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訪問日:2017年6月上旬 『大陸西遊記』~


日本島根県出雲市平田町 ~ 出雲市人口 16万人、島根県全体 一人当たり GDP 280万円


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  平田城の地形
  平田城の郭跡と堀切跡
  【豆知識】平田城 ■■■
  平田本陣記念館
  本木佐家の邸宅跡と藩主の宿泊所
  木綿街道・平田の旧市街地の歴史



出雲市東林木町にある 鳶ヶ巣城 を視察後、さらに国道431号線を東進し、15分ほど先にある 国道275号線で左折する。平田ショッピングセンター ViVA などの郊外型の巨大モールを 横目に、船渡川まで至るとさらに東進し、愛宕山公園を目指した。

この愛宕公園の一帯に、かつて 平田城 が設置されていた。

出雲市平田町

尼子再興軍との戦争時には、幾度も攻撃を受けたが、鳶ヶ巣城に本陣を構えた吉川元春 は、その配下の牛尾大蔵左衛門らを守備軍として派遣し防衛戦を展開することとなる。

この時代、斐伊川は西の 出雲大社 側へ向かって海に注いでおり、平野の東部は小さな 小川が複数流れる、大規模湿地の湖畔エリアだったという。当時の宍道湖は今よりも大きく、 現在の斐川町、島村町、平田町の大部分は湖底にあったという。こうした事情から、 戦国期の平田城は、東面のすぐ下まで宍道湖が迫り、 その西面から南面には小さな小川に過ぎなかった船渡川が流れるという、要害の地形を 有していたことが分かる。
地理的にも、北山山系の大船山から南に延びる丘陵エリアの先端部の、 やや独立系の小山上に位置しており、その規模はかなり小ぶりだったが、 宍道湖の西部の出入口を抑える重要拠点たり得る場所であった。

戦国期には、すでに船渡川沿いに町人町が形成されていたようで、その由来は 1300年代に近江商人によって日本海交易ルートが開拓された当時にまで 遡るという。

出雲市平田町


下写真左は、船渡川から 平田城 の全景を眺めたもの。
下写真右は、山麓の極楽寺と平田城。この極楽寺の斜面はかなり急峻で、その 真上に主郭(本丸郭)が設置されていたようである。

出雲市平田町 出雲市平田町

小ぶりな山城であったが、中央広場や山頂部などに、曲輪跡の形状がよく残っていた。
下写真左は主郭(本丸郭)跡地。この柵の真下は急峻な坂となっており、その山裾に極楽寺が ある。
下写真右は西1郭の跡地。散策道の一帯はかつての堀切の跡。

出雲市平田町 出雲市平田町

本丸郭(展望台)の周囲には、散策道が縦横に張り巡らされており、これらもすべて堀切の跡だ。

出雲市平田町 出雲市平田町

平田城に関する解説板は、本丸郭(展望台)に一枚、設置されているだけであった。 山裾には何も看板もなく、明確な目的をもって訪問しないと、最後の最後まで 城跡とは気が付かないであろう。

出雲市平田町


平田城 は、手崎城・薬師城とも別称され、 出雲・隠岐などの守護を務めた京極氏の家臣・多賀氏により築城された中世の山城である。
以後、応永から大永年間(1394~1528)を通じて、多賀氏の拠点となったという。

1528年、出雲国内を完全に掌握した尼子経久は、その配下・飯野氏を城主として入城させるも、 1562年に毛利元就の出雲侵攻により、毛利氏に占領されてしまう。

以後、毛利統治下で宍道湖の水運拠点の一角として重視され、1570年の尼子復興軍との戦いでは、 熾烈な攻防戦が繰り広げられる地となった。特に、尼子再興軍に組した 出雲平野南部の高瀬城(出雲市斐川町荘原)主の米原綱寛が主力となって何度も攻撃を加えたという。 尼子方にとっても出雲平野と島根半島との交通の要衝であった平田城の 攻略は絶対目標であった。
結局、ここを落とせなかった尼子方は、主力が釘付けとなる形となり、守勢に追い込まれることとなる。




続いて、隣接する丘陵地帯の西側に設置されていた 平田本陣記念館 も訪問してみた(下写真左)。

出雲市平田町 出雲市平田町

平田本陣博物館の入り口だが、ちょうど陣屋屋敷の台所にあたるらしい(上写真右)。
また、ここにあった来館者用のトイレがなかなかユニークだった(下写真左)。 江戸時代の桶をイメージしたものだった。最初に目にされると、思わず驚嘆の声が出てしまうに違いない!

出雲市平田町 出雲市平田町

上写真右は、「日本庭園 ランキング2016」で32位に初選出されたという、当館自慢の日本庭園。
せっかく丁寧に整備が施された日本庭園と観覧の間であったが、平日の昼間とあって、 誰も観光客がおらず、贅沢にも筆者一人の貸し切り状態だった。

元々は、木綿の集積地、および出雲平野の東部最大の港町として発展した平田の旧市街地の ど真ん中(出雲市平田町本町)にあったらしい。1735年建築の当時の図面そのままで 当地に移築されたという(1989年10月1日完成)。古来の木組で設計され、釘は一本も使用されていないらしい(下写真左)。

出雲市平田町 出雲市平田町

この屋敷の代々のオーナーである 本木佐家 は、江戸時代を通じて平田の交易町の経済を牛耳っていた 豪商一族で、その邸宅の一部が藩主の来訪時の宿泊部屋(本陣宿)として提供されていたという。

松江藩 の歴代藩主は、 鷹狩りや出雲大社への訪問時に当屋敷に立ち寄り、 代々の本木佐家の当主らと親交を深めた。このため、本木佐家の当主は茶道、絵画、俳句などの 教養を積極的に見につけていたらしい。
上写真右は藩主専用部屋で上座が設けられている。その名も、 「上の間」で、この手前には、「次の間」という名の部屋もあり、 第一印象は「分かりやすっ!」だった。 近侍 の家来たちの控え部屋だったのだろう。

出雲市平田町 出雲市平田町

上写真左は、藩主専用の出入り口「御成門」。平田本陣博物館の全景を撮影した 上方写真の手前にある木門が外面にあたる。
その他、藩主専用の風呂場、大小便用の専用トイレ(上写真右)までも設置されていた。

出雲市平田町 出雲市平田町

江戸時代、斐伊川の流れが変わり、宍道湖へ注ぐようになると、出雲平野の東部開拓が 急速に進むこととなった。元々、平田城下で形成されていた町人街では、船川運河が 積極的に掘削され、宍道湖と出雲平野をつなぐ水運拠点都市へと大変貌を遂げることとなる。 松前藩主導で綿花生産が奨励され、その木綿製品は「雲州平田」に名を冠して 平田港から大消費地の大阪へと出荷されて、大いにその価値を評価されたという。 江戸時代後半には、そのネームバリューは日本中に鳴り響き、当地の商人らは大いに 繁栄を謳歌していたそうである。

旧市街地にあたる平田本町には、まだ旧家屋が複数現存しており、 江戸期の街の風景を色濃く残しているという。太平洋戦争時、鳥取県と島根県は米軍の空襲を 受けなかったので、このエリアの旧市街地は貴重な歴史の保存庫となり得たのだった。さらに、 宍道湖南岸に道路や国鉄が開通し、出雲平野の北側は経済開発から取り残されたことも大きかった。

出雲市平田町 出雲市平田町

上写真右は、平田本陣博物館 2階の民芸品の展示コーナーにあった 古民家の階段。階段下のスペースを引き出しに使うという、その工夫っぷりに思わずシャッターを切ってしまった。



 江戸時代以降の本木佐家

江戸時代、藩主から名字帯刀まで許され、権勢を誇った本木佐家であるが、幕藩体制が 解体して以降も、引き続き、出雲北部の政治、経済、文化界に君臨したようである。

明治14年に家督を継いだ第八代徳三郎守久(尼子時代の「久」を代々、その名に継承させていた) は、巨額の私財を投じて、養蚕伝習場、製糸場を設立する。さらに、1897年に 平田銀行を興して自ら頭取に就任し、1902年には蒸気機関を据えた両全製糸会社を設立、 同年、宍道湖水運のため汽船三隻を建造し蓬莱社も設立する。 1914年、一畑軽便鉄道会社を興し、社長に就任するなど、地元産業の開発に尽力し、 国会開設後の明治25年には第二回衆議院議員に選出され、政治家としても知られるようになる。 引き続き、平田の地を訪れる文化人らとも交流を続け、自身も多くの名画を残している。

出雲市平田町

第九代徳之助範久は昭和23年、町民の衆望に押される形で平田町長に就任、その後、近隣の町村を 合併して市制を施行し、昭和30年に初代平田市長に就任している(平成17年に平田市は 出雲市と合併し、消滅する)。以後も、地元の教育や文化、産業育成に力を注いだことが認められ、 初の平田市名誉市民となっている。美術、茶道など多方面にわたり造詣が深く、特に絵画作品で 高い評価を得ているという。


だいたい、1時間ぐらい内部を閲覧したり、解説ビデオを鑑賞したりして資料館を後にし、 そのまま誰もいない広いだけの駐車場を抜けて、国道9号線を目指した。

昼食がまだだったので、平田ショッピングセンター ViVA 内の食堂に寄った。
600円の定食で、驚きのボリュームだった。おかず、ご飯、味噌汁、つけもの、 茶わん蒸しまでついた、豪勢さだった。30分ほど休憩して、そのまま西へ進路を戻し、出雲大社 を目指す。


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