BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2017年6月上旬 『大陸西遊記』~


鳥取県 米子市 ~ 市内人口 15万人、一人当たり GDP 260万円(鳥取県 全体)


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  二重の堀だけで 防衛ラインを構築した 米子城、「一見は山城だが、実は水城」
  応仁の乱 と 米子城(飯山城)
  尼子合戦から、吉川元春・広家父子が 攻守で絡んだ 米子城(飯山城 と 湊山城)
  旧・米子城(飯山城)跡の 飯山出丸
  毛利水軍基地、後に米子城の 船着き場となった 深浦港と 新加茂川
  新・米子城(湊山城) 絵図 と 深浦港
  新・米子城(湊山城)の 二ノ丸正門「枡形虎口」
  旧小原家長屋門の建物、かつての 市立歴史山陰博物館
  米子城 二ノ丸(藩主藩邸)跡地 と 藩主ご用達の井戸跡
  米子城 内膳丸、火薬などを保管する 武器庫として機能した
  内膳丸から続く登り石垣 と 本丸番所跡
  米子城の正副天守閣 と 石垣
  米子城 本丸の搦め手門と 藩主専用の船着き場への 下山ルート
  【豆知識】米子城築城 と 城下町の整備 ■■■
  米子城三ノ丸と 内堀跡、旧武家屋敷エリア
  山陰歴史博物館の 重厚なる建物
  外堀跡の道路を たどってみる ~ 古地図 と 現代地図を合成して



現存する 米子城 は、主に江戸初期に建造された平山城で、その石垣や防衛網は決して堅固な印象を与えるものではなかった。二の丸、三の丸一帯の石垣はかなり低く、また本丸から三の丸までがすべて内堀に収まる構図で(下絵図)、あとは城下の武家屋敷を取り囲んだ外堀が存在するだけであった。近世の平城に見られるような圧巻の堀割りや曲郭群は見られず、中海を防衛ラインに大いに利用しており、一見は山城だが実は水城、と表現した方がいいかもしれない。

米子市

しかし、その歴史は古く、かつ度々、過酷な戦火を潜り抜けてきたツワモノである。
室町時代中期、応仁の乱が勃発した直後の 1467年ごろ、飯山上に 城塞「飯山城」が建造されたとされる。 この時、隣の湊山は出丸として利用されていたようである。

当時、出雲国守護の 京極持清(1407~1470年)は東軍に、伯耆国(鳥取県)守護の 山名教之(?~1473年)は西軍に組したため(下地図)、その国境地帯は戦火の最前線となり、 複数の城塞が配置されることとなった。 山名教之の傘下の 最有力武将・山名宗之(宗幸。生没年不詳)が陣頭指揮したとされる。
守護の京極持清自身は畿内へ出陣し、京都 で戦っていたため、出雲国では守護代の 尼子清定(1410~1488年) が領地経営を担っており、出雲国人衆の反乱を鎮圧するなど成果を上げていた。1470年に伯耆国側の山名軍が出雲国へ侵入してくると、これを撃退し、山名軍はこの飯山城に逃げ込んだ、と史書は伝える。

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1488年に父の尼子清定が死去すると、その子の 経久(1458~1541年)が跡を継ぎ、出雲東部の半独立勢力として台頭しつつあった尼子氏の領土拡大戦を継続していくこととなる。一時は、守護の京極政経との関係が悪化し、守護代を解任されるも、1500年、近江国での お家騒動(京極騒乱)に敗れて帰国した政経を受け入れ、その威信を利用して出雲内の国人衆の懐柔を進める(1508年、京極政経死去)。

出雲国の完全領有を成功させつつあった尼子経久は、1510年ごろより伯耆国への侵攻を進めるようになり、早くも 1513年に米子城へ攻撃を加えたとされる。1524年には伯耆国の西部を占領するに至り、最前線基地だった飯山城(米子城)も陥落したと見られる。

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1541年に山陰の一大勢力を築き上げていた尼子経久が死去し、孫の 晴久(1514~1561年)が継承すると、その勢力は播磨にまで及び、1553年には、中道子山城(兵庫県加古川市)を本拠地とする、播磨赤松氏への攻撃も敢行されている。しかし、1561年に晴久も死去し、子の 義久(1540~1610年)が跡を継ぐころには、毛利元就(1497~1571年)とのパワーバランスは完全に逆転しており、翌 1562年、毛利氏が満を持して尼子領への侵攻を開始してくる。

この毛利氏の攻撃に乗じ、伯耆国の旧山名氏下の国人らも反尼子で挙兵し、この 飯山城(米子城)も、これらの共同戦線軍により落城することとなる。当時、米子城攻撃は毛利方の吉川元春が指揮し
、その占領後は山名秀之が城主に任命されている。
今度は 1569年、尼子家再興軍を率いた山中幸盛の軍勢が侵入してくると、城主の山名秀之は 飯山城(米子城)を開城し、反毛利で挙兵するも、吉川元春 に攻められ落城し、自刃に追い込まれる。
以後は、吉川元春の管轄下に置かれた(城代は古曳吉種)。

1591年、豊臣秀吉により毛利主家から独立する形で、吉川広家月山富田城 を拠点として、東出雲・隠岐・西伯耆の 14万石を与えられると(下地図)、配下の 武将・古曳吉種(?~1592年)に命じ、飯山城の出丸であった湊山に新たに大城郭の築城を開始する(新・米子城)。水軍の接岸がより容易な湊山の改造と、当時、すでに大砲などの火砲が攻城戦でも多用され始めた時代、飯山よりも標高が高い湊山の山頂にも防衛拠点を設けて、二重の防衛ライン構築が図られたと推察される。

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しかし、築城監督の古曳吉種が 文禄の役(1592年) で戦死し、また広家自身も 朝鮮の 役(小早川隆景と立花宗茂らと共に、第六軍に所属)で多くの負担を強いられ、築城工事もままならない過酷な状況に置かれるも、 1598年に戦役が終了すると、本拠地の 月山富田城 へ戻り、湊山城(新・米子城)の築城工事に専念するようになる。

関ヶ原の戦い(1600年)の結果、吉川広家は岩国へ転封されることとなり、代わって 中村一忠(1590~1609年)が、駿河国駿河から伯耆国 17万5000石の大名として入封すると、 家老・横田村詮の後見の下、残りの築城工事を継承していく。この時、内堀内の主郭部分は、すでに 7割まで工事が完成していたという。
ついに翌 1601年、湊山の山頂から山麓にかけて、天守閣、本丸、二の丸、三の丸を配する内堀内部がほぼ完成し、いよいよ武家屋敷群と 外堀(旧加茂川)の掘削が開始される(1602年に藩主の中村一忠が 新・米子城への入居を完了する)。 内堀内部に置かれた 飯山城(旧・米子城)跡地は、出丸(東の丸、采女丸【うねめまる】と別称された)として活用されることとなった。

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下写真は、標高 90 mの湊山上に築かれた新・米子城本丸から、飯山城(旧・米子城)跡地を見たもの。戦略上、この湊山を占領されてしまうと、飯山城内部はすべてが筒抜けとなるぐらい見渡せてしまうわけで、どうして飯山の方へ城塞が建造されたのか、不思議に思える。
この欠点を補うべく、吉川広家 はこの湊山側での主郭建造を進めたわけである。

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下写真左は、新加茂川にかかる 深浦橋(国道 9号線沿い)から、飯山 を撮影したもの。
加茂川は 安来市 鷲頭山を水源とする全長 9.5 kmの河川で、江戸時代に米子城の外堀と連結されて(旧加茂川)、中海に注ぐように設計されていた。当時は、城下町の水運交通の要を担ったとされるが、現在でも川沿いには土蔵や商家の旧家屋が現存している。しかし、古代より度々、洪水を引き起こす危険な河川でもあり、戦後になって河川の流れを分割するために掘削されたのが、この新加茂川というわけだ。
深浦橋の名に見られるように、古くから深浦港として栄えた水運集落の中央部を切り抜いた形になっている(下写真左)。

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上写真右は、飯山上から新加茂川の上流部を眺めたもの。ちょうど JR米子駅の方角に当たる。川沿いには 米子コンベンションセンター(ビックシップ)や 市文化ホール、イオン米子駅前店が見える。 現在の「大工町」の一帯で、江戸時代には、匠職人らが居住していたエリアと見られる。

下写真は、明治期の深浦港の 様子(写真奥の山頂には、湊山上に残る米子城 本丸石垣が見える)。当時は、中海入り口の重要な水運都市・米子の港湾地区として栄え、大阪商船などが出張所を設けていたという。
戦国期、この湊山と飯山との山裾にあたる旧深浦港に、毛利水軍基地があったと指摘されている。

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下の 古絵図 には、深浦港側に藩主用の船着き場が描かれている。

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さて、上古絵図内の飯山へ目を向けて見ると、江戸期、この 出城(東の丸、采女丸)には特に建物が存在しておらず、3段の石垣のみが描かれていることが読み取れる。

実際に上ってみることにしたが、きれいに整備されてしまった無人の山頂公園に過ぎなかった。その階段はかなり急峻で(下写真左)、山頂はかなり平坦になっていただけで(下写真右)、城塞遺構は全く発見できなかった。

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今日、山頂には「英霊鎮魂碑」が建てられ、米子市のために命をかけた人々への供養塔が設置されていた。
日本でも珍しい、内堀内に二つも山を有する城郭で、藩主や武士らが日々の鍛錬をした場所なのだろうかと妄想を膨らませながら下山し、国道 9号線を渡って、いよいよ 新・米子城がある湊山へ上がってみることにする。

米子城 の二ノ丸へ、かつて正門であった枡形虎口から入ってみた(下写真)。内部は自転車置き場になっており、城郭遺跡の市民生活への溶け込みぶりに、かなり親近感を覚えた。
石垣は全体的に非常に低い印象だ。

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下写真左は、二ノ丸内部から枡形虎口を見たもの。 下写真右 は、二ノ丸に入ってすぐに見えてくる旧小原家長屋門の建物。

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建物は、江戸時代中期に建設されたもので、木道瓦葺入母屋造りの平屋建て、床面積は 84 m2あまりという。右手側の一室、左手側に二室あり、その上は一部低い中二階になっている。米子市内で現存する唯一の武家建築という。

この建物は、もともと市内西町の小原家にあったが、1953年に米子市に寄贈され、ここに移築されて、1984年まで市立歴史山陰博物館として利用されてきたという。
小原氏は代々、米子城代の荒尾家の家臣で禄高 120石の下級藩士の家柄であった。

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長屋門 のすぐ裏手にはテニスコートがあり、社会人から中学生らまで 3面のコートを分け合って、テニスに励んでいた。
この二ノ丸部分が、かつての藩主の御殿があり、また藩行政庁があった場所である。
下写真左は、二ノ丸に残る井戸跡。藩主らの御用井戸として利用されていたものである。

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そして、二ノ丸から本丸へ、さらに上へと続く急斜面を登っていく(上写真右)。さすがに米子市第一の観光地だけあって、登山道はしっかり整備されていた。

まずは、中腹にある 内膳丸 へ至る(下写真)。
ここは、 藩主・中村一忠の後見役であった 筆頭家老・横田内膳(横田村詮。1552?~1603年)が、米子城の築城工事や城下町整備に多いに尽力したことから、 その名を冠して呼称されるようになったという。
その地形は、米子城の本体が築かれた湊山から、 やや出っ張る形で尾根を形成していた 丸山(標高 52 m)を改造したものであった。
なお、横田内膳自身は家臣間の嫉妬に遭い、米子城騒動で誅殺されることとなる。


1603年11月、筆頭家老の横田内膳が 主君・中村一忠に暗殺されると、 横田方が反旗を翻し、飯山内の城塞に立て籠もり、米子城内で大規模な戦闘が勃発することとなる。世にいう、米子城騒動、中村騒動である。
このとき、横田方の 剣豪・柳生五郎右衛門(但馬守宗矩の兄)が、 中村方の武将・矢野助之進らと渡り合い、十文字槍をしごいて中村方を多数討ち取ったという 武勇伝が伝承されている。



当初は本丸に保管されていた 武器類(含:火薬)も、落雷による火災の危険を避けるため、この内膳丸へ移送され、ここが幕末まで武器庫の 倉庫群(二重櫓数棟があった)として活用されることとなったという。

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さらに、上の本丸、二の丸、天守台を目指す。
登山途中で、登り石垣 の遺構を発見した(下写真左)。朝鮮の役末期、日本軍が築城した倭城 で多用されていた特徴である。鳥取城 にも現存する。

本丸エリアに到着すると、一気に視界が広がる(下写真右)。

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本丸、天守台など石垣が何重にも重なり合う様は、非常に見応えがあった。ただし、いずれも石垣は低く、どうしても小ぶりな印象をぬぐえない。

なお、石垣群は、戦国末期、江戸期前半、後半、平成の修理などを経ているため、さまざまな積み上げ方法や石材の形状が混在しているという。

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往時には、本丸の上に 5階建て大天守(高さ 21 m)がそびえたっており、その横に小天守 4階(高さ 12 m)も並び建っていたという(下写真左)。前者は中村一忠の治世時代、後者は戦国末期の 吉川広家 時代の建築とされる。

下写真右は、番所(役人詰所)や 遠見櫓(平屋櫓と二重櫓との連結櫓)が設置されていた本丸の前衛部分から、天守台、本丸を見上げたもの。

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下写真左は、吉川広家 時代の天守台跡。大天守台から臨む。
下写真右は、本丸郭の入り口。

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大天守台(標高 90 m)からの市街地の眺めは最高だった(下写真)。
今は大都市となった米子市街地であるが、かつての景色は、真下に武家屋敷群、その後方にはわずかに寺町があり、あとは海岸線まで田畑や森林が続いていたわけである。

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なお、この大天守台上には建物の礎石が残されており、建物の 規模(高さ 21 m)を妄想する手助けになる。雨水の側溝跡も見られた(下写真)。

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筆者が訪問したのが週末だったこともあり、本丸や天守台部分は子供連れや観光客らのピクニック場と化していた。

さて、続いて下山を試みる。本丸の裏門に相当する水手御門から出て(下写真左、ここは藩主が直接、中海側の山麓まで下山し、直接、船着き場(船小屋)へ移動できる搦め手の出入り口であった)、本丸を半周する感じで、同じ登山道まで戻ることにした。

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本丸の搦め手門から続く中海への下山ルートは、ちょうど現在の スポーツクラブ「クリエイティブ・サポート」練習場まで続いている(上写真右)。当時、ここに藩主専用の船着き場があり、また石垣で囲まれた中海側の出丸でもあった。上の古地図参照。
この対岸に、かつての港町「深浦港」があったわけである。造船業なども行われていたという。


戦国時代末期の 1591年、吉川広家 が入封し、 月山富田城 を本拠地とすると、すぐに米子城の築城を計画し、四重の天守閣を有する山城を建造するが、関ヶ原の戦い後岩国 へ転封となる。
直後に、駿府から 中村一忠(12歳)が入封し 米子藩(伯耆国 17万5000石)を立藩すると、その後見人に付けられた 横田村栓(内膳正。1552?~1603年)が築城工事を継承し、翌 1601年に内堀内の建造をほぼ完成させる(翌 1602年に藩主・中村一忠が引越しを完了)。
続いて、横田内膳は内堀外の 武家屋敷群、外堀外の町人町の整備に尽力し、今日の本通りと元町通り商店街の基盤を作った。
しかし、わずか 20歳で中村一忠が死去し、嫡子がいなかった中村家は改易され、代わって 加藤貞泰(1580~1623年。甲府城 の築城をスタートさせた、加藤光泰の次男)が 美濃国・黒野藩から 転封されてくるも(1617年)、間もなく 伊予国・大洲藩へ再転封となる。 以後、米子藩は立藩されることなく、鳥取藩 に併合され、池田由之・由成が城主を務めることとなる。

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最終的に 1632年、国替により池田光仲が 岡山 から 鳥取城(因幡、伯耆二国の藩主)に移封してくると、家老の 荒尾成利(1589~1655年)が米子城代を司ることとなった。その後、明治維新まで代々、荒尾家が城代を継承していく。

1871年の廃藩置県の後、米子の町は鳥取県の一部となり、 1889年に米子町が成立する。最終的に 1927年、米子市制が開始される。 他方、米子城は 1878年に正式に廃城となり、天守閣を含め、すべての建物類が取り壊されることとなった。

なお、余談であるが、現在、韓国と領有問題となっている 郁陵島(今の竹島)に絡み、この米子藩下の商人たちが最初に史書に登場するらしい。 1618年、江戸幕府より許可を得た米子城下の 町人・大谷甚吉と村川市兵衛が、郁陵島の島内資源の開発を進めようと試みるも、最終的に、鎖国政策を強化する江戸幕府により許可取消しにされてしまったということだった。


下山後、目下、すべて埋め立てられてしまった内堀、外堀の跡地を巡ってみることにした。
内堀跡は、現在の 野球グラウンド(三ノ丸跡地、下写真左)から ANAホテルの前を通る 道路(下写真右)に完全に一致する。かつては海水を引き入れた堀だったという。

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この内堀内部の全域が三ノ丸に該当するわけであるが、現在は少ないながら、普通にアパートや住宅が建っていた。

そして、この内堀と外堀との間部分が、かつて武家屋敷群であったが、現在、そのような名残は微塵も見られない。市役所などの 公官庁、銀行、商店街、住宅、アパートなど、普通に雑多な市街地に飲み込まれてしまっていた。下写真左

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なお、米子市の歴史を学ぶ際にはずすことのできない 山陰歴史博物館(入場無料)であるが、かつて昭和初期から戦後までの米子市役所の庁舎であり、今でも正面入り口には「米子市廳」と刻み込まれていた(上写真右)。
早稲田大学の 大隈記念講堂(昭和 2年)や 日比谷公会堂(昭和 4年)の設計も手掛けた、佐藤功一教授による建築作品で(昭和 5年)、そのスタイルは昭和風の重厚感が漂う、古い大学の校舎や官庁に共通する鉄筋コンクリートとタイル張りによる構造であった。

館内は、米子城の歴史、米子城の古絵図、戦前戦後の米子市の歩み、大山寺の歴史などが、コンパクトに解説されていた。デジタル映像などを使った最新設備は皆無で、まるで中学や高校の歴史部による学園祭の出し物のような 、手作り感いっぱいの 展示環境 だった。

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そして、この博物館と市役所の北側を走る 道路(上写真右)が、かつての外堀跡である。ここから北側は昔ながらの古い商店町が続いており、明らかに建物の規模が小ぶりで、町の雑居感が全く違っていた。かつての町人町のエリアに当たる。

上写真右は、博物館前の交差点で、かつて外堀にかかる藪根橋があった場所。下地図参照。
ここは東倉吉町と西倉吉町の境界線にもなっており、かつて旧伯耆国守護所の城下町であった倉吉の商人らを移住させた場所、という。外堀沿いのかなり良いロケーションを与えられていたことが分かる。
とりあえず、外堀跡沿いに駅方向へ直進してみた(美術館、図書館沿い)。

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外堀は旧加茂川を利用して、L字型に掘削されており、これに沿って、外堀外の城下町も L字型に配置されていったという。下地図。

江戸期、外堀は 6間(約 11 m)幅あり、はしけ舟が港と商家の間を往き交っていた。外堀上には橋が 7つ架けられていたが、その中でも、上地図右端の 東町橋(法勝寺町橋)は、米子城の三ノ丸 表御門へと続く直線道の入口に当たり、追手口と通称されていたという。

下写真は、現在の東町橋付近の様子。道路はかつての外堀跡にあたる。江戸時代、この東町橋の袂には榎神社があり、境内にえのきの大木が生い茂っていたという。
現在でも、外堀内外の街の様子は対象的で、内側の家屋や敷地は広々としているが、外側は雑居ビルなどが立ち並ぶ。途中、古い蔵を改造したショップなどもあった。

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上写真は、ちょうど下の航空写真の赤丸部分に相当する。外堀の角面にあたる。

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この外堀のさらに外周部分に、寺院らが集められ、寺町が構成されていた。現在でも、これらの寺院は横並びで、同じ位置に現存している。


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