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訪問日:2017年1月下旬 『大陸西遊記』~


日本福井県福井市 ~ 福井市人口 27万人、福井県全体 一人当たり GDP 281万円


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  福井城の本丸全景と国道176号線の起点
  環濠平城式の城壁構造
  天守台の石垣と福井地震(1948年)
  御廊下橋 ~ 本丸御殿と西三の丸御座所をつなぐ藩主専用橋
  福井神社と平成天皇の福井訪問
  柴田勝家時代の北ノ庄城
  九十九橋と足羽川
  柴田神社に安置された勝家一家の銅像(半年間だけの家族だった。。。)
 
越前朝倉時代の北ノ庄砦から、柴田勝家の本拠地へ
 
越前時代の柴田勝家の一向勢、上杉勢との戦歴
 
一日で決した賤ヶ岳の戦い(4月21日)後、わずか3日後に落城した北ノ庄城
 
結城秀康による北ノ庄城の改修 ~ 吉野川を移動させる大土木工事 ~ 百間堀、荒川の誕生
 
北ノ庄から福井へ ~ 明治期の福井市中心部



福井市

当地では、福井城本丸跡の真横にある ホテル・フジタ福井 に投宿した(上地図)。
ちょうど、下写真の左奥に見える、白い建物がそのホテルである。

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ここから、越前松平家の居城中核部分が一望できる(下写真)。
ホテルの裏側には、現在、佐佳枝廼社がある。かつての福井東照宮跡である。上の古地図では、堀に囲まれた一つの曲輪であったようだ。

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中央公園を突き抜けて、真正面にある御廊下橋が工事中で(上写真ではカバーがかけられている)、通行不能だったため、駅側の城門橋から本丸へ入ってみる。

ちなみに、この城門橋上を走る道路は国道176号線で、本丸内の県庁入り口までつながっている(下写真右端)。城郭本丸が国道の起点となっている、全国でも珍しい構図であった。

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環濠平城式 の城郭で、内外の濠を掘削して、その土を城壁として盛り上げ、外枠に石材を貼り付けて石垣が築造されていた(下写真)。

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その石垣は、外側は急斜面の美しい湾曲を描く反面、内側はどこからでも登れる階段構造になっており、四方に石段が永遠と続いていた(下写真)。

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今日現在はその一部が崩れて、土塁がさらけ出されている箇所もあった(下写真)。

福井市 福井市
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この 石垣上 に、三層櫓が2つ、二層櫓が1つ、天守閣がそれぞれの四隅に配され、それらを連結する多聞櫓と櫓門(瓦門)が設置されていたという(下絵図)。

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そして、奥側に天守台の石垣が残る。この天守台は相当に大きく、白壁の大天守(高さ 25mの四層五階)と連結した小天守群が、姫路城のようなパターンで構成されていたのではないか、とイメージできた。 しかし、1669年4月の大火により本丸ごと焼失してしまい、本丸御殿などは3年かけて 再建されるも、天守閣はついに再建を許可されなかったという。

また、福井地震(1948年6月28日)で、天守台石垣の一部が崩落しかけたらしく、そのままの傾いた状態で保存されていた(下写真左)。

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ちょうど天守台の真下の城門が、上述の 御廊下橋 となっており、 床面積 1千坪を超える本丸御殿(政庁と藩主の住居部分)と、実際に藩主(松平昌親、重富、治好、 慶永、茂昭の五名。彼ら以外は本丸御殿に常駐した)が居住した西三の丸御座所との 往復で使用していたという。雪や風雨をしのぐために、贅沢な屋根付きの城門橋となっていたのだろう。

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下写真左は、御廊下橋の内部より撮影したもの。
下写真右は、橋工事の作業工程が説明されていた。江戸時代の伝統的な工法に基づいて、復元されようとしているらしい。

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筆者が訪問したのが冬季ということもあり、訪問客も少ないためか、城壁や城門橋の工事が各所で進められており、非常に痛々しい姿の城郭撮影となってしまった。

なお、この本丸石垣の外面であるが、城壁上の樹木の根が地中に相当に張り巡らされているようで、石垣の石材をずいぶんと歪めていた。かなりグネっと湾曲しており、石垣崩落の危険性はないのだろうか、と 疑問 に思ってしまった。

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そして、本丸すぐ横には、福井神社が設置されており(上写真)、幕末の開明藩主の一角を担った第16代藩主の松平慶永(春嶽、下写真左)を祀っている(1943年に建立されるも、1945年の空襲で社殿が全焼している)。親藩大名であったにもかかわらず、安政の大獄で、藩主の座を引退させられた。

平成21年(2009年)6月7日には、平成天皇・皇后両陛下も訪問されたということで、記念碑が建てられていた(下写真右)。その際、先のホテル・フジタ福井(旧ワシントンホテル)に宿泊されたという。

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ちなみに、県庁側の入り口は架け橋式だが、その反対側の城門橋は土橋で、濠が埋め立てられた陸続き式の城門となっていた(下写真)。

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この福井城であるが、もともとあった柴田勝家が築城していた北ノ庄城跡地を拡大、改編する形で、巨大城郭の工事が進められた。この築城工事は、天下普請により主に北陸の各大名ら(後に全国諸藩へ拡大)へ作業負担が割り当てられたため、今でも天守閣の石垣城壁には当時、工事を担当した大名たちの家紋入りの石材が見て取れるという。

このときの大改修工事で、柴田勝家 時代の城郭構造は完全に消失しており、長年、謎多き城とされていたが、平成に入っての発掘調査から、現在の柴田神社あたりに柴田勝家時代の石垣や堀の遺構が発掘されて、脚光を帯びた。ちょうど、このあたりが本丸と天守台であったという。

そのだいたいの縄張り絵図が下記のものという。

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天守閣がちょうど足羽川と吉野川の合流地点に突き出た形で、柴田勝家らしい交戦的なイメージの曲輪(くるわ)配置となっていたらしい。

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西側には九十九(つくも)橋が足羽川に架設されていた (北陸街道の一部を成した)。「九十九橋」とは、たくさんの小舟をつなぎ合わせた橋、という意味である(下写真左)。

当時から半分が石造り、半分が木製の架橋となっており、その珍しい構造は全国でも名を馳せたという。 その一部の石材や復元部分が、柴田神社に展示されていた(写真下段)。
そのときの鉄は、一向一揆の残党の農民らから刀狩で回収したものを再利用したと考えられている(下写真右)。
小船を並べた部分は、木製橋の一部であったと推察される。

福井市 福井市
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下写真は、現在の足羽川。ここに九十九橋が架設されていたわけである。

その川辺にひっそりと、戦災慰霊碑が設けられていた。
太平洋戦争中の1945年7月19日夜半、米軍機B29が 127機の編隊で襲来し、焼夷弾54トンを投下したという。一夜にして福井市域の95%が焼失し、1576名が死亡している。
当時、火災から逃れようと水場を求めて集まった人々が、この川で106名も死亡したと記録されていた。

福井市 福井市

さてさて、話を柴田勝家時代の北ノ庄城へ戻すと、築城開始から 7年経っても未だ完成を見ないまま、賤ヶ岳の戦いの後、わずか一日で焼失してしまうことになる。
柴田勝家(60歳前後)とお市の方(37歳)がここで自害したことは有名。
柴田神社には、柴田勝家公、お市の方、彼女の三娘(浅井三姉妹)の銅像が隣り合って並べられていた(下写真)。

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また、発掘調査で明らかとなった北ノ庄城と福井城との城郭遺構が重なり合うようにそのまま保存されており、勝者が正義となり得た「力による上塗り時代」を象徴しているようで、戦国時代の気風の一端が垣間見れた気がした。下写真。

福井市 福井市

下写真左は、柴田勝家の武勇伝を解説したボード。朝倉氏の軍勢に長光寺城を包囲され、水源を絶たれた際、最後の水瓶を割り捨て、背水の陣の決意を示して兵士らを鼓舞した武人・勝家のエピソードを示す(瓶割り柴田)。

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また、福井県は日本で最も数多くの恐竜の化石が発掘されている地でもあり、駅前に堂々たる恐竜の模型や絵画が飾られていた(上写真右)。最初、到着したときは、前知識がなかったので、派手な駅前広場だなと感じたが、すぐに恐竜関連の「何か」がある土地なんだろうとは推察できた。


北ノ庄城から福井城へ

柴田時代の北ノ庄城が築城される前、当地にはすでに朝倉氏の北の拠点として栄えたエリアであったという。

越前朝倉家の5代目当主であった朝倉教景(1380~1463年)の治世下、越前守護・斯波氏の三重臣の一角として朝倉家は足羽川流域を支配しており、教景は足羽川の上流にある一乗谷に本拠を構えたが、その下流の福井平野のど真ん中に位置する、この北ノ庄の集落拠点も同時に重視しており、その弟の頼景に城塞を建造させ、平野エリアの統括拠点とさせていた(1400年代前半)。
この朝倉頼景が北庄家を興し、以後、当地域の統治を担うこととなる。

なお、当時の北ノ庄の集落地には、吉野ヶ岳に源流を発する吉野川と足羽川との合流地点に位置しており、物流の集積ポイントたり得たことと、豊かな実りをもたらせてくれる福井平野の農村エリアをすぐ近隣に有した地の利が、自然発生的な集落地の形成を促したものと推察される。
特に、福井平野では平安時代後期より、九頭竜川上流の鳴鹿大堰に端を発する灌漑用水路(十郷用水など)が方々に張り巡らされており、農業開発が大いに進んだ穀倉地帯となっていた。

柴田勝家の北ノ庄城は、この吉野川と足羽川とが合流する場所を占拠する形で、城郭の縄張りが構成されていたのだった。
こうした平野部の城郭は、自然の要害の地、というよりも、エリア統括拠点としてのアクセスの利便性を重視されたと言える。

1573年8月18日、織田軍の先鋒・柴田勝家により一乗谷が焼打ちされ、そのまま朝倉軍はちりじりに潰走する。8月20日に11代当主であった朝倉義景が自刃することで朝倉氏は完全に滅亡することとなった。
この戦いで、栄華を誇った一乗谷が壊滅し、その住民らは下流の集落地である北ノ庄へと大量に流入したものと推察される。
越前国を平定後、織田信長は朝倉氏旧臣であった前波吉継(後に桂田長俊へ改名)を越前守護代に任じ、この北ノ庄に奉行所を開設させる。しかし、一向一揆勢が大阪本願寺の支援により反織田で挙兵し、桂田長俊やその後継者の富田長繁らが次々と討ち取られると、以後、越前国は一向一揆の支配するエリアと化す。

織田信長は一揆勢の壊滅を企図し、柴田勝家を再度、派遣し、越前国の平定に乗り出す。
1575年8月、49万石の大名として現地入りした柴田勝家は、越前国の中心都市へと成長しかけていた北ノ庄を、自身の本拠地と定め、巨大城郭の築城を開始する。これが、北ノ庄城である。

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その後も、柴田勝家 は度々、一揆勢の拠点攻撃を続けており、その勢力を北へと拡張させていた一方で(このとき、越前、加賀の農村荒廃が相当に進む)、1577年、上杉謙信の率いる越後勢が能登国、越中国を席巻しつつあった。能登国からの救援要請を受け、信長は北ノ庄にあった柴田勝家を総大将に任命し、近畿から羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀、前田利家、佐々成政らの3万余の大軍を北陸へ派遣する。

8月に北ノ庄城に結集した諸将は、同月8日には能登国へ向けて出陣する。途中、加賀国の一向一揆勢などを平定しつつの行軍であったが、秀吉と総大将の勝家との対立により、羽柴秀吉が勝手に近畿へ帰還してしまうこともあった。

9月18日、勝家らの織田軍は手取川を渡河、水島に陣を張ったが、上杉軍の電撃的な進軍スピードを読み誤り、23日、上杉軍の夜襲を受け、織田軍は壊滅することとなる。織田軍の残兵らはそのまま北ノ庄城へ撤退したものと考えられる。
幸いにも、冬が迫っていることもあり、上杉軍が北ノ庄城へ襲来することはなく、そのまま越後国へ引き上げ、翌1578年3月に謙信が病没したことで、上杉の脅威は消滅したのであった。以後は上杉家の内紛などで弱体化した北陸エリアを、柴田勝家がこつこつと接収し、越後の国境ギリギリにまで織田家の勢力を拡大することとなる。

そんな渦中の1581年4月、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが北ノ庄城に招かれ、ここが未だ築城途上で、城や家屋などの屋根が石葺きであったことを書き記している。
勝家は城下町の発展を企図し、一乗谷から寺社、商人らの北ノ庄への移住を奨励しており、フロイスはその城域が安土城よりも巨大であったと指摘している。

そして翌年、本能寺の変が起こったのだった(1582年6月2日)。ここから歴史は急展開する。

秀吉が6月13日に明智光秀を撃破した後、6月27日に 清州会議 が開催され、以後、羽柴秀吉が急速に台頭することとなる。
7月ごろに、勝家は岐阜城にてお市の方と祝言を挙げ、北ノ庄城へ帰還する。
10月、お市の方、三娘を連れて、北ノ庄城へ引っ越す。

11月3日、柴田勝家は、前田利家らを山崎城に派遣し、秀吉との和議を成立させる。
12月9日、秀吉、勝家との和議を破り、近江に出兵。
     勝家の養子、勝豊の長浜城を包囲、勝豊を降伏させる。
12月20日、秀吉、岐阜城を包囲、城主の織田信孝と和睦。

1583年1月、滝川一益、勝家に与して北伊勢で戦闘を開始。
  2月9日、秀吉、勝豊の兵に余呉の天神山(下地図)に要塞建造を命じる。

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3月3日、佐久間盛政(一向一揆の拠点であった尾山御坊を攻略後、その跡地に最初の金沢城を築城
     した人物)、北ノ庄城から先鋒隊を率いて出陣。北国街道沿いの雪かき作業を進める。
3月9日、柴田勝家、自身を総大将とし、前田利家らを引き連れて北ノ庄城を出陣。
3月11日、秀吉、近江・佐和山城に入り戦議。
3月12日、勝家、玄蕃尾城(今の滋賀県長浜市余呉町柳ヶ瀬)に着陣。
3月17日、秀吉と対陣。秀吉、弟秀長を木之本の本陣(上地図)に置き、長浜城に入る。
4月5日、勝家自ら、堀秀政に鉄砲を撃ちかける。
4月16日、秀吉、信孝攻略のため岐阜城へ向かい二万の兵と共に大垣城に入る。
     柴田勝豊、京都・東福寺で病死。
     秀吉、勝豊の家臣、山路将監(勝家の陣に走る)の母、妻子を惨殺する。
4月20日、佐久間盛政、八千の軍勢により大岩山砦(上地図)を奇襲、中川清秀軍(戦死)を撃破。
     秀吉、柴田軍の開戦を聞いて大垣城から木之本までの52キロを大返しする。

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4月21日、秀吉、佐久間盛政軍を余呉湖の西畔で撃破。柴田勝政(佐久間盛政の実弟、勝家の養子
     になっていた)が戦死。賤ヶ岳七本槍が活躍。
     勝家、毛受兄弟に馬印を与え、北ノ庄へ敗走。毛受家照、勝家の身代わりとなり討ち死。
4月22日、府中城の前田利家、秀吉に降る。不破光治らも降伏。佐久間盛政、鯖波で捕まる。
4月23日、秀吉、北ノ庄城を包囲。本陣を足羽山(当時は愛宕山と通称されていた)におく。

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4月24日、勝家、お市の方を殺害して、火を放ち、自ら自害。
     近臣の者、80人余名も同時に命を絶ったとされる。
     浅井三娘【茶々(淀殿)、初(常高院)、お江(崇源院)】は、北ノ庄城を脱出。
     秀吉、小早川隆景らに北陸平定を知らせる。
     「城中に石蔵を高く築き、天守を九重に上げ候・・・」
4月27日、秀吉、論功行賞にて、北ノ庄城主に丹羽長秀を任じる(123万石)。
5月2日、織田信孝(3月の勝家着陣後に再挙兵したが、すぐに再降伏)、尾張・大御堂寺で自刃。
5月12日、柴田勝敏(権六)、佐和山で斬首される(18歳前後、勝家の唯一の嫡子)。
     佐久間盛政、京都・宇治槙島で刑死(30歳)。

なお、1581年にルイス・フロイスが越前を訪問した折、この権六からも歓待を受けたことを記しており、あえて自身の手記に彼の最期にも触れていた。曰く、「彼は才能豊かな16歳の少年で、信長は自身の娘を彼と結婚させることを望んでいた」と。


下写真は、JR湖西線で敦賀方面から滋賀県に入り、湖東線との乗換駅である近江塩津駅を出発したところ(下写真左の先には琵琶湖が広がる)。賤ヶ岳の戦いの折、この残雪の中を、両軍は対峙していたのであった。

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関ヶ原の戦い 直後の1600年、加賀前田氏の押さえとして当地に配されたのが、徳川家康の次男・結城秀康(1574~1607年)であった。越前国 68万石が与えられ、関ヶ原後で最も出世した大名家となる。

家康は、旧北ノ庄城の跡地に本拠地を定めることを指示し、翌1601年、勝家時代の旧北ノ庄城を拡張させる形で、その総縄張り図を自身で作成した後、天下普請による築城を開始させる。このときは、北陸の大名らが中心に使役と費用を負担させられた。主目的は、加賀前田氏への財政圧迫にあったと一般に指摘される。

1604年、秀康が松平氏を名乗ることを許され、正式に親藩となると、全国諸大名へも御手伝普請の号令がかけられ、作業が急ピッチで進むこととなり、 1606年に完成を見る。
その総城域は、2km四方にも及び、4重5階の天守(1669年4月に焼失後、再建されず)を中心に据える大城郭となったという。
その完成翌年の1607年、松平秀康はわずか34歳で病死する。

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このとき、旧北ノ庄城の堀川であった吉野川の流れが二つに分裂され、片方の旧河道はそのまま城の外濠として活用され(旧百間堀、堀幅は最大 100mあった。上写真)、新規に掘削した方は直角に足羽川へとつながるように土木工事が進められている(現在の荒川、JR線の東側を流れる)。

なお、この築城工事にあわせて、外濠の吉野川の掘削工事以外にも、家老・本多富正により、福井平野中にさらなる用水路掘削が促進され(九頭竜川から取水した芝原用水は、城内と城下町の上下水道を担った)、領内の治水、農田開発が大いに進んだという。

初代藩主の結城秀康の次男であった 松平忠昌(1598~1645年)が1623年、第3代藩主に就任すると、その翌1624年に、「北」の字が「敗北」にあたり不吉であるとして「北ノ庄」から「福居」へ改名され、最終的に「福井」へと決定される。以後、今日まで継承されることとなった。

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