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訪問日:2014年9月中旬

豊臣秀吉の朝鮮出兵と倭城



大韓民国 釜山広域市プサン ~ 域内人口 110万人、一人当たり GDP 23,000 USD(釜山広域市)


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  釜山市の歴史(高麗~李氏朝鮮時代の台頭期)
  江戸期に釜山に開設されていた倭館とは?
  釜山港の開港と近代化
  韓国取引所(株式、先物、債権市場)の本部ビルが、なぜ住宅街に??
  朝鮮の役で、最初に陥落した釜山鎮城
  毛利輝元によって大改修された釜山鎮支城(子城台公園)の城郭遺構
  【倭城ネタ】 釜山城と釜山鎮支城
  左水営の今と昔
  かつて釜山の海岸線上に大量設置されていた狼煙台
  釜山の地下鉄の一日乗車券、地下鉄車内のシルバーシートの異様な空席!
  駅前の国際色豊かな歓楽街 ~ フィリピン系、中央アジア系、ロシア系、米海兵さん ~



釜山市の歴史

10世紀~14世紀末の高麗王朝時代、釜形の山を背後に有する湾岸エリア、という地形的由来から、釜山浦(Busanpo)と通称され出したという。
ちょうど、1274年11月と1281年6月のモンゴル軍による日本侵攻(元寇)の折、高麗軍船はこの釜山湾と合浦湾(今の 昌原市馬山)から日本へ出航したのであった。

15世紀前半、李氏朝鮮により釜山は商業貿易港として指定され、日本との往来窓口となる。日本人の居留地域内に「倭館」という施設も開設され、その居留民の数がどんどん増加していくこととなった。このため度々、朝鮮側より人口減の目的で、日本人居留民らの強制帰国が図られてきたという。

豊臣秀吉による文禄・慶長の役(1592年~)では、日本軍が最初に上陸、占領する場所となり、以後、日本軍の朝鮮戦線の窓口として機能する(文禄・慶長の役の交渉期間中も、日本軍は引き続き、当地に駐留し続けた)。
日本軍撤退後は大いに荒廃した釜山港であったが、江戸幕府との国交回復により(1607年)、ようやく釜山港の復興が進められることとなる。江戸時代を通じて、李氏朝鮮との外交・通商関係は対馬藩の宗氏を通じ行われた。

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下の古絵図は、江戸期に釜山に開設されていた 倭館 の様子。西館と東館に分けられ、朝鮮側からの公式な使者は、西館の近くに設けられた迎賓館にて接待されることが通例となる(写真下段はその公式接待の場面)。

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しかし、明治維新期、西洋列強からの外交圧力もあり、新生日本は対外膨張政策の一環として朝鮮半島への勢力拡大を図るようになっていく。 1875年の江華島事件をきっかけに、李氏朝鮮は翌1876年、日朝修好条規という不平等条約を締結させられる。当時、すでに釜山に開設されていた日本公館以外にも 2港(王都漢城に近い仁川港と、日本海側の漁村・元山津)の開港を約束させられる。
また同年内、他の欧米列強からも同様な不平等条約の締結を強要され、強制開港された釜山は一気に国際的な港湾都市へと変貌を遂げていくこととなった。

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遅々として進まなかった仁川港の開港は、1882年の壬午事変により強制的に進められ、日本領事館が開設されるに至る。日本海側の元山津は1880年より、すでに開港されていた。以後、これら3港を通じた日朝貿易が開始される。

日清戦争、日露戦争を経て、明治日本政府は1910年、李氏朝鮮王朝を廃止し、朝鮮半島自体を日本領土に併合してしまう。国境のなくなった日朝貿易はますます活発化し、その第一の窓口となった釜山港はますます飛躍の時代を迎える。下関との間で蒸気機関船による定期航路が設定され、さらに1924年には鉄道も開通し、大陸側の中国、ロシアとも連結されることとなった。未だ電化されていなかった朝鮮半島において、この蒸気機関車の導入は活気的な文明開化となった。

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朝鮮戦争時代(1950~1953)、釜山港は米軍を筆頭とする国連軍の物資搬入の唯一の港湾都市として機能する。今日でも、市内には当時から続く国連軍の関連施設などのインフラが複数残されている(下写真右:朝鮮戦争で没した国連軍人らを称えた記念碑、釜山博物館の正面にある)。
また、海外避難していた在外朝鮮人らの帰国港としても機能し、多くの人々が行き交う交易都市であり続けた。内戦に苦しむ朝鮮半島とは裏腹に、朝鮮特需に沸く日本は、ここ釜山港へ大量の物資を輸出して、経済復興の起爆剤とすることに成功したわけである。

1978年 より、コンテナ港施設の建設が始まり、さらなる急発展を遂げ、今日、その港湾設備能力は世界第三位とされている。

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上の写真左は、日本の植民地時代に、釜山に最初に建てられた駅舎である(1920年代の様子)。その前には、路面電車も敷設されていた。現在の釜山駅は、全面ガラス張りのハイテク施設となっている。トイレもきれいだった。韓国のトイレで痛感するのは、日本の駅やデパート・トイレとは違い、手洗い場の水道が勢いよく出てくれるので、手洗いも爽快に済ますことができる点だ。

写真では路面電車が通っていた大通りは、現在では3車線の自動車道路として整備されている。釜山市街地の大動脈的な幹線道路だ。この通りには、さすがに多くの路線バスが通行しているが、このうち、15分に一本運行されている134番路線バスに乗車(一律1300ウォン)してみることをお勧めする。

15分ほど乗車していると、「子城台公園」の横を通り過ぎる。ここで下車すると、釜山鎮城跡を訪問できる。
その前に、上写真中央をご説明させて頂きたい。この釜山鎮城から徒歩5分ほどの場所に、韓国取引所の本部ビルがあった。そう、首都ソウルにではなく、ここ釜山市東区にあったのだ!釜山市にあるにせよ、もっと商業地区かビジネス地区に設置すればいいものを、「なぜここに!?」と思わずつぶやいてしまうぐらいの半宅地エリアに、「本部」があった。
ただし、韓国株価指数 KOSPI 200などの花形の証券取引部門は、ソウル汝矣島で行われている。



とりあえず、まずは 釜山鎮城 を見学する。

日本軍の到来前より、この小高い丘の斜面を利用して築城されていた。当時、釜山鎮城を守備する釜山鎮水軍僉使(水軍武官)だった鄭撥(チョン・バル、39歳)は、 4月12日に釜山沖の絶影島に停泊する大量の日本軍船を発見し、すぐに防衛態勢を整えるとともに東莱城へ急馬を走らせる。翌日13日の午前6時前に日本軍の上陸が始まり、鄭撥が降伏勧告を拒否すると、一気に城攻めが開始された。昼頃には日本軍により城内が鎮圧されたという。最後まで南門楼閣上にて軍民らを鼓舞し指揮した鄭撥も、銃弾にあたって戦死している。

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同日中に、小西行長の本隊が釜山鎮城内に入城する。
小西行長はそのまま先方隊を派遣し、同日午後にも東莱城の包囲を開始させる。そして、翌14日に一斉攻撃を開始するも、この日には攻めきれずに休止し、翌15日早朝に小西行長の本隊がここ釜山鎮城から出陣して合流し、いよいよ15日午後に総攻撃が開始される運びとなったのだった。

この15日のうちに、東莱城、左水営、機張の水軍支部などが次々と占領され、釜山地域は完全に日本軍の占領下に置かれることとなる。

この後、加藤清正 など後続の日本軍が上陸を開始する。釜山は日本軍の集結拠点として位置付けられ、当時、その中心部を成していた釜山鎮城は改築され、日本式の城郭へと変貌を遂げることになる。その築城工事を毛利輝元が担当した(以後、釜山鎮支城と通称される)。日本軍は山上部分を大改造し、本丸と二の丸の各郭を新規に構築している。三の丸は、朝鮮軍の釜山鎮城の城壁部分を改造されるにとどめられた。外城壁のすぐ下には海岸線が広がっていたという。

現在、本丸部分の石垣が四方すべて残っている。本丸の入り口である虎の口の遺構も残る(下写真左)。しかし、二の丸部分の石垣はほとんど残っていない。市民の散歩コースとして遊歩道が整備されているに過ぎない。さらに、三の丸に至っては、住宅街と混ざってしまっていることもあり、完全に消失していた。特に、日本による韓国併合後、この三の丸、二の丸の資材はすべて海岸線の埋め立てに使われてしまったようで、全く遺構が残っていない。

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この後、病気療養を理由に毛利輝元本人は帰国し、一族の毛利秀元、小早川隆景、吉川広家らが代わりに朝鮮半島に駐留し続けた。
文禄の役の初期であった1592年8月29日、李舜臣率いる朝鮮水軍が釜山の日本軍拠点を攻撃すべく、約160隻の軍船で襲来している。しかし、日本軍船、釜山城、釜山鎮支城、その他の各陣営から大砲による砲撃を受け、朝鮮水軍は撤退を余儀なくされている(釜山浦の戦い)。この時はまだ、毛利輝元も釜山城 内にいたことであろう。



 【倭城ネタ】 釜山城と釜山鎮支城

釜山には内城と外城の二つの城郭が築城されていた。
臨海部分の外城(釜山鎮支城)は、子城台城、もしくは小西城、丸山城と呼ばれ、後方の内城(釜山城)は小早川城と呼ばれた。両者の距離は 1km強で、東西それぞれ相対して見通せる位置関係にあった。文禄の役の際、毛利輝元と毛利秀元が築城と守備を担当している。

後方の山城タイプの小早川城(釜山城)は、高遠見山脈の東端を成しており、その標高は130mで一つの高い山頂と急峻な斜面を有していた。南北に長かったが、東西は狭い城域であったという。本丸が山頂に開設され、その最西端に天守閣が建造されていた。また、本丸は二の丸に囲まれており、三の丸は二の丸の東南部分に築造されていた。本丸の東端と北端にはそれぞれ角櫓(隅櫓)があり、本丸石垣の高さは約3m弱であったという。二の丸の南北にも、全て角櫓が配されていた。三の丸北側には二の丸と連結された多層櫓があり、東端にも櫓が建設されていた。櫓は武器、食糧の備蓄倉庫や兵士らの住居を兼ねたものであり、角櫓はこれらに加え、見張り台の意味も有していた。

外城の役割を担った平山城タイプの子城台城(釜山鎮支城)は東側に河川が通り、ちょうど海へと入る河口部分にあたり、その右手の小山に築かれた瓶城であったという。その標高は34mで、外郭は東西550m、南北では最大幅380m、最も狭い所で100mあまりであった。東南面は断崖で、北面から西面にかけて堀が巡らされていた。西南部分は扇型に出っ張っていたという。南面は海岸(釜山湾)に接し、船舶が直接、城下に停泊することができた。
その本丸は正方形で、北端に石垣の高さ5m弱の天守閣が建造されていた。二の丸までは小山を利用したもので、三の丸は山裾の平地に築造されていた。朝鮮式の城壁式石垣(高さ 4.5m)で、上に武者走が施されていた。各角面には角櫓が配され、水堀に囲まれていたという。

そもそも、この釜山城と釜山支城は豊臣秀吉自身が半島へ渡航し、大本営として滞在するべく 築城させていた。そのため、天然の地形を利用した防衛ラインや規模も広大なものであった。
慶長の役の1597年2月、西軍先方隊として再渡航した小西行長により、城郭が追加で増築されている。



朝鮮の役後、日本軍は釜山の二城を破却して撤退する。その後、朝鮮側は釜山鎮支城の三の丸部分を改修し、 改めて朝鮮式城郭の釜山鎮城を再設置している(下写真:李氏朝鮮時代後半の様子)。
この釜山鎮城跡が現在、史跡公園となっているわけである。

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釜山鎮城跡を訪問後、同じバス停から、再び134番路線バスに乗車して10分ほど行くと、釜山博物館に到着する。ここでは、釜山市の古代、三国時代、文禄・慶長の役、徳川幕府との通信使時代、日本の占領時代、朝鮮戦争時代などが網羅して展示、解説されていた。特に、朝鮮の役のころの解説は詳しく、勉強になる。
パスポートを預ければ、レコダーを貸してくれる。入場無料で、トイレもきれい。設備も最新式で、充実した博物館であった。

ちなみに、134番の路線バスをこのまま終点まで行くと、龍塘地区まで行く。ここは貨物置場のターミナルになっている。この大通りをさらに先に行けば、釜山港大橋を渡れる。路線バスで渡ってみることもできる。



 左水営

李氏朝鮮時代に東南の海岸線一帯を管轄した水軍拠点の、慶尚左道水軍節度使営(略称:左水営)が設置されていた場所である。その主な役割は、海防と倭寇退治とされていた。

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この水軍拠点は、1592年4月15日の東莱城攻めと合わせて、小西行長隊により攻略される。日本軍は、この水営江をさかのぼって支流である温泉川に入り、そこから東莱城を目指す水軍部隊と、陸路部隊の二手に分かれて進撃している。
現在、残っている左水営跡は、朝鮮の役後に再建されたものである。

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下写真右は、水軍拠点「左水営」の城門にあたる南門のドア縁部分である。一見すると、いったい何なのか全く想像できなかったが、本ページ一番最後の古写真をイメージして頂ければ、このアーチ部分がいったい、どのパーツなのか、するっと理解頂けると思う。正直、ただこれだけ保存されていても、ちょっと、見苦しい印象。

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とりあえず、ここから横に城壁が張り巡らされていたようである。ちょうど、一つの集落地自体を取り囲んでいた感じだ。現在、史跡公園に指定されている部分は、この左水営の要塞の最も標高が高い部分であり、川(水営江)の方角へ向かって土地が低くなっていく地形であったようである。川幅もかつてはもう少し広めであったであろう。

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高台の部分には、かつての土塁跡がイメージできる程度の地形が残っていた(上写真左)。
上の写真右は、かつて東門が設置されていた地点である。ここから左水営の本部へ一本の中心道路が走っていたのであろう。所謂、かつてのメイン・ストリートであったと思われる。



なお、倭寇対策の観点から、李氏朝鮮時代、海岸線の岬や島々の至るところに 狼煙台 が設置されており(下古地図)、昼間は煙で、夜は火によって伝達し合っていた。この狼煙を確認するや、左水営本部やその支部にあった水軍部隊が海賊征伐に出動していたようである。

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朝鮮の役当時、4月13日早朝 6:00ごろに海に浮かぶ日本軍の大船団が確認され、荒瞭山の狼煙台より第一の緊急狼煙が上げられる。それから、延々と山伝いに報告が続き、17日にはソウルにあった李氏朝鮮の王城へ緊急ニュースが届けられている。
釜山一帯の軍事拠点の配置を俯瞰するに、複雑な釜山海岸線にあった河川の河口部分を中心に、水軍拠点や軍事拠点が配置されていたことがわかる。下写真右は、李氏朝鮮の晩年期の絵図であるが、それぞれの河口付近に水軍拠点、狼煙台(下写真左)や集落地があったことが分かる。

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釜山金海空港への着陸時、多くの島々と海岸線が見渡せる(下写真)。李氏朝鮮の時代、この多くの山々に狼煙台が設置されていたわけである。そして、朝鮮出兵の折、この眼下の海に数百隻もの日本軍の船舶が停泊していた! そんな歴史妄想家のための一枚。

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【釜山中心部の散策雑記】

さて、ハングルが読めない短期旅行者にとっては、路線バス移動は正直言って、冒険的試みである。文化人類学的歴史ミステリーハンターを自称する筆者からしてみると、陸上の景色観覧は重要な旅の要素でバスを常用手段としてきたが、釜山市の面積はかなり広く、地下鉄線の利用が最も便利であることはすぐに痛感できた。それでも、ハングルが分からないことには変わりないが。
しかし、釜山の地下鉄切符券売機は日本語表記にもできる。「日本語」+「地下鉄○番線」を選択すれば、次のページで目的地の駅名を選択するだけである。さらに必殺ワザは、一日3回以上、地下鉄を利用する予定なら、一日乗車券 4500 Won というのが、一番下の方に表示されているので、これを選択するのがお勧め。この券を一日中、使い回して乗車することができる。

ソウルや釜山の地下鉄に乗って気付くのは、その車両幅の広さである。日本や欧州、その他の国のものと比べても、最も車両幅が広いように感じる。そして、もう一つ感心するのが、車両内の前後に設けられたシルバーシートに座る人の少なさである。日中はそれなりに高齢者の利用もあり、シルバー席はたやすく埋まるが、夕方以降は高齢者数も減っている分、シルバーシードだけが異様に空席だらけである。夕方の帰宅時間で車内が混雑していても、乗客は車両の中央部に固まり、一様に立っている。一方で、シルバーシートは座席ががら空きである。 この光景からにじみ出る儒教精神の徹底ぶりには感嘆せずにはいられなかった。

なお、ちなみに、路線バスでも、一定の市街区では、中国語や日本語での音声ガイドや表示も出される。しかし、運転手は韓国語しか話せないが。

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上の写真左は、かつての東莱城の城壁付近の様子である。城壁の低さと、門前市場の喧騒さが伺いしれる。
横の写真二つは、釜山の地下鉄構内で撮影した。今では、すっかりハイテク兼清潔さが売りの都市空間となっており、時代の変遷を感じずにはいられない。地下鉄は車両以外でも、駅構内も広く、清潔で ピカピカ であった。

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現在の釜山港はロシア商船や米国海軍の寄港地となっており、その港の周辺、特に釜山駅の向かい側にあるチャイナタウン「上海街」一帯は、この水夫や軍人たち向けの夜の歓楽街と化している。
フィリピン系、中央アジア系(ウズベキスタン人など)、ロシア系が経営する居酒屋、クラブ、ダンスホール、風俗店などが軒を連ねている。一歩、路地を入っただけで、これだけの異国情緒を漂わせる雰囲気は、とてもおもしろい。

ここの中華街は、世界の所謂、チャイナタウンのイメージとは程遠く、漢字の看板はほぼ皆無で、ロシア語とハングルだけが氾濫する一大風俗街となっていた。中華街に特有の中華門があったり、華僑小学校や中華レストランは確かに存在したが。
歴史的には、中国商人たちも釜山港に寄港して、このチャイナタウンへ寄ったのだろうが、今では完全にロシア勢力に押されている印象だ。それにしても、他の中華街同様、華僑たちの一等地を占有する眼力と財力のすごさを垣間見れた気がした。ここは韓国併合時には大陸鉄道が敷設された駅舎の目の前であり、現在でも交通の大動脈の中心部にあたる。チャイナタウンは早々にもこの地に居座り、現在では不動産オーナー業として君臨していることであろう。


最後に、市内を巡れば巡るほど気が付くのは、携帯電話と自動車の異様な光景である。韓国人の手にする携帯電話はすべてサムソン製であった。実際、現地では一度も、アイフォーンを見たことがない。また、自動車も韓国車とドイツ車、まれに日系レキサス車ばかりだった。
それにしても、韓国人たちはとても礼儀正しく、まめにお辞儀もするし、またお釣りを手渡すときなど、片手を添える習慣がきちんと浸透しているのには感心させられた。


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