BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2014年10月中旬

豊臣秀吉の 朝鮮出兵と倭城



大韓民国(慶尚南道)昌原市 ~ 市内人口 110万人、一人当たり GDP 39,000 USD(慶尚南道 全体)


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  昌原府城跡 と 昌原市の歴史
  馬山倭城(昌原城)
  第一次晋州城攻めの 前哨戦となった 龍馬山城の攻略戦
  【倭城ネタ】 馬山城(昌原城)
  会原城跡(慈山山城)
  会原城跡に残る 土塁壁
  元寇時の高麗水軍の 日本遠征基地となった 馬山港 と 当時の井戸跡
  合浦邑城跡
  地下深い 商店街、それは 戦時用シェルターだった



【 昌原市馬山の 歴史 】

昌原市は 釜山 の西隣にある都市で、慶尚南道の道都である。
道行政庁が釜山より移転される際、近隣の馬山市と 晋州市 が立候補して熾烈な誘致合戦を繰り広げたことから、その間の空白地帯となっていた昌原市へ白羽の矢が立ったということらしい。 1977年に大規模都市計画が開始され、1980年に市に昇格し、1983年に正式に道行政庁が移転されている。
2010年7月1日、南北に境界線を接していた馬山市と 鎮海市 を吸収合併して新「昌原市」が発足する。旧馬山市域が 馬山合浦区・馬山会原区、旧鎮海市域が鎮海区、旧昌原市域が義昌区・城山区へと再編されて、今日に至る。

昌原市

そもそも 昌原市エリアは、三韓時代(1~5世紀)は弁韓に帰属しており、統一新羅時代は 屈自郡や骨浦県、義安郡と呼称され、高麗時代 においては義昌県や合浦県、そして、1282年に会原県へと改称されていった。 「昌原」の名称は、李氏朝鮮時代 の 1408年、当地に昌原都護府が設置されたことに由来するという。 以後、「昌原」の地名が確定され、日本統治時代も昌原郡と称されている。

李氏朝鮮時代の行政府は、現在の昌原市義昌洞に開設されていた。今でも、都市郊外に「旧昌原府城」当時の面影を感じることができる、特異な歴史的遺産として今日にその姿を残すこととなった。ちょうど、現在の道渓小学校、道渓中央市場の付近に、かつての堀川が残る。下古地図は、李氏朝鮮時代 1750年ごろの、昌原府城図(中央部分)。ちなみに、その左側の 郷校、書院、営兵署などが、馬山地区にあたる。

昌原市

その後、近代世界に組み込まれるきっかけとなった 1899年の開港以来、馬山府がこの地域一帯の経済・行政の中心となる一方で、昌原郡沿岸部には新たに軍港都市として 鎮海 が建設され、一時期はロシアと日本が支配権を争うエリアとなり、また、今日では 米国海軍、韓国海軍基地が設置され国家重要地区となっている。 鎮海区中心部 は、日本統治時代にたくさんの桜の木が植樹され、現在、花見の名所となっている。


さて筆者は、釜山空港 に到着後、直接、昌原市方面へと向かった。


  交通アクセス
 金海空港国際線ターミナル到着ロビー内には、一番右端にハンバーガー店あり、 ここの横の出口から出て、
 その先端部にある ①番バス乗り場にて、 昌原、馬山方面行のバスに乗る。
 55分の乗車で、終点の馬山駅前にて下車した。運賃の 6,800 wonは直接、バス運転手に手渡す。

 バス終点の KTX馬山駅構内に、馬山区観光案内所がある。
 日本語はムリだが、スタッフの方々が丁寧に道順案内してくれた。地図やパンフレット類も充実していた。


この駅前から、市外バスターミナルまでの大通り一帯が繁華街となっている。かなり商業地区の面積は広い。たくさんの若者たちが街歩きを楽しんでいた。東京の新大久保よりもショップ数、街の規模ともに圧倒的に大きい。夜遅くまで、にぎやかだった。食事はボリューム&値段ともに文句なし。

昌原市 昌原市

下の写真は、馬山駅の裏手の山より、この 龍馬山城跡 と会原城跡を臨んだものである。

昌原市

昌原市

昌原市


馬山倭城(龍馬山城)

馬山駅からバス 101番で訪問できる(1,200 Won)。
馬山湾に面する、独立した小高い山である(実際には山頂は 2つある)。上の写真では左手側の小山を指す。この小山の斜面は急峻で、城塞を築造するにはもってこいの形状と標高だ。平野部に忽然とある小山は、まさに「瓶城」と表現されるにふさわしい風貌であった(下写真左は、城山全体図)。すぐ南側には天然の河川が通り(下写真右)、東側に海岸線を有するとあって、船着き場開設にも申し分ない立地だったと思われる。

昌原市 昌原市

かつては、海岸線と河川が山裾ギリギリまで迫っていたことであろう(下写真左)。
今は、市民らに開放された「山湖公園」という、リクリエーション空間になっており、城塞遺跡は全く残されていない(下写真右)。

昌原市 昌原市

龍馬山城 は、李氏朝鮮時代の 1572年に着工され、1577年に完成している。

文禄の役の際、日本軍は早々に ソウル 占領後、各小隊に分かれて半島全域へ展開していったわけであるが、その際、細川忠興、長谷川秀一、木村重茲などの約 2万の兵力が、この全羅道の朝鮮勢力の掃討作戦を進める担当となる。 1592年9月23日、この昌原馬山にあった 朝鮮軍拠点(龍馬山城など)を攻撃する。守将であった慶尚右兵使の柳崇仁は敗走し、晋州城 下へ達するも、追撃する日本軍により討ち取られている。この日本軍の先方隊が確保した道を通過して、 10月4日、本軍が晋州城に到着し、すぐに包囲網が構築され、6日より攻城戦が開始されるも、4日間では攻略できず、日本軍は一時、全軍撤退となる。最終的に、晋州城は二度目の 1593年6月の攻撃で落城する

日本軍はこの龍馬山城を接収し、一時期、後述の会原城跡までを含む、馬山海岸線一帯に多くの日本兵らが上陸していたことであろう。そして、前述の 1592年と 1593年の晋州城攻めの折、ここに駐留していた日本軍も動員されることとなる。 なお、1593年6月の第二次晋州城攻撃の前に、秀吉の名代として 上杉景勝(半島滞在期間は、1593年6月~9月のみ、このとき 熊川城 を築城している)や 伊達政宗(半島滞在期間は 1593年3月~9月のみ、このとき馬山地区に滞在か)なども朝鮮半島へ渡っている。伊達政宗も第二次晋州城攻めに参加したのであろうか。日本軍は 釜山 から馬山まで船で、あとは陸路で 晋州城 を目指したものと推察される。

昌原市

しかし、この 文禄の役 において馬山地区の拠点は、正式に日本式城郭として整備される前に放棄される。明との講和を有利に進めていると勘違いした秀吉は、兵を展開せずとも半島南部を割譲できると早とちりし、日本軍の撤兵を進めるとともに、日本軍の展開地域を熊川城まで後退させることに決定したのだった。上杉景勝とその家臣団は急ピッチで熊川城築城工事を進め、完成後、在番担当の 小西行長 に引き渡して、自身は同年 9月に帰国している。
なので、一部では、文禄の役の際、伊達政宗が 馬山城(昌原)を築城したとする意見もあるらしいが、どうやら、単にこの地に一時滞在したことがある、というのが実際ではなかっただろうか。

明との交渉決裂後、1597年より慶長の役が始まる。日本軍は再度、釜山へ上陸し、半島南半分の実質的領有化を進める中で、鍋島直茂とその父勝茂が改めて、この馬山の地に上陸し、朝鮮型の龍馬山城を改築し、日本風の 馬山城(昌原城)として城郭整備したのだった。この同時期、新たに 7城(この昌原【馬山】城の他、蔚山城、梁山城、固城城泗川新城、南海城、順天城)が築城されている。

城郭 の完成後、馬山城(昌原城)に在番したのは、片桐且元(賤ヶ岳の七本槍の1人)であった。 しかし、翌年 10月に秀吉の死により全軍撤退命令が発せられ、この城も破却されるに至ったという。



 【 倭城ネタ 】 馬山城(昌原城)

海路で釜山浦から 9.5 kmの位置にあった朝鮮側の要塞跡地に築城された。昌原府邑城の南西約 1 km、標高約 200 m弱の島山に築城され、お盆型の城塞であったという。その脇には、鎮海湾が迫っていたとされる。鍋島勝茂・直茂の父子によって築城された。引き続き、鍋島軍の一部はこの城の守備に配備され、大部分は竹島側に在陣したとされる。


朝鮮の役の折、日本軍は女性、子供、技術者など 5万~20万もの朝鮮人を日本へ連れ帰ったという。特に、日本軍の占領が長期化した半島南部の村々から住民らが連れ去られたり、または殺害されたわけで、この昌原市一帯の被害も相当に大きかったとされる。戦後、早急なる地域復興が課題となった朝鮮王朝は、この地に移住、もしくは定住する農民らに、無償で土地を与えるという政策を実施している


会原城跡(慈山山城)

ちょうど海岸線上にもう一つ、気になるロケーションを有する小山がある(下写真の中央部)。

昌原市

やはり、その傍には天然の堀川となる 河川(慈山川)が流れていた。下写真。
その先に見える小山もまた朝鮮側の山城跡で、より以前の 高麗時代 より築城されていたという(会原城跡)。

昌原市

かつては、慈山山城とも呼ばれていたらしいが、高麗時代 を通じて、この地域一帯を管轄していた行政庁や、 合浦邑城へ移転する前の 節度使営(兵駐屯地)などの重要機関が置かれていた。
モンゴル軍による日本出兵時には、この会原城内に遠征軍を統括するための征東行省役所が 開設されたわけである。
地形的には、北東部は騶山洞浦山の険しい絶壁に面した急斜面の谷があり(下写真左)、 その反対の 海岸線側(下写真右)はゆるやかな丘陵となっている。

昌原市 昌原市

この城は土壁と土塁が基本の 旧式城郭 であった。
その築城方式は、版築法といわれるもので、粘質土と砂室土を一定の厚さで交互に重ねて固めて、 数メートルまで積み上げたものという。排水が容易であり、かつ城壁をより高く堅固に造成できる 利点があるらしい(下写真右)。

現在、土塁跡は山頂部を中心に 620 mほどが残存し、かつては、尾根に沿って幅 4.3~5.2 m、高さ 4.5 m(最高)の城壁が巡らされていたという。 発掘調査から、城壁は数度にわたり修理された跡が見つかっているらしい。増改築が容易な、版築法による土塁積み上げが度々実施されていた わけである。

昌原市 昌原市

かつては東西南北に 4城門を有し、その外に堀が巡らされていたという。

この会原城跡は、馬山駅前のバス停から 103番か 101番の路線バスで到着できる(1,200 Won)。下車後、右手の小山を目指して徒歩 10分程度。馬山区博物館は、この山の中腹あたりに開設されている。下地図。

昌原市

馬山区博物館は、外観が古城チックだった(下写真左)。また博物館と会原城跡の山裾一帯は、ユニークな旧市街地としてプロデュースされているようで、街路沿いにはいろんな古典絵画が描かれていた(下写真右)。

昌原市 昌原市

鎌倉時代のモンゴルによる日本侵攻の折、多くの高麗軍の兵士が、この 馬山港 (当時は合浦と呼ばれた)から日本へと出征していったとされる。 1274年正月に元朝皇帝フビライにより、日本遠征のため合浦県会原城内に征東行省が設置され、あわせて大量の軍船建造が指示される。

しかし、同年春に 高麗 の元宗皇帝が死去し、半島自体が喪に服すこと数か月が経ち、ようやく同年冬 10月にモンゴル軍 25,000と高麗軍 8,000、船水夫 6,700名が軍船 900隻余りに分乗して渡海を決行する。壱岐や博多湾を襲うも、朝鮮側の一将軍が矢に当たって戦死し、かつ冬季が間近とあって、いったん、全軍が合浦へ退却している。これが文永の役であった。下の赤線部。

昌原市

それから 7年後の 1281年、再び、この合浦から総勢 4万人もの兵士が送り出されることになる。江南の寧波 からも南宋軍を加えた 10万の兵が出兵され、弘安の役が起こっている。上の黒線部。

馬山魚市場(下写真左)の近くには、今でも元軍が使用したとされる井戸跡が残されている。

高麗時代はここが行政、軍事の中心地であったらしいが、後に、馬山市外バスターミナル付近に、合浦邑城が築城され、行政庁が移設されて以降は、会原城跡は狼煙台程度に利用されることになったようである。

昌原市 昌原市 昌原市

また、上の写真中央と右端は、朝鮮半島南部に非常によく見られる屋根瓦風の鉄板屋根。屋根瓦の手入れが面倒、しかし、 昔風情の屋根瓦に憧れるといった我がままをカバーすべく生み出された究極の鉄板屋根であった。これは、一枚一枚の屋根瓦を鉄板で作って組み合わせているのではなく、単なる一枚の鉄板である!!


さてさて、李氏朝鮮時代、馬山地区の行政の中心地となった 合浦邑城跡 であるが、ちょうど現在の市外行バスターミナル向かいの旧市街地一帯にあった。今は、全く跡形も残っていない。下写真は、古城エリアのメインストリート。

昌原市 昌原市

昌原市

下写真左 は、この古城エリアと市外バスターミナルの間を走る、馬山メインストリートの地下街(上地図のオレンジ色部分)。
かなり深くて広い。これは非常時には シェルター(防空壕、避難施設)を兼ねたものとなっており、各地下街への入り口には、「Shelter」の文字が大きく貼られていた(下写真右の赤い掲示)。この国は未だに休戦状態にある半臨戦体制国家なのだと、まざまざと実感させられた瞬間であった。

昌原市 昌原市

ここの市外バスターミナルから 晋州 行バスに乗車した。4,700 Won(60分ほど)。


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