BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2017年6月上旬 『大陸西遊記』~


鳥取県 倉吉市 ~ 市内人口 5万人、一人当たり GDP 260万円(鳥取県 全体)


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  天神川 と 打吹山城
  小鴨川 と 田内城 ~ 仏石山の 断崖絶壁
  田山神社の 衰えない威風 ~ かつての 伯耆国守護所の護国神社
  打吹山公園 ~ 飛龍閣 と 鎮霊神社
  打吹山城の 曲輪遺構 ~ 本丸、備中丸、越中丸、小鴨丸、武者溜、石垣と 空堀
  打吹山城の廃城 と 米子城への 城郭資材転出、住民移住
  【豆知識】打吹山城 ■■■
  倉吉旧市街地 と 赤瓦、白壁土蔵群



湯梨浜町にある JR松崎駅(付近には 東郷池、燕趙園がある)から国道 29号線を西進して、険しい峠道のアップダウンを経て、倉吉市へと戻った。ちょうどこの峠の頂上付近に(下写真左)、鳥取短期大学・看護大学のキャンパスがあった。
羽衣石城 から JR倉吉駅前 まで、自転車で 15分程度だった。

倉吉市 倉吉市

そのまま駅前から 直線道路(国道 22号線)を南下し、倉吉市の旧市街地を目指す。国道 22号線は、天神川(上写真右)を渡ると国道 38号線へ名前を変える。
この天神川を渡河途中に、前方に一つ頭の飛び出た山が見えてくる。これが「打吹山城跡」だった。

倉吉市の旧市街地に突入する前に、右折して 小鴨川 を渡り(下写真。巌城橋より撮影)、打吹山城の向かい側に立地していた「田内城跡」を先に視察することにした。
この山城にはかつて、伯耆国の守護所が設置されていた(1360年前後のわずか 3年弱)。それまでの守護所は 二上山城(鳥取県岩美郡岩美町岩常)にあり、 当城に守護所が転入されるも、間もなく、打吹山城の築城が開始され、その完成後すぐに 守護所が再移転される。この田内城は、結果的に暫定的な守護所としてのみ機能しただけであった。

倉吉市 倉吉市

山脇には、田内城への登山口の案内板はあるのだが(下写真左)、山へと登る道が草木で埋もれており、最初は広い方の道を進んでみたが(下写真右)、墓地エリアに迷い込んでしまうので、登山を断念した。
下写真右の右手の草木をかき分けて、登山することになっている様子だった。

倉吉市 倉吉市

この山は 仏石山(標高 58 m)といい、後方に連なる山脈地帯の先端に突き出た形の独立系の崖山部分で、小柄ではあったが、地の利を得た岩山をうまく利用して築城されていたようである。
小鴨川沿いの山裾は完全な絶壁となっており(下写真左)、その岩肌には「南無阿弥陀佛」が複数、掘られていた(下写真右)。
室町時代の 1544年、天神川と小鴨川の洪水被害で多数の城下町市民らが亡くなったことを受け、その弔い地となっている様だった。江戸時代に入り、倉吉の町人ら有志によって死者を供養するために造成されたという。

倉吉市 倉吉市

山脇にある 田山神社 であるが、守護所が正式に田内城下へ移転された 1357年、時の守護大名だった 山名時氏(1303~1371年)が、伯耆国の守り神として祈願し、建立したものという。田内城とその城下町を鎮護すべく、当時は盛大な社や鳥居が建造されたに違いない。

現在は、かなりこじんまりとした神社となっていたが、本殿にあたる拝殿と神殿部分が連結されており(下写真右)、その構成は大寺院の風格が漂っていた。

倉吉市 倉吉市

室町時代初期の 短い間(1360年前後)、伯耆国の国都として栄えた城下町であったが、間もなく守護所が打吹山城へ移転される。当神社はそのまま残され、引き続き、地元で熱い信仰を受けたという。学問の神、五穀豊穣の神、食物の神も合祀され、郷土の鎮守として今も丁重に管理されていた。

2001年の鳥取西部大地震まで、この田内神社の正面には、江戸末期の 1864年建立の由緒ある鳥居が残っていたという(下写真左)。

倉吉市 倉吉市

現在、この田内神社前の旧城下町跡には小さな 集落地(倉吉市巌城。上写真右)が広がっており、大河の天神川と小鴨川、たくさんの側溝などに三方を囲まれて、引き続き、かなり水害リスクの高そうな雰囲気がありありだった。周囲は水、水、水だらけで、当時の地勢も遠からず、似たような環境だったと推察する。

再び、小鴨川上の巌城橋を渡って(下写真)、いよいよ倉吉旧市街地へ入る。

倉吉市

国道 38号線まで戻り、そのまま国道沿いを直進すると、住吉町の交差点を経て、打吹山 の真下まで到達できる。
打吹公園内の 市役所(かつて山城の打吹山城主は、平時は山裾に居住しており、その居館がここにあった。江戸時代に藩主の宿泊所として陣所へ再利用される)の駐車場Ⓟに自転車を停めて(下地図)、打吹山(標高 204 m)の山頂を目指すことにした。

なお、打吹公園内にある飛龍閣は(下地図)、明治37(1904)年に建造されたもので、明治40(1907)年 5月に皇太子の 嘉仁親王(後の大正天皇)が当地へ訪問された折、宿舎として利用されたという。このとき、元帥・東郷平八郎らも同行していた。
倉吉町民らはそのご一行到着前に、羽衣池や 散策道、椿やツツジの庭園などを造園し、今に見る 打吹山公園(下地図)を完成させたという。

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登山道は二つあり、筆者は 鎮霊神社(上地図。明治38【1905】年8月、幕末以後の各戦争で命を落とした地元出身者を弔うべく創建された)を通過する西側ルートから、山頂(本丸跡)を経由して、運動公園側へつながる東側ルートで戻るという、山全体の一周コースでトライしてみた。

両者ともに、だいたい 1.2~1.3 kmの距離という。勾配が厳しいのは、東側ルートであろう。特に、本丸あたりの勾配はきつく、下を見ると、その急斜面ぶりに足がひるむ。

西側ルートは、市民のトレッキング用に近年、整備されたルートで、アップダウンは緩やかだった。途中に、2層の天守を模した物置小屋がある。
東西ルートには、それぞれ途中に 城郭遺構 の一部が見られるように 1ヵ所ずつ、見どころが配されていた。

倉吉市 倉吉市

西側ルートには備中丸という曲輪跡の案内板が設置されていた(上写真)。

この備前丸は、山頂の本丸を守るために、重要な家臣らが居住したスペースという。尾根を削って平坦面を造成し、曲輪内に建物や柵が設けられていた。
この備前丸の他にも、越中丸や小鴨丸と呼ばれる曲輪跡が多数、打吹山中に残っているらしい。

ここを過ぎると、さらに山頂を目指す道中では、所々で平面エリアが多くなってくることに気がつく。これら一つ一つは曲輪跡である。

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また、東側ルートでは武者溜という、城門裏に設けられた軍勢らの集合スペース跡地が解説されていた(上写真)。

また、頂上の本丸近くに至ると(東側ルート)、石垣や空堀跡が忽然と姿を現す。ここが城郭跡らしい、唯一の見どころといっても過言ではあるまい。

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肝心の山頂部にあった本丸跡地であるが、現在、何も遺構は残されていない(下写真左)。
筆者が訪問したシーズンは初夏で、新緑が視界を覆って、市街地すら見渡すことができなかった。

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急斜面の東ルートから下山していると、山裾に近づくにつれ、杉林が広がるようになる。そして、運動公園の相撲場と駐車場エリアに出ることができた。
所々に道案内として「山頂まで ○○ m」の表札があるが、全体的にあまり正確でない気がした。

江戸幕府より 1615年 に一国一城令が発せられると、打吹山城は正式に廃城となる。
しかし、実際には打吹山城はもっと以前から廃城同然で、多くの城郭資材がすでに中村一忠による 米子城 や城下町の築城工事へ転用されるべく、城郭資材は悉くはがされていったものと推察される。山頂部分の石垣のみ、わずかに残ることができたのであろう。
また、米子の城下町へも多くの商人らが移住させられており、その名残が今の 米子市東倉吉町西倉吉町 の地名に残っている。

倉吉市

城主らが平時に過ごした、山裾部分の 居館跡(現在の 倉吉歴史民族資料館と市役所のあたり、上地図)は、そのまま江戸時代、陣所として再利用され、藩主らの宿泊施設へ援用されたということだ。

1614年に安房国を改易された里見忠義が伯耆倉吉藩 3万石へ転封されるも、すでに打吹山城は体を成しておらず、 山裾の居館に入居したとされる。
1617年に池田光政が 姫路藩 から 鳥取藩 へ転封されると、里見忠義は強制的に改易され(1622年、今の 倉吉市関金町堀で死去)、池田光政配下の 家老・伊木忠貞に 倉吉藩(打吹山城跡) 3万3千石が与えられる。同じく、この山裾の居館に住んだものと推察される。

かつて伯耆国の守護所として君臨した倉吉であったが、江戸時代も引き続き、重要な宿場町としての地位を保ち続け、鳥取藩でも有数の米生産地の中心都市として、存在感をキープし続けたのだった。


打吹山 は標高 200 mの、倉吉市の中央にそびえる左右対称な姿を見せる美形の山である。室町時代の初期、 伯耆守護・山名伊豆守時氏の子、(左衛門佐)師義がここに城を築いて、田内城から移った(1360年)。
この地を選んだ理由は、険しい独立した山であったこと、また麓を巡る天神川と小鴨川が防衛ラインたり得ること、頂上から周囲の要害に見張りがきくこと、飲料水を汲む井戸が幾つも得られたこと、などが考えられている。

山名時氏、師義は源氏の流れを汲む一族として名家出身の武将であり、それゆえに従う伯耆武士の強さも、諸国に鳴り響いていた。室町時代初期、山名氏は天下六分の一殿と異名をとったこともある。その後、盛衰はあったが、十代 200年間、この城は伯耆一国の中心たる権威を保持し続けることとなる。

戦国末期、山名氏が滅びると、羽衣石城主の南条氏 が支配する城となり、一族や家臣が城番として派遣された。
その後、米子城主の中村一忠が支配する城となったが、1615年の一国一城令により完全に破却されることとなる。以後は、打吹山城跡も荒廃し、空しく 400年の歳月を経るも、明治末期に公園として市民に開放される。
また打吹の名が、天女の羽衣伝説に由来することは地元の人々のよく知るところで、耳をすませば、天来の音楽を味わうことができた、と伝わる。


打吹山公園 を後にし、明治時代から昭和前期の旧家や商家が数多く残る旧市街地エリアを散策してみた。この赤瓦に白壁の土蔵が軒を連ねる旧市街地には、伝統的な日本の街並みがしっかり保存されており、非常に見応えがあった。

倉吉市

当時の商業中心エリアは、本町通り沿いという(下写真)。

倉吉市 倉吉市

本町通りには、豊かな意匠を有する 町家(短冊型の敷地に、通りに面して店舗兼住宅の主屋が建てられ、主屋の背後に中庭、土蔵が設けられたスタイルで統一されている)が立ち並び、玉川沿いには白壁の土蔵が立ち並ぶ。川に架かる石橋の景観と、赤褐色の屋根瓦がこの地区の特徴となっているという(下写真)。

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倉吉の地名が歴史資料などに現れるのは、戦国時代の 16世紀頃という。町並みが誕生したのはそれ以前、 伯耆国守護・山名氏が打吹山に城を築いた 14世紀代と考えられている。

江戸期には、鳥取藩 家老の 荒尾氏(米子城代)が治める陣屋町となり、木綿と稲扱千歯などの一帯の特産品を扱う中心都市 として、明治、大正時代まで大いに栄えたという。

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また、53代目横綱・桜菊(1973年就任、翌 1974年引退、佐渡ヶ巌親方)の故郷という以上に、元防衛大臣である「石破しげる」氏の選挙ポスターが至るところに貼られており、当地が彼の地元であることを知ったことに新鮮さを覚えた。

そして、来た道と同じように、国道 38号線から 22号線へと一路、倉吉駅まで戻った。実質的には 10分強ほどのサイクリング距離である。

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なお、今回の旅では時間がなく訪問を断念したが、旧市街地の西側の丘陵地帯に、奈良時代 から平安時代に設置されていた伯耆国の国庁跡地が、国指定の史跡として 存在する。当時、伯耆国分寺も建造されており、伯耆国の首都として繁栄したエリアであった。
『万葉集』の歌人 山上憶良が、716~721年に 伯耆守(国守)として 当地に赴任したことが知られる。
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