BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2017年2月上旬 『大陸西遊記』~


兵庫県 姫路市 ~ 市内人口 54万人、一人当たり GDP 289万円(兵庫県 全体)


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  【姫路城】内堀エリア
  【姫路城】中堀エリア
  【姫路城】外堀エリア
  【豆知識】姫路城 ■■■■
  【御着城】城域地図の 今昔
  【御着城】1年超の 籠城戦(小寺軍 vs 織田軍)
  【御着城】本丸 と 内堀跡
  【御着城】二の丸跡と 旧西国街道
  【御着城】江戸期に建造された 天川石橋
  【豆知識】御着城 ■■■■
  【英賀城】播磨に君臨した 三大巨城の一つ
  【豆知識】英賀城 ■■■■
  【国府山城(妻鹿城)】黒田官兵衛の 父・職隆の隠居城
  【豆知識】国府山城(妻鹿城) ■■■■
  書写山円教寺 と 秀吉の本陣跡
  青山・土器山の 古戦場跡(黒田官兵衛の初陣)


姫路市内は、JR線と山陽電車、そして路線バスの交通網が発達しており、史跡観光には何不自由ない場所であった。


姫路城

国宝であり、世界文化遺産である姫路城の壮麗さは言わずもがなであるが、主郭部の 三の丸、二の丸、西の丸、本丸、天守閣が十分過ぎるほどに見応えがあり、この外部に残る 中堀、外堀や 外部城壁片の諸遺構が見過ごされがちであるため、本稿では、あえてこれらの「城外」遺構群に スポットライトを当ててみた。

姫路市

姫路東高校、姫路医療センターなどが軒を連ねる東側には、中堀と石垣が現存する。この中堀の南辺は現在の国道 2号まで続いていた。ちょうど姫路市民会館前には、その石垣跡が残る。

また、この中堀の外側を走る JR播但線沿いには、外堀跡が残る(城東小学校あたり)。この外堀は、現在の姫路駅が南端であった。


姫路城 の歴史は、南北朝時代の赤松氏による要塞築城にまで遡る。
1346年、赤松貞範により姫山上にあった称名寺の跡地に城塞が築造される。1349年、臣下の小寺頼季に城代が任され、以後、小寺氏が城主を担当した。

1519年に御着城が完成し、小寺則職が本拠地を移転すると、姫山城は家老の黒田家が守備を司ることとなる。
戦国末期、織田信長の命により秀吉の播磨平定戦が展開される中で、姫路城は黒田氏により秀吉に献上され(1578年)、秀吉が 3層の天守と大規模な石垣を有する近世城郭へと大拡張工事を手掛ける(1580年)。
その後、城主は秀吉実弟の 豊臣秀長(1583年)、秀吉配下の 重臣(妻おねの実兄)・木下家定(1585年)へと交代され、関ヶ原合戦 まで継承される。

姫路市 姫路市

1600年、 池田輝政が播磨 52万石で入封すると、本城・姫路城は西国への最前線基地として、大城郭の築城が家康から指示される。輝政は家康の 娘・督姫と結婚した縁もあり、譜代大名として重宝されたわけであるが、その築城工事は播磨藩に大きな負担をかけ、多くの家臣たちが反対したという(1609年完成)。

実際、姫路城は 男山、景福寺山などの同規模の小山が周辺に点在する上、書写山、広峯山などの大山脈が周囲を囲っているため、決して要害の地というわけではなく、そのことは輝政自身も熟知していたが、西国への威嚇という意味を込めて、見栄を張った惣構えが施されたのであった。

姫路市

また、前述の通り、播磨国は豊臣家とのつながりが深い地で、ここに楔を打ち込む意味でも、徳川家康は輝政を意図的に配し、秀吉ゆかりの城郭を壊して、徳川色に染め上げた城郭を見せつけようとしたと推察される。



御着城(天川城、茶臼山城)

JR御着駅から、徒歩 10~15分ほどの場所に位置する。
現在は、国道 2号線と宅地開発で完全にその城郭遺構は失われてしまっているが、戦国期には、英賀城や 三木城 と並び、播磨の三大巨城と称えられるほどの大城郭を誇っていたという。
天川が蛇行する湿地帯と標高 2~3 mほどの茶臼山を利用して、本丸郭等が構成されていた。

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1578年 7月、荒木村重が 有岡城(伊丹城)で信長に対し反旗を翻すと、同年 11月、御着城内の小寺軍もこれに呼応し毛利方に寝返りを決定する

しかし、直後に有岡城や摂津国の荒木軍は平定され、いよいよ織田方の播磨平定戦が本格化するタイミングに重なってしまうこととなる。
1579年4月12日、信長の 嫡男・織田信忠は別所氏に組する播磨の諸城への攻撃を進めるべく、三木城 の秀吉本陣へ戻る。
そのまま信忠は秀吉を伴い、御着城へ兵を進め、4月26日、兵力 10,000で完全包囲するに至る。
西国街道沿いの住民や寺院僧兵らはみな御着城に入城していたため、織田軍はそれら街道沿いに位置する別所地区の民家らをすべて焼き払いながら、西進したという。

御着城を包囲後、織田信忠、秀吉は本陣を 南山(火山)に構築する(樋山陣)。ちょうど、御着城の真南に天川を挟んで対峙する標高 166 mの巨大な山である。
しかし、着陣早々に御着城からの夜襲に遭い、南山の本陣は壊滅して、信忠、秀吉らは的形の引入谷まで撤退したとされる。

翌日、体制を建て直した織田軍は再び、南山に本陣を構築して要塞化し、防衛体制の強化を図った。
その準備が完成した後の 4月29日、織田信忠は本国の 岐阜 へ帰国し、以後は秀吉が指揮することとなった。

毛利方 の援軍を徹底的に追い散らかし、戦況が落ち着いてきた同年 10月、秀吉は 小寺休夢斎(地蔵院善慶)を派遣し、御着城方に開城を勧めるよう説得を命じる。

有岡城三木城 との共闘のタイミングを逸し、単独での籠城戦は困難と見た城主の小寺政職は、直後に御着城を抜け出し、英賀城を経て、海路、毛利領・鞆の浦 へと落ち延びる。

三木城の別所長治から援軍として派遣され御着城に入城していた家臣の岡本孫太夫秀治は、城主の小寺政職の逃亡後、期待していた毛利の支援は得られないと覚悟し、翌 1580年1月10日、織田方に降伏し開城する(三木城もこの 1週間後の 1月16日に開城した)。岡本秀治は許され、秀吉の 重臣・蜂須賀正勝の配下に組み込まれ、そのまま御着城の守備を任されることとなる(同年 4月、城の解体開始)。
この後、岡本孫太夫秀治は天川正則と改名し、廃城となった御着城跡地の大地主として君臨したようである。

下写真左は、御着城跡の南側に堂々とそびえたつ南山の全景。織田方が本陣を置いた。

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上の 古城地図 を照らし合わせてみると、現在の 姫路東出張所(御着出張所)は本丸に備えられた出丸の一部であり、かつての本丸部分は、黒田家廟とその近隣の戸建て家屋一帯に相当することが分かる(下写真)。

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姫路東出張所の裏手の路地は、かつての内堀跡である(下写真)。

姫路市 姫路市
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小寺氏三代を祭った小寺大明神がある小公園(上写真右)も本丸の一部で、他よりも高台の地形が伝わってくる。
現在の国道 2号線(下写真右)は本丸郭を掘削して整備されたことが分かる。

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姫路東出張所の東横の運動グラウンドは、二の丸 郭に相当した。
グラウンドの周囲は、小高い土盛りの跡がみられ、かつての土塁跡という(下写真)。そのすぐ外側に中堀が掘削されていた。
姫路東出張所とグラウンドとの間の道路は、かつて内堀が巡らされていた。

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また、御着城の惣構えの城郭内に西国街道が通っていた。現在でも、古い家屋がいくつか見られる通りだ(下写真)。
この街道は、JR御着駅の西側に保存されている国分寺跡の門前も通過する古道で、奈良時代以前からすでに開通していたものと推察される。

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この通りは、御着駅前から 別所町佐土(下写真左)~ 別所村 ~ 北宿 ~ 高砂市阿弥陀町志方神吉三木城下 までつながっており、現在も集落地のメイン・ストリートとして現役である。

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上写真右は、旧西国街道の現在の 天川橋
姫路東出張所の裏庭に保存されている 石橋(下写真)は、江戸期に姫路藩が建造した、かつての天川橋で、当時、西国街道沿いの天川に架設されていたものだった。

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明治初期の撮影と見られる、現役当時の石橋の 様子(下写真)。

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古代 より天川が蛇行し、低湿地帯が広がっていたエリアに西国街道が通っており、その街道沿いには必然的に川渡しの船頭街が 形成されていた。その集落地の徴税管理を担うべく、 湿地帯の最も高台にあたる茶臼山に 租税管理役所(御着納所)が設置されたのが、最初の行政機関という。

史書には、播磨守護の赤松氏の治世時代に設置されたと記録されており、 この租税管理役所の城館が、本格的に領主用の城郭へと拡張されるのは、 姫路城主の小寺政隆が本拠地移転のために本格的な大工事を手掛けて以降という(1519年)。

しかし、1530年に細川高国と浦上村宗の連合軍との庄山城の戦いで、御着城主の 小寺村職(政隆)は戦死し、そのまま御着城も一時的に浦上軍に占領されるも、翌 1531年に 細川・浦上の連合軍は壊滅し、御着城は小寺政隆の 子・則職へ返却されることとなる。

以降も、御着城の整備工事は続行され、播磨の三大巨城と称されるまでの規模に変貌を遂げる。大規模整地と土塁建造により、本丸と二の丸を隔てる複数の内堀、外堀が掘削され、北と東は四重の堀、西と南は天川を天然の外堀とする二重の堀を巡らし、侍屋敷・町屋・寺院をも城内に囲み込む 惣構えスタイルの大城郭が姿を現すこととなった。

当時、城外東(現在の佐土村)の西国街道沿いに市が、また城外西は天川を越えた御着西エリアに市が立っていたという。 
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もともとの小寺氏の拠点であった姫路城は、家老の黒田家がその城代を担当した。

小寺則職の子の政職の治世時代も、引き続き、さらに城郭内の屋敷や石垣の一部整備が進められ、この頃、河川堤防を兼ねた土塁は増築に増築が重ねられて、その土台幅は 10 mにも達する分厚いものになっていたという。

ほぼ同時期、織田方の播磨侵攻が開始され、小寺氏は別所氏に従って早々に織田方へ帰順するも、三木城の別所氏、摂津国の荒木氏の織田離反に呼応して反織田で挙兵し、1年超の籠城戦の後、開城し、降伏するに至る(1580年1月10日)

播磨平定戦後、御着城は間もなく解体が開始され(同年 4月)、それらの部材は近隣の民家や寺社の復興にそのまま転用されたものと推察される。



英賀城

現在は、全く城郭遺構が確認できないほどに宅地開発されている。英賀神社に一部の土塁と史跡案内板が見られるのみである。英賀城本丸は、水尾川沿いにあった。

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別所氏の 三木城、小寺氏の御着城と共に、播磨三大巨城と称される。東西を水尾川と夢前川に、南面は播磨灘の海岸線、北面は低湿地帯が広がる四方を水辺に囲まれた天然の要害であり、水上交通の要衝を成す港町を内包する惣構えの大城郭であったという。
姫路市立英賀保公民館には、当時の古地図が展示されている。


鎌倉時代 にはすでに城館が設置されていたが、室町時代に入ると、永享年間(1429年〜1441年)に赤松祐尚により城館の拡張工事が進められ、 赤松氏の一族が守備するも、嘉吉の 乱(1441年)によって赤松氏自体が勢力を失った後、 三木氏が城主となって城の整備をさらに進める。

1580年に秀吉により攻められ、集落地を含む城郭の大部分が焼失されるまでの約 140年間、三木氏は的形から室津の海岸線沿いを中心に一帯を支配し、東播磨で一大勢力を誇っていた。城内には本丸、二の丸をはじめ、一族がそれぞれ大邸宅を構えていたという。また、英賀御坊(英賀本徳寺)はじめ 35の真宗寺院、商家や住宅が立ち並び、交易の盛んな 港町(49町、約 900軒)として大いににぎわったという。

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1577年当時の資料には、城域は東西 900 m、南北 800 mで、総面積 56ヘクタールを記録し、その周囲を総延長 3,700 mの土塁堤防が取り囲み、10の城門が設置されていたという。

1938年ごろまで城郭土塁が市街地一帯の方々に残っていたらしいが、今日では英賀神社と 英賀薬師(城主の墓所・法寿寺跡)の北側にだけ残存するのみとなっている。後者には、英賀城の 10城門の一つである井上口跡と 全長 10 m、幅 10 mにも及ぶ土塁堤防跡が見られる。その外側に幅 18 mの堀を有していたという。



国府山城(妻鹿城)

標高 100 mほどの甲山の山頂にあり、西に市川を有する要害の地であった。 今日、甲山の南側に荒神社があり、ここが登山口になっている。

姫路市

伏見城内にあった 福島正則 の屋敷での酒豪対決で、豊臣秀吉から下賜された名槍・日本号を正則から勝ち取ったエピソード 「黒田節」で有名な 母里友信(もり とものぶ)の故郷でもある。
下写真は、母里友信と 大身槍・日本号(刃長 79.2 cm、総長 321.5 cm)。福岡市博物館 に展示されている。
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国府山城(攻山城、妻鹿城、甲山城、袴垂城)は、市川左岸の 甲山(標高 102 m)にあり、その初代城主は妻鹿孫三郎長宗という。 彼は元弘の 乱(1331~1333年)で、赤松円心に属して戦功を立て、これにより妻鹿地方の領有が開始され、ここ 功山(甲山)に城塞が築かれたという。
その後も、妻鹿氏が城主を務めるも、一時期は血筋が断絶し、赤松氏の一派が妻鹿氏を名乗って、本城を継承したといされる。

黒田官兵衛 の父・職隆が 1573年、本城・姫路城を息子に譲り、自身はこの 国府山城(攻山城)に移り、隠居城とした。
1580年1月、三木城 を攻略した秀吉は、そのまま三木城を播磨の拠点としたが、これに対し、官兵衛は三木城が対毛利戦上、戦略的に不便であることを進言し、自らの居城である姫路城を秀吉に譲り、一族郎党を連れて 国府山城(攻山城)へ移住する。
1585年、黒田職隆が没すると、そのまま城主はつかず、廃城となる。
この頃、黒田官兵衛は、前年に勃発した 小牧・長久手の戦い(1584年)の戦功により、 播磨 5万石の領主となっており、翌 1585年には秀吉の四国遠征に従軍した多忙な身であった。
現在、黒田職隆の 墓(廟所)が妻鹿町内にあり、今でも町民に「筑紫さん」と呼ばれて、親しまれているという。

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なお、本城は砦のような小規模な規模であったが、大変に機能性を有していたことが指摘されている。

1、堅固な防御力
市川は妻鹿の河口で二つに分かれ、一つは現在のように南に流れ、別の流れは現在の浜国道の南沿いに流れ、今は埋め立て地となっている妻鹿港に流れていて、天然の堀を有するものであった。また、南の一部には松原山があり、東には 御旅山、妻鹿山が連なっていて、北は急峻な切岸をなし、妻鹿村全体が大規模な天然の惣構えに守られていたことが分かる。

2、瀬戸内海や播磨平野を一望することができる、開けた視界

3、姫路城と 瀬戸内海とを連結した水運交通の利便性
市川は当時、現在の京口川とつながっており、姫路城近くまで船だけでアクセスすることができた。軍の移動も物資の運搬にも大変便利がよく、真北に位置する姫路城の枝城としては申し分ない役割を担えた。



書写山円教寺 と 秀吉の本陣跡

平安末期、源義経の重臣となる前の 武蔵坊弁慶 が、一時期、この書写山で修行したと言い伝えられており、その名残の遺跡がいくつも点在する。
今でも我々が避けては通れない、「弁慶の泣き所」のエピソードが生まれた場所ともされている。弁慶 が修行中に足をぶつけて、大男ながら涙を流したという石が、今も保存されている。

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書写山円教寺は、何百年もタイムスリップしたかのような印象を来訪者に与える厳かで、中世日本の風情を色濃く残す古刹で、ここではドラマや映画の撮影が度々、行われてきたという。


1578年2月、三木城 の別所長治が反織田で挙兵すると、東播磨一帯が毛利方となり、播磨の東西を 毛利方 に取り囲まれる形となった姫路城在陣中の秀吉は、とりあえず、織田信長に窮状を報告して、援軍を要請するとともに、東へ通じる街道確保のため、三木方に組した 野口城 一帯の制圧を最優先することとなる。

と同時に、黒田官兵衛 の進言により、秀吉はその本陣を姫路城から書写山へ移動させる。その理由として指摘されるのは、書写山がもともと要害の地で東西南北への眺望が開けていたこと、また 600年の歴史を有する古刹であり、すでに相当の食糧の貯えと居住空間が装備されており、大規模な兵員を即刻、収容できたこと、そして、御着城にいる小寺氏への警戒などが挙げられている。

しかし、円教寺側への事前通告はなく、不当な乱入として大混乱を巻き起こすこととなった。
「比叡山延暦寺を焼打ちした織田方」という悪評から警戒されていた秀吉軍は、そのまま土足で寺院やその聖域へ踏み入ることとなり、多くの僧侶は恐れをなして逃亡したという。それでも頑強に下山を拒否した僧侶らは力づくで追放される。
こうして同年 3月6日、秀吉軍は山頂の十地坊への本陣設置を完了する。
当時、円教寺は 27,000石もの寺領を有していたが、すべて没収される。
この織田方の在陣中には、本尊如意輪観音像や 薬師如来像、阿弥陀三尊象など多くの仏像や寺宝が秀吉の 本拠地・長浜に持ち去られたという。戦後に如意輪観音像は返却されたものの、他のものはそのまま戻ってこなかったという。
三木城 の落城後、秀吉はその本陣を書写山から引き払い、三木城へ移す(直後に姫路城へ再転入)。その後、秀吉はその謝意として円教寺側へ 500石を寄進するだけとなった。以後、円教寺はかつての勢力を再興することなかった。

開山以来、多くの皇室や貴族、武家らの帰依を受け、その威名を全国に轟かせており、特に花山天皇は 2度も当地に足を運び、また後白河天皇も 7日間、仮修行として円教寺に投宿し、後醍醐天皇は隠岐島より帰京の途上、この大講堂に一泊したと記録に残る。さらに、平清盛、源頼朝らも寺領を寄進したり、講堂を建立している。
江戸期に入っても、姫路藩の藩主から手厚い保護を受けて、本多、松平、榊原氏らの援助を受け、境内には 8大名の墓所が設置されているという。
その威名は今日まで継承され、18棟もの重要文化財を有する古刹中の古刹となっている。



青山・土器山の 古戦場跡(黒田官兵衛の初陣)

現在、船越神社が麓に建つ 秩父山(土器山・姫路市下手野)が、黒田官兵衛 の陣地跡とされる。山頂からは古戦場跡や龍野街道などが一望できる。
現在の青山ゴルフクラブ敷地内の 千石池(戦国池)が決戦場となったとされる。


1569年夏、龍野城主の赤松政秀は 3000余りの軍勢を引き連れ、龍野街道(古代山陽道)より姫路城へ攻め寄せる。

そもそもの事の発端は、播磨守護の赤松氏本家と 分家(龍野赤松家)との内部争いであり、そのいずれかに組するかで播磨国は大きく割れることとなり、その先制攻撃を受けたのが、赤松氏本家側に味方した御着城の小寺氏であり、その出城の姫路城なのであった。ここの城代が 黒田職隆・官兵衛の父子であり、官兵衛 が初陣として、龍野赤松軍を迎え撃ったわけである。

官兵衛は手勢 300の兵を引き連れ、現在の 夢前川(菅生川)近くの 土器山(秩父山)に布陣する。
御着城主の小寺政職は主力軍を引き連れて、赤松氏本家の置塩城へ援軍に出向いており、姫路平野で動員できる兵力はわずかしか残されていなかった。官兵衛の 父・黒田職隆も一部の兵力で姫路城の守りを固めることとなった。

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同年 8月9日深夜、官兵衛は多勢に無勢の中、長期戦は不利と見て、短期決戦による撃退を企図し、黒田軍との戦力差に慢心していた着陣早々の龍野赤松軍への夜襲を決行する。赤松軍は黒田軍が陣取る土器山の裾野まで接近して陣所を構えていたようで、この 麓一帯(土器坂)が激戦の場となったという。

しかし兵力差は覆しがたく、夜明け前までに官兵衛の 叔父(職隆の実弟)の井手友氏や母里小兵衛などの有力な武将が次々と戦死していく。

夜明けになって、英賀城主の三木通秋が派遣した 280の兵が夢前川の川下から、また、姫路城から父の職隆らが出撃して夢前川の川上から加勢し、赤松軍は総崩れとなり、いったんは夢前川の対岸へ避難し、昼には小丸山の本陣に兵を撤収させる。

この一夜の激戦で、黒田官兵衛 の部隊は大損害を被っていたが、その夜にも敵方の本陣へ切り込む形で、連続の夜襲を決行する。前日の疲れと、相手方へ与えた絶大なダメージから守備への警戒心を解いていた龍野赤松軍は再度の急襲で度胆を抜かれ、敗走へと追い込まれる(青山の戦い)。逃げる赤松軍にさらなる追撃かけ、黒田軍は現在の太子町まで残党兵の掃討を続け、数百人を討ち取ったという。

しかし、この深夜未明から同日深夜に至る一日の戦闘で、官兵衛軍 300騎のうち、死傷者は 287人にも上ったとされ、まさに死に物狂いの戦いを決行していたのであった。
この戦闘で、官兵衛は寡兵にあって圧勝を手にした采配を高く評価され、播磨全土に勇名を轟かせることとなった。



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