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訪問日:2014年9月中旬
豊臣秀吉の朝鮮出兵と倭城



大韓民国ソウル市 ~ 人口 1014万人、 一人当たり GDP 35,000 USD (ソウル特別市)


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~ ソウル城史と各時代を象徴する遺跡巡り ~

  前漢時代まで、中華文明外の野蛮民族(真番族)の土地と称された朝鮮半島
  古代集落から百済国の王都へ(称慰礼城の南城、夢村土城)
  ソウルを王都とした百済国の王城跡地(称慰礼城の北城、風納土城)
  百済時代の竪穴式住居の遺跡
  高句麗、百済、新羅の三国時代と倭国、唐王朝 ~ 白村江の戦い
  高麗の三王都時代
  李氏朝鮮の王城(漢城、京城)時代
  日本の朝鮮侵略と廃墟と化す漢城
  女真族の台頭と朝鮮侵略
  漢城の人口過密と水原華城への遷都計画
  水原華城の城壁と兵士らの武具の展示
  朝鮮王朝末期から日本の植民地政策へ ~ ソウル漢城の近代都市開発
  王宮の別館であった「昌徳宮」が、動物園と大学敷地へ
  大王のための王宮「景福宮」が、朝鮮総督府と朝鮮博覧会場へ
  王宮の冬用、夏用の生活仕様、大王の暗殺対策として設けられた4寝室、官吏試験会場
  景福宮の山手にある、韓国大統領官邸「青瓦台」
  明洞エリア(日本植民地時代の中心地区)と韓国中央銀行
  儒教文化の極み ~ ソウルの地下鉄車内のシルバーシートは終日、空席ばかり




岩寺先史遺跡 (現在のソウル市江東区岩寺洞)では、紀元前5000~3000年ごろの住居跡、土器類が発掘されており、新石器時代~青銅器時代の古代人の存在が確認されているという。

時は下って約 2200年前(中国で前漢王朝が建国された頃)、ソウル市内を流れる漢江流域には、三韓部落と呼ばれた真番族(当時の中国語で「野蛮民族」の意)や辰国族などが集落を形成していたようである。彼らは、もともと中国東北部の遊牧民族らが半島を南下して土着化していったものと考えられている。

前漢王朝の第7代皇帝の武帝により、紀元前108年、衛氏朝鮮(紀元前195年ごろ~紀元前108年)が滅ぼされると、その旧領跡に真番郡が新設される。郡役所が開設された霅県は、現在のソウル市内にあったのではないかと推定されている(下地図)。
真番郡はこの後、三国時代の曹魏や西晋王朝の時代には帯方郡(役所は平壌市内に開設)に吸収合併される。朝鮮半島南部に跋扈した馬韓54ヶ国の一つであった伯済国が成長して北上し、後にソウル一帯を占領して建国したのが百済国である(3世紀ごろ)。

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今日のソウル市内の南西部に、かつて 百済王国(紀元前 18年~660年) が王城とした称慰礼城(漢城ともいう)の土塁跡が残されている。現在の松坡区オリンピック公園内に、相当に高く盛られた土塁跡がそのまま保存されており、市民らの散歩コースとなっていた。下写真。

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当時の王城はすべて土壁で、楼閣がいつくも城壁城に建造されていたようである。別名、夢村土城とも称されている。 下絵図における下側の土塁集落地がこれに当たる。

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ちなみに、この夢村土城内からは竪穴式住居や地下貯蔵庫の跡が発掘されており(下写真)、古代環濠集落時代の遺跡博物館も域内に開設されていた。百済国が建国された早期のものらしい。

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より堅固な防衛拠点として、かつ水上交易の拠点として、後に 風納土城 を築城したものと推察される。上絵図で、上部に描かれた土塁城である。百済時代前期(紀元前18年~475年)の大王らは、この中に居住したものと考えられている。

現在でも、その土塁跡は住宅街に残されている(下写真左)。
宮殿が置かれた風納土城は北城、古代からの環濠城塞の夢村土城は南城と呼ばれており、百済時代の王都「漢城」とは、この今の松坡区と江東区一帯に広がる王城、民家集落、古墳群エリア全体を合わせた総合名称ということらしい。

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その後 も、朝鮮半島内では高句麗、百済、新羅の三国分裂状態が続き、度重なる戦闘が繰り返された。基本は、百済と新羅の連合軍と高句麗軍との戦いとなる。一時期は、高句麗の王都であった平壌をも陥れるまで拡大するも、475年、高句麗軍により百済はその王都「漢城(風納土城)」を占領されてしまう。このとき、国王は同盟国・新羅へ亡命している。
再興した百済は王都を熊津と定め、朝鮮半島南部の伽耶国らを平定し、領土を南側へ伸張する。その後、538年、王都をさらに南部の泗沘(現在の忠清南道扶余郡)へと遷都した。

ほぼ同時期、新羅は百済や伽耶からの避難民を吸収して、ますます勢力を拡大し、高句麗の南側領土を侵し始める。そして、百済国の旧王都であった漢城の占領にも成功する。新羅は引き続き、漢城を自領としたため、百済との関係が悪化していく。こうして、百済と高句麗の連合軍、そして新羅と唐の連合軍に分かれて朝鮮半島を巡る勢力圏争いが新時代を迎えることとなった。

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ついに、660年、唐軍が山東半島から渡海して百済領に上陸し、易々と百済王都を占領してしまう。百済王は一時的に、かつての王都であった熊津へ避難するも、間もなく降伏し、百済は滅亡する。このとき、多くの百済王族や民衆らが日本へ避難することとなり、それが倭国による朝鮮出兵、そして、 663年の唐軍(一部、新羅連合軍)との白村江の戦いへとつながっていく。これに大敗した倭軍は日本へ引き上げ、朝鮮半島の足場を消失してしまうととなった。

同盟国の百済を失った高句麗も、ついに668年、唐軍の侵攻を受け、滅亡する。その後、旧高句麗領や旧百済領は唐国の管理下となり、新羅にはわずかな領土分配のみとされる。これに不満をもった新羅は、676年、唐王朝の内紛に乗じて、朝鮮半島における唐の行政府を急襲して占領し、半島全域をほぼ統一することに成功する。
統一新羅時代が成ってから300年後に再び、朝鮮半島は 後三国時代 を迎える。後新羅、後百済、後高句麗による三つ巴の内戦が50年近く続くこととなった。918年、後高句麗の一将軍であった王建がクーデターにより高麗を建国し、936年に朝鮮半島の統一を成就させる。

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その王都とされた松嶽(開城)は、後に中国宋代のころには人口30万人を有する巨大都市となるぐらいに大発展を遂げている。しかし、北方遊牧民族の契丹軍が、 1011年1月に開城を攻略し、焼き払ってしまう。その後も、開城は王都であり続けたが、ソウル(当時、南京と呼ばれた)など、高麗王朝は首都以外の3大都市にも宮殿を建設して、いつでも遷都できる体制を整えることになる。

1368年、中国大陸に明王朝が成立し、モンゴル族や他の遊牧民族勢力を追放すると、1370年、高麗は明と朝貢関係を結ぶ。しかし、日本への元寇遠征などで国力に大ダメージを受けていた高麗は、その後、内紛が絶え間なく続くことになる。その間、高麗王朝は王都を漢陽や開京へと遷都を繰り返し、内乱を治める力を完全に失っていた。この戦乱の最中に台頭してきた李成桂により、1392年、李氏朝鮮が建国されるに至る。その後、北側にわずかに勢力を残した高麗も1474年、完全に滅亡に追い込まれる。

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李氏朝鮮を建国した 李成桂 は、高麗の古くからの王都「王京(今の北朝鮮開城市、平壌から南へ160km)」は首都にふさわしい場所ではないと判断し、建国早々の1392年より、第二の王都があった漢陽エリアに着目し、漢江の北側に全く新しい王都城の建設を決定する。風水の理論も参考にされ、山や川の位置が的確とみなされた現在のソウル中心部が最終選定される。

1394年、王城完成とともに、開京から、この漢陽の地に正式に遷都する。あわせて、ここを「漢城」と改名する。李氏朝鮮時代を通じて「都城」「京城」とも呼称された。

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ソウルに位置した王都では、漢江の流れを活かし、水運交易が活発となり、あわせて、河沿いに防衛施設も設置されていった。下の地図では、「京城」と記されている場所が、王城である。

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1592年、豊臣秀吉の号令の下、日本の諸大名が朝鮮半島へ進軍する(文禄の役)。
4月12日、小西行長が釜山に上陸してから、1か月後の5月3日、日本軍の先方隊であった小西行長と加藤清正がそれぞれ「漢城」へ到達する。しかし、漢江防衛の守将を司っていた金命元と申恪は1000人たらずの軍勢しか与えられておらず、日本軍接近を前に逃走してしまう。日本軍が漢城に入城したころには、城内は完全に破壊されてしまった後であり、住民ら全員が逃亡してしまっていた、という(真っ先に国民を見捨てて逃亡した王室から解放された奴隷らが自分たちの戸籍情報を抹消するために、役所や王宮ごと焼き払ってしまったとされる)。朝廷のふがいなさから、多くの朝鮮人住民や農民らが日本側に寝返ったようである。また、景福宮・昌徳宮・昌慶宮の三王宮も、日本軍の到着前にはすでに灰燼に帰しており、朝鮮民衆により略奪・放火されてしまっていたという。ただ宗廟の建物のみ残されていたらしいが、日本側の将軍・平秀家の失火により焼失されたという。

その後、日本軍はさらに平壌を目指して北進することになる。加藤清正に至っては、北朝鮮国境を超えて、女真族(後に後金国を建国する)の領土へも侵攻した。そして、同年末に明側の援軍が到着し、平壌奪還作成を決行してくる。
平壌城の攻防戦と碧蹄館の戦いを経て、1593年3月より、日本側の遠征軍と明軍との間で講和交渉が度々もたれることになる。これ以降にも日本と明・朝鮮連合軍は度々戦闘を繰り返したが、すべてにおいて日本軍の勝利となっていた。日本側は北部への遠征よりも、朝鮮半島南部の支配堅めを優先すべきとの結論に達し、漢城も放棄する。同年11月に、朝鮮王朝の国王「宣祖」が漢城に戻ったとき、その漢城の荒廃ぶりに驚愕したという。すぐに復興に取り掛かることになった。
1597年の第二次遠征の際は、朝鮮半島の南4郡の軍事的占領が主目的であったため、日本軍は漢城まで攻め寄せることはなかった。

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豊臣秀吉 が1598年に死去すると、日本軍は総退却する。日本側で江戸幕府が開始されると、徳川氏により朝鮮、明との国交回復がなされ、三国間の交易が正常化されることとなった。しかし、日本軍との戦いで膨大な人員と戦費を浪費した朝鮮王朝、明王朝はともに国力が衰退し、国内は農民反乱と群雄割拠で分裂していくことになる。

この日本による朝鮮侵略戦争の後、漁夫の利を得たのが女真族であった。朝鮮半島のすぐ北側で勢力を拡大し、明領の遼東半島への進出をねらっていたヌルハチは1616年、後金国を建国して独立を宣言し、1618年に明領への南下を開始する。1621年に遼東半島全域を制覇し、 2代皇帝のホンタイジは1627年と1637年の2回、朝鮮遠征(卯虏の乱と丙子胡の乱)を実施し、朝鮮王朝を屈服させている。ホンタイジはその遠征の際、住民らに危害を加えることを厳禁していたため、後金軍が撤退する際は、城内の人員や金銀、家畜などを連れ去っただけであった。

後金王朝はその後、清朝と改名して、中原へ進出し、北京を首都とする大帝国を建国するに至る。
こうして、大陸中国、遼東半島、日本での政局が安定し、その間に翻弄された朝鮮王朝はようやく安寧を手に入れることになった。

1700年代 にもなると、漢城の人口も急回復し、30万人まで拡大したとされる。
手狭になった王城を、さらに南方に築城した水原華城へ遷都する計画もあったが、結局、実行されることなく、人口過密なままの漢城が、半島の王都であり続けた(下絵図の通り、水原華城の城壁、及び王宮は完成し、これから遷都というタイミングで、第22代大王の正祖が病没している。遷都反対派による暗殺説も根強くある)。

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この水原華城は、ソウル市内の昌徳宮とともに、1997年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
ソウル市内から地下鉄1号線(途中、九老駅で国鉄線と連結)で1本、2,500 won。もしくは、ソウル駅前から水原バスターミナルまで、遠距離バス(バス番号8800)で一人3,000 won。そこからタクシーで2,000 won前後。ソウル市内からだと、行きは列車、帰りはバス、というのが往復は簡単かも。
水原駅から韓国民族村までの無料シャトルバスがある(2時間に1本、水原駅からの最終出発便は14:30、民族村からの最終出発便は16:30)。もし、タクシーでは、片道 18,000 won、25分程度。路線バス37番でも駅前から往復可能だが、1時間はかかる気がする。
なお、民族村では伝統的な結婚式、馬術、市場生活などの寸劇が、午前と午後に1回ずつ実演されており、この見物に時間をかける方が賢い(民族村の入場料は 4,500 won)。

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水原華城 の王宮は、ソウル市内のものに比べるとこじんまりとしており、もし、ここに王都が遷都されていたら、すぐに手狭ということで再遷都とされる運命にあったのではないかと容易に想像されてしまった。

城壁都市の真ん中には、ソウル京城と同様に、河が流れる構図となっており、排水や水運の機能が考慮されていたのであろう。王宮入城料は300 won、午後6時閉館。
内部の閲覧ルート最後に、朝鮮軍の甲冑が保存されている武具の間に到着する。それらは防寒対策の施された、日本には見られないスタイルであった(左下写真)。ちょうど近代以降のロシア軍や中国軍に見られる、軍人用厚手コートに近い雰囲気。

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近代 に入って、日本と清は朝鮮支配をめぐって、朝鮮半島内で日清戦争を勃発させる。
1894年の停戦協定である下関条約に基づき、朝鮮は清との朝貢関係を解消され、朝鮮王朝はロシアへ接近を強めることとなった。
当時の李氏朝鮮の国王であった高宗の妃(閔妃)は親ロ派の筆頭格であったが、謎の殺害事件が起き、朝廷の権威はますます失墜することとなる。王権の立て直しをはかり、翌1897年、李氏朝鮮は大韓帝国と国号を改称する。あわせて、国家の近代化策を強硬した。
現ソウルの西大門の近くにあった迎恩門が撤去され、代わりに清朝からの独立を記念する西洋式の独立門が建立される。
また、城壁都市内では道路、交通機関、照明設備、政府機関などの近代建築物の建設が計画されていった。1899年には明洞にキリスト教会が建設されている。

日露戦争後の1910年、韓国は完全に日本に併合される。
日本は植民地政府を通じて、ソウル京城の近代都市開発をますます促進し、旧漢城の南面と西面の城壁が撤去されることとなる。
下絵図は、日本占領時代のソウル地図で、動物園、大学、高等専門学校などが開設され、一般公開された後の昌徳宮の姿が描写されている(左上の部分)。

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下写真は、現在の昌徳宮 。1405年に、ソウル京城内の王宮「景福宮」の離宮として創建されたもので、文禄の役(1592年)で炎上後、再建され、以後、景福宮に代わって王宮として使用された所である。ここには韓国最古の橋や門が保存されている。

王朝末期の1868年、国威発揚として景福宮が再建されると、この昌徳宮は再び離宮として使用されることになる。しかし、1907年に純宗が大韓帝国の皇帝に即位すると、再び宮殿として使用され、1910年の日韓併合後、退位して李王と称した純宗の住まいとなった。
その後、朝鮮総督府により改築され、一般公開されることになる。あわせて、敷地内には動物園や大学などが設置されていった。

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また、下の絵図は、同時期の 景福宮 一帯を姿を描いている。李氏朝鮮王朝末期に再建された王宮は、ほとんど破壊され、朝鮮博覧会場として使用されたり、さらに朝鮮総督府の庁舎まで建設され、植民地支配、近代化の象徴として塗り替えられていった。

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下写真は現在の景福宮のものである。しばしは勘違いされるが、東隣の昌徳宮はユネスコに指定されているが、ここ景福宮は何らの指定も受けていない。韓国の国宝とされているのみである。

この 王宮 であるが、無料での日本語ツアーが一日4回ある。正面入り口の東側の広場で集合。
韓国の冬の寒さは日本の比ではないようで、そのための暖房設備が所々に張り巡らされていた。床下に炭や薪を入れて熱し、床には石や泥、木材などでゆっくりと熱が伝わる仕組み(オンドル、温突)を構築しており、そして煙突部が建物のかなり離れた場所に設置されているという工夫は、なかなか見ものだ。地下煙突になっていたわけである(写真右下)。
また、夏の暑さをしぼぐ工夫として、写真左下にある窓枠の「釣り金」がおもしろい。真ん中の写真のように、木戸を釣り金にぶらさげて、風通しをよくしていたという。

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下の写真は、皇帝の寝室の間。暗殺を恐れて、毎日、寝室を変えて寝るために、 4部屋が用意されていたらしい。
また、右下の写真は、宴会用の建物。時に、官僚の登用試験会場ともなったという。高床を支える部分は、セメントのように見えるが、石らしい。外側は四角型、内側は丸型で構成されているらしく、風水の思想が表現されているということ。

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下左の写真は、王宮の 正門。そして、ここと大手門との間で、2時間に一回、衛兵の交代式が実演されている(下写真中央)。まさに、この広間に、かつての朝鮮総督府の建物があったのである。1995年に撤去された。下右の写真は、景福宮の山手側にある韓国大統領官邸「青瓦台」である。

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さて、この景福宮と昌徳宮一帯であるが、かつてより朝鮮王族や高級官僚、両班らの居住区が立ち並ぶ一等地であり、現在も閑静な高級住宅街の様相を呈している。というか、一部に高級住宅が残ってはいるものの、韓国政府による古民家復元の指定区域となっているようで、かつての王宮時代の趣を取り戻そうという家屋改修工事が適度に実施されていた。あと、芸術家のたまり場ともなっているようで、ユニークな建物や看板、ショップなど若者向けの雰囲気も醸し出す、不思議な空間であった。

その最も一等地に、現代重工、現代建設の本社ビルがあった。下写真左。ちょうど地下鉄5番線の安国駅の正面。
下写真の右は 韓国中央銀行(かつての日本植民地政府よる朝鮮銀行を前身としている)。

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さて、この韓国中央銀行は、ソウルの最も有名な繁華街の明洞地区にある。そもそも、李氏朝鮮時代においては、京城内の中心地は王宮周辺の北半分であり、南側は南山の山裾ということもあり、寂れた庶民の街として取り扱われていた。

しかし、日本による朝鮮支配時代、この南側が大開発され、南北の経済差は大きく逆転されていくことになった。日本政府により、朝鮮銀行が開設され、さらにソウル鉄道駅、路面電車が開通し、されに水運港も整備され、多くの日本人らが南側に居住し、植民地経済の特権を謳歌していった。このころから、南町は豊か、北町は貧乏という代名詞となっていく。南町からは多くの朝鮮居住民らが追い出され、北町へと追いやられ、街の整備度や衛生面でも明らかな差が付けられていったらしい。その近代化の過程で、南大門や西門、東門の城壁は撤去され、また南山には朝鮮神宮が開設されている。

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現在、ショッピング・エリアの明洞地区のど真ん中にある中華小学校や中国大使館も、このころに発達した中華街が基礎となって誕生している。

後には、景福宮の大手門を撤去して朝鮮総督府が北町側に設置され、ここに南門との間の大通りが整備されることになった。これが今の光化門広場である。ここには当時から大企業や官庁が設置され、帝国支配の象徴地区として再開発されていった。

こうして歴史をたどるとき、植民地時代の近代都市開発の基礎が、今日のソウルの都市外観に大きな影響を与えたことが分かる。ソウル歴史博物館は無料で日本語オーディオも借りられる(パスポートと交換)。展示内容も分かりやすく、見応えがあった。

釜山市 内でも感じたことであるが、韓国では昼夜を問わず、高齢者以外はシルバーシート席に座ろうとしない。このため、高齢者人口が急減する夕方以降の時間になると、中央部は混んでいるのに、シルバーシート席は空席のままガラガラという状態であった。年配者への配慮が徹底されているお国柄を見せつけられた。それにしても、中央部の混雑とのあまりの対称性にはちょっと異様にも感じられた。小生は、がら空きのシルバーシートに座って快適であったが。

下は、現在のソウル市街区と城壁跡。  ソウル特別市 後編へ >>>

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