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訪問日:2014年9月中旬

豊臣秀吉の朝鮮出兵と倭城



大韓民国釜山広域市東莱区 ~ 域内人口 110万人、一人当たり GDP 23,000 USD(釜山広域市)


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  東莱邑城
  東莱邑城の外濠跡と壬辰倭乱歴史館
  東莱邑城の攻城戦(小西行長と宗義智)
  小西行長軍がたどった温泉川と今と昔
  【倭城ネタ】 東莱倭城
  朝鮮の役後、廃墟から大復活した東莱邑城の姿
  東莱邑城の役所(東莱府東軒)跡と北門、城壁跡
  金井山城
  金井山城の長大な城壁とハイキングコース
  昭和の香り漂う、国鉄 K-Rail「東莱駅」
  水軍支部「豆毛浦万戸営城」の占領と機張倭城
  【倭城ネタ】 機張城
  澄んだ海水が美味を保証する機張水産マーケット



東莱邑城

もともと 釜山 一帯の経済・行政・軍事の中心地は、この東莱にあった。高麗王朝時代の末期、 既に存在した小規模な行政庁を有する環濠集落地が、石積み城壁で取り囲んだ城壁都市へと改築されていったわけである。

東莱区

地下鉄①号線上の「東莱駅」から東へ伸びる地下鉄④号線建設の際(2005年)、かつての東莱邑城の外濠の遺構が発見され、それが、現在の寿安駅構内に設置されている東莱邑城壬辰倭乱歴史館の由来となっている。観覧は無料で、発掘された時点の様子を模型で展示保存されていた。

その外濠の幅は5mで、深さ1.7m~2.5mほどであったという。水を張る前に堀底に杭を打ち込み、敵兵が飛び込んだ際に突き刺さるように設計されていた。外濠自体は城壁から30m離して掘削されていたらしい。 この堀の下から、かつての石垣跡や戦死した100体ほどの人骨、武具などが出土し、この博物館にて復元展示されている(下写真左と中)。
下写真右は、この地下鉄線上を走る道路で、この通りがかつての外濠川であった。

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実質、半日の攻撃で落城した東莱邑城の攻防戦図(下写真)はあまりに有名である。

東莱地区の軍権を握っていた慶尚道左兵使の李玨が、緊急の一報を受けて北の兵營城(蔚山)より駆けつけるも、襲来した日本軍があまりに大軍と聞き、すぐに北門から逃走してしまう(後に敵前逃亡をとがめられて朝鮮側にて処刑される)。このとき、1年前に慶尚道東莱府使に就任したばかりの文官であった宋象賢(41歳)は、脱出しようとする李玨を懸命に引き止めたが聞き入れられず、自身のみ城内に残って領民らとともに徹底抗戦の決意を固める。

4月12日に対馬を発ち、翌13日朝(朝鮮側の狼煙台は朝6:00ごろに日本軍の大船団を発見し、狼煙を上げて急報を伝えた、とされる)に釜山港へ上陸し、釜山鎮城 を陥落させた先方隊の小西行長と宗義智らは、一晩、この釜山鎮城にて休息をとり、翌14日朝、東莱邑城へと向かう。北へ約15kmほどの距離で、当時の移動時間で半日程度かかったらしい。
日本軍は東莱に到着するや、城の包囲網を構築する。早速、この日の午後から攻城戦を開始するも、たやすく陥落できず、いったん休止される。これを聞いた小西行長は翌15日に東莱邑城に到着後、最後通牒としての降伏勧告を出す。
しかし、守将の宋象賢は「降伏より死を選ぶ」との回答を発し、やむを得ず、小西行長は総攻撃を命じたのだった。
2時間ほどの戦いの後、日本軍は北東側の城壁を山斜面から突破し、城内へ突入後、朝鮮側の 5000人近い人々が斬殺されていったという。守将の宋象賢も刺殺される。対馬の宗家と面識があった人物でもあり、手厚く葬られたという。

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なお、これらの朝鮮の役の絵画は、いずれも朝鮮側の作品であるが、下の 絵図 によると、日本軍は釜山鎮城を占領後、陸路と海路から東莱邑城へ迫った様子が描かれている。
15日の総攻撃で、午前中にも東莱邑城内は制圧され、その余力をかって、小西隊はそのまま水軍基地(海防と倭寇対策用)であった左水営、および、機張にあった左水営の水軍支部拠「豆毛浦万戸営城」をも同日内に攻略してしまう。

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東莱邑城は、そもそも左水営の脇を流れる水営江の上流部(温泉川)に位置している。当時の川幅はもっと大きかったと予想されるが、その温泉川は現在も残る。東莱地区に至っては、その上に鉄道が走っている。駅舎まで、川の水面上に建設されていた(下写真左)。
また、韓国では日系SECOM社が警備会社として幅を利かせているようで、首都ソウルをはじめ、釜山市内から、ここ東莱まで、至る所で看板を見かけた(下写真右)。

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話を 東莱邑城 に戻すと、日本軍による占領後、この地は放棄されたようである。後に日本軍はすぐ東隣の望月山に新たに日本式城郭(東莱倭城)を築城している。



 【倭城ネタ】 日本軍によって新築された東莱城

日本軍は、朝鮮側の東莱城(前期・東莱邑城)を使わず、この東側 800m先にあった望月山の山頂に、 新たに日本式の城郭を築城している。 当時、朝鮮人らはこの城を瓶山城と呼称していたようである。

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慶長の役が開始された直後の1597年5月、吉川広家が築城し、兵力3000で守備したという。

朝鮮の役後、朝鮮方が東莱邑城をさらに大規模化する際(後期・東莱邑城)、 ほとんどの資材が転用され、現在、その遺構は全く残されていない。 それどころか、後期・東莱邑城の城壁が山頂を南北に分断する形となり、 その遺構は早々にも喪失したものと推察される。



日本軍により放置され荒れ放題となっていたであろう 東莱邑城 は、朝鮮の役の終戦後、朝鮮側により、さらに拡張工事が施され、背後の山二つを城壁内に取り込むまでに大規模化された(下写真)。これは、小西行長隊による攻撃の際、北東の城壁が山の斜面から攻略された 経験を踏まえての処置かと思われる。

そもそも東莱邑城の南側は平地に面し、堀川を張り巡らせた強硬な守りとなっていたが、北側は古墳部分を高台に、一帯を城壁で囲んでおり、北側と北東の山側は防御が手薄であった。現に、小西行長も攻城戦の折は北面を除く3方面を取り囲んでいる。このうち、山の斜面を利用して攻撃できた北東側の城壁が陥落し、城内戦にて多勢に無勢で多くの住民らが虐殺されていったわけである。

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下の写真は、東莱府東軒 という建物で、かつて 東莱府長官が公務を取り仕切った官庁舎である。ちょうど、東莱市場の通りの 南側に位置する。

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下写真は、山側に立つ北門付近の城壁跡の様子。朝鮮の役の当時、まだ存在していなかった拡張部分にあたる。土塁部分がきれいに復元舗装されている箇所は見応えがないが、城壁を南側へ下だっていくと、当時の土塁や石垣がそのまま残る箇所がある。

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また、東莱邑城の北側にはより標高の高い山がそびえたっている。ここが 金井山城 で、高さ1.5~3m、総延長18.9kmにも及ぶ城壁が山頂に築かれていたわけであるが(1703年に築城)、朝鮮出兵の際は、簡単な軍事拠点、狼煙台程度の施設しかなかったものと思われる。 ここの狼煙台拠点も小西行長隊により蹂躙され、東莱邑城とともに陥落している。
下地図は、朝鮮の役後の李氏朝鮮時代のもの。左上の山城が、金井山城。

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現在 の金井山城は、もう復元されまくった城壁と城門が延々と続くだけのハイキングコースと化していた。下写真。

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地下鉄①号線の「温泉場駅」の出口③を出て、大通りの歩道橋を渡っていき、その向かいにある203番バス専用のバス停で待つ。 10~15分に一本バスがある。
この金井山城一帯は、釜山市民にとって登山やトレッキングのメッカとなっているようで、本格的な登山姿の人々が数多く山に入っていた。釜山は全体的に空気がきれいだが、山中の空気は格別であった。203番路線バスは急斜面の山道を片道30分程度で進む。1900ウォン。

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さて、ここから北側の機張地区へ移動してみたいと思う。筆者は、国鉄 K-Rail「東莱駅」 へ移動し、ここから1時間に一本の列車を待って、現地へ移動してみた。地下鉄駅がすごくハイテクに見える分、国鉄駅やホームの古風さには驚いた(下写真左と中)。列車の待合室も、アットホームで気持ちが和らぐ。しかし、次の海雲台駅はまた新築のコンクリート駅舎であった。

ちなみに、釜山市にも原発があるようで、機張駅への移動中の海岸線上にその威容を見せていた(下写真右)。

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国鉄「機張駅」で下車する。この駅舎やホームも古風さが漂っていて、気持ちいい。改札を出たら、左手を直進していくと、鉄道線路をまたぐ陸橋がある。その手前のバス停にて、⑥番の路線バスで、機張竹里城へ直接、行ける(片道 1300 won)。相当なローカルバスである。15分に一本運行中。 ちょうど倭城跡の麓の駐車場(トイレあり)で下車できる。

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1593年、黒田長政 (25歳) は、この機張にあった左水営の水軍支部「豆毛浦万戸営城」跡(前年の1592年4月15日、小西隊が陥落させていた)をさらに拡張させる形で、機張倭城の築城を行っている。物資補給で海上ルートは日本軍の生命線となっており、ここでも、もともとあった朝鮮方の「豆毛浦万戸営城」の港湾設備を取り込む形で縄張りが構成されていたようである。なお、これはちょうど小川の河口部分にあたった。
黒田長政は長らくこの城の守将を務めたが、加藤清正が1598年に 西生浦城 から新築の 蔚山城 へ守備移転したことを受け、このとき加藤に代わって 黒田長政が西生浦倭城に入り、小西行長(39歳)がこの機張竹城に入城している。同年秋に、日本軍はすべての城郭を破却して、帰国の途につく。

山城側では現在でも、天守台や二の丸輪、三の丸輪、そして空堀跡などがはっきりと見てとれる。夏に行くと草がぼうぼうと生えているので、冬場に行くと城郭輪がはっきり散策できるかも。

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再び、麓の駐車場前のバス停(手を挙げて乗る)から、 ⑥番バスで機張駅まで戻る。筆者は、この後、国鉄列車でさらに北上し、蔚山駅(太和江駅) まで移動した。(一時間に一本、所要時間40分)。



 【倭城ネタ】 機張城

この城は、黒田孝高(官兵衛)と黒田長政の父子によって築城された。 1595年5月から築城が開始され年末になっても、まだ未完であった という、最も作業時間を要した倭城と指摘されている。付近の朝鮮水軍の豆毛浦古城跡(1510年に 築城されたもので、総延長は 420m、高さ 3m強の石垣で囲まれていた)から 石材を運び出し、新城の石垣へと転用して築城工事が進められた。 しかし、時は和平交渉も同時進行中であり、多くの兵士や物資が 日本へ運び戻され、結局、城の完成を見ることはなかったようである。
すでに西生浦城を廃城とし、撤兵準備を進めていた加藤清正がこの城に 入っており、1596年5月10日にはこの機張城も破却し、加藤清正自身も帰国している。 1597年春に、再び日本軍が再上陸するまで廃墟となった。


なお、この機張市街区(駅前含む)へは、東蓬にある釜山大学(地下鉄①号線上)から頻繁に183番路線バスが往来しており、東莱地区からだと、バスでも簡単に来れそうだった。いずれにせよ、機張市街区で⑥番バスに乗換する必要はある(徒歩だと40分ぐらいの距離だが)。

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市街区には、機張市場という海鮮物の路上マーケットがあり、平日の昼間から活気が満ち満ちていた(上写真)。なお、機張倭城の一帯の海岸線を歩いてみたとき、その海水の透明度には驚かされた。水がとてもきれいであった。この海で取れた海産物はさぞやおいしかろう(下写真左・中央)。

最後に、崩落を防ぐためなのか、雨漏りを防ぐためなのか、釜山地方では、やや古い民家の多くで、その屋根瓦にセメントのような白い塗装を付けているのが気になった(下写真右)。あと、住宅地の電柱の多さは、日本と同じ風景だった。

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