BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2017年6月上旬 『大陸西遊記』~


鳥取県 鳥取市 ① ~ 市内人口 19万人、一人当たり GDP 260万円(鳥取県 全体)


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  鳥取藩士・箕浦家の 表門跡
  三ノ丸(現在、県立鳥取西高校の敷地)と 大手門、内堀跡
  鳥取城の 古絵図
  鳥取城の 名物・天球丸
  久松山自体からの 採掘石による 鳥取城の石垣美
  鳥取城の二ノ丸 と 三重櫓
  鳥取城の 山上ノ丸 ~ その天守櫓 と 本丸
  鳥取城の 山上ノ丸 ~ その二ノ丸、三ノと 出丸
  鳥取城の 山上ノ丸 ~ 野面積みの石垣が 見事かつ、スリル満点
  【豆知識】鳥取城 ■■■
  鳥取城内に 設置された洋館 ~ 仁風閣 と 大正天皇
  雁金城 と 平和台
  迫力満点の 円護寺トンネルを突破 ~
  吉川経家の 墓(五輪塔)
  【豆知識】吉川経家、運命の 皮肉 ■■■



鳥取市は鳥取県の県庁所在地であり、また山陰地方最大の人口を抱える大都市でもある。このことから、山陰地方では唯一の特例市となっており、山陰地方ではホテル代金も突出して高かった。

移動の足として、鳥取駅北口の第 2駐輪場で、自転車をレンタルした(500円)。
そのまま自転車で 駅前通り(若桜街道)を東進し、突当りの鳥取県庁の向かいにある、県立図書館に到着した。
同敷地内には現在、県民文化会館もあり、鳥取市内でも 文化・学問エリアを 形成しており、江戸期には藩校の 尚徳館(1757年2月1日、5代目藩主・池田重寛 によって設立)が立地した場所という。明治維新期の 1870年に鳥取師範学校へ改編され、 戦後に 鳥取大学(学芸学部)&その付属の小中学校へと再編されている。

鳥取市 鳥取市

その敷地内に保存されている武家門であるが(上写真)、 1936年に当地に鳥取師範学校の校門として移築され、今日に至るという。 もともとは鳥取藩士の 箕浦近江家(2,000石)の表門として、鳥取城内堀の南隅にあったが、明治以降にはその武家屋敷は取り壊されるも、この表門だけは取り置かれ、新たに入居した「尋常高等小学校(鳥取大学付属小学校)」の校門として使用されていたという。

さて、鳥取県庁からさらに 若桜街道 を北進していると、山裾に多くの石垣群が見えてくる。そのまま内堀まで移動し、市立武道場前に至ると、吉川経家の銅像が目に飛び込んできた(下写真左)。その後方には、鳥取城の三ノ丸跡地に建つ「県立鳥取西高校(偏差値 63。鳥取県東部随一の進学校)」の校舎が見える(下写真右)。

鳥取市 鳥取市

筆者が訪問した 2017年6月現在、この三ノ丸跡地から内堀にかけて、大手門の復元工事が行われていた(上写真右)。石垣も再組上げが実施されたようで、同じ位置に戻すように一つ一つ目印が施されていた。
内堀にかかる大手門橋は、擬宝珠橋(ぎぼしばし)と通称されており、 その正面の 大手門(中ノ御門)は、藩主の入城時などに使用される 正門であったという。下古写真。

鳥取市

藩主以外は西側の北門を使っていた(下地図)。
さて今回、この北門を通って、城内に入ることとなった。ちょうど、北門を入ってすぐ左手に県立博物館があり、その入り口付近に自転車を停めていると、無料ガイドさんに声をかけられて、鳥取城内を案内してくれるというので、ついていくことにした。

鳥取市

なお、上古絵図の赤枠内の上部に太鼓門が描かれている。ここは当時、城内の 中心部であった三ノ丸の入り口で、時を知らせる太鼓を打った場所でも あったという。
赤枠内の 太鼓門、中ノ御門ともに、1879年までに段階的に解体撤去されてしまったという。

鳥取市

さて、マンツーマンでガイドさんに連れられて、まずは、鳥取城の名物となっている 天球丸(上地図)へ直行された(下写真)。

山裾に位置する平城部分で、最も山に近い場所に位置する天球丸は、山からの地下水の流れをもろに受けて石積みが押上られ、 年々、崩落の危険性が高まっていたという。
その対策として 1807年に考案されたのが、石垣の防御性や見栄えを度外視した、石垣の膨張箇所にさらに石積みを上重ねする、という突貫の補強工事なのであった。

鳥取市 鳥取市

なお、「天球丸」の由来であるが、ここに天球型の石積みが施されているからではなかった!!!
1601年に入城した 初代鳥取藩主・池田長吉の姉、天球院が 嫁ぎ先(若桜鬼ヶ城主の山崎家盛)を去って、 この曲輪に造られた居館に住んでいたことから、江戸時代初期よりこの名で呼ばれていたということだった。

下写真左は、球体丸から 旧城下町(鳥取市街地)を眺めたもの。真下に見える校舎群は、三の丸跡地に建つ「県立鳥取西高校」。

鳥取市 鳥取市

また、鳥取城は全国で最も多くの石垣遺構が残されているといい、その石垣が重なる合う様はまさに圧巻であった(上写真右)。
この上写真右の球体丸の右手に広がる急斜面には、当時、巨大な 堅堀(たてぼり)が 2重に掘削されており、 かなり強固な防衛網が施されていたという。

鳥取市 鳥取市

上写真は、石垣工事中の様子。正確な復元工事が進められるように、一つ一つの石に番号が振られていた。また、崩落の危険性があるポイントには、カバーが被せられていた。

鳥取市 鳥取市

また、山裾には石切り場跡が残されており(上写真左)、花崗岩でできた久松山を砕いて、そのまま石垣へ転用されていたらしく、見事な鳥取城の石垣群は、この久松山自体の石材だったことには驚かされた。
上写真右は、石切り場の一部をも、石垣そのものとして転用していた箇所。
石垣工事に際し、当時、最も経費がかかったのは、石材の運搬だったとされ、 その石材が築城作業現場から産出できた鳥取城は非常に恵まれていたわけである。

鳥取市 鳥取市

上写真左は、登り石垣跡。朝鮮の役時に数多く築城された日本軍の倭城米子城 にもわずかな遺構が見られるが、鳥取城のそれは見事な姿を今に伝えていた。

下写真左は、明治 10(1877)年ごろの鳥取城の様子。山裾の三重櫓は健在であった。 1692年に山上ノ丸の天守櫓が焼失して以降は、この櫓が鳥取城の象徴的建物となっていたという(1879年に解体撤去された)。
下写真右は、その土台石垣跡から城下町を眺めたもの。

鳥取市 鳥取市

地元ガイドさんには、だいたい 1時間ぐらいご案内頂いた後、山上ノ丸に登ることを告げ、お別れした。熊や猪の出没に注意するように口添えされた。

ちょうど、山上ノ丸への登山口に、八幡宮が祀られていたようで、その基礎部分の石垣跡が生々しく残されていた(下写真)。 往時には、本殿、鳥居、神橋などが存在したという。

鳥取市 鳥取市

ここから急な山道を登り、約 20分程度で 山頂部 に到着できた。
下写真は、山上ノ丸の最頂上である、天守櫓跡。石垣の高さは 2~3m ほどだったが(下写真左)、内部には建物が建てられていた礎石などが鮮明に残されていた(下写真右)。天守櫓は当初、3層だったらしいが、後に 2層へと改修されるも、1692年に落雷で焼失し、以後、再建されることはなかったという。

鳥取市 鳥取市

この久松山上にも、山麓とは別に、天守櫓、本丸、二の丸、出丸、三の丸が完全装備されていたようで、それぞれの曲輪は小さいながら、平坦に整備され、一つの山城として機能できるようになっていた。下地図。

だいたい、これぐらいの規模の城塞に、かつて 3,000名ほどの吉川経家配下の武士団、周辺の村人らが 4ヵ月も立て籠もっていたわけだから、その息苦しさたるや想像を絶する。

鳥取市

上絵図にあるように、本丸郭が最も広かったようである。幕末まで、著見(月見)櫓、多門櫓、それをつなぐ走櫓などの建物群が残り、御天守奉行が守っていたという。

この本丸内には車井戸跡が残されていた(池田長吉の治世下の 1602年より開始された城内大改築の際に掘削されたものという)。下写真左。

鳥取市 鳥取市

上写真右は、二ノ丸 から本丸石垣を見たもの。荒々しい自然石を積み上げた野面積みの石垣は見応え抜群だ。なお、二ノ丸は本丸と比べると、かなり小ぶりな広場であった。

鳥取市 鳥取市

上写真左は三ノ丸の跡地。ちょうど、ニノ丸の石垣下に位置し、やや離れた場所にある。
ここから、本陣山(太閤ヶ平)までの山道が設けられていた(上写真右)。

鳥取市 鳥取市

山上ノ丸で、一番、下部に建造されていた出丸は(上写真)、なぜか道が封鎖されて、見学できないようになっていた。出丸の真上の石垣が、ちょうど近年に整備された痕跡が色濃く残っていたことから、石垣の崩落の危険性が考慮されたためであろうか。

実際、天守櫓台、本丸、二の丸、三の丸などの石垣群は建造当時の野面積みで、その痛み具合は甚だしかった。見応えは抜群であったが、いつ崩れ落ちても不思議ではない風化ぶりだった。

鳥取市 鳥取市
鳥取市 鳥取市

30分ほど山頂部を散策した後、下山を開始した。下りはスムーズだった。
なお、山道の途中でも、わずかに石垣が残る部分がある(八合目、上写真右)。かつては、ここにも小規模な番所が設けられていたらしい(下古絵図)。

また、久松山の西側の尾根沿いには、頂上部分が小さく掘削された平坦なエリアが現存し、 それぞれ 鐘ヶ平、太鼓ヶ平、松ノ丸などの曲輪が設置されていたという。

鳥取市

あと、山上ノ丸周辺ではたくさんの瓦屋根の残骸が散らばっており、かつて、この山頂に建築物が存在したことを如実に物語っていた。

下山の最中、道すがらすれ違う登山者らとの挨拶では、彼らが苦労の後で味わう感動の山頂風景という 5分後、10分後の未来が見える者として、ちょっとした優越感が持てる瞬間であった。


天文年間(1532~1555年)、隣国 どうしだった但馬国(兵庫県北部)守護の山名氏と、因幡国(鳥取県東部)守護の山名氏との対立が激化する。もともとは但馬山名氏が両国の守護を兼務していたが、後に因幡山名氏が分家として因幡守護を継承するようになるも、その勢力基盤は脆弱で、引き続き、但馬山名氏は本家として因幡国へ度々、介入を繰り返していたことが原因であった。
そうした中で、西の 出雲、伯耆国で勢力を張った尼子晴久が、因幡国へも勢力を伸長させてくると、因幡山名氏はこの尼子氏の威力を頼って、但馬山名氏に軍事的に対抗するようになる。

すでに因幡国の大部分は、但馬山名氏に実質的に占有されていたわけであるが、 1543年、尼子軍が鳥取山下にあった但馬山名氏の拠点へ攻撃をしかけ、鳥取平野から但馬山名氏の勢力を完全に駆逐することに成功する。
そして 1545年、但馬山名氏への備えとして、鳥取山(久松山、標高 263 m)の山頂に、急峻な自然地形を利用した山城が建造されることとなる。鳥取城の誕生である。

当時、因幡国の守護所は、布勢天神山城(現在の 鳥取市湖北街南、布勢)にあり、但馬山名家出身の山名豊数が最後の城主となっていたが(1561~1564年守護職に就任)、引き続き、因幡国内の国人勢力の統治に手を焼き、後ろ盾としていた尼子晴久が死去(1561年)すると、ますます情勢は不安定となっていく。

鳥取市

弱体化する尼子氏に代わって、台頭する毛利氏に接近した因幡国の国人勢力らをまとめた武田高信が守護の山名氏に公然と反旗を翻すようになる。
ついに翌 1562年、毛利元就 による出雲遠征で、尼子氏は滅亡に追い込まれると、翌 1563年、鳥取城を居城としていた武田高信は、新守護・山名豊弘を擁立し、名実ともに因幡守護所が鳥取城にあることを宣言する。
これに激怒した布勢天神山城の山名豊数は鳥取城を攻撃するも大敗を喫し(1563年4月)、その年の年末には、布勢天神山城も落城してしまう。山名豊数は鹿野城へ退去するも、不遇のうちに翌 1564年、没する。

その後、因幡国をほぼ手中に収めた武田高信は、毛利氏 に付き従い、山陰や中国地方を転戦するも、1573年9月、山中幸盛らの率いる尼子再興軍の攻撃を受け、居城の鳥取城を占領されてしまう。
この時、尼子再興軍は因幡国の国人勢力の協力を得るべく、因幡山名氏の 山名豊国(山名豊数の弟)を新守護に擁立して戦い、鳥取城を占領後は、そのまま山名豊国を城主とし、再興軍らは 私部城(市場城、鳥取県八頭郡八頭町市場)へ拠点を移して、毛利軍との戦いを続行することとなる。

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以後、山名豊国を擁する鳥取城が新守護所となり、布勢天神山城に残されていた 3重の天守も鳥取城へ移築される。以後、布勢天神山城は廃城となるも、間もなく、尼子再興軍の追討を指揮する 吉川元春(毛利元就の二男)により、毛利方の最前線基地として再整備されることとなる。

そして、翌 1574年冬にはついに再興軍も敗走し、その過程で鳥取城も毛利方の吉川元春の攻撃を受け、山名豊国は無血開城したのだった毛利方 に降った山名豊国は、そのまま鳥取城と因幡守護職を安堵される。

しかし、今度は 1580年9月、播磨国を席巻した織田方の羽柴秀吉の侵攻を受け、完全包囲される。戦闘を嫌った山名豊国は独自の判断で秀吉の陣中に赴き降伏を願い出る。いったんはそのまま武装解除した鳥取城であったが、重臣の中村春続、森下道誉ら因幡国人衆らは徹底抗戦を主張し、城主の山名豊国は追放される形となる。家臣団は、月山富田城を本拠地として山陰支配を担当していた吉川元春 に城主派遣要請を出し、翌 1581年3月18日、石見国の 福光城主・吉川経安の嫡男である吉川経家が着任することとなる。

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秀吉も同年 7月12日、姫路 から但馬口を経由して再び、因幡国の鳥取に到着する。前年に秀吉の軍門に降っていた山名豊国も戦列に参加していた
秀吉は、すぐに鳥取城の東約 1.4 kmの帝釋山の山頂(現在の 本陣山・太閤ヶ平)に本陣を設け、 2万の軍勢により、左右両翼と前面の袋川沿いに総延長 20 kmに及ぶ 大包囲陣を敷いて鳥取城戦に備える。

当初、圧倒的な戦力差から、吉川経家は冬まで籠城して持ちこたえることが できれば、秀吉軍は自動的に撤退するものと予測し、あくまでも籠城戦で時間稼ぎする作戦 に出る。しかし、食糧備蓄が乏しかった城内は、毛利方からの 海路の兵糧支援を前提とする防衛戦しか選択肢がなく、8月上旬に 陸揚げ拠点の丸山城との連絡ルートであった雁金山城が落城して、 糧道を絶たれると、同月下旬にはすでに、日々、餓死に及ぶ者が出る有り様であったという。
約 200日余りの籠城戦の後、経家は父・経安や子供たちに数通の遺書を残し、 10月25日に自決し、鳥取城を開け渡す。

なお、第一次鳥取城攻めの際、織田方の手に落ちていた鹿野城はこの時、未だ毛利軍の攻撃を受けておらず、尼子再興軍の残党をまとめた 亀井茲矩(23歳)が守将に就いていた。亀井茲矩はこの第二次鳥取城攻めでも戦功を挙げたため、正式に鹿野城主に任命され(24歳)、13,500石の領主となっている。

因幡国の首府・鳥取城は、この第二次鳥取城攻めで雁金山城を 占領し、鳥取方の糧道寸断 に成功して第一の功労者と賞された 古参武将・宮部継潤(55歳)に与えられ(5万石)、 以後、因幡国の戦後処理と、毛利最前線の目付役を担うこととなる(下地図)。
宮部継潤は直後より、土塁造りであった鳥取城の石垣化の工事に着手したとされる。

鳥取市

こうして因幡国の統治を託された 古参武将・宮部継潤(55歳) と亀井茲矩は、その後も秀吉配下の武将として、九州、小田原、朝鮮戦役 に参加していく。そんな両者の命運を分けたのが 関ヶ原の戦い(1600年)であった。宮部継潤は前年の 1599年に死去しており(72歳)、その子の 宮部長房(19歳)が西軍に組したため、東軍派となった亀井茲矩(43歳)は、宮部長房が畿内へ出陣し留守にしていた鳥取城を攻撃する。
しかし、鳥取城は父の宮部継潤時代に石垣構築などの強化工事が施されており、なかなか陥落させることができず、最終的に城下町の焦土作戦によって、ようやく落城に追い込むことに成功する。戦後、この功績によって、領地は大幅増となり、3万8,000石の鹿野藩が立藩される。

鳥取城には家康の信任厚い池田氏が入り、以後、池田氏歴代 12代の藩主が鳥取城主として君臨することとなった。
江戸時代を通じ、鳥取の町は池田氏の 鳥取藩(32万石、江戸幕藩体制下では第 12位の規模)の藩都であり続け、今の市街地はこの 城下町 として栄えたエリアに相当している。廃藩置県の後、1884年に鳥取村が新設され、1889年10月1日に市へ昇格されて、今日に至っている。

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当初、鳥取城は小さな土塁造りの山城要塞が山頂に設けられていただけだったが、 秀吉配下の宮部継潤により山上城塞の石垣化の工事が進められ、関ヶ原の戦い の後、翌 1601年に 入封した池田長吉により、山下の麓部分の整備が大規模に進められることとなった。
このとき、二ノ丸、三ノ丸などが整備され、現在の鳥取城の基礎が形造られる。 大手門も北側から中ノ御門へ改められたのも、この工事の際であった。

最終的に 1617年、姫路 より池田光政が移封されると、引き続き、大規模工事が 継承され、だいたいの骨格部分が完成したとされる。最終的に、鳥取城は 1632年に 岡山 から池田光仲 を城主に迎える頃には、最終形態に至ったと考えられている。

1692年に山上ノ丸の天守櫓が落雷により焼失されると、以後は再建されることはなかった。
山頂の天守櫓はもともと 3層であったが(布勢天神山城から移築したもの)、池田光正により 2層造りへ改修されていた。 焼失後、そのまま石垣だけの遺構となったという。 以後も、山上ノ丸を管理する番所が山頂部に設置され続けたようである。

1716年、3代目藩主・池田吉泰が三ノ丸を造成し、藩の政庁と藩主の居住空間が二ノ丸より移される。 しかし、間もなくの 1720年に石黒大火が発生し、城内の大半の建物を焼失してしまう。 直後に、三ノ丸の大規模改修が手がけられる。

鳥取市

当時すでに藩財政は危機的状況にあり、鳥取城の復興は以後 100年以上かかることとなった。 1728年に二ノ丸三階櫓が、1846年に二ノ丸御殿の再建が完成している。これらの再建工事の過程で、 二ノ丸や三ノ丸は東西に大きく拡張され、また、菱隅櫓など新建造物も 設置されたようである。


下山後、二ノ丸、三ノ丸郭群を通過し、仁風閣 を横切る。
明治時代に建造されたフランス・ルネサンス様式の建築物で、国の重要文化財に指定されている。

1907年に皇太子の 嘉仁親王(後の大正天皇)が当地を訪問された際、その宿舎として利用されたという。 到着直前の 80日間の突貫工事で建造された洋館という。以後は、旧鳥取藩主の池田仲博侯爵の別荘となっていたそうだが、現在、観光地として一般公開されている。
映画「るろうに剣心」の撮影にも使用されたという。

鳥取市 鳥取市

そんな突貫工事により建設された洋館であったが、鳥取を襲った数々の地震でも倒壊することなく、今日にその威風を残していた。

なお、この皇太子訪問の際、一行は京都から 3日もかかって当地に到着したらしい。山陰地方は陸の孤島との異名を取り、かつては自動車道もなく、京都 から舞鶴港まで出て、船で日本海を西進し、境港から上陸されて、鳥取へと移動するしかなかったという。

鳥取市

さらに鳥取城前を北上し、城跡の北側にある山脇の道を円護寺へと向かってみた。
ちょうど筆者が急な坂道を自転車を押して登っている最中に、トンネル前にあった最勝院という寺院の駐車場で大型バスが停車した。間もなく、修行僧の恰好をしたシルバーの皆さんがバスから下車されていた。どうやら因幡観音霊場の一角に列せられる由緒ある名刹らしい。

とりあえず、この急な坂道の先を急ぐこととし、平和台 入り口という看板が立つ登山口に至ることができた(下写真右)。
ちょうど駐車スペースが設けられていたので、ここに自転車を置いて、そのまま登山を決行する。

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自動車道路のトンネル直前に、雁金城跡 を伝える石碑が設置されているだけで、その他は一切、参考になる資料や看板はなかった(上写真右)。

平和台への登山道は、最初の入り口部分は山から流れ出る小川の水脈をたどる形で、かなり滑りやすい。しかし、5分ほどで、山の尾根道に到達した後は、よく踏み成らされた山道を伝っていくだけとなる。

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登山口から約 15分で、平和台の名称の由来となっている平和の塔まで到着した(上写真左)
ここは戦争や天災などでの死者を弔うべく、全国の各市町村からの寄付で建造されており、寄付当時の市長名が彫られた石の表札が並べられて掲示されていた(下写真左)。

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ここで、いったん登山道は終わっており、尾根続きにあるはずの雁金城への道を失いかけたが、平和の塔 の裏側に、ギリギリ続く登山道を発見できた。

やや不安に思いながら、そのうっすらと踏み残された尾根道をたどっていくと、 3~4分でもう一つの山頂部分らしき、広場にたどり着いた(上写真右)。

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2~3層に整備されていたであろう、曲輪跡らしい地形が確認できた(上写真)。
しかし、全部が草木に埋もれてしまい、城跡があったと知らない限り、ここが遺跡とは夢にも思えない状況だった。 もちろん、雁金城跡 の標識も何もない。。。

そのまま同じ山道を下って、トンネル 前まで戻る。
この円護寺トンネルがなかなか見応えがあり、100~200 m ほどであったが、岩盤の形状が生々しく見て取れる代物だった(下写真左)。鳥取県内でも心霊スポットの一つになっているらしい。

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トンネルを過ぎると、そのまま下りが続き、鳥取城の裏手の 集落地(鳥取市円護寺&北園)に至る。ここは最近、住宅開発された地区らしく、家々や道路すべてが真新しかった(上写真右)。山裾を流れる 継子川(ままこがわ)には、6月中旬に源氏ボタル、7月上旬には平家ボタルが乱舞するという(上写真右)。

さてさて、地図に示された谷前地区の最も奥地を目指す。
当地の真新しいエリアの中でも、ひと際きれいに整備された公園内に、吉川経家 の墓所が鎮座されていた。下写真。
ここに設置されている五輪塔は、吉川経家主従の墓と伝えられているものである。

鳥取市 鳥取市

円護寺の境内にあると思っていたが、境内から離れた場所に設置されていたようである。
地元の子供たちが墓の周囲で遊んでおり、到底、史跡の保存環境が整っている場所ではなかったが、地元の宝としてきれいに掃除されていることは伝わってくる。


吉川経家は、1581年の羽柴秀吉による鳥取城攻略に備え、山陰地方を抑える吉川元春 から鳥取城守将として派遣されてきた武将である。もともとは鳥取の町とは縁もゆかりもなかった。

前年の 1580年9月の第一次鳥取城攻撃の際、織田方へ帰順した 鳥取城主(因幡守護)山名豊国の方針 を不満とした森下道誉、中村春続らの因幡国の地場の国人衆は、豊国を追放し、毛利氏に鳥取守城のための城将派遣を要請する。
こうして、1581年3月18日、毛利氏 の一族で石見国福光城主の吉川経安の 嫡男・経家が城将として鳥取城に入ることとなったのだった。

同年 7月12日、姫路 を出立した羽柴秀吉が鳥取に到着し、鳥取城背後の北東の 山頂(現在の 太閤ヶ平)に本陣を置き、前面の袋川沿いに各陣を敷いて、二万余の軍勢により兵糧を絶つ鳥取城包囲作戦を展開することとなる。
これを迎え撃つ鳥取城の兵力は、吉川家本家から同行してきた 親衛隊(加番衆) 400名と、因幡国人衆の 1,000余騎に過ぎなかった。
毛利氏 からの援軍・食糧の補給が阻止され、包囲後 3ヵ月過ぎる頃には、「籠城兵糧つき、牛馬人等喰ひ候」という状況に陥る。

鳥取市

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ついに 10月25日、吉川経家は城兵を助けるために開城し、自身は城中広間で切腹して果てる。時に 35歳であった。死の前日の 10月24日に 本家・吉川元春 に宛てた遺言状に、「日本二つの御弓矢境において忰腹に及び候事、末代の名誉たるべく存じ候」との名文に始まる遺書を残している。織田氏と毛利氏という「日本二つの御弓矢」の正面対決による鳥取城攻防戦での切腹を、大きな名誉と感じていた、と解説板は指摘していた。

もともと吉川経家自身、鳥取から遠く離れた石見国の 福光城(島根県大田市温泉津町福光)の出身者であり、わずか 半年間とは言え、もし鳥取城主に就任していなかった場合、毛利配下の吉川氏一族の一武将という位置づけで、歴史の中に埋もれた存在に終わっていたかもしれない。毛利方の最前線拠点となっていた鳥取城への入城する際、死を覚悟して首桶まで用意し、持ち込んだという逸話も残る、決死の城主就任であったそうだが、その半年間の濃すぎる日々の後での不幸なる自決は、当時も今も、多くの人々の心を打つものがある。 こうして、「吉川経家」の名は歴史に深く刻み込まれることとなった。


そして、ここの谷間のさらに上にあった神社から、本陣山(太閤ヶ平)への登山道を探してみたが、見当たらなかったので、いったん谷を下り、丸山城跡 を訪問してみることにした。


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