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訪問日:2016年7月中旬


日本大阪府岸和田市 ~ 岸和田市人口 20万人、大阪府全体 一人当たり GDP 411万円


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  岸和田城(猪伏山城、蟄亀利城、千亀利城、大杆秤城)
  岸ノ和田古城(照日山)
  紀州街道



【岸和田城の歴史】

1334年、和田高家が摂津・河泉守護職の楠木正成の守護代として、岸と通称されていた当地に赴任する。 そして、ここに築城し本拠地としたため、岸ノ和田と呼称されるようになったという。
当時、和田高家が築城した岸ノ和田城は、現在の岸和田城跡から約500mほど東にある照日山(野田町 1丁目)の山頂にあったとされる。

室町時代後期の1558~73年ごろ、松浦肥前守が城主の任にあったときに、新たに現在の位置に城塞を築城したと伝えられている。 当時は、海岸線上にそびえたつ独立系の丘(猪伏山)であったという。

その後、紀州征伐を試みる羽柴秀吉により、配下の中村一氏がこの岸和田の城塞(猪伏山城)に赴任し、その守備を司ることとなる。 このとき、城塞の強化工事が手がけられている。
1583年、小出秀政が正式に岸和田城(猪伏山城)主として入城する。

岸和田市

1587年から城主・小出秀政の主導で本格的な城郭工事が開始される。
ついに1597年、5層の天守閣が完成する。当時は、後の熊本城、松本城に匹敵する規模の大天守閣で あったが、現在は3層の天守として復元されている。

大坂夏の陣の後、1619年に松平康重が丹波篠山から岸和田へ転封されると、 総構えと城下町の整備がスタートされる。
1640年に岡部宣勝が転入すると、城の東側に2重、西側に1重の外堀と寺町が増築される。
この時、1620年に破却された伏見城の櫓や城門が移築され、石垣も再整備されている。
あわせて、津田川の堤防もこのとき再改修工事が進められ、 平地部の都市整備も大いに進むこととなった。

岸和田市 岸和田市

しかし、1827年に岸和田城の天守閣に落雷があり、全焼してしまう。以後、 再建されないまま、1871年(明治4年)に廃城となる。本丸や二の丸の中心部分を残し、 城郭の石垣や水堀は徐々に埋め立てが進められていったという。

岸和田市

1943年、岸和田城にわずかに残存する本丸石垣などが史跡保護対象に指定される。
1954年には市民の支援の下、天守閣が再建されるも、3層のみとなった。

岸和田市 岸和田市

かつてより岸和田城には、いくつかの別称が存在した。 上空から見た場合に、小高い丘を掘削して築城された岸和田城の本丸・二の丸が、 機の縦糸を巻く器具「縢」(ちきり)の形に似ていることから一つは蟄亀利城(後に千亀利城)、 また、農作業の種まきの際に使用する「ちぎばかり」(大杆秤)に似ていることから大杆秤城とも 通称されたという。

本丸の東側での発掘調査の折、2001年に大量の鉄製の武器類が発見され、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、城内の中核部で刀剣や槍の製造が行われていた事実が確認 されており、史上、非常に珍しい例とされる。
同じく発掘された壁片からは、火災の痕跡が見られ、何らかの火事で、武器工場が焼失してしまったものと考えられている。


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