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訪問日:2017年2月上旬 『大陸西遊記』~


日本兵庫県高砂市 ~ 高砂市人口 10万人、兵庫県全体 一人当たり GDP 289万円


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  国鉄高砂駅と線路の跡地
  十輪寺と西堀川跡
  中堀川と東堀川跡(旧高砂川)
  浜国道と北堀川跡
  藍屋町~本町商店街、昭和のオンパレード
  【豆知識】高砂の米蔵百軒蔵と江戸期の町割り ■■■
  【高砂城】今の高砂神社、かつて南側は一面、海が広がっていた
  【高砂城】三代目・相生の松と高砂の港町整備に尽力した工楽松右衛門
  【豆知識】高砂城 ■■■
  【北脇城(大塩城)】今の西法寺
  姫路市大塩町と高砂市北浜町の飛び地合戦
  馬坂峠と大塩の塩田
  馬坂峠の反対側、そこは牛谷 ~ 運搬リレーの知恵
  【曽根城】曽根天満宮と菅原道真 植樹の「霊松曽根の松」
  【曽根城】織田方との敵対と、菅原道真の松木の運命、~5代目へ
  生石神社と竜山石切り場、法華山谷川の連携
  生石神社と秀吉の播磨平定戦


JR宝殿駅前で自転車を借りて(一日350円)、市内一帯を散策してみた。
高砂市は、昔より能・謡曲内の「相生の松(雌株・雄株の2本の松が、1つ根から同時に生えたように見えるもので、夫婦円満&長寿の象徴に例えられてきた)」でその名を全国に知られており、加古川の河口の西側に開けた水運交易の町である。この旧市街地の中心部に位置する高砂神社に、現在、「相生の松」の末裔が安置されている。


高砂の百軒蔵と江戸期の町割り

山電高砂駅からひたすら南へと歩みを進める。なお、駅前の自動車道路の脇を通る遊歩道(下写真左)は、かつての国鉄線路跡という。近代以降、大企業が加古川下流域の高砂エリアへ進出し、その貨物運搬用として、JR加古川駅までの線路が敷設されていたという。

高砂市 高砂市

そのまま信号を渡って(この通りが、かつての北堀川)、バス停留所がある広場に行きつく。ここが国鉄高砂駅跡(1984年廃止。上写真右)という。ちょうど、その正面に十輪寺が巨大な社殿を見せている。ここの正門と本殿が、重要文化財に指定されているという(下写真左)。

この 十輪寺 の前の緑地遊歩道が、かつての西堀川の跡地である(下写真右)。西堀川のすぐ外側には、極楽寺、西福寺、延命寺、十輪寺、薬仙寺が林立し、寺町と通称されていたという。

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つづいて、十輪寺の正面に延びる路地を東へ直進する。この通りは魚町といい、旧家屋が点在している(下写真)。

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その先に、中堀川 の跡があった。かつては、もう少し長く、ギリギリ正面の建物まで港湾エリアとなっていたそうである。今は、半分埋め立てされており、道路となっていた(下写真左)。

そのまま東側の堀川(かつての高砂川)を見る。現在でも、漁船やヨットなどのハーバーとして現役稼働していた(下写真右)。

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この東側の堀川(現在、旧高砂川と通称されている)をさらに北へ進んだ一帯は、下写真左である。ここに架かる橋は稲荷橋と言われ、現在の浜国街道の重要な一角を成している(下写真右)。

そのままを東へ移動すると、加古川が見えてくる。高砂の旧市街地が加古川河口と密接な関係にあったことが分かる距離である。

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この現在の浜国道となっている上写真右の通りは、かつて北側の 堀川 であった(下地図参照)。

江戸時代、これら四方の堀川沿いにはたくさんの米蔵が立ち並び、播磨国以外の諸藩も米倉を借りて保管し、大阪の堂島市場まで運び込む中継地点として使っていたといい、その米倉の一部は今でも、この浜国道沿いに数軒のみ現存している。
下写真左は、姫路藩酒井氏の米蔵跡地を示す石碑。

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このまま浜国道沿いを西へ進むと、藍屋町 に至る(下写真左)。かつて、着物の色染屋がたくさん軒を連ねたので、この名前が付いたのだろう。
下写真右は、本町商店街。高砂旧市街地のメイン・ストリートだ。高砂商工会議所会館(旧高砂銀行本店。1896年11月設立)など、近代遺産が残る。

高砂市 高砂市

旧市街地の一帯は、昭和の香りをプンプンさせていた。

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高砂の百軒蔵

1585年、秀吉は播磨国姫路に重臣の木下家定(妻おねの実兄)を封じ(25000石)、当時、京都伏見に存在した百軒米蔵を高砂にも造ることを命じる。
堀川を挟んで、米蔵が北と南に分けて建設され、北に52軒、南に48軒、 他に小蔵として、1間のものを十軒、さらに脇蔵などが建てられていった。結局、 最終的にこれらが完成したのは、姫路52万石、池田輝政の時代であった。

高砂市

以後、播磨高砂の百軒蔵として世に知られることとなる。 輝政は、さらに河口から約4kmにわかって堀川の改修工事を行い、 両岸の百軒蔵を大阪の堂島へ送る東播磨の年貢米の収納倉庫エリアと定めたのであった。

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この他、堀川の両岸には、一橋、久留米、笹山など合わせて24諸藩の米蔵が立ち並び、加古川流域より高瀬船が年貢米を港湾倉庫へ運び込み、ここから大阪へ千石船が積み出すシステムが形成され、 高砂は米の一大集積地として、明治維新まで繁栄を謳歌することとなった。

その後、明治末期より大正にかけて大企業の進出で、米蔵は破壊され、現在、残っている米蔵も白壁は所々剥げ落ちているが、ギリギリ、往時の高砂百軒米蔵の面影を今もとどめている。



高砂城(高砂神社)

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旧市街地にある高砂神社境内に、高砂城趾の石碑が建てられている。神社境内に点在する石材は、当時の石垣の残骸かと思われる風情を漂わせていた。

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境内には 井戸跡 が残っていた(上写真左)。高砂城時代もここにあったのだろうか??
この正面入り口の眼前すぐに、かつては海岸線が広がっていたわけである(上写真右)。

高砂市 高砂市

長寿・夫婦仲の象徴とされる三代目「相生の松」が境内で大事に保護・栽培されている。また、四代目、五代目を育成しようと、垣根が設けられた双子松がいくつかあった。

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池田輝政公が築城したという高砂城跡の石碑の後ろには、高砂港の修築に尽力した工楽松右衛門(1743~1812年)の銅像が設置されていた(上写真左)。
彼は、高砂町に生まれ、船の帆を改良して、松右衛門帆を発明した人物で、その帆は全国に普及し、数多くの大小廻船に取り入れられたという。 子孫らも、3代にわたって高砂の川や港を修築し、港町・高砂の維持、発展を支えた。函館や福山藩鞆ノ津、択捉島を築港するなど、海洋土木技術者としても優れた実績を残したとされる。


古くから、播磨の大河・加古川 が形成した三角州に位置し、 その肥沃な土地を目当てに農民らや、船渡しの船頭、漁師らが集落地を 形成していたと考えられ、ここを統治する目的で、徴税役所的な城館が設置されていたものと推察される。
奈良時代にはすでに貴族や大寺院らの荘園が加古川上流域でも開拓されており、その上納米が加古川を下って、その河口集落に集まっていたことは容易に想像できる。

高砂市

源平合戦の武功により、1184年、梶原景時が源頼朝より播磨国守護に任じられるも、実際は、景時本人が播磨に駐在していたわけではなく、その一族が当地へ派遣されたと考えられている。1200年の梶原景時の変で本家の一族郎党が誅殺されると、代わって播磨国守護職には小山朝政が任じられる。

その後の梶原氏の歴史ははっきりとしておらず、ようやく戦国末期に至り、織田信長が畿内を制圧し、播磨へ強大な影響力を及ぼしつつあった時期に、この高砂城主として梶原平三郎衛景則の名が再出することとなる。

1569年、足利義昭を奉じて上洛したばかりの織田信長の元に、播磨守護・赤松氏の本家と分家との内紛仲介の要請が入り、信長は早々に帰順していた摂津の有力豪族・池田勝正や東播磨の有力豪族の別所安治を派遣し、備前・西播磨側を攻撃させる。このとき、姫路平野を支配していた小寺氏(御着城)も西側に組しており、その支城であった大塩城(高砂市北浜町北脇の西法寺一帯)や高砂城、庄山城などが別所氏に占領された記述が残る。

高砂市

こうして別所氏の勢力下に組み込まれた高砂城は、1578年の羽柴秀吉による 三木城 攻めで重要な役割を担い、当時、城主・梶原景行は毛利方の水軍の援助を受けながら、頑強に籠城して、羽柴軍の攻撃をしのぐこととなる。
毛利方も、三木城支援のため、加古川の河口を抑える高砂城を重視していた。海沿いにある 魚住城 と共に、兵糧の陸揚げ、備蓄拠点として期待されたわけであるが、 1578年7月、神吉城(加古川市)が落城、続いて高砂城、翌8月に 志方城(加古川市)と、加古川上水系の三木方の支城は次々と陥落していった。

高砂市

高砂城主の梶原景行は自軍の兵士を 三木城 まで逃走させ、自身は付近の鶴林寺に匿われて、そのまま戦後も逃げ切ることに成功する。なお、この鶴林寺には、戦前の1576年2月に梶原景行自身が寄進したという机が現存するという。

その後、1600年に池田輝政が播磨52万石で入国すると、本城・姫路城 以下、三木城(伊木忠次)、明石城【船上城】(池田利政)、龍野城【鶏籠山城】(荒尾成房)、平福城【利神城】(池田由之)、赤穂城【加里屋城】(池田長政)の6支城の一つとして、高砂城には中村正勝が配され、播磨当地の中枢を担うこととなる。

このとき、池田輝政は加古川水域の開墾と水運を重視し、 1612年の高砂城の築城とともに、周囲に町場を配し、秀吉時代から整備が進められていた百軒米蔵の建設を完遂する。城下町には濠が掘削され、さらに城域が拡大される。

1615年に発布された一国一城令により高砂城は廃城となり、 1619年正月から築城工事が開始された 明石城 へ多くの城郭資材が持ちだされたという。

しかし、元和年間、姫路城主の本多忠政は高砂城跡に高砂神社を戻し、碁盤目状の町割りと周囲を巡る堀川を開削し港町を再整備する。 高砂の街は加古川と瀬戸内を結ぶ舟運の拠点となり、物資集散の地として大いに発展することとなった。木造船舶を修理する舟大工や漁業を営む漁師たちも数多く生業に勤しみ、加古川水系の交易拠点として君臨し続け、江戸期を通じて繁栄を謳歌したという。



北脇城(大塩城)

南北朝時代、赤松氏傘下の大塩次郎景範(かげのり)が築城し、居館を構えたことに端を発する。特にその嫡男・景光は1355年に赤松則祐に従い神南合戦で武功を挙げたという。
なお、平安時代よりすでに当地の塩田業は播磨の一大産業となっており、 その統括拠点として、徴税役所的な城館は古くより設置されていたものと推察される。

戦国末期の秀吉による播磨侵攻の折、1578年に落城し、そのまま廃城となった。ただし、城主の大塩次郎左衛門景衡(かげひら)と、その子の小六景麗(かげよし)は共に別所長治が籠る 三木城 の籠城軍に参加しており、その戦闘で討ち死にしたという。

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現在、当地はちょうど姫路市大塩町と高砂市北浜町西脇の市堺に位置する、微妙なエリアだ。明らかに、この両町は「飛び地」状態になっている。地元で聞くところによると、度々、市担当者レベルで交換交渉があったらしいが、最終合意には至らなかったという。

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北脇城跡とされる西法寺(下写真。浄土真宗 本願寺派)の周囲は、完全に宅地開発されてしまい、往時をしのぶことは不可能だった。

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東側の公園が当時の外堀跡という。また、付近を流れる小川は、かつての平城の堀を構成していたことは容易に推察できた。
なお、海岸沿いのエリアは、「大塩(姫路市)」という地名が物語る通り、その昔、塩田が延々と続いていた。既に平安時代の文献に、「大塩庄」という荘園が言及されており、播磨国の一大塩どころとなっていた。


馬坂峠と大塩の塩田

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大塩エリアの塩田で生産された塩は、一部は海路で、また一部は陸路で西国街道や浜国街道などを使って、姫路や御着、加古川などへ搬入されていた。
その際、西国街道へ出るために開拓されたのが、この馬坂峠である。下地図。

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その 峠名 が示す通り、馬をつかって峠道を越え、峠下で待ち構えていた牛に荷物を載せ替えて、平野部は牛が荷車を引いたのであろう。峠の北側は、高砂市北浜町牛谷という地名だった(上地図)。
下写真左は峠上から牛谷地区を見たもの。下写真右は、JR曽根駅から牛谷地区と馬坂峠を臨んだもの。
地元では、戦国時代、付近であった合戦に倒れた馬をこの辺りに埋葬して以降、通行人に害をもたらす「馬の首」伝説が伝わるという。

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峠頂上の先端部分は切り通しになっており、なかなか見応えがある(下写真左)。
下写真右は、馬坂峠の頂上付近から、大塩平野を臨んだもの。すぐ向こうには瀬戸内海が広がる(写真では真っ白になっている部分)。
この付近は、毎年10月下旬~11月ごろ、たくさんのノジギクが開花するという。兵庫県の県花だ。

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曽根城(曽根天満宮)

古代より、入り湾状に広がる日笠ノ浦の景色は有名で、その風光明媚な様は、「万葉集」にも歌われるほどであった。
平安時代中期の901年(醍醐天皇の治世時代)、都から九州大宰府へ左遷となった菅原道真が当地へ立ち寄り、高砂の海岸線を眺めるべく、日笠山に登ったとされる逸話が残されている。その際、東の伊保港から下船し、梅井の地元民から清水を分けてもらい、咽喉を潤したとされる。
日笠山の山頂では若松を持ち帰り、「我に罪なくば栄えよ」と祈念して、麓にあった広場に移植したといわれており、これが霊松曽根の松という。

菅原道真の死により、その一族は許されて、都で出世すると、その四男の菅原淳茂が、従者13人と共に当地に至り、この松の広場に社を建て、お祈りしたのが曽根天満宮の創始と伝えられる。

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さらに、天川の河口部に位置し、ここの水運や物流拠点として栄え、また浜国街道沿いの天川の船渡し町としても早くから集落地が形成されていたと推察される。その住民らの信仰の中心を成したのが、この曽根天満宮だったのだろう。
室町期 には、古代入浜式塩田が一帯に開拓されていたとされ、瀬戸内の一大製塩エリアの一部を成していた。

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1578年、織田信長の命を受けて播磨侵攻戦を遂行する秀吉と対立し、このエリアの住民や僧兵らは曽根天満宮の境内に立てこもるも、焼打ちに遭い、寺宝、社殿など全てを焼失してしまったという。
その戦火の中、先の菅原道真が植樹した松木も大きなダメージを受け、最終的に1798年、衰弱死してしまう。
現在、その幹は境内の霊松殿に保存され、その枝を使用して10分の一の模型が作られている。枯死の直前、1795年に当社を訪れた小林一茶は「散り松葉 昔ながらの掃除番」との句を残したそうだ。

続く2代目、3代目も虫食い虫の被害で若くして枯死してしまったようである。

1590年、豊臣秀吉は小田原の北条氏を下し、全国を平定すると、同年、寺沢越中守を奉行として本殿を再建させ、寺領10石を寄進している。

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1609年、姫路城主・池田輝政の正室である督姫(徳川家康の娘)の寄進によって拝殿が建立され、さらに1717年、神門の新築ほか境内の大普請が行われる。 1765年には他の社殿も建造され、同時に拝殿も再建されて、ほぼ現在の境内の姿が完成されたという。

また京都所司代・板倉勝重は、1619年、境内保護の制札を下し、 1648年、三代将軍家光が朱印領30石を寄せ、以後、累代の将軍はこれにならった。
学問熱が高まった江戸期、菅原道真を崇拝する風潮が高まり、曽根天満宮の威名は各地に聞こえ、参勤交替の途上、参拝する大名も多くあったとされる。

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1798年に道真が移植した初代の松木が枯死した後、その樹下に自生した二代目の松は、明治初年には幹まわり12尺、高さ35尺、枝張は南北20間、東西15間の壮観を呈し、大正13年、天然記念物に指定されたというが、昭和23年頃から松喰い虫に襲われ、同27年枯死してしまう。
三代目の松は、それと前後して枯死し、四代も松喰い虫の猛威を受けて枯れ、現在は五代の松を育成している。


生石神社

JR宝殿駅前で自転車を借り、南西へ5~10分行くと、生石(おうしこ)神社がある。下写真。

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古代より竜山石切り場として知られ、加工しやすい岩石が採掘できるということで、巨大石材の調達場所として重宝されてきた。現在でも採石場として現役である(下写真左)。

近代以前、切り出された石材は、麓に流れる法華山谷川を伝って海路、畿内や全国へ運ばれていたという。

かつて加古川の本流は二つに分かれて海に注いでおり、そのうちの一つ(洗川・荒井川と通称された)が、この法華山谷川と合流して海へつながっていた。つまり、かつて高砂の旧市街地は、河川と海に囲まれた三角州に位置しており、古くから洪水被害に悩まされてきたという。
昭和の工事で、法華山谷川と加古川は完全に切り離され、今日の河道が確定された。

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さてさて、この生石神社に安置されている神石(石殿。浮石。上写真右)は、幅 6.3m、横 7.8m、高さ 6m、重さ 500トンといい、その石材の切だし時期、目的、責任者などは全く不明とされる日本三奇(他に、塩釜神社の塩釜、霧島山の天逆鉾)の一つに数えられているという。
一部では、石造りの建築物や古墳建造が流行った飛鳥時代に、当時から有名であった竜山でも石材の切出しが試みられたものの、重すぎて運べずに放棄されたのではないか、と指摘されている。

飛鳥・奈良時代に築造された恭仁(くに)京、平城京、播磨国の国分寺の礎石などに、すでに竜山石は使用されていた。

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生石神社(紀元 81年創建とされる)の社殿をさらに上へ進み、裏の山まで登ってみる。
ここは江戸期、姫路城と明石城が目視できる中間地点にあり、双方への合図ポイントとして狼煙台が設置されていたという。
山頂からは、淡路島、明石大橋、高砂や加古川の海岸線が一望できる。

頂上部分には、大正天皇が足を運んだ記念碑も建てられていた(上写真左)。
山の向こうは、高砂市阿弥陀町(この地名は、鎌倉時代に北原の地に時光寺が創建されて以降、使用されている)の 一帯 である。

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秀吉の 神吉城 攻めの折、その社殿を陣営に提供するよう打診されたが、当時、城主の弟であった住職はこれを拒否し、秀吉軍により焼打ちに遭う。

大化改新で有名な孝徳天皇が654年に1000石の寄進をして以降、周辺の村々の厚い信仰を集めてきた生石神社も、この播磨平定戦での戦火で土地は没収され、さらに釣り鐘や鐘楼などは持ち去られ、その他の古文書や宝物などを焼失してしまい、完全に没落してしまったという。

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なお、この時に持ち去られた釣り鐘が 関ヶ原の戦い の折、西軍石田三成方の勇将・大谷吉継が陣鐘として使用した逸話は有名だ。敗戦の結果、徳川家康が戦利品として美濃国赤坂の安楽寺(大垣市赤坂町)に寄進し、そのまま現存する。


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