は二つの大きな敵と相対する必要が生じていた。

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なお、新王都 コタ・バトゥへの遷都が行われる 1年ほど前の 1539年、長らく反目し合っていたアチェ王国により、ジョホール王国の属領 アル(Aru)王国(スマトラ島東部)が攻撃を受ける。その攻撃軍は、160もの軍船に搭乗した 12,000名の兵士ら(アチェ人、マラッカからの流民、トルコ人ら)で構成された大規模なものであったとされる。

翌 1540年、国王アラウディン・リアヤット・シャー二世は、同盟国ら(実兄の率いるペラク王国と Siak 王国)と共に軍船を派遣し、占領されていたアル地方へ侵攻する。 瞬く間に、アル地方を再平定すると、わずか 14隻のアチェ王国側の軍船を除いて、すべてを撃沈し、さらに数千にも上るアチェ軍の兵士らのせん滅に成功したのだった。この戦いは、パネー川(Sungai Paneh) の戦いと通称され、旧王都マラッカを喪失して以降のジョホール王国史上、最も華麗なる大勝利と記録される。

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しかし、1564年、Alauddin Riayat Shah Al-Qahhar の率いるアチェ王国軍は体制を建て直し、再びアル地方への侵攻を開始し、当地のジョホール王国駐留軍を敗走させ、領土を再併合してしまう。さらに勢いに乗るアチェ王国は そのままジョホール王国の 新王都コタ・バトゥ へも侵攻してくる。

王都 コタ・バトゥや周囲の要塞群は蹂躙され、国王 アラウディン・リアヤット・シャー二世や その皇室一族、そして重臣らがすべて捕虜となり、アチェ王国(上絵図はその王都)へ連行されてしまう。
国王はそのまま同地で処刑されたと考えられており、Marhum Syahid Di Acheh の謚号を贈られた(Marhumは、「故人」の意)。


3、2代目国王(在位 1564~1570年):ムザッファル・シャー 二世

アチェ王国に連行された皇太子 Raden Bahar が、同年中に、アチェ王国の傀儡政権として旧王都 コタ・バトゥへ送り返されるも(国王ムザッファル・シャーとして即位)、すぐにアチェ王国の支配下から脱し、旧王都を放棄して、王権の残党勢力を引き連れて上流域へ逃亡してしまう。

こうした動きに対し、人質となっていた前国王 リアヤット・シャー二世はアチェ王国で処刑され、傀儡国王 ムザッファル・シャーは、ムザッファル・シャー 二世(Muzaffar Shah II)と改称され、ジョホール王国の 2代目国王の座を正式に継承することとなった。

彼が新王都として定めたのが、コタ・セルユ(Kota Seluyut。上地図④)の地であった(4代目王都)。
この王城は、セルユ川と メディナ水道(ジョホール川の川幅が急に狭まるエリア)との間にあった ブキット・セルユ(Bukit Seluyut)の丘上に築城されており、マラッカ王国時代から伝統的に続く、土塁だけの建築スタイルであった。

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アチェ王国の脅威が高まっていた当時、ジョホール王国とマラッカのポルトガル勢力は共闘関係にあり、アチェ王国がマラッカを攻撃した折は、ジョホール軍が援軍を派遣もしており、最終的に国王自らも親征しマラッカを救援している。
このとき、ジョホール軍はポルトガル勢力から大いに歓迎され、国王 ムザッファル・シャー 二世は 1511年のマラッカ王国陥落以来、唯一、旧王都であるマラッカの地に足を踏み入れた人物とされる。

しかし、このポルトガルとの蜜月関係は、アチェ王国の矛先をまともに受けることとなり、アチェ王国軍はジョホール川沿いへの再侵攻を開始する。1570年には王都 コタ・セルユの一帯も蹂躙され、王都を離れた国王ム ザッファル・シャー 二世は、間もなく付近で没してしまうのだった。そして、王都近くで埋葬され、 Marhum Seluyut の諡号を贈られている。

この治世時代、一貫して、宰相 Seri Maharaja Tun Isap Masai が国王を補佐した。
彼は当地にて、孫に トゥン・スリ・ラナン(Tun Sri Lanang)を授かっている。実子 Orang Kaya Paduka Tun Ahmad と妻 Tun Genggang との間の息子で、後に名宰相 トゥン・スリ・ラナン Paduka Raja Tun Muhamad となる人物である。


4、3代目国王(在位 1570~1571年):アブドゥル・ジャリル・シャー 1世

王都 コタ・セルユで前国王 ザッファル・シャー 二世が埋葬されると、その実子が アブドゥル・ジャリル・シャー 1世として即位する。
引き続き、宰相 Seri Maharaja Tun Isap Masai が補佐し、アチェ王国軍に蹂躙された王都 コタ・セルユの再建工事が進められた。

その後も、ジョホール王国は常に、ポルトガル勢力(マラッカを拠点として海峡交易の独占を図る)と アチェ王国(スマトラ島北部)、ジャンビ王国という周辺の敵対勢力の脅威にさらされ続けたため、交易に有利なジョホール川中流域の 旧王都コタ・バトゥ への復帰は叶わなかった。


5、4代目国王(在位 1571~1597年):アリ・ジャラ・アブドゥル・ジャリル・シャー 二世

初代国王 スルタン・アラウディン・リアヤット・シャー 二世(1528~1564年)の皇女であった Raja Fatimah と結婚した、パハン州長官の一族出身の Raja Umar 、つまり、婿養子が国王に即位することとなる。
3代目国王 アブドゥル・ジャリル・シャー 1世の急死により、宮廷内で力を増していた実姉 Raja Fatimah が強く次期国王に推したのが夫の Raja Umar であった。宰相 Seri Maharaja Tun Isap Masai や 他の重臣らもこれに同意し、 アリ・ジャラ・アブドゥル・ジャリル・シャー 二世(下絵図)が誕生する。

ジョホール王国、その苦節 200年の歴史

彼の治世時代初期、長らく宰相を司ってきた Seri Maharaja Tun Isap Masai が死去する。
直後に、その孫の トゥン・スリ・ラナン Tun Sri Lanang に宰相職を継承させ、また、Paduka Raja 長官のタイトルも同時に授与されて、先代の功績をたたえられ、大きな期待と重責を背負うこととなった。
以後、彼は 2代の国王を補佐し、その政治手腕を発揮していくこととなる。

宰相交代後の 1573年、すぐに王都は ブキット・セルユから、ジョホール川の中流域の コタ・バトゥ(下地図)に再遷都され、国際通商網の回復が図られることとなる。
ジョホール川の上流域に位置した コタ・セルユはマラッカとの交易競争に不利に働いたためであった(以後、旧王都 コタ・セルユは放棄され荒廃する。現在、古い無名の墓石がいくつか残されているだけという)。

1564年に放棄された旧王都跡地の コタ・バトゥ城塞はさらに拡張され、防衛力の向上が図られた。このとき、初めて対大砲戦にそなえて土塁の強化策が採用され、石材とサンゴ石を長方形に削り、土塁の内部に埋め込むというスタイルが始まる。こうした建築スタイルはマレー文化圏特有のものと指摘されている。
こうして、王都として復活した コタ・バトゥは再び、交易都市としての栄光を取り戻すこととなった。

ジョホール王国、その苦節 200年の歴史

しかし、ジョホール王国とポルトガルとの間は引き続き、緊張関係にあり、幾度もの局地戦が勃発し続けた。1587年1月、オランダからの援軍を加えて、国王 アリ・ジャラ・アブドゥル・ジャリル・シャー 二世は自ら遠征軍を引き連れ、マラッカを攻撃しており、ポルトガル軍の立て籠もるファモーサ要塞を 1ヵ月にわたり包囲している。
しかし、インドのゴアからの援軍がかけつけたポルトガル軍は九死に一生を得て、マラッカの死守に成功し、ジョホール王国は寸手のところで再奪取のチャンスを逸する。

その直後、今度はポルトガル軍が反転攻勢を開始し、ジョホール川流域まで大艦隊を派遣してくる。まずは、ジョホール川の河口を封鎖し、交易船を徹底的に遮断すると、数か月後に、王都 コタ・バトゥ への侵攻を開始する。王城の守備兵 12,000名は 1ヵ月間の包囲戦を戦い抜くも、ついに同年後半、落城に追い込まれてしまうのだった。
王城にあった 王宮、臣下の邸宅、その他民衆らの居住区などはすべて焼き払われ、要塞は完全に破壊されてしまう。あわせて、多くの財宝や武器類も収奪されてしまったという。

この後、国王 アリ・ジャラ・アブドゥル・ジャリル・シャー 二世は王城 コタ・バトゥを放棄し、残党勢力を引き連れて上流へ逃走し、バトゥ・サワール(Batu Sawar)の地に新王都を建設する(下絵図)。

ジョホール王国、その苦節 200年の歴史

そして 1597年、国王 アリ・ジャラ・アブドゥル・ジャリル・シャー 二世はこの地で崩御する。死後、Marhum Batu Sawar (Marhumは、「故人」の意)の諡号が贈られている。

以後、王国復活の象徴だった王都 コタ・バトゥが再建されることはなく、その跡地は簡易な要塞として再利用された程度という。
当地は、民間集落地から離れた場所に位置したので、そのまま要塞遺跡が残されることとなり、今日の ジョホール・ラマ博物館 へとつながっていく。


6、5代目国王(在位 1597~1615年):アラウッディン・リアヤット・シャー 三世

1597年、王都 バトゥ・サワールで、アリ・ジャラ・アブドゥル・ジャリル・シャー 二世が崩御すると、その皇子であった ラジャ・マンスール(Raja Mansur)が 5代目国王 アラウッディン・リアヤット・シャー 三世(Alauddin Riayat Shah III)として即位する。
しかし、彼は政治に興味がなく、臣下にまかせっきりの人物だった。

このため、宰相 トゥン・スリ・ラナン(下絵図)は、王子 ラジャ・アブドゥラー Raja Abdullah(後の 6代目国王 アブドゥラー・マアヤット・シャー)とともに、政権を運営していくこととなる。

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宰相 トゥン・スリ・ラナンは、その政治手腕と並び、年代記『セジャラ・メラユ = Sejarah Malayu(マレーの歴史)』を著した人物としても有名で、文学者としても才能を発揮している。その内容は、マレー王の系図を詳しく解説したもので、ちょうどこの時代に執筆を開始したと考えられている。

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この時代、ポルトガル、オランダとも良好な関係を保ち、通商交易が盛んとなる。
しかし、この国際関係は対岸のアチェ王国を孤立化させる結果となり、ジョホール王国への怨嗟を増大化させることとなった。

1613年、「アチェの英雄」される イスカンダル・ムダ Iskandar Muda(在位 1607~1636年)の率いたアチェ王国軍が、王都 バトゥ・サワールへ侵攻し、国王 アラウッディン・リアヤット・シャー三世や王子 ラジャ・アブドゥラー、宰相 トゥン・スリ・ラナン、その他、数多くの臣下らを捕虜にし、そのままアチェへ連行してしまう。

同年のうちに、王子の ラジャ・アブドゥラーのみ解放され、再び、王都 バトゥ・サワールへ帰還するも、国王 アラウッディン・リアヤット・シャー 三世は、翌 1614年まで拘束されることとなった。
なお、アチェにて拘束中も、宰相 トゥン・スリ・ラナンは引き続き、年代記『マレーの歴史』の執筆を続け、最終的に当地で完成させている。

解放され帰国した国王 アラウッディン・リアヤット・シャー 三世は、翌1615年にポルトガルと再協定を結び、その息子の Raja Bujangをパハヤ州の州長官に任命させる協力を得ることとなり、駐在していたアチェ人長官が追放される事態となる。

この反目に激怒したアチェ王国は再び、王都 バトゥ・サワールを攻撃し、国王 アラウッディン・リアヤット・シャー 三世を再拘束して、アチェへ連行し、国王はその軟禁状態の中で、1623年に死去することとなる。

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宰相 トゥン・スリ・ラナンもこの間に死去しており、以後も、その一族が引き続き、宰相職を継承していった。
そして、1699年に 9代目国王 マフムード・シャー 二世(在位 1685~1699年)をクーデターで殺害し、ジョホール王国を乗っ取ることになる宰相 トゥン・ハバブ(Abdul Jalil) も彼の子孫で、後に アブドゥル・ジャリル・シャー四世として王位にまで上り詰めることとなるのだった。
なお、その一族の子孫らは、トゥムンゴン(ジョホール川中流域)州、パハン州、セランゴール州の州長官職を独占し、今日までその血縁を保っているという。なお、王都周辺の トゥムンゴン州長官職は、王権の警察庁長官職も兼務することとなっており、その権力は絶大であった。


7、6代目国王(在位 1615~1623年):アブドゥラー・マアヤット・シャー

アチェへ再連行された父の アラウッディン・リアヤット・シャー 三世に代わり、王子の ラジャ・アブドゥラー(Raja Abdullah。Raja は皇太子の意)が皇位を継承し、6代目国王 アブドゥラー・マアヤット・シャーとして即位する(在位 1623~1677年)。

彼はアチェ王国の影響力が残るジョホール川流域を脱出し、 王都を プラウ・リンガ(Pulau Lingga)へ、続いて、プラウ・テンベラン(Pulau Tembelan)へ移転させ、勢力回復を図るのだった。

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以後、旧王都 バトゥ・サワールの地は放棄され、荒廃する。今日、その跡地にはいくつかの無名の墓石が残されているのみという(上地図)。


8、7代目国王(在位 1623~1677年):アブドゥル・ジャリル・シャー 三世

皇太子の Raja Bujang が、父の跡を継ぎ、アブドゥル・ジャリル・シャー 三世として即位する。

マレーシア海岸域に覇を唱えた「アチェの英雄」される イスカンダル・ムダのアチェ王国に対し、ジョホール王国は最終的に、ポルトガルと連合を組み、1629年にマラッカ沖海戦でアチェ海軍を崩壊させることに成功する。

アチェ王国の海軍力が急低下した頃、オランダ東インド会社がインドネシア一帯を占領し、いよいよマラッカを抑えるポルトガル勢力の本格駆除に乗り出す。
オランダはジョホール王国へ急接近し、対ポルトガルで共同歩調を取るようになった。

アチェ王国によって王都 バトゥ・サワールを蹂躙され、一時的にリアウ島へ首都を移転させていた国王は、オランダ勢力のバックアップを得て、再び、ジョホール川の上流地帯に戻ってくる。と同時に、新たに 8番目の王都 コタ・マカム・タウビド(Kota Makam Tauhid)の建設に乗り出す。今の コタ・ティンギ町の中心部にほど近い墓地村(Kg. Makam) の一帯である(上地図)。

ジョホール王国、その苦節 200年の歴史

この王都はオランダ人技師らの協力もあり、これまでの石材とサンゴの化石を基礎部分として土塁で覆った簡易な建築スタイルとは全く異なる、レンガとセメントで 城壁を積み上げた強固な建造物となった。しかし、完成直後から疫病が城内に蔓延したため、1642年には放棄されることとなる。

引き続き良好な関係が保持された オランダ・ジョホール王国連合軍は 1641年、マラッカを攻撃し、ついにポルトガル勢力の駆逐に成功する。マラッカはそのままオランダ領とされるも、この同盟関係によりジョホール王国の地位は相対的に上昇し、旧マラッカ王国時代の版図を回復するに至る。その領域は、マレー半島南部からスマトラ島中部に至る海洋帝国となり、国際貿易の中心地として全盛期を迎えることとなった。
1640年に王都 バトゥ・サワールも再建され、ここが最盛期の首府を担ったのだった。

しかし、その王国の一部であったスマトラ南東部のジャンビ王国が勢力を台頭させると、本国ジョホール王国との間で紛争が勃発する(1666~1679年)。1673年には、王都 バトゥ・サワールがジャンビ王国の侵攻を受け、多く捕虜や財宝が略奪されたという。


9、8代目国王(在位 1677~1685年):イブラヒム・シャー

王都は以後、コタ・ティンギ、リアウ島、パンクール(Pancur)など各地を転々と遷都されることとなり、ジョホール王国の権威は完全に失墜する。ジャンビ王国との間で和平条約締結後に、王都は再び、バトゥ・サワールへ戻され、復興工事が手がけられるも、国王の権威は大いに揺らぎ、ついに家臣によるクーデターでジョホール王国が乗っ取られることとなるのであった。


10、9代目国王(在位 1685~1699年):マフムード・シャー 二世

マラッカ王国皇室の血を引いた最後の継承者 国王 マフムード・シャー二世(Mahmud Shah II、治世 1685~1699年)は、精神的に不安定な人物であったとされ、常軌を逸した奇行と悪行で人々から恐れられていた。

宰相(ベンダハラ)であった アブドゥル・ジャリル Abdul Jalil が補佐した時代は、彼の権力でその国王の蛮行を何とか阻止することができていたが、ジャリルの死後、国王の行動を封じ込める力のある人物がいなくなってしまう。

宰相職を継承した トゥン・ハバブ(Tun Habab)は国王の唯一の従兄弟でもあり、国王の悪弊を阻止するには不十分な立場にあった。
彼は、本名をトゥン・アブドゥル・マジッド・トゥン・ハバブ(ハビブ)・サウジャナ・ジョホールといい、イブラヒム・シャー 1世と マフムード・シャー 二世の治世時代、王都近郊の トゥムンゴン州知事(つまりは、王権の警察庁長官も兼務)を務めていた。

そんな環境下、新宰相のトゥン・ハバブ は国王殺害の陰謀を企て、後継者不在の中、自身が国王に就任するという王権算奪を計画する。

そのクーデターの一部始終は、ジョホール=リアウ王国副王の末裔 ラジャ・アリ・ハジが、 1885年に著した 歴史書『Tuhfat al-Nafis(トゥーファト・アル・ナーフィス:貴重な贈り物)』に詳細に記述されているという。


1699年当時、ジョホール王国の権威は失墜してしまっており、海賊らがマレー半島の南部海岸エリアを荒らしまわり、マレー半島東岸から ビンタン島、パンヤンガ島一帯に被害が拡大していた。

王国は、水軍提督メガット・スリ・ラマ(有名なマレーの戦士で、ラクサマナ・ベンタン Laksamana Bentan としても知られる。彼の出身地であるベンタン島から名付けられたニックネーム)に命じ、この海賊勢力の駆逐に向かわせる。

この時、王都バトゥ・サワールに残した彼の愛妻 ダン・アヌムは妊娠中だったという。
この提督の不在を好機として、宰相 トゥン・ハバブは提督の私怨を焚き付けて、国王を殺害させる作戦を考案する。

当時、バトゥ・サワールの王宮内の果樹園でとれた ジャンク・フルーツの実は、臣下らの憧れの的であり、宮廷に残された、提督の妻 ダン・アヌムも同じく純粋にこれを味わってみたいと思う女性の一人であった。

ちょうど、王都の下部地区の首長であった人物が王宮にこの果実を届ける任務を司っており、提督の妻がその果物を一口味わいたいという希望があるという噂を耳にすると、彼は国王に献上する果実を食べやすく切り分けたときに、その一切れをこの妻 ダン・アヌムにこっそりとあげたのだった。

国王は宰相の助言で、この果実の切り身の一部が欠落している事に気づき、その給仕任務の首長の勝手な行動に激怒する。

宰相はさらに悪知恵を働かせ、国王の怒りをさらに焚き付けるべく、提督の妻ダン・アヌムのつまみ食いも明確な国王への侮辱に値すると断罪する。自分が食べた残り物を国王に食べさせたという事実は言語道断だとし、厳しい処罰を進言する。
国王もこれに同意し、すぐにその提督の妻を宮殿に呼び出す。

このとき、妊娠していた彼女は涙ながらに国王に自分の子供のために果実を少し食べたと弁明する。これに対し、国王はその証拠を彼女に提示するように命令し、彼女の腹部は切除され(腹割きの刑)てしまうのだった。一説では、実際にその体内の子供に果実の一かけらが回っていたことが確認されたと伝えられている。

そのまま妻と子供は死亡することとなり、この事件の真相は宮殿内で秘匿とされることとなった。

そして、海賊平定に成功し凱旋した水軍提督で、夫でもあった メガット・セリ・ラマは、妻と子供の死の真実を知ると愕然とする。彼は復讐を誓い、ある金曜日の午後、イスラムの金曜礼拝の折、国王が臣下にかつがれて輿で移動中に、待ち伏せして国王を クリス(マレー伝統の両刃の剣)で刺殺したのであった。 しかし、彼も国王の護衛兵らにとって殺されてしまう。

国王はその死の直前、息絶え絶えながら、戦士ビンタンの子孫らが当地 コタティンギに足を踏み入れようものなら、死ぬまで血を吐かせ続けて殺す、と一族 7代に及ぶ呪いをかけたという。

ジョホール王国、その苦節 200年の歴史

こうして、国王 マフムード・シャー 二世は、現在の墓地村(Kampung Makam)に埋葬されることとなり、また、非業の死を遂げた水軍提督 メガット・セリ・ラマ(Megat Sri Rama)はその妻とともに、王宮の西はずれの Kampung Kelantan(ケランタン村)に埋葬されたのだった

この日以降、人々はまだ呪いの言葉が有効で、ビンタン島出身者の多くは恐れを成して コタ・ティンギの地には足を踏み入れないようにしている、という。



こうして、国王 マフムード・シャー 二世は宰相の計画通り、後継者なしのまま崩御してしまったのだった。
ここに、マラッカ王国から継承された皇室の血統が断絶し、以後、ジョホール王国はその皇位を 宰相家(最初は皇室の外戚だったが、後に全く無関係の有力家臣が即位するようになる)が継承していくこととなる。

国王に助言する常設機関である 重臣会議(the Majlis Orang Kaya = Council of Rich Men)がすばやく王都 バトゥ・サワールで招集され、使者を ムアル Muar 州(ジョホール川中流域)へ派遣し、ムアル州長官であった Sa Akar DiRaja に国王即位を打診する。彼は、元国王の叔父に当たる人物であった。


11、10代目国王(在位 1699~1718年):アブドゥル・ジャリル・シャー 四世

しかし、Sa Akar DiRaja は宰相職にあったトゥン・ハバブがその皇位を継承すべきであると辞退したため、重臣会議でも異論なしに、宰相 トゥン・ハバブの国王即位が決議されることとなった。
重臣会議で全員一致の下、アブドゥル・ジャリル・シャー 四世(Sultan Abdul Jalil IV.)として国王即位が成る。

新国王はその求心力を保つべく、直後に王都を バトゥ・サワールから、国王 マフムード・シャー二世の陵墓が建設された近くの コタ・マカム・タウビド(Kota Makam Tauhid=現在の コタ・ティンギ町の墓地村)への再遷都を決行する。
オランダ式の要塞建設で完成されていた コタ・タウビド王城は、疫病蔓延により 1642年に放棄されて以降、実に 57年ぶりの王都復活となった。

ジョホール王国、その苦節 200年の歴史

しかし、多くの臣下たち、特に オラン・ラウト Orang Laut(海の人。上写真)と通称された、ジョホール帝国の島嶼エリアに住む水上生活の民を率いたイスラム系豪族らは、このクーデター劇に反対し、その国王即位の正統性に反発する。

当時、ブギス族(20年前のジャンビ王国との戦争で大いに活躍し、ジョホール王国内で絶対的な立場を確立していた)と、ミナンカバウ地方(現在の インドネシア領の西スマトラ州)に勢力を有した ミナンカバウ(Minangkabau)一派が強大な影響力を保持しており、マレー半島出身のマレー人勢力と王国内で三つ巴の勢力拮抗を保っていた。

アブドゥル・ジャリル・シャー 四世はこれら海上民の支持を得るべく、翌 1700年、わずか一年の滞在の後、王都を コタ・タウビドから、先の叔父が統治していた ムアル州(ジョホール川中流域)下の州都 コタ・パンチョール(Kota Panchor)へ再遷都することとなる。こうして皇族二人が合流した体を繕えたことで、海上民らの心理的緊張を緩和させることに成功したのだった。

アブドゥル・ジャリル・シャー 四世は、遷都後、州都 コタ・パンチョールを大々的に改修し、強固な王城を建造する。ブキット・トゥクル(Bukit Tukul)の丘陵エリアに王宮が設置され、トゥクル川と ジョホール川沿いには銅製の大砲が配備されたという。

ジョホール王国、その苦節 200年の歴史

しかし、国王がマラッカ皇室出身者という前提条件自体に疑問符を投げかけることになってしまった、このクーデター事件の影響は大きく、ミナンカバウ派は、ミナンカバウ宗族の皇子 ラジャ・クチル(Raja Kecil)を正統なる王国の皇位継承者として主張を始めることとなった。

この時、ラジャ・クチルは、クーデターで誅殺された マフムード・シャー 二世の死後に生まれた実子であると自称し、ブギス族勢力とも会合を持ち、自身の王位継承をバックアップしてくれた見返りに、莫大な財貨の譲渡と王権内での権力分与を約束し、アブドゥル・ジャリル・シャー 四世への反旗で協力を取り付けることに成功する。


12、11代目国王(在位 1718~1722年):ラジャ・クチル

1718年、王国内の 3分の 2の勢力を糾合して王都 コタ・パンチョールに迫った、ラジャ・クチル軍に敗れた アブドゥル・ジャリル・シャー 四世は王位を下り、代わって、ラジャ・クチル自身が 国王(Abdul Jalil Rahmat Shah)に即位する。元国王の アブドゥル・ジャリル・シャー 四世は トゥン・ハバブと本名に戻り、宰相として新王権に仕えることとなるも、その体制に不満を持ち、マレー半島東岸の パハン州(Pahang)へ逃亡してしまうのだった。

後世の歴史研究では、この時に、マラッカ王室、さらにはジョホール王室の血統が途絶えたことで、実質的にジョホール王国は滅亡したと指摘されている。

宰相 トゥン・ハバブの逃亡後、国王 ラジャ・クチルは王都をブギス族勢力の本拠地で、かつ、海洋交易の中心都市であったリアウ、後にリンガへ移転する。旧王都 コタ・パンチョールは徹底的に破壊され消滅することとなった。
これ以後、ジョホール=リアウ(リンガ)王国と通称されることとなる。その王都は、現在の インドネシア・ビンナン島の タンジュン・ピナンに開設される。

ジョホール王国、その苦節 200年の歴史 ジョホール王国、その苦節 200年の歴史 ジョホール王国、その苦節 200年の歴史

以降、王国の中央集権体制は崩壊し、4勢力のパワーバランスで運営されていくこととなる。すなわち、ムアル州(ジョホール川中流域)の トゥムンゴン家(Temenggung。マレー人勢力)、宰相(副王)家の出身地となった パハン州(同じく、マレー人勢力)、ブギス族が中心となった ビンタン島リアウ、そして、ジョホール州の大部分(シンガポール島 含む)は、もう一つのトゥムンゴン家が統治し、その他の島嶼エリアなどは ビンナン島リンガに住む国王直轄地という構成が確定していく。

パハン州に逃亡中の宰相 トゥン・ハバブ(元国王 アブドゥル・ジャリル・シャー四世)は、リンガを王都としていた国王 ラジャ・クチルが送り込んだ刺客により、最終的に暗殺されることとなる。諡号として、Marhum Kuala Pahang が贈られた。

しかし、その国王 ラジャ・クチル(国王 Abdul Jalil Rahmat Shah)も権力を手中に収めると、ブギス族との約束を反故にし、ブギス族勢力を敵に回してしまうのだった。

こうしてブギス族は、暗殺された元国王 アブドゥル・ジャリル・シャー 四世の子であった ラジャ・スライマン(Raja Sulaiman)の依頼を受け入れ、今度は ラジャ・クチルの王位追放に加担することとなる。


13、12代目国王(在位 1722~1760年):スライマン・シャー(ジョホール=リアウ王国成立)

最終的に1722年、ラジャ・クチル は国王の座を追われ、 ブギス族勢力がバックに就いた ラジャ・スライマンが、新たに ジョホール=リアウ王国の国王に即位するのだった。
在位 1722~1760年もの長期政権を誇った国王 ラジャ・スライマンであるが、実際にはブギス族の操り人形でしかなかった。以後、日本の鎌倉時代の北条執権政治のように、副王(宰相)や有力州長官らによる代理政治が 1855年まで続くこととなる。

しかし、ラジャ・スライマンの血縁一族は現在でも脈々と継承されているという。
彼の妹である テンクー・テンガはブギス王の5人息子の一人である ダエン・ペラニと結婚し、現在のジョホール州王皇室へと受け継がれている。
また、実弟 トゥン・ザイナル・アビディンはトレンガヌ州で最初の州長官となり、彼の子孫は今もトレンガヌ州を統治しているという。もう一人の弟 トゥン・アバスはバハン州長官になり、その子孫が現在のバハン州王皇室を継承している。


14、ジョホール=リアウ王国のその後 ~ ジョホール州へ

以後も、マラッカ海峡の中継貿易ライン上に君臨した ジョホール=ルアウ王国の 国王(スルタン)は、マレー人世界(マラヤ文明圏)の象徴としての権威を保持し続け、オランダ勢力と対抗していく。
しかし、政治の実権は、マラッカ王国以来、マレー半島南端を地盤としてきた有力豪族であるトゥムンゴン家と、海洋交易民族のブギス族から選出される 副王(宰相)らに握られており、スルタン(国王)の宗族をめぐって度々、派閥間の対立が生じ、オランダとイギリスの介入する隙を与えてしまうこととなる。

ジョホール王国、その苦節 200年の歴史

内紛の渦中にあって、王国はイギリスのラッフルズの圧力に屈し、1819年、シンガポール島 へのイギリス商館建設を認める。その後も、ジョホール=リアウ王国は分裂状態が続き、その勢力は弱体化し続けた。
最終的に1824年のイギリス=オランダ協定により、ジョホール=リアウ王国はジョホールと シンガポール、リアウと リンガ諸島に分割され、前者はイギリス、後者はオランダの勢力圏に組み込まれるに至る。

ジョホール王国、その苦節 200年の歴史

1862年、トゥムンゴン家(Temenggung=ジョホール川中流域の有力豪族)出身の アブ・バカールが、皇室を差し置いて、ジョホール王国の国王に即位する(皇帝の称号は 1866年に正式授与)。下写真。

ジョホール王国、その苦節 200年の歴史

マレー半島の他の諸州が次々と植民地化されていく中で、アブ・バカール率いるジョホール王国は国家体制を維持し、華僑資本と協力して独自の経済開発を推し進め近代化を図っていった。アブ・バカールは シンガポール の対岸にあたるマレー半島南端の タンジュン・プテリ(Tanjung Puteri)に港町の建設を指示し、1866年にはリンガ島からマレー半島への王都再移転を決行する。そして 1884年、その港町を ジョホール・バルと命名したのだった。 王宮も ジョホール・バルに遷され(1886年完成)、1894年には憲法を発布するに至る。

こうした一連の偉業から、21代目国王の アブ・バカールは今日、「近代ジョホール」の父と尊称されている。現在も彼の子孫が 国王(スルタン)を継承しており、ジョホール・バルに居館を有する。
中之島仙人

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