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訪問日:2017年1月下旬 『大陸西遊記』~


日本石川県小松市 ~ 小松市人口 11万人、石川県全体 一人当たり GDP 282万円


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  関ヶ原の戦いと小松
  浅井畷の古戦場(東軍・前田氏 vs 西軍・丹羽氏)
  小松自衛隊基地と地下防空壕(地下道)
  異様な残骸物 ~ 旧海軍の自家発電施設跡
  小松空港の今と昔
  安宅の関と源義経の北陸行
  小松城下の北国街道と古民家群
  芦城公園と三の丸跡
  本丸跡の石垣と天守台
  小松城の歴史



当地では、駅前の路地奥にあったエアポート・ホテル小松に投宿した。
そして、駅前の「こまつ芸術劇場うらら」横にある観光物産センターで自転車をレンタルする(一日 300円)。

まずは、駅の反対側にある国道 305号線沿いに走ること30分弱、浅井畷古戦場(小松市大領町つ137)まで移動した。

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当地は、「北陸唯一の関ヶ原合戦(1600年)」が勃発した地で、加賀前田軍(東軍)と丹羽長重軍(小松城主、西軍)との野戦場跡地である。

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下は当時の古地図で、このエリアは木場潟などの大小の沼地、池、小川、水田、用水路などが広がる湿地帯であった(大領野と通称されていた)。その中に数本の細い農業用あぜ道が敷かれていたようで、ここを前田軍が通過して、北側の自国領へ帰還する際に、丹羽軍の待ち伏せに遭い、双方大混戦となった一夜の戦闘エピソードである(1600年8月9日)

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当日は夜間、しかも雨が降りしきる中で、鉄砲などが使用不能な白兵戦となった。
細いあぜ道を通過する伸び切った大軍勢の前田軍(25,000名)の最後列を担当した長速龍の部隊を、丹羽軍(総勢 3,000名)が急襲し当初は圧倒するも、前田軍の前衛部隊が折り返して反撃し、何とか丹羽軍を小松城へ追い帰した、というのがその一部始終であった。

今日でも、一面、田んぼだらけの一帯で、その先に白山連峰(両白山地)や木場潟などが見える(下写真)。

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実際の戦闘は、あぜ道をはみ出し、沼や水路、田畑など、かなり広範囲に展開されたのだろうが、古戦場として整備された公園には、当地で戦死した加賀前田軍の9武将の墓が集まる一帯のみ、コンパクトに整備されていた(下写真)。

筆者が訪問した際は、下写真のように、すべての墓標は雪よけの覆いがかぶされていた。それぞれの墓標には、小林平左衛門、隠岐覚左衛門、長中務、鹿島路六左衛門、八田三助、鈴木権兵衛、堀内景広、柳弥兵次、岩田新助の名が刻まれているという。

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真夏の夜にあった、白兵戦での斬りあい、刺しあいの阿鼻叫喚な戦場風景を妄想しながら、古戦場を後にする。
そのまま国道305号を横断し、海岸線側の 小松空港 まで移動する。

視界を遮るものがない 100%田園風景の壮大なパノラマを愛でながら、海側へ進む。

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小松空港には自衛隊基地も併設されており、その軍用ヘリなどが飛び立つ光景も見えた(下写真左)。
下写真右は、国道360号上にあった地下道。小松空港へ向かう交通量の少ない、この道路になぜ、わざわざ地下道が??と思ったが、すぐ横は自衛隊基地であり、きっと避難用の防空壕を兼ねた設備なんだろうと推察できた。

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空港近隣をサイクリング途中、頭上の間近を飛行する 韓国系アシアナ航空 を目の当たりにし、そのあまりの迫力に度肝を抜かれた。

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国道360号沿いの小松浮柳郵便局の後ろに、異様な構造物を見かけた(上写真)。

局員さんに話を聞いてみると、戦時中から残る防空壕という。
形があまりに目立つもので、ちょっと通常の防空壕とイメージが違うものであったが、どうやら、旧海軍小松基地の周辺に設置されていた自家発電所跡という。
鉄骨が内臓されたコンクリート壁は、相当に分厚かった。入り口の先はさらに長く太い突起物があったのだろう(下写真)。

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この 小松飛行場 であるが、もともとは戦時下の1941年、海軍により航空基地の整備が決定され、1944年11月15日に2本の滑走路を有する海軍航空部隊用の基地として開港されたという。戦後は米軍により接収され、レーダー基地として使用されたようだが、1953年4月3日より民間飛行場としても開港されている。

せっかくなので、小松空港にも立ち寄ってみた。駐輪場を探してみたが、そもそも自転車で来ることを想定していない、ということで専用の場所がなかったが、一台も止まっていなかったバイク置き場に一時的に駐輪させてもらった。
内部は、こじんまりした空港施設だったが(下写真右)、台湾、韓国、上海便もある国際空港で、日本海側では最大規模を誇るという。

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小松空港付近では、幾度も、弁慶や源義経の銅像を目にした。当地が、日本中で愛される歌舞伎秘話 『勧進帳』 の歴史的舞台から、まさに15分程度(自転車)の場所にあるためだった。

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ということで、空港からさらに15分ぐらいサイクリングして、安宅の関記念公園へ向かってみた。

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その先は日本海という、海岸線上の平坦な土地に、かつて北国街道が通っていたわけである。
当時をイメージした大量の松林が植樹されており、タイムスリップしたような幻想的な空間を創り出していた。

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義経たち一行は当初、奥州への 逃避行を考えておらず、伊勢、吉野山、比叡山などの畿内を転々としつつ、有力寺院や 公家に匿われながら潜伏生活をしていたが、 どうしようもなくなったラスト1年で、北陸周りの奥州行を決断したのだった(29歳)。

古代より、梯川と 前川との合流地点で発展した安宅の集落地は北陸道沿いにも位置し、水陸交通の要衝を 成していた。当時、源頼朝は各地の街道沿いに新関を設けており、当然、ここ安宅の集落地にも 関所が開設されたわけである。
義経一行が当地を通過したのが、1187年3月ごろと考えられている。

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下写真は安宅住吉神社(1647年に当地へ移築)とその境内に立つ弁慶像。弁慶が機転を利かせて、東大寺復興勧進のための役僧と称し、 即興で勧進帳(当時の寄付台帳)を読み上げる様を模したもの。

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さて、ここから再び、空港まで戻り(15分)、そのまま国道360号を東進して、15分ほどサイクリングすると、小松駅前 に戻れる。

続いて、駅前から古城エリアを散策してみた。
下地図の通り、小松駅前に広がる旧商店街から直進して古城地区の芦城公園(旧三の丸)を右折し、小松城の外濠横を北上する形で、かつて北国街道が通っていた(現在の国道101号線)。

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この旧街道沿いは、昭和5年、7年の大火後に再建された町屋の古民家が連なり、 大戦中、空襲を受けなかった分、昭和初期からの息遣いがそのまま感じられるエリアとなっている (こまつ町家)。この旧市街地区は、江戸期の町割りがそのまま踏襲されており、 往時の商人町と寺町の名残を色濃く残している(下写真左)。

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上写真右は、旧街道から古城側に入ったところにある、市立稚松小学校の道路脇に移築・修復されていた常盤門。
ちなみに、この小学校は、もともとは京町の寺社内に1794年に開設された小松学問所を発祥としており、幾度かの移転を経て、1915年より、現在の場所にあるという。

そのまま路地を左折すると、芦城公園 に至る。
ちょうど、この北側の入り口が、三の丸と二の丸との水堀部分にあたり、城門橋が架設されていた(下写真左)。公園縁の石垣群も、その場所はかつての三の丸石垣と同じ場所である。

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そのまま公園内を尽き抜けて、南側の入り口まで移動する(上写真右)。
ここには、かつて三の丸と北国街道を連絡する城門橋が架設されていた(下の古地図)。

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上古地図内の三の丸西側の石垣は、現在の小松中央緑地(小松市役所の北側の広場)内に一部が復元されていた(下写真左)。

なお、かつての三の丸は、1640年に隠居城を築城した前田利常公の趣味の庭園となっていたようで、これを引き継ぐ形で、日本風庭園として現在、無料公開されている。園内には前田利常公の立像も立つ。
公園内で使用されている石材は、江戸期の庭園時代の石材のままと思われる(下写真右)。
現在、芦城公園内には市立図書館や市立博物館、公会堂、美術館なども開設されている。

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そのまま 丸の内町(下写真左)を通り抜けて、本丸エリアに到着する。
かつての本丸跡地は、現在、県立小松高等学校のグラウンドとなっている(1899年に現在の地に移転されてきた)。わずかに、石垣跡の土の盛り上がりが、往時を偲ばせるに過ぎない。下写真右。

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その奥に、本丸石垣が忽然と残されている。江戸期に築城されただけあり、石垣は切込みハギによる工法で、丁寧に加工された石材ばかりで構成されていた(下写真)。
残念なことに、「危ないので、天守台に登らないでください」の立て看板で、登城不能。

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下写真左は、天守台より東方向を眺めたもの。かつては、すぐ手前の水堀の先に中土居、また水堀を挟んで牧島の曲輪があったわけだ。
天守台の裏側に、一部の本丸石垣の部分復元も見られた(下写真右)。

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なお、小松城は1576~77年ごろに、加賀一向一揆の土豪であった若林長門によって、梯川の蛇行によって形成された沼地エリアに築城されるも、1579年に柴田勝家により攻め落とされている。以後、村上頼勝、丹羽長重が城主とされ、その間に、さらに梯川の湿地を利用した堀の掘削などが行われたようで、関ヶ原の戦いの際、加賀前田氏の攻撃でも落城しなかったが、石田三成の敗戦により、前田氏に接収されることとなる(1600年10月)。

前田利常が大改修する前までは、この天守台と本丸広場だけがメインの城塞だったようで、1640年の大工事により、二の丸、三の丸、琵琶島、中土居、芦島の5曲輪、 さらにその周囲に牧島、愛宕、後三の丸、竹島など6曲輪を水堀を隔てて配し(「小松の浮城」の異名あり)、その城域は金沢城の実に倍近くとなったという(56万m2)。
また、城下に寺や神社、各種手工業者や商人らを集めて 町割りを行い、小松発展の礎を築く。

前田利常が18年間、隠居生活を送った城内は、泉水や茶室など、ぜいたくな趣味空間となっていたらしい。彼の死後(1658年)、城番が設置され、前田家の支城として維持された。
1872年、小松懲役場(刑務所)が三の丸に設置され、囚人たちの役務として城郭の撤去作業が進められていったという。

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最後に、小松市街地の散策途上で目にしたもの。
上写真左は、小松駅の東口で発掘調査が進む、弥生時代中期の集落遺跡(八日市地方遺跡)。調査終了後、型取りして、すべて埋め戻すという。
上写真右は、小松駅西口の「こまつ芸術劇場うらら」の横になった土居原ボンネット鉄道広場。昭和の鉄道文化遺産であるボンネット型特急車両「クハ 489-501」が展示されていた。


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