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訪問日:2014年6月上旬


日本大阪府堺市 ~ 堺市人口 84万人、大阪府全体 一人当たり GDP 411万円


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  港湾都市・堺の台頭 ~ 応仁の乱から
  戦国時代期の環濠都市・堺 ~ 織田信長、豊臣秀吉らとのコネクション
  豪商・千利休の屋敷跡(裏千家の所有地)
  大阪夏の陣 (1615年) と商都・堺の焼失
  江戸期の堺と悪代官の甘~い任地
  環濠都市・堺の外堀跡と南宗寺(戦国大名・三好長慶の建立)
  百舌鳥古墳群と仁徳天皇陵
  古代・古墳時代の鎧は、相当に重かった!



【環濠都市・堺の歴史】

堺の街はかつて単なる一港町(漁業と製塩の町)にすぎなかったが、応仁の乱以後、京都・大阪に近い兵庫港からの瀬戸内海ルートが使えなくなり、中国、朝鮮との交易港として、堺の港が候補地として白羽の矢が立ったということである(四国の南周りで九州を通過する外海ルート)。これに目をつけた商工業者が多く移住してくるようになる。 当時、明との貿易で朱印船が使われていたらしいが、その朱印船(遣明船)貿易の後半の時代は、この堺港発着絡みのものである。

この特権貿易にかかわることは、巨万の富を堺の商人や港湾業者らにもたらせた。さらに、堺衆の目は海の彼方にも向けられ、 堺は南蛮貿易の拠点としても繁栄する。鉄砲、火薬、生糸、香料、鹿皮などが輸入され、日本からは金、銀、銅、硫黄などが輸出されている。 一貿易船が日本からフィリピンまでの一航路で商品を往来するだけで、現在価値にして40億円近い利益をもたらせた、という。こうして財を成した一人が千利休一族である。彼は魚屋や倉庫業など幅広く事業を展開する豪商の家の長男として生まれ、早くに父親を亡くして後は、一家の主人として事業を引き継ぎ、さらに家業を拡大させた剛腕商人であったらしい。

下の絵図は、栄華を謳歌する、当時の堺の様子。1550年には、ザビエルも堺を訪問している。

堺市

こうした商業都市・堺の富 は、当時の戦国時代の大名たちにとっては咽喉から手が出るほど欲しいものであった。堺商人たちは勝機を読み、鉄砲生産や干し物などの食料生産、物流ビジネスなどへ積極的に事業を拡げ、戦国大名らの注文を次々に受けて、その富はますます拡大していくことになる。

こうした時代背景にあって、当時、足利将軍を伴って上京し天下制覇へ向けて快進撃を続ける織田信長から20000貫(現在価値で25億円)の上納金を要求される。当初、堺会合衆(36人の大商人たちが合議体制の評議会を形成し、街の自治を運営していた)はこれを拒絶する方向で一致していたようであるが、当時の時勢を目ざとく読み取っていた鉄砲商人・今井宗久らによる説得で、会合衆は上納金支払いに応じることになった。

この上納金納付の決定が、結果的に商都・堺の破滅を防いだと言える。実際、この3年後には、織田勢は比叡山延暦寺を焼打ちし、老若男女かかわらず打ち殺すというせん滅作戦を強行している。堺商人たちもこの事件を目の当たりにして、さぞかし、悪い想像をしてしまったことであろう。

堺の街は、織田時代、その庇護下にあって、さらなる繁栄を享受することになった。
当時、どこの戦国大名にも帰属せず、自治都市国家を樹立していた商人の街で、しかし、その 自治の代償として、その街の様相はまさに一つの軍事要塞のようであったらしい。 すなわち、街の西側には海岸線が連なり、港湾都市として重要な機能を担保しつつ、 陸地に面した3方向には堀川をみぐらせ、土塁を積み上げた環濠都市(城壁都市)であったという。 また、商人たちは自費で武士たちを雇用し、自警団&都市防衛軍を組織していたらしい。

下の地図は、織豊政権時代の堺の街の堀跡を示したものである。実際のところ、信長の命令により、 外堀部分は埋められてしまったらしい。信長の死後、再び荒れる天下の情勢へのリスクヘッジとして、 再び外堀は再修繕された。

堺市

そして、時は豊臣時代。秀吉は堺の無力化を決定的にするべく、信長の死後に再修繕された3方の外堀の埋め立てを自らの指揮の下、実施している。環濠都市として名を馳せた堺の街は、この命に従い、室町時代に造成された堀をすべて埋めてしまう。 こうした要求を受け入れてまでも、堺商人たちは政権側について、自身の保全を担保してもらう、という商人らしい生き方を通していったのであろう。しばらく、豊臣政権下で天下統一作業が進められる中で、畿内は平和の時代を迎え、 秀吉の命に従った恩恵を大いに受けることになる。 信長同様に、秀吉もまた堺を直轄地として、政所をおいて直接支配を敷いた。

秀吉が 大阪城 を築後、多くの商人が大阪へ移住したようであるが、やはり堺の圧倒的な経済都市としての地位は変わらなかったという。そして、秀吉に接近した豪商・千利休は当時の特権階級のたしなみである「茶の湯」の権化として、権力層に食い込み、秀吉の相談役として裏に表に意見を述べる立場になっていったようである。

全国平定後、秀吉はこれまでの知的側近層をやや疎んじるようになる。黒田官兵衛しかり、千利休しかり。特に、後者の千利休は、豊臣秀長(秀吉の異母兄弟)という秀吉の制御役を失った翌月にすぐに切腹を命じられるあり様。多くの大名たちも反対したようであるが、秀吉としては野心家の利休が政権内部の裏事情を知りすぎていたことを恐れて抹殺した、と見るべきであろうか。

その後、4年間は利休一族は蟄居を命じられたが、後に名誉と資産回復が実現している。長男の千道安が堺千家として家督を継ぐことになる。しかし、嫡子がなく、彼の死後、堺千家は断絶したようである。現在、京都に表千家と裏千家として、一族がまだ続いているらしく、堺市にあった千利休屋敷跡の土地は、現在、この裏千家の所有地だそうである(下写真左)。 室町時代後期~安土桃山時代においては、この地域一帯すべてが千家の屋敷となっていたらしい(下写真右)。

堺市 堺市

そして秀吉の死後、戦国の世はまたしても風雲急を告げ、徳川政権 誕生へとまっしぐらとなる。 豊臣VS徳川の対立の時代、堺の街の経済力を目当てに、両陣営から積極的な勧誘を受ける ことになる。なんとか、どちらにも色を見せながらの中立作戦をとってやり過ごそうと、 関ヶ原、大阪の冬の陣を乗り切るも、戦局が決定的にとなった大阪夏の陣(1615年)の折には、 天皇陵地区での戦いに敗れて敗走する豊臣方の敗残兵らから、背任を疑われ、街全体を焼土化されてしまう。 実に2万戸以上の家屋が焼失されたとされる。 しかし、土倉までは焼けなかったらしく、豪商の富はそのまま残ったという。

大阪城の落城後、江戸幕府は堺の街を碁盤の目のように整然とした構成で急ピッチに 復興を進める(元和の町割)とともに、やはりこの街の経済力を見込んで 幕府直轄領とされた。下の絵図は、江戸時代の堺の街の様子である。

堺市

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江戸時代 初期までは大阪よりも大都市であり続けたようだが、新大和川の開拓により陸地で大阪側と断絶され、かつ、新川から海へと流れる土砂の堆積があって、港湾機能も低下、さらに、平和な江戸時代にあって戦略物資関連の商材需要は低迷し、堺商人たちは専ら金融業を生業とするようになったらしい。

それでも、多くの豪商と金融で富にあふれる堺は、江戸幕府にとっては重要拠点の一つであり続け、直轄都市として代官を赴任させていたようである。江戸時代を通じて 64人もの代官が任命されたようだが、この代官職へ志願する旗本たちは後を絶たなかったらしい。平和な商業都市というラクな仕事であり、かつ、商人らからの賄賂などもあったようで、非常にワリのいい名誉職だったらしい。だいたい2000石前後クラスの中の上レベルの旗本が任命されてきていたようである。

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そして時代は下って、明治維新期には土佐藩によって警備が付けられていた商都・堺であったが、フランスとの間でいざこざがあり、日仏双方11人どうしの犠牲を出して決着を見た。その後、紡績業などに事業を展開した商人もいたようであるが、ついに、この地から日本を代表する大企業が出ることもなく、工業都市大阪のメーカー等へ部品を納品する下請け工場などが林立することとなった。

第二次大戦期では、港湾地区に化学工場なども多くなり、大阪方面への空襲とあわせて、堺の住宅地区も焼け野原にされたようである。

下の地図は、現在の堺市の様子。

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西面、南面の堀川はそのまま保存されている。また、東側、北側の 堀川跡 は遊歩道として 歴史散策の道として開放されている。下写真右は、南宗寺(戦国時代の三好長慶の建立)付近の堀川。 かつては、南北3km、東西1kmに及ぶ長大な堀川があったという。

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下写真左は、熊野街道 の起点(平安時代から鎌倉時代にかけては「蟻の熊野詣」と評されたぐらい、 人人人でごった返しの有名道であったらしいー時季によるだろうが)。「くぅ」なるタバコ屋が目印。下写真右は、現在の紀州街道。 堺の街の中心を貫く。ちょうど、路面電車が走る大通りである。

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また、堺市の東側には 百舌鳥古墳群 という、47基の古墳群が残る一帯がある。かつては4~6世紀に100基程度が築造されたらしいが、度々の住宅開発、耕地開拓などの中で破壊されていったらしい。古墳時代は、現在の堺市街地区は完全に海であったようである。なので、海岸線はかなり東側によっており、海からこの仁徳天皇陵などの古墳群が見えた、という。わざと海から見えるぐらいの高さと規模にすることで、国家権力を日本国中、および、海外からの使節団に見せつける意味合いがあったらしい。なので、かなり派手な埴輪の色(赤色)が並べられていたようである。

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その総面積は、秦の始皇帝陵やエジプトのピラミッドよりも規模が大きい。

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その後も、多くの古墳が周囲に建造されていった。

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下写真左は、1973年の上空写真。墳丘上の樹木は今よりも相当に少なかった。右隣の 写真は、現在の仁徳天皇陵の正面の姿。

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仁徳天皇陵の周囲の堀川には、海へとつながる用水路が敷設されていた(下写真左右)。ちょうど古墳外堀の西中央部にある。 なお、天皇陵の堀川の水は段々に構成されており、うまく水を満面に称えられるように調整されていた(下写真中央)。

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周囲には大小問わず、至るところに古墳があった。一部は、仁徳天皇陵の周囲には配置された陪塚と考えられているらしい。

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古墳時代の鎧を体験できるコーナーが歴史博物館内にあった。 胴、兜ともに相当に重い。古代人は、戦国武将に比べ、 鎧で守られた体の部位が狭かったわけであるが、この鎧の重量だと、 頭と胴回りだけでも相当にきつい。
下写真右は、かつての堺港にあった灯台。(日本最古)木造で1877年に築造されたらしい。 現在、博物館にて保存されているものは、1952年に改築された二代目てっぺん部分のみ。

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現在の堺市は、歴史都市として世界文化遺産登録を目指しているそうで、すばらしい歴史保存活動が展開されていた。歴史地区の説明文、積極的なボランティア活動の方々の参加、広々とした道路環境と生活空間、レンタル自転車サービスの充実。 また訪れてみたいと思わせてくれる仕掛けがいっぱいであった。

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