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訪問日:2014年9月中旬

豊臣秀吉の朝鮮出兵と倭城



大韓民国ウルサン市 ~ 域内人口 110万人、 一人当たり GDP 68,000 USD(蔚山広域市)


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  蔚山倭城(鶴城公園)
  第一次 蔚山城の戦い
  【倭城ネタ】 蔚山城
  蔚山倭城(鶴城公園)の石垣遺構
  第二次 蔚山城の戦い
  朝鮮の役における加藤清正の武勇伝 ~ 女真族との戦闘から虎退治まで
  蔚山市内の中心エリア
  朝鮮水軍の軍事砦「開雲浦城」跡
  西生浦倭城
  西生浦倭城の石垣遺構
  西生浦城跡の観光センターと無料案内
  【倭城ネタ】 西生浦城



蔚山倭城(鶴城公園)

文禄の役後、和平交渉が決裂したことに激怒した豊臣秀吉は、朝鮮南部の領土割譲を既成事実化すべく、全羅道・忠清道の朝鮮側拠点の制圧と、各地への軍事拠点(仕置きの城)作りを命じる。

交渉結果待ちであった日本側の武将たちは、1592~93年に占領した朝鮮半島の大部分を放棄し、一部の兵らが 釜山 周辺にて待機した以外、残りは全て日本へ帰国していたわけであるが、1597年2月末、秀吉より上記の再侵攻指示を受け、春の到来を待って、日本軍は再び大軍を釜山へと出動させることとなった。 7月~9月の間に早々にも両道を占領し、以後、日本軍は海岸線上に新たに 8城の築城を開始する。

ウルサン市

そのうちの一つが、この蔚山城であった。ここは東側の最前線基地として、西生浦倭城の北15kmに築城されている。西生浦倭城自体を築城し、この守将を担当していた加藤清正が自ら出向いて縄張りを行い、 1597年11月中旬から約40日の突貫工事を進めることになる。その人夫は、毛利秀元、浅野幸長、加藤清正の軍勢を中心として、朝鮮住民らも含めて強行作業が敢行されたのだった。

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工事の最終段階に差し掛かった 12月22日、明と朝鮮軍がこの城を急襲する。日本軍らは築城作業のため、城外の仮陣営に投宿していたが、これを襲われ多数の死傷者を出す。城外にあった日本軍は、蔚山城の惣構内に撤退して籠城戦を開始する。また当時、西生浦倭城方面の視察に出向いていた加藤清正はすぐに兵船で北上させ、無事に惣構内に入城する。

加藤清正(35歳)の帰還を知った明軍は、翌23日に再度、総攻撃を実施し、未完成であった惣構の防衛ラインを突破して、日本守備兵を山城部分(本丸、二の丸、三の丸)のみに追い詰める。
下絵図では、城内の右奥が本丸で、赤い鎧に身を包む加藤清正が描かれている。

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攻める明・朝鮮連合軍は55,000、対する日本の籠城軍は10,000。
翌24日、25日、明軍、朝鮮軍は入れ替わりで攻城戦を展開するも日本軍の火縄銃の威力により城壁に近づくことができず、ただただ多数の死傷者を出すだけの日々が続く。
12月29日には、明側から城の開城と人質交換を打診され、ここから4日間、交渉のため、ほぼ戦闘がなくなる。しかし、朝鮮半島の冬は厳しく、しかも籠城戦の用意のなかった日本軍は寒さと餓えで、疲労困憊し、一部に餓死者や凍死者も出したようである。

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正月の謹賀新年を、日本、明、朝鮮軍はどんな気持ちで祝い合ったことであろうか、勝手な妄想がつきない状況である。厳冬下の野営は、双方、かなりきつかったと思われる。
上の絵図では、二の丸広場で、軍馬や牛を焼いて食する兵士らが描かれている。その横に、次は自分の番かと冷や冷やしながら見つめる、加藤清正の愛馬が見える。

交渉がなかなか進展を見せない中で、ついに1月2日夜に、兵と軍備を整えた毛利秀元、黒田長政らの率いる援軍が蔚山城南側の高地に到着、布陣する。また、海上には長宗我部元親らの水軍も到来する。

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翌1月3日早朝、援軍の到着に気づいた籠城軍は俄かに活気づく。これに対し、攻城側の明・朝鮮軍は急遽、力づくでの攻撃を実施するも、またも多くの死傷者を出す。日本側の援軍(13000)も、さすがに多勢に無勢で、直接的に包囲網を突破することは困難とみて、籠城軍の側面支援と牽制を行っていたのであろうか。

その夜、明軍と朝鮮軍は撤退を決定し、4日にも退却を始める。ここに城内外の日本軍が追い打ちをかけ、明・朝鮮側に多くのダメージを与えたという。



 【倭城ネタ】 蔚山城

蔚山郡の南東に位置する倭城で、13万~14万平方メートルの小山に築城されていた。蔚山平原にぽつんとあった絶壁の小山を利用した、瓶城スタイルの平山城であった。

1597年の12月初旬、加藤清正が西生浦城にいる間、蔚山城の築城工事は家臣の加藤清兵衛と小代下総らが担当していた。同年12月23日に突如、明・朝鮮軍が蔚山城を包囲すると、加藤清正はすぐに西生浦城から蔚山城へと引き返している。
籠城戦の終了後、豊臣秀吉は加藤清正に蔚山城を専属で守備するように指示し、厳冬の中、毛利秀元とともに築城工事を急ピッチで敢行することとなる。翌1598年2月、3月ごろには完成したようである。

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城郭は内城と外城に分かれており、内城は本丸(城門2つ)、二の丸(城門2つ)、三の丸(城門1つ)が設置され、それぞれに石垣、塀、門、櫓、長屋(本丸と三の丸内のみ)が備えられていた。最も高い位置にあった本丸(6棟の櫓あり)の標高は18mで、南北41m、東西83mの規模であった。最初から天守閣の建設予定はなかった。その少し下に二の丸(3棟の櫓あり)、さらに下に三の丸(1棟の櫓あり)が造成された、三段構えの構造であった。北面、西面を中心に、外側には空堀と防護柵が 3重に張り巡らされていたという(1重目の総延長 1,752 m、2重目の総延長 4,586 m、3重目の総延長 5,410 m)。なお、南面はもともと海側ということで、防護柵などは一切、設置されていなかった。

明側の記録によれば、大陸中国のように城壁上に凸凹型の女墙(ひめ垣)がなく、長屋と築地塀がぐるりと囲んだ日本式城郭では、内部の様子が見渡せず、平時は全く無人のように見えるのだが、城に近づくと雨のごとく銃弾が降り注がれた、と記されており、大陸式の戦闘方法が通じない暗中模索の攻城戦に苦しむ様子が映し出されている。
さらに当時、明軍の攻城戦での常套手段であった大砲も、この蔚山城に対しては、ほとんど威力を発揮しなかった。平原に孤立して立つ小山を改造した城郭であったため、高低差50mもある低地からの射撃では命中できなかったという。

1598年11月中旬の日本軍の総退却の折、蔚山城は加藤清正自身の手で、完全に破壊されて放棄されることになった。



現在、蔚山倭城は、鶴城公園と呼ばれており、地元民の運動公園と化している。しかし、所々に石垣跡が残されており、本丸郭、二の丸郭、三の丸郭と、それぞれに通じる城門跡や通路跡の遺構がはっきり確認できる。かなり急峻な丘の上に、郭を造成して、三重構造に作り上げていたことが分かる。

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その後、加藤清正 はこの蔚山城の惣構工事を急ピッチで進め、ようやく完成に至る。以後、彼はこの城の城主として、終戦まで滞在することになる。そして同年9月22日、再び明・朝鮮連合軍が加藤清正の籠る蔚山城に押し寄せるも、徹底的な籠城戦を展開され、全く城外で出てこようとしない日本兵にしびれを切らし、 29日には撤退している。

実はすでに、8月18日、豊臣秀吉は死去しており、10月15日に朝鮮半島に展開中の日本軍に帰国命令が発せられ、この最前線基地に在城していた加藤清正は、 11月18日、思い出の蔚山城を破却し、兵船にて撤退、帰国の途についている。明軍は、この空き巣となった蔚山城を占領し、自軍の戦功とすることでメンツを保つことになった。

この第一回蔚山城の籠城戦での壮絶な飢餓体験は、加藤清正に大きな教訓を与え、熊本城の築城の折、畳に芋を縫い付けて作成させたり、城内の井戸を 120基以上掘らせるなど、兵糧戦でも戦えるような準備も兼ね備えた、堅城熊本城を完成させることになった(1601年)。豊臣秀頼のための御前の部屋も用意していたといわれており、対徳川との決戦をも視野に入れて築城していたことであろう。

ウルサン市

ちなみに、加藤清正 は朝鮮出兵の際、北朝鮮国境を超えて、旧満州地方まで進撃している(上地図)。ここの満州系の女真族の小部隊と交戦し、撃破したようである。
これが女真族の恨みを買い、女真族は明軍へ支援を申し出ることになるが、明側はこれを断っている(後に明将軍が、日本兵は体も小さく白兵戦では弱いが、鉄砲の火力はすさまじかった。対して、女真族は体格も大きく、白兵戦術にも優れているが、武器がまだまだ時代遅れである、と評されている)。先方隊争いで小西行長と先を競った加藤清正も、朝鮮半島の領土割譲という戦功の不可能さを痛感するにつれ、その姿勢は防衛戦線の維持へと傾いていったことであろう。

また当時、朝鮮半島では野生の虎が猛威をふるっており、住民らを食い殺すことが度々あったという。日本の武将らは鉄砲と日本刀を使って、度々トラ狩りをして遊んでいたようである。加藤清正のトラ退治も、この朝鮮半島での余興の出来事であったらしい。トラ狩り後、当時、長寿の源と考えられていた虎肉は、病床にあった秀吉の下にも届けられた、という。


さてさて、蔚山倭城への交通ルートであるが、蔚山市内の 国鉄駅「太和江駅」 で下車したら、駅舎から出て左手正面にある ①番バス停留所に来るバスなら、何でもいいので乗車する。このバス停に止まるバスは、すべて蔚山倭城(鶴城公園)を通過する。
ちなみに、そのバス停の目の前にある建物が、蔚山市の観光案内所となっている。日本語を話すスタッフの方もいる。日本語のガイド本、地図なども無料でもらえる。

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①番停留所にてバス乗車後、ロッテ・デパート(上写真左)や現代百貨店(上写真中央の奥のビル)などの中心エリアを通過して、だいたい15分ぐらいのドライブの後、太和江の大河を渡る(上写真右)。
するとすぐ左手に小高い山が見えてくる。これが蔚山倭城である(下写真)。

ウルサン市


さて次に、蔚山倭城の見学後、古城跡の下にあるバス停留所から、715番の路線バスに乗り、海岸沿いに西生浦倭城を目指してみた。
その沿線途上は、SKオイルやエネルギー会社などの石油化学コンビナート地帯となっており、その工場群の姿はまさに圧巻。蔚山市内の半分のGDPをこの海岸地帯だけから産出しているというだけあって、たくさんの煙突、機械類、輸送トラックばかりであった。

この道中に、新羅時代~李氏朝鮮時代初期まで使われていた朝鮮水軍の軍事砦跡 「開雲浦(ゲウンポ)城跡」 がある(下写真)。
古くから、付近に流れる川沿い(外港江)に集落地があり、そこは水軍や水上交易者、漁業関係者にとっては有利な地形であったとされる。
李氏朝鮮時代、水軍万戸鎮がここに駐留しており、さらに、1459年には釜山にある慶尚左道水軍節度使営(略称:左水営)もここに移設されたようである。しかし、その後、釜山方面へ再移転され、この開雲浦の水軍砦はそのまま放棄されることになったらしい。

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どうやら、浜辺近くにあった2つの丘の谷間を含んだ、包谷式の城郭らしく、その城壁の全長は1270mほどであったという。北門、東門、西門跡が発掘されているらしい。城壁の外側には空堀も巡らされていたようである。
また、この開雲浦の入江付近には、1656~1895年の朝鮮水軍廃止まで、水軍船の造船施設および停泊所があったらしく、この下流域の村落は「船所の村」と呼ばれていたらしい。


西生浦倭城

ここ西生浦倭城は、朝鮮半島の倭城でも最も有名で、その遺構はさすがに見応えがある。
そもそも、この城は加藤清正によって1593年5月から築城が開始され、多数の朝鮮住民らを使役しつつ、数か月で完成している。翌1594年内の和平交渉では、朝鮮側の僧侶が4回も訪れて、話合いがもたれた場所である。そのトップ交渉を担った日本軍の首脳部が集っただけある、大城郭の惣構えであった。

特に、加藤清正は朝鮮戦役中の大部分の期間、ここに在城して、他の朝鮮半島各地へ出陣したり、熊本の自身の領地経営のための政務などを行っており、慶長の役の最後の1年間だけ、最前線基地であった蔚山城の方に滞在している(代わって、この地には黒田長政が守将となっている)。南門と東門がある、やや小高い石垣部分が海側の守備砦のようであった。この東門からそのまま海岸線の入り江が広がっていたらしい。海からの物資輸送が生命線であった日本軍にとっては海沿いに拠点を築くこと、かつ、できれば城郭惣構内に港湾施設を取り込んでしまうことが必須であったのであろう。
現在の自動車道路が走る地点から東側はすべて海であったとされる。

ウルサン市

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1593年 の築城時、本丸側からも攻撃軍を側面出動させられるように城門が設けられていたようだが、 1597年末の蔚山城の戦いの後、加藤清正は攻撃型ではなく、より防御型に傾斜した城郭構成へと大改修している。

特に、本丸広場にある石垣には、かつて城門用の虎の門口があった箇所が石垣で埋め立てられた跡が明白に視認できた。明軍のあまりの人数の多さ、そして、補給体制の不利から、日本軍は積極的な攻撃戦は控えるべき、との教訓を得たらしい。
下写真の上段の右端は、天守台の石垣跡である(奥の方の高台)。

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西生浦倭城 では、その登り石垣(この外側には2重の空堀が巡らされていた)のそばに、観光案内所が設置されていた(下写真左下)。ここにいた李青子さんは日本語も堪能で、日本の歴史や西生浦倭城の歴史にも造詣が深く、お話を伺っていて、とても勉強になった。小生が訪問した際は、夕方でご帰宅途上であったので、山上までご一緒できなかったが、日中だと登山も同行してもらえるそうだ。蔚山市内のボランティアの方だそうである。

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なお、特に二の丸、三の丸の石垣や郭内部は、2014年に補修工事が施されたらしく、本丸部分の石垣とは色合いや雰囲気が異なり、やや興ざめであった。
しかし、この外城エリアには、かつての城郭の敷地跡や石垣跡を工夫して住みついた住民らの生活の場所と化しており、時折、古民家もあって、歴史との共存が感じられる場所であることは間違いなかった(上写真の下段)。



 【倭城ネタ】 西生浦城

蔚山郡の西側に位置し、標高 133mの山城である。別名を外瓶城という。
城域は東西約 350m、南北 250m、総面積 10万m2という、倭城の中でも最大面積を誇る。城の北側には回夜江という河川が城の東側へ向かって海へ流れ込む。東側にわずかに浜辺があり、ここが兵船、補給船の波止場であった。その南岸には名仙島があり、日本軍はここを改修して、城壁を張り巡らし、高台を活かした海上の防衛拠点としており、かつ南風を遮断する意味でも重要な位置にあった。この城の欠点といえば、波止場となる浜辺の狭さと指摘されている。
また、山頂には本丸、そして北東の傾斜面に二の丸、三の丸が構築されていた。主郭の本丸は、標高が 120mで、東西約 65m、南北約 35mの広さがあった。天守台は主格の中央部分にあり、その広さは東西 17m、南北 18mという。石垣の高さは、 8~5mで、総延長は 2.5kmにも及んだ。

ウルサン市

加藤清正がこの城を築城するも、1595年5月に秀吉がリストアップした廃棄城に含められ、清正らは城郭を破壊して、さらに南へと撤退している。しかし、2年後の慶長の役の際、清正は真っ先にこの城跡に上陸し、城の改築工事を開始している。そして、ここを拠点として、自身は全羅道や忠清道へ進軍している。その間、浅野長慶が守備を担当しつつ、修築作業を続行する。1597年9月には、浅野長慶により本丸の修繕も終了する。加藤清正は遠征終了後、再びこの城に戻ったが、城外にて陣を張って滞在することが多かったという(この時に、トラ狩りをしていたのであろうか?)。そして、秀吉から蔚山城築城の命を受け、蔚山との往復生活がしばらく続いたようである。
蔚山の戦い後、加藤清正は蔚山城専属で守備を指示される。代わって、西生浦城には毛利吉成、島津豊久、伊東祐兵、高橋元種、秋月種長、相良頼房らの6人が輪番制で守将を務めた。

なお、1593年に清正が築城した際、西生浦城には多くの虎口門が設置されており、各守備所から出撃できるように攻撃的な城郭として設計されていた。しかし、1597~1598年の修繕工事の際、多くの虎口門が石垣で埋め合わされ、もしくは二段階の石垣層へと改修され、守備中心の閉鎖的な城郭へと変貌することになる。



1597年末の蔚山城の戦いから終戦まで、加藤清正は西生浦倭城を離れ、最前線の蔚山城にとどまったため、ここにはしばらくの間、黒田長政が城代として入っている。1598年冬の日本軍撤収の折は焼却処分されている。この後、1895年の朝鮮水軍の廃止までの300年間、外城エリアが朝鮮側の水軍僉節制使営の駐屯基地として利用されている(山城部分は使用されずに放置された)。

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帰りは、西生浦倭城の東南側にあるバス停留所(中国食品店の前)から 釜山(海雲台) 行きのバスに乗車する(片道1時間)。バス時刻表は以下の通りである。ちなみに、このバス停は、他に405番や715番バス(釜山方面へ向かうも、途中での乗換要)も止まる。
時間があったので、この地域で夕食を食べてみた。ボリューム満点で、しかも安く食べられた。

バス時刻表 釜山市海雲台バスターミナル→西生面 6:00 10:30 12:30 14:30 16:30 18:30
(毎日運行)西生面→釜山市海雲台バスターミナル 8:00 12:00 14:00 16:00 18:20 20:00


また、釜山市 内からアクセスする方法は、地下鉄②号線「海雲台駅」の出口1のすぐ右にあるバスターミナルから、上の時刻表で発車される「西生面」行のバスを利用されるべきであろう。片道1時間ぐらい。バスの終点が、そのまま「西生浦倭城」である。ここから徒歩一分で東門、上り石垣などへ到達できる。バス停終点の前に「中国食品」の中華食材売り場がある。

古城跡を住所で記せば、「蔚山郡 西生面 西生里 711番地」となる。


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