『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:2017年4月下旬 『大陸西遊記』~


日本福岡県福岡市中央区 ~ 福岡市人口 160万人、福岡県全体 一人当たり GDP 290万円


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  元寇~文永の役(1274年秋)~と博多湾岸の古戦場
  元寇防塁の完成(1277年1月)と現存する西新の防塁遺跡
  元寇~弘安の役(1281年6月)~と倭寇による報復活動の開始
  志賀島で発見された金印エピソード
  赤坂山を切除して築城された福岡城
  福岡藩の両国経営と筑前六端城
  福岡城の築城と城下町の整備
  三の丸(地方政務所を兼ねた家老屋敷群)と御高(鷹)屋敷の跡地
  上之橋御門~福岡城の大手門~
  二の丸と南丸
  本丸の南面を守った重層な武具櫓
  三の丸と二の丸とのメイン通用口、松ノ木坂御門
  本丸の主要ゲート・表御門と裏御門
  本丸石垣と本丸御殿跡
  福岡の市街地を一望できる天守台
  かつての手積み石垣が生々しい天守台の石垣群
  今よりも広大だった大濠公園
  黒門川(西取入)と唐津街道、今の黒川通りと唐人町商店街
  昭和期の海岸線跡地~よかトピア通り~から湾岸高速へ、博多湾エリアを臨む
  【豆知識】古代の迎賓施設・鴻臚館 ■■■
  生々しい発掘現場を観覧できる鴻臚館跡展示館と野球場跡
  平安時代の博多湾の海岸線図
  【豆知識】毛利水軍力を活かした小早川隆景 築城の名島城 ■■■
  【豆知識】板付遺跡 ■■■



福岡城は、もともと南に位置した標高 30mほどの赤坂山(現在の赤坂公園・緑地一帯)の緩やかな丘陵地帯の端っこを切り取る形で築城されており、その意味で平山城に分類されている。下絵図。

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なお、この赤坂山であるが、鎌倉時代期、モンゴル軍が文永の役(1274年秋)で襲来した折、元軍・高麗軍の小部隊が上陸し陣を張った場所とされる。最終的には、菊池武房の軍勢が奪還に成功している(赤坂の戦い)。

また、その西隣の祖原山(旧名:麁原山)は麁原元寇古戦場跡に指定されており、ここにも元軍が陣所を連ねていた(下地図)。つまり、今の福岡城を含む西側一帯の丘陵エリアに元軍が上陸していたことが分かる。このため、現在の福岡市博物館がある入り江一帯に元軍が軍船を停泊させて、陸揚げしていたのではないか、と指摘されている。

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文永の役は冬も間近に迫った時期であり、高麗軍を主力とした元軍は大宰府政庁を焼き払った後、急ぐように朝鮮半島へ引き返してくれたおかげで、日本軍は最悪の事態を免れ得たわけであるが、再来襲のリスクが大いにあり、鎌倉幕府は博多湾沿岸に長大な防塁壁の建造を発令する。

冬が過ぎ去った 1276年3月 より工事が開始され、翌1277年1月にはすべての壁が連結し終えて(九州各地の武士団が分担して個別に建造工事を進めていた)、全長20kmに及ぶ防塁壁(当時、石築地と通称された)が完成したという(下地図)。
当時、博多湾の海岸線は全長 32kmあり、岩場や崖以外の砂丘上すべてに渡り、防塁壁が建造されたわけで、モンゴル軍の上陸が容易なロケーションを網羅するものであった。

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現在もその防塁壁は、博多湾岸沿いに断片的に現存しており、福岡市街地だと西新の防塁遺跡が最もアスセスしやすい。ちょうど、現在の西南学院大学の体育館南にある。下写真。

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当時の海岸線は、今よりももっと内陸に位置しており、現在の西南学院大学のキャンパスの南北幅が、そのまま当時の砂丘エリアに相当し、大学キャンパスの北端が海岸線となっていたという(下写真左の奥手に見える自動車の後方)。

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当時、防塁壁は砂丘部分で最も高台となっている位置に築造されており、防塁壁自体は2m弱ほどの高さであったが、海岸線から見た標高は6~7mにもなり得たという。当時の弓矢の射程距離は50m程度だったので、ちょうど防塁壁の上から飛距離をつけて飛ばすと、上陸する直前の渚あたりまで到達し、水辺で行動しづらい上陸軍にダメージを与えられるベスト・ポジションであったという。

しかし、砂丘の高台は地盤が不安定で、砂浜の上に石材と粘土質の土を盛り上げていたため、崩落しやすく、度々の修復作業を要したという。鎌倉幕府が滅亡する2年前まで修繕工事が繰り返されていたらしい。

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1281年6月に元・高麗連合軍が再襲来すると(弘安の役)、防塁壁の突破が困難と見るや、防塁が未設置だった 志賀島 に上陸する。ここから海の中道(約10kmの砂州)を通って、博多平野への侵入を図るも、日本武士団も海の中道で応戦し、その進撃を食い止めることに成功している。


この 志賀島 で、元寇から約500年後の 1784年2月23日(現在の暦では4月12日)、地元の百姓・甚兵衛(実際にはその奉公人の秀治と喜平)が「叶ノ崎(かなのさき)」の田で、溝を修理しているときに、石の下に光るものがあったということで拾い出したものが、『漢委奴国王印』が彫られた金印だった。
旧暦3月16日、那珂郡役所へ発見届「口上書」と現物が提出される。郡役所の奉行であった津田源次郎は金印を儒学者の亀井南冥(なんめい)に調査させ、「金印弁」という報告書を提出させている。以後、福岡藩主の黒田家が代々保管し、1978年に福岡市に寄贈され、現在、福岡市博物館で展示されている。
1820年の記録では、発見者の甚兵衛には白銀 5枚が与えられたという。

実物は、親指ほどの大きさで、思ったよりもずっと小さい。しかし、金の含有量は 95.1%というもので、意外に重く(108.729g)、10円玉 24枚分に相当するという。


元・高麗連合軍はいったん全軍を壱岐島へ撤退させ、寧波より派遣された江南軍と合流すべく、長崎県の平戸、唐津あたりへと移動する。ここに合流した大船団が停泊しているタイミングで、台風が襲ったのだった(7月1日)。

博多湾を防備する日本勢も、その一報を聞き及び、台風が去った後の7月5日に博多湾から平戸方面へ軍船を出して、残党兵力の掃討作戦を行っている。このとき、平戸から唐津に至る玄界灘沿岸には多くのモンゴル軍の兵船や兵士らの残骸、遺体などが漂着しており、これを弔う意味で、以後、糸島半島の先っぽは蒙古山と命名されているというわけである。

しかし、この2度の襲撃で元軍は壱岐、対馬、平戸島、松浦、鷹島、能古島などの一帯を蹂躙し、多くの人々を殺戮、拉致したとされる。
この報復として、半世紀過ぎたころから、朝鮮半島沿岸で倭寇の海賊活動が始まっていくことになる。その初見は、1350年2月の『高麗記』という。

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さてさて、時は下って関ヶ原の戦い直後の1600年冬、 52万米の大々名(下地図)となって経済力豊かな筑紫国に封じられた黒田如水、長政の父子は、この博多湾の海岸線まで緩やかに続いていた赤坂山の丘陵エリアに目をつけて、梯郭式平山城の築城に着手する。実に7年(1601~1607年)の歳月をかけて完成し、本拠地を東隣の名島城から移転することとなる。上地図。

あわせて、本城の福岡城を守るために、「筑前六端城」と呼ばれる、若松城、黒崎城、鷹取城、益富城、松尾城、麻底良城を新築する。麻底良城以外はすべて本城の東側、不仲だったと言われる細川忠興の豊前国との国境地帯に構えられた。さらに後には、支藩として秋月藩、直方藩を立藩している。下地図。
また、藩領の南側に長崎街道が通り、筑前六宿が設けられ、長崎と江戸を結ぶ公用交通の大動脈を支えた。下地図。

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 名島城

1550年ごろ、豊前の大友氏の配下であった立花鑑載が本拠地の立花山城の出城として築城する。しかし、その後、毛利方に寝返り、大友氏の攻撃を受けて、立花氏は滅亡してしまう(1568年)。

九州では薩摩の島津氏が台頭し、北九州の覇者・大友氏が滅亡寸前にまで追い込まれる中で、秀吉の九州征伐が開始され、1587年7月、島津氏も全面降伏するに至る。九州征伐で功績のあった毛利氏の一族である小早川隆景が、筑前一国、および築後国の 2郡(竹野・生葉郡)、肥前国の1郡半(基肄郡・養父郡の半分)に及ぶ 30万石の領土を与えられる。
もともと秀吉に近い存在であった毛利方を、九州にも配することで、この地の抑えも期待されたと言われる。

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新領地に入った 小早川隆景 は、配下の水軍戦力を活かすべく、多々良川の河口に突き出た丘陵部に築城されていた名島城に本拠地を定め、これに大規模な改修を加える。3方を海に囲まれ、その守備力は非常に高かった。

後に小早川隆景は、養子の 小早川秀秋(秀吉の正室・北政所の甥)に家督を譲る(1595年。隆景自身は1597年7月に死去)。そして、関ヶ原の戦い で小早川秀秋はこの筑紫国の軍勢を引き連れて戦場に赴いており、東軍の逆転勝利に貢献したのだった。
戦後、小早川秀秋は備前岡山へ栄転されると、筑前国には豊前国中津から黒田長政・如水が転入される。このとき、小早川氏は城内に備蓄していた全兵糧を持ち去っており、黒田家と一悶着を起こすこととなった。

名島城に入城した黒田氏であったが、城下町の整備を重視して、より平野部に拠点を新築することに決定する。そして、入封の翌1601年より福岡城の築城が進められたのだった。

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このとき、多くの名島城の建物や石材が転用されている。大濠公園と平和台陸上競技場の間に現存する名島門もその一つという。もともとは、名島城の脇門だったらしい。
幕末まで福岡城内に残っていた櫓や城門、家屋などは明治期に民間へ払い下げや、破壊が進められたわけであるが(多重櫓のみ現存)、この名島門は当時の福岡市出身の衆議院議員・平岡浩太郎氏によって買い取られ、戦後の商業ビル開発を避けるべく、その子孫によって再び福岡城内へ寄贈されたものという。

名島城跡地であるが、現在、名島神社と土塁跡の一部、そして一帯の地名にその名残が感じられるのみである。



戦国期 を前提に、もともと強力な毛利水軍力を前提とした防衛力の維持を企した小早川家とは違い、水軍経験に乏しい黒田家は、商都・博多に隣接する場所に政庁を開設し、商人ら(船団も統括した)との結びつきを強めた方がいいと判断して、平野部のど真ん中に新規で城郭を築城したと思われる。

当時はまだ鎖国体制が実施されておらず、中国船や朝鮮船、西洋船は自由に日本国内に入港でき、商都・博多の利点を最大限に活用しようと図ったことであろう。
江戸期を通じ、嶋井氏、神屋氏などの地場商人、中津時代からの御用商人・大賀氏や末次氏らを政商として特権化させていたという。

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そして、大坂城、中津城、名護屋城、広島城など、生涯20余りの築城を手がけてきた名手・黒田官兵衛の最後の城郭設計が、福岡城となった。
この城郭一帯を福岡と名付け、那珂川より東側はそのまま旧名の博多という地名を残し、その城下町を二つの地名で通すこととしたのは有名な逸話だ。

また、この城には内堀も外堀もなく、一重の堀のみを有する珍しいタイプの平山城であったが(ただし堀幅は50m!)、実際には城下町の外郭に相当する東西の端っこに、寺社をうまく配置させる町割りとなっており、これは戦時には、海岸線から那珂川、菰川、桶井川、石堂川、西山に取り囲まれた即席の総構え大城郭へ変貌が可能な 仕掛け でもあったという。

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如水は城内の三の丸にやや高台の御高(鷹)屋敷を設けて、ここを隠居の地と定めた。上写真に見られる通り、現在でもこの高台部分は現存している。石垣はなく、土塁だけで盛り上げられていたようだ。

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なお、福岡城の三の丸は異常に広大で、当時、多くの家老屋敷が軒を連ねていた(上絵図)。ここは家老らの居住区兼、各領地の政務所でもあった。現に、彼らにはそれぞれ石高の領地が記されており(上絵図)、その所領地に関する政務の責任も課されていた。

戦後に発見されることとなったが、この三の丸広場には、かつて 鴻臚館 が開設されていた。



 鴻臚館

飛鳥、奈良、平安時代に開設されていた大宰府政庁の出先機関で、朝鮮半島や大陸中国からの特使のための迎賓館であった。

当時、大陸からの外交団は博多湾(「那の津」)から上陸し、大宰府政庁で入国許可が下りるまで、この地で滞在していた。そして、その通行許可とともに、瀬戸内を通って、平安京(京都)や難波(大阪)に設けられていた別の迎賓館へ移動する仕組みだったという。

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もともとは、倭国の飛鳥朝廷が同盟国の百済救済を決定し、661~666年の白村江の戦いに臨むに際し、その最前線基地として軍事拠点をこの丘陵エリアに建造したことに端を発している。 唐と新羅の連合軍に大敗後、天智天皇はすぐに両国との関係修復を図るべく、博多湾の軍事拠点を外交施設へと改修して、筑紫館(つくしのむろつみ)として再デビューを図らせる。
正式に史書『日本書紀』に初登場するのは688年の新羅からの外交使節団を接待したときの記録とされる。

鴻臚館と通称されるようになったのは、平安時代に入ってからであった。当時の唐王朝において、外交を司る役所であった鴻臚寺にちなんだという(秦王朝時代は典客、前漢朝時代は大行令と呼称され、第七代皇帝の武帝の治世で大鴻臚と改称される。北斉朝で鴻臚寺と定まって以降、清末まで継承された。 唐代もすでに鴻臚寺として機能していた)。

また関係修復後、日本からの外交使節団である遣唐使や遣新羅使、留学生らも、良好な風向きシーズンの到来までの間、ここに投宿したという。鑑真、最澄、空海など著名人らもここに泊まったわけである。

最終的に1047年に放火され、そのまま史書から一切の記述がなくなったという。
以後、東部の砂丘エリアに商業都市「博多」が発達し、対朝鮮、中国との商業貿易はそのまま継続されていった。

平安末期以降、鴻臚館の跡地には、小規模な警固神社が設置されていたが、1601年の福岡城の築城に際し、現在の福岡市中央区天神へ移設されたと考えられている。城内からは、警固神社時代の板碑や懸仏なども出土しているという。

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鴻臚館 は北館と南館の二つの客館から構成されていた。上写真。

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現在、その南館の遺構の一部は鴻臚館跡展示館となっており(上写真)、他は陸上グランドや緑地となっている。展示館の裏手の緑地には、かつての屋敷の礎石が置かれて、展示館内の復元屋敷の全長が分かる設計になっていた(下写真左)。トイレは、建物の外に設けられていたようだ。

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現在の陸上グラウンドは、かつて平和台球場があった場所で(上写真右)、鴻臚館時代には中堀と北館が位置した。
下写真左にある短い茶色の部分が、北館のトイレの位置である。
下写真右の深緑色の部分は、かつて北館と南館を分けた中堀の跡である。

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なお 長い間、鴻臚館の位置は博多遺跡群の一部(下地図)と考えられてきたのだが、大正時代に、九州大学医学部教授の中山平次郎(1871~1956年)が福岡城内説を唱え、戦後の平和台球場の改修工事でその遺構や遺物が発見されたことから、正式に立証されることとなった。

その福岡城説の推定ぶりがなかなか推理小説並みで、びっくりした。
万葉集で詠まれた「波の音と蝉時雨が聞こえた」ということは、周囲に木々が立ち並び、蝉がたくさん止まる場所で、なおかつ波打ち際という、博多湾沿岸のやや高台の緑地エリアに相当する、などの推理には大いに感服させられた。

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下写真 の模型では、上部にある家老屋敷あたりが鴻臚館跡地に相当した。屋敷建設の折には、きっと古代の文物も多数出土したと思われるのだが、そんなのお構いなしに造園されてしまったのだろう。

ここは三の丸で、その北側には福岡城の大手門である上之橋御門があった(下写真の堀の上)。

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本来は枡形の城門なのだが(下写真左)、今日では福岡高等裁判所があるため通行不能となっており、そのまま三の丸石垣が切り崩された形の坂道を上って三の丸広場へ入っていく(下写真右)。

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なお、石垣部分は二の丸から上で、三の丸と堀は一面が土壁であった(下絵図)。敵に攻められても、水にぬれた敵兵らにとって土壁を這い上がるのは石垣よりも困難、となるのを計算しての設計であったという。
水面から1m程度は石垣があり(現存する)、土崩れを防ぐ作用を持ったとされる。

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特に南側の堀は、赤坂山から連なる丘陵エリアの途中を掘削し、水堀を通しており、ここの工事が最も大変ではなかったかと推察される。これらの土砂が本丸や二の丸の造成へ転用されたことであろう。

さてさて、広大な三の丸の一段上には、石垣が張り巡らされた二の丸があり、さらにその上に本丸、天守台が配される、典型的な輪郭式城郭であった。
下写真左は、二の丸跡地。
下写真右は、二の丸から見た南丸の石垣。石材を加工せずに、そのまま積み上げていたことが分かる。戦国末期の名島城からそのまま転用されたものであろう。

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下写真左は、南丸の石垣(右手)と、本丸の石垣(左手)。この本丸石垣の上に、かつて 武具櫓 があった(下写真右)。武具櫓はその名の通り、武器類の倉庫であり、本丸の南面に設置されていた。

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下写真 は、二の丸へ登る松ノ木坂御門の跡地。ちょうどこの下に城内駐車場がある。

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下古写真は、ありし日の松ノ木坂御門。門を挟んで左右の大組櫓と向櫓とは続き櫓であったという。

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下写真は、本丸へ登る城門跡。
本丸への城門は 3箇所、設置されていた。ここは本丸内の藩主屋敷へと通じる裏手の裏御門である。城門の横には二層の古時打櫓(ときうちやぐら、時櫓、太鼓櫓)があり、現在でもその土台石垣が残る(下写真右の右手)。

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下写真が、表御門の跡地。藩主らが本丸と二の丸間の往復に使った正面玄関と言える。
この表御門は1918年に黒田家の菩提寺である崇福寺(福岡市博多区千代)に移築され、現在でも同寺の山門(唐門)として使用されているという。

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本丸 には井戸が3基残されており(下写真左)、現在も水を湛えているという。
下写真右は、東面の本丸石垣と、その先の祈念櫓を臨んだもの。この櫓は本丸の北東方向(鬼門)に位置し、鬼門封じの祈念をするために建立されたもので、現存するものは1860年竣工という。今でもここに保存されているのは、現代人にも無意識的にこの祈念櫓の効用を敬い、その撤去が忍ばれるからではないだろうかと感じた。古の人々の伝承や信心が、今でも大いに影響力があることを示す一例といえる。もちろん、筆者も撤去すべきでないと思っている。

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下絵図は、ありし日の本丸地図。

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天守台 は巨大で、天守閣を建造しなくても、周囲を十分に見渡せる眺望を有しており(下写真)、天守閣が建設されなかったという根拠の一つになっているという。また、江戸期に入ったばかりで、徳川氏への配慮からも建造が見送られた、とも指摘されている。
なお、福岡城には大小 47もの櫓と10以上の城門が建造されており、これらが連携して天守閣の機能を担えたとも考えられよう。

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上写真は、天守台の入り口となる「鉄御門(くろがねごもん)」跡で、敵の侵入を防ぐために幅が狭く設計されている。また、その次の入り口には埋門(うめもん)があり(下写真の中央部にある橋の下)、やはり狭い構造になっている。

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天守台 の礎石(下写真左)や石垣遺構は見事に保存されており、石材のすき間などに人の手作業の生々しい痕跡が感じられて、とても迫力があった。

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「もし天守閣があったならば」として、以下のようなCG映像が公開されていた。
この天守に代表されるように、左右に大きく広がった城郭の全景が、羽ばたく鶴に例えられて、福岡城は舞鶴城とも別称されている。

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明治期、三の丸屋敷は福岡県庁に利用され、後に陸軍連隊の駐屯所となったときに、すべての建物が撤去されたという。第二次大戦中には、福岡市街地とともに、福岡城内の軍事関連施設もすべて 焼失 してしまった(福岡大空襲、1945年6月19日深夜)。

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さて、三の丸の外側には大濠公園があり、現在は市民の憩いの場となっている。かつては、美術館やアメリカ領事館もすべて水の下に収めた巨大池で、その広大な面積に圧倒される。上地図。

築城当時、入り江で湿原化していた西の草香江を、博多湾と分離させて大堀(大濠)とした。
ここから海まで黒門川(西取入)という人工川でつなげ、堀の水位が調整されていたようである。下古地図。

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黒門川沿いに黒門という城門があり、現在でも昭和通り沿いのバス停名として現存していた。

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この先に黒川通りがある。ここには、木門が復元されて、それなりの雰囲気が醸成されていた(上写真左)。そして、ここを東西に横断するメインストリートが、唐津街道であった。かつて福岡藩や唐津藩の参勤交代にも使用された公用道路である。現在、小さな商店街が残る(上写真右)。

その裏手に、黒田如水の正室・光が死去した際(1627年、75歳)、その火葬を行った場所という(端雲山)善龍寺があった(下写真左)。その位牌は、圓應寺(福岡)に安置されている。

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その西側にホークスとうじん通りがあり、菰川 が流れる(上写真右)。ここは、ほとんどが海水ではないかと思えるぐらいに水が澄んでおり、また流れが全くなかった。昭和初期までは、よかトピア通りは海岸線で、福岡市民らの海水浴場であったという。このあたりも河口部として普通に海水であったと思われる。

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そのまま帰りは、よかトピア通りから303番路線バスで天神まで戻った(230円)。ちょうど福岡港の湾岸高速上を渡っての移動だった。港湾エリアの眺望がすばらしかった(上写真)。ビル群がなければ、福岡城が見渡せる位置なんだろうが。。。。右手は西山。

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下は、板付遺跡 の復元模型。
現地では実物サイズで復元された竪穴式住居などが見られる。目下、住宅街のど真ん中にある。福岡駅からはバス移動が必須。路線バス㉙と㊵で、最寄りのバス停は、「板付団地第二」 。

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標高11mほどの丘陵エリアに開設された日本最古の農耕集落の一つで、南北約110m、東西 80mの堀が巡らされており、弥生時代初期の典型的な農村集落とされる。
これより一段低い土地では、水路、給排水施設(堰と水口)が整った水田が開拓されていた。その水田跡に農耕民の足跡が発見されており、鑑識の結果、「歩いた人の身長は164cm前後で、歩行途中で滑りそうになり、体勢を立て直している」という。
また、上写真の右端には墓地も復元されている。



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