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訪問日:2014年10月中旬

豊臣秀吉の朝鮮出兵と倭城



大韓民国(慶尚南道)晋州市 ~ 域内人口 34万人、 一人当たり GDP 39,000 USD(慶尚南道)


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  韓国人が選ぶ「訪問すべき都市」で No.1に君臨する「晋州市」
  朝鮮の役でのハイライトの一つ、第一次、第二次晋州城の戦い
  晋州城
  晋州城の歴史
  晋州城の司令塔「矗石楼」と朱論介(ノンゲ)廟
  晋州牧師「金時敏」の立像と北門
  城内の最も小高いエリア ~ 行政庁や兵舎、武器庫の跡地
  古城の最要害エリア「西将台」と僧兵養成所「護国寺」
  晋州城の周囲の山々に設置された狼煙台群
  望晋山倭城(狼煙台跡) ~ 日本攻城軍の本部と島津軍の支城
  龍頭蛇尾な KTX 晋州駅舎と観光センター



高麗時代 の983年に晋州と命名されて以降、1030年を超す歴史都市である。
以後、この慶尚南道西部地域での中心都市として君臨し続け、李氏朝鮮末期の1896年から日本統治時代の1925年まで、慶尚道の道都を務めた(慶尚道が南北に分離されるあたり、慶尚南道庁が 釜山 に移転する。現在は、昌原市 にある)。歴史的に、この地は世界五大「絹」産地としても有名であるという。1995年に、現行の晋州市制が開始される。

筆者は 昌原市馬山区 市外バスターミナルから晋州行バスにて現地入りした(4,700 Won)。乗車時間は60分ほど。

当地は韓国の人々にとって、殉国精神から勇気をもらえるナショナリズムの聖地みたいな都市であり、 2013年度の韓国人が選ぶ「訪問すべき国内都市」で堂々第一位にランクインしている。 それは、街のシンボル「難攻不落の晋州城」の存在、そして李氏朝鮮末期の反封建運動の起爆剤 となった1862年の晋州農民暴動の勃発地となったことに由来する。

晋州市


晋州城の攻防戦

1592年5月のソウル占領後、半島全域へ展開された日本軍の各部隊のうち、この全羅道の朝鮮勢力の掃討作戦を担当した細川忠興、長谷川秀一、木村重茲ら7将の率いる約2万の兵力は、 1592年9月23日、昌原馬山にあった朝鮮軍拠点(龍馬山城 など)を攻撃し、守将であった慶尚右兵使の柳崇仁を敗走させ、ここ晋州城外にて討ち取っている(当時、日本軍襲来に対し、晋州城の城門や堀は防御用に増強工事されていたため、晋州城内へ入城できなかったとされる)。
この日本軍の先方隊が確保した道を通過して、10月4日、本軍が晋州城に到着し、すぐに包囲網が構築され、6日より総攻撃が開始される。しかし、このとき攻城軍に参加した7武将は、皆が同列レベルの大名で、統合的な指揮系統が成立しないまま、各武将らが個別に単純攻撃を繰り返し、一向に戦果が得られない中で、城外に明軍や朝鮮義勇兵らの援軍が集結し出し、 日本軍は内外両面での戦闘を余儀なくされてしまう。
攻城開始4日後には、バラバラで戦闘を繰り返していた日本軍各兵の疲労が頂点に達した上、交代要員らの補充も不可能とあり、全軍、撤退することになる。
朝鮮軍(守備兵 3800名と住民ら)もそれなりに被害が出ていたようで、日本軍を追撃する余力はなかったとされる。また、当時の指揮官であった牧使(朝鮮語:もくそ。地方行政官のトップ)の金時敏も日本軍の火縄銃で負傷し、戦後すぐに死亡している(享年39歳)。

晋州市 晋州市

晋州城攻城戦失敗の報は、すぐに日本へも伝わり、これを聞いた秀吉は激怒して、自身が直接、半島へ乗り込んで指揮するとまでいきり立つ。大名らの静止もあり、秀吉の名代として上杉景勝がこのとき朝鮮半島へ援軍として渡海している(自主的に伊達政宗も同伴渡航する)。

最終的に、晋州城は二度目の1593年6月の攻城戦で落城する。このとき、宇喜多秀家を総大将とする豪華絢爛なる面々の大名らが参加し、 42,000名の大軍で包囲する。下絵図。
日本軍はこの時、亀甲車という中に人が入れるスペースを設けた戦車のようなものを作り、城壁に近づいて、楼閣が建っていた城壁部分の石材をいくつか取り外してしまい、崩れやすい状態にして、最終的に亀甲車でタックルをかまして城壁ごと楼閣を崩落させる奇策に出る(最初に、まず堀川を埋める土木工事を完了させている)。この黒田長政と加藤清正の共同作戦は見事に成功し、その城壁の空いた穴から、一気に日本軍が城内に雪崩込み、一日で城内すべてを制圧したという。若い女官を除いて、6万人近くの兵士や住民らが皆殺しにされたようである。その屍の鼻と耳を切り取って、日本へ送ったという。

晋州市

また、守将であった後任牧使の徐礼元も討ち死にし、その首は日本へと送られ、京都の町中にさらし首にされている(7月12日~)。
なぜにわざわざ一地方都市の守将の首が日本まで運ばれたかというと、第一次晋州城(もくそ城)攻略戦に失敗した日本軍の苦戦は、日本本土にも伝わっており、この悪いムードを一掃する上でも、朝鮮守将の首が必要であったのだった。

日本軍は城内平定後に、他の全羅道各地へも進軍し、後に晋州城を破却して撤退している。
1593年5月1日付で秀吉より発せられた朱印状では 西生浦 から 熊川 までの18城の築城命令が言及されていたが、5月20日付での朱印状では、 全羅道への進出を着実に進めるべく、熊川よりさらに西側地域への築城命令も出される。しかし、6月29日の晋州城陥落により、 当初の予定通り、築城作業は熊川城までの範囲でいったん留め置かれることとなる。


晋州城

晋州城の入場料金は2000 Won。入り口で日本人と申し出れば、日本語パンフレットがもらえる。

晋州市

城壁内は公園となっている。かつての内城部分に相当する(下の古絵図)。

晋州市

外城部分は、東の将軍山ギリギリのところまでが範囲であったことが分かる(下写真)。

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隣接する将軍山との間には小川が掘削されており、それが東側の外濠 を形成していたようだが、現在は、その外濠も小川も一切、残っていない。下写真。

晋州市 晋州市

この 晋州城 の歴史であるが、三国時代(4~7世紀)、最初の土壁による邑城が築城される。 倭寇の襲来が猛威を振るった高麗末期の1379年には、当時の晋州牧師(地方行政官のトップ)であった金仲光が土壁を石積み城壁へと 全面改修する。そして、朝鮮の役の折、この外城城壁だけの一周城壁の体制で、籠城戦を展開したわけであった。
朝鮮の役が終わってしばらくした1618年、日本軍により破壊された晋州城の再建が始まり、このとき、 城壁内を南北に分けた内城と外城のスタイルが確立されたという。 この最終形態が、下写真にある博物館の模型である。

日本軍の攻撃時でも、この城下を流れる南江の川幅は結構、広く、天然の堀となったことであろう。 また、城の西側は急峻な丘となっており、攻めるのも苦労しそうであった。 これに北側まで堀が巡らされていたとなると、なかなか堅城であったことが容易に推察された。 見たところ、やはり城の東側が最も守りが弱いと見れよう。将軍山の麓あたりである。

晋州市


チケット売り場の「矗石門」を通り、城内へ入る(下写真左)。

ちなみに、この矗石門は1972年に復元され、さらに1975年には西側の外城の一部と内城の一部が再建されたという。 日本による植民地統治時代に、西側城壁が崩落し、そのまま放置されていたという。 さらに、1979年から城内に入り込んでいた民家群をすべて退去させ、城内復元工事が順次、進められていったようである。 最終的に2002年、拱北門が再建されるに至り、現在の晋州古城公園として再スタートを切る(城壁の高さ 5~8m、総延長 1,760m)。

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入城後まず、矗石楼(上写真右)の大きな建物が目に飛び込んでくる。ここは、第一次、第二次晋州城(かつては矗石城と通称された)籠城戦の際、朝鮮軍の指令本部となった場所である。
また、日本軍による占領後は、その戦勝記念の宴会が開かれた場所とされる。この宴会場へは、クツを抜いで誰でも上に上がれる(下写真左)。 まさに、ここで加藤清正、黒田長政、島津義弘、鍋島直茂、宇喜多秀家、石田三成、毛利秀元、 小早川隆景、立花宗茂、伊達政宗らが酒宴を催したと想像すると、あまりに豪華な顔ぶれに高揚感が止まらない。

殺害を免れた女官らは日本の将軍らの手土産とされ、 そのうちの一人が韓国でも超有名人物とされる、朱論介(ノンゲ)という女性であった。祝戦勝の宴会場所で、戯れていた日本の武将を、宴会場下にあった川辺まで誘導し、道連れに川へ身を投げたことで知られる。彼女を祀る廟が、この城内にある(下写真右)。

晋州市 晋州市

なお、この矗石楼は、高麗時代の1241年に、晋州牧師であった金之岱が建設し、以後、度々改築されたとされる。戦時には将軍の 指揮所となったが、平時はソンビ(高潔な学識と人格を有する人)たちが風流を楽しむ場所として使用されたらしい。
日本軍が晋州城を破壊して撤兵した折に同じく破却されるも、1618年に、晋州城が再建される中で、兵使(地方軍官)の南以興により、 さらに壮大な楼閣として再建される。しかし、惜しくも朝鮮戦争時に焼失してしまい、1960年に現在のものが再建されたという。

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また、さらに慰霊塔などを過ぎた後の中央広場には、第1次晋州城の籠城戦を指揮した晋州牧師(地方官)の金時敏の 銅像(上写真左)が立つ。この銅像の左側にある北門は、当時から正門としての機能を 果たしていたという。
上写真右は、宴会場の矗石楼から、日本攻城軍の本陣が置かれた望晋山を臨んだもの。このような角度で、 朝鮮籠城本部 と日本攻城本部がにらみ合ったことであろう。

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金時敏の銅像と北門から西側は、高台になっている(上写真)。この城内の小高い部分には、当時、行政庁や兵舎、武器庫や寺社などが建てられていた。城内全体に見通しの効くロケーションであったことだろう。 ちなみに、上写真の高台に見える楼閣は、嶺南布政司が設置されていたエリアで、日本植民地時代の1925年に慶尚道が南北分離され、 慶尚南道庁が釜山へ移転されるまで、慶尚道庁がこの城内に開設されていたという。

晋州市

このまま南へ行くにつれて、ますます高さが増していき、南西部 の城壁箇所が、この城で最も高い位置となる。また、この西側は急峻な崖山の山頂となっており、この場所の防備は最強であったように思われる(西将台、再建1934年)。
晋州城は西側が高台の丘で、東側へかけて徐々に平野となる丘陵地帯に築城されており、やはり東側から攻めるのが容易そうだ。 そして、この西の高台は、日本軍本陣が置かれた望晋山との距離も最も近くなる。下写真。

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この西側高台のすぐ裏手に護国寺がある(下写真左)。かつては倭寇襲来を防ぐため、僧兵養成所を兼ねていたらしい。また後に、晋州城籠城戦で命を落とした人々を供養する神社となったようである。

下写真右は、南側高台を城外から見た様子。ちょうど急峻な崖下には大河の南江が流れており、非常に攻めにくい地形である。また、10月上旬に開催される晋州南江流灯祭りが終わったばかりとあり、川には趣向が凝らされたボートがたくさん浮かんでいた。特に、「自由の女神」ボートには目を奪われた。

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なお、晋州城内には国立晋州博物館がある。ここは李舜臣万歳の展示館で、入り口付近に3D映画が上映される映画会場も併設されているが、相当に李舜臣を神聖化した内容になっていた。ソウルの景福宮正門近くにある李舜臣博物館でも同じ3D映像が流されている。


さて、日本軍が第二次攻城戦の際、本陣を設置した南西側の望晋山であるが、かつてよりロケーションと標高の高さを買われて、山上には、李氏朝鮮時代より狼煙台が設置されていたようである。他にも、晋州城の四方の山々には複数の狼煙台が設定されていた。(下地図の赤▲)。

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下写真は、望晋山の山頂から晋州城を臨んだもの。
かつて晋州城攻めの折、この周囲の山々一帯を日本軍の陣地が埋め尽くしていたことであろう。42,000の大軍勢が陣を構える様は、圧巻であったに違いない。

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望晋山城と狼煙台

下写真は、晋州城内から 望晋山を臨んだもの。
日本軍は、晋州城の攻略戦前後から、この朝鮮方の狼煙台を改修して、軍事要塞を構築していたようである。

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現に、慶長の役末期の1598年9月末、明・朝鮮連合軍が 泗川新城 へと南下作戦を決行するに及び、泗川新城にいた島津義弘は、自兵に守備させていた 泗川古城、永春、昆陽、望晋山の各支城に伝令を発し、守備戦線を放棄して、本城の泗川新城へ帰還するように命を発している。ここから、泗川新城の北の防備と見張り台を兼ね備えた軍事拠点「望晋山」が、日本側の支城の一つになっていたことが分かる。

晋州城自体は、1593年6月の第二次攻略戦の後、日本軍が徹底的に破壊して撤退しているので、晋州地域に展開する日本軍はこの山上拠点だけであったと推察される。

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さてさて、この狼煙台跡&望晋山城跡への登山口はかなり分かりにくい。まずは、晋州城の西門から出て、徒歩で橋を渡り、望晋山の麓まで来るだけでも、結構、道が入り組んで分かりにくい。望晋山の中腹にお寺があるので、その脇の道路をさらに上へ登ること、10~15分で、ようやく山頂へ到着できる。

山頂には、復元された狼煙台がある(上写真)。日本軍の要塞遺構は全く残されていない。

帰りは、麓のバス停で251番路線バスに乗車すれば、晋州大橋を渡って、すぐのバス停で下車できる(1200 Won)。ここから徒歩で、晋州城へ戻れるし、もしくは晋州市外バスターミナルへも徒歩2分ほどである。ちなみに、晋州市の商業地域の中心部は、この旧市街エリアではなく、晋州大橋の南側一帯の「高速バスターミナル」付近に広がる(下地図)。

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筆者は、この後、KTX晋州駅へ移動した。晋州大橋のメインストリート上で路線バス132番か130番に乗車する。特に、この晋州の街巡りでは、130番、131番、132番の路線バスは、南北を走る主要ルートを抑えていることもあって、よく見かける番号である。どれに乗っても、観光客が移動するKTX駅から晋州城(もしくは晋州市外バスターミナル)間を往来できる。

ここの駅構内の観光館案内所で晋州市の地図をもらい、翌日の 泗川新城 行きのルートを教えてもらった。また、バスの運転手に見せるセリフもメモ書きしてもらい、万全の体制を整えられた。

なお、この晋州駅の外観は、一件、巨大な寺院に見える(下写真左)。最初に目にしたときは、ビックリした。しかし、駅の構内自体は狭く、地方駅舎そのままである。龍頭蛇尾の印象。

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また、この新駅舎のすぐ近くに、かつての駅舎がぽつんと残されていた。 昭和の香りがする木製の駅舎である。なぜに取り壊しせずに、そのまま放置されているのか不思議であった。とりあえず、田舎のど真ん中に 駅舎を新築しているので、周囲に土地は余りまくっており、古い駅舎が放置されていても全く邪魔にはならない、ということだろう。

KTX駅は、国立「慶尚大学校」にも近い(上写真右)。この学校周辺には、おしゃれで安い食堂が立ち並ぶ。

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