BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2017年11月上旬 『大陸西遊記』~
ジョホール王国、その苦節 200年の歴史



マレーシア ジョホール・バル(中心部)~ 市内人口 93万人、一人当たり GDP 11,000 USD(全国)


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  一筋縄では行かない ジョホール州観光センター(イミグレすぐ)
  旧ジョホール州政府庁舎、かつての 日本軍総司令部跡
  中華街の騎楼群 と 陳旭年通り(世界の例にもれず、一等地を牛耳る中華街の象徴)
  ストリート名になっている 陳旭年とは? ~ 皇室家族との 親戚化
  【豆知識】ジョホール州の大規模プランテーション農園の勃興 と 港主制度 ■■■
  19世紀末、華人系移民 20万人の頂点にあった陳旭年 ~ 華僑会会長へ
  ジョホール王国の 王宮(イスタナ・ブザール)と その庭園(イスタナ・ガーデン)
  「近代ジョホールの父」第 21代国王 アブ・バカールの功績
  ジョホール水道が眼下に見渡せる スルタン・アブ・バカール・モスク
  ジョホール・バル アート・ギャラリー、1910年完成の閣僚公邸跡
  ジョホール・バル セントラルから、各市街区エリアへの路線バス網



正午過ぎに、シンガポール 内の地下鉄 Bugis駅へ行き、ジョホール・バル(JB)行きのバスに乗車する(3.3 SGD)。乗客が一杯になると発車する仕組みだった。下写真左。

ジョホール・バル特別市 ジョホール・バル特別市

シンガポール・マレーシア間の国境を越えて(上写真右は国境海峡のジョホール水道を移動中に撮影)、ジョホール・バルのイミグレを抜けた頃には、13:50になっていた。

とりあえず、イミグレ建物内にあるジョホール州観光センターへ出向いてみる。パスポート・コントロールを過ぎて直進すると左側にある。
開館中なのかどうか分からないぐらい、電気を消して中は真っ暗な状態で、女性スタッフが一人いた。絶対、「休憩中」の雰囲気を出して、訪問客が来ないような環境下で、サボっていたに違いないと勘ぐる。
不愛想な接客ながら、ジョホール州の地図をくれた。その他、マレーシア東海岸、西海岸などのエリア地図も置いてある。

ジョホール・バル特別市 ジョホール・バル特別市

到着後、すぐに街歩きを始める。まずは、懐かしい旧市街地のメイン・ストリートを、と思ったとたん、大きな違和感に襲われた。

6年前に当地を訪問した際は、まだまだ雑多な雰囲気が残り、乗り合いバスの激しい客引きが横行していた通りは、緑地遊歩道を有するきれいなおしゃれストリートへと変貌しており(上写真)、その現代風ショッピング・エリアへの変貌ぶりに、相当がっかりしてしまった。筆者は、かつてのアジアらしい無法地帯的な雰囲気が好きだった。世界中がどこも同じような雰囲気になっていく気がする。

そんな悲嘆にくれながら、旧ジョホール州政府庁舎の建物を目指す。

ジョホール・バル特別市

途中、派手な装飾が施されたヒンドゥー寺院があった(下写真左)。現在は閉鎖中で、間もなく別へ移転予定という。その門前町は雑多なアジア風の雑貨屋や食べ物屋が軒を連ね、期待通りの埃っぽさを充満させていた。

ジョホール・バル特別市 ジョホール・バル特別市

上写真右は、重厚さを見せつける 旧ジョホール州政府庁舎(現在の州政府は西部のイスカンダール地区へ移転済。事務局のみ入居中)である。その正門は固く閉じられていたので、南側の横道側へ回ってみたが、ここにも警備員が常駐して(下写真左)、中に入れなかった。
ここは、第二次大戦中の 1942年に正式に開館し、当時の日本占領軍の総司令部が設置され、要塞化された場所でもあるという。もともとは、ジョホール王国の政治の中枢を担うべくして、国王の肝いりで建造が着手されたものだったが、その最初の入居者が日本軍となったわけである。。。

ジョホール・バル特別市 ジョホール・バル特別市

そのすぐ隣に、マレーシア中央銀行の ジョホール・バル支店があった(上写真右)。
この丘の下には、HSBC銀行、郵便局(下写真左)、市役所(Majlis Bandaraya Johor Bahru)、高等裁判所(下写真右)の建物群が立ち並ぶ。

ジョホール・バル特別市 ジョホール・バル特別市
ジョホール・バル特別市

その東隣 に、新山華族歴史文物館(中国語でジョホール・バルは「新山」という)と 陳旭年街が立地する。
新山華族歴史文物館は、 もともとシャングリ・ラ・ホテル・グループの 創業者・郭鶴年(Robert Kuok Hock Nien)の 実父・郭欽鑑(Kuok Keng Kang)の自宅で、成功した華僑移民の邸宅として知られており、1942年からの日本軍占領期に 華人協会(1948年に 新山中華公会へ改称)の事務所へ改修され(郭鶴年は日本統治時代、三菱商事に勤務し、日本占領軍に取り入った)、2009年から博物館として一般公開されているという。
この周辺は、現在でも騎楼の建物が連なり、中華街の面影が色濃く残るエリアとなっている。

ジョホール・バル特別市

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また、博物館の表通り名に冠され人物 陳旭年 は、別名を陳毓宜といい、潮州市 彩塘区金沙鄉 出身の華僑であった(1827~1902年)。下写真左。
1844年、彼は 17歳にして人身売買グループによりシンガポールへ労働力として移送されてきた移民であったが、後に独立して、シンガポール島の南部の海岸エリアで布売りの行商人となり、その事業で人脈を広げて、ジョホール王国宰相家にも出入りするようになり、ここで皇太子の アブ・バカール(下絵図右)とも交流を結ぶ。そして、アブ・バカールの従妹と結婚し、王家との親戚化に成功するのだった。

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1853年、陳旭年は陳万泰と共同名義で、マサイ・コンコン地区の農園開発権を取得する。当時、開発した農園テリトリー内の治安警察権、金融特権、市場独占権を含む大幅な領主権が認められたため(港主制度)、華僑資本家らはこぞって農園開発に乗り出していたタイミングにあたった。

1855年にジョホール・バルの港町と埠頭が開港し、それまでの地名 ジャヤプール(Jayapur)がイスカンダール・プテリと改名される。実質的に、現在のジョホール・バル市の スタートと解釈されている(最終的にジョホール・バルと改名されるのは 1866年)。

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このとき、宰相家とのつながりを最大限に活用して、陳旭年は 紗玉河(ジョホール・バル中心部にあったセゲット川 Sungai Segget。文頭二段目の右写真)の西岸にできた港町を支配し、ここの港主として経済開発を主導する。後にこの敷地一帯が、現在の陳旭年街と命名されたわけである。



 ジョホール州の大規模プランテーション農園の勃興 と 港主制度

1819年、トーマス・ラッフルズが ジョホール=リアウ王国 から許可を得て、シンガポール島 にイギリス東インド会社の交易事務所を開設する。当時のシンガポール島は ジョホール=リアウ王国には見向きもされない、ほとんど無人の巨大島でしかなかった(なお、当時すでに 20あまりのガンビア農園が存在していたという)。
1824年には同島管理権を取得し、1826年、正式に英国の海外植民地に組み込まれることとなった。

この時代、英国は対中貿易で大幅な赤字を垂れ流しており、大陸中国への輸出商品の開発に血眼になっていた。
そこで白羽の矢が立ったのが、ジョホール=リアウ王国の王都があった リアウ島(現在のインドネシア・リアウ州)が有した ガンビア(甘蜜)の大陸中国や全世界への輸出ルートであった。当時、王都リアウは東南アジア屈指のガンビア輸出港となっており(1700年代初期より、すでに多くの華僑移民らが東南アジア一帯でガンビア栽培と中国貿易を手掛けていた)、その交易機能をシンガポール島へ移し替えようと企図したのだった。こうして早速、華僑労働者やブギス人らをシンガポール島に大量移民させ、多くの農園開発を進めることとなる。

1850年代に入ると、シンガポール島内に 200近くの巨大ガンビア農園が存在していたとされる(下地図)。当初、イギリス人らは欧州輸出品として香料生産も 同時並行で進めたが、気候風土の違いで生産性が上がらなかったため、ガンビア生産に 特化した経緯がある。

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また一方で、産業革命により英国本国で勃興していた染め物業と製革業も、このガンビアを必要とするようになり、その商品価格を高騰させていく(1830年代~)。

こうした英国、中国双方からの需要激増により、中華系移民らはさらに広大なプランテーション農園を求め、ジョホ-ル海峡を越え、マレー半島南部の ジョホール地区(当時、アジア大陸の最南端というマレー語 Ujong Tanahと通称されていた)にまで農園開拓に進出するようになる。
その際、この農園主らはそれぞれが 義興公司(義興会)という言われる秘密結社を結成し、時に反社会的な手段で 経済活動(賭博など)や労働者調達を手掛けていた。また時に出身地ごとの互助組織も兼ねており、陰に陽に僑人コミュニティー全体を支配したのだった。

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この時、ジョホール地区を治めた王国宰相 イブラヒム(上絵図)は、自身のおひざ元の土地開発を大歓迎し、華僑資本家への投資インセンティブとして、マレー半島内の無人エリアでの土地開発権と大幅な領主権を付与し、農園オーナーや労働者らを入植させ、積極的に土地開発を後押しする。
こうして 1840年代以降、ジャングルは大規模に切り開けれ、ガンビア(甘蜜)と黒コショウだけのプランテーション農園が広がっていくこととなる。熱帯地方での土地開発は過酷な労働であったが、生産高はうなぎのぼりに上昇していった。

当時、この農園オーナーらに付与された権限は、中華コミュニティの間で 港主(カンチュ)と表現された。
これは、その農園テリトリー開発が必然的に交易に便利な河川沿いに集中したため、その河川沿いの 港町(港区)を牛耳る首長という意味合いが込められての呼称であった。彼らは開発した農園エリア内での警察権、賭博経営権、商売独占権、酒・豚肉販売権(イスラム圏では禁止商品だった)、アヘン販売権を付与されて、半独立系テリトリーを各地に形成していく。
港主は毎年、一定の上納金を王国に収めれば、あとは基本的に自由放任で各テリトリーを支配できたので、英語では港主=港区 キャプテン(River Masters)と翻訳されている。
開拓先の河川の上中流から運搬されてくる産物や、そこで働く労働者らに供される日用品卸市場を中心とした集落地が各河川沿いに形成されるようになり、あちこちに港町が誕生する。これら港町から シンガポール島 へ商品作物を搬出し、そして、帰路に日用品を買い付けて持ち帰る交易ルートが確立されていった。
他方、シンガポール島では農園オーナーや労働者らの流出が頻発し、日々、数百人単位でジョホール地区への移住が目立つようになっていた。こうして、シンガポール島内で農園が減退し、逆にマレー半島ジョホール地区が一大生産基地として台頭したわけで、最終的に、半島側で生産されたガンビアはシンガポール島へ移送され、ここから国際流通網へ乗せられることとなり、両者の役割分担が進むこととなった。

ジョホール地区でこの港主制度が導入されると 100箇所以上もの巨大農園テリトリーが瞬く間に開拓され、ジョホール州は熱帯密林が多数の面積を占める東南アジアにあって、最も土地開発の進んだ先進経済地区として台頭することとなる。当時、黒コショウとガンビアの世界的な生産地として名を馳せ、これを支えた労働力により、ジョホール地区の人口も激増し(19世紀末、30万人超)、その 70%近くは華人系移民が占めたのだった。

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他方、農園開発のフロンティア用地を失ったシンガポール島は、英国海外殖民地の全世界ネットワークを活かした交易拠点として機能することを選択し、華僑系の貿易商ら(農園オーナーの港主らも参加)が連合して 椒密公局(初代局長:陳成宝。上写真)という 同業者組合(ギルド)を結成する。シンガポール島内やマレー半島から搬入されてくるガンビアは、登録した港主名義の積み荷である証明書が必要とされ、一定の税を徴収して一括買取を行い、その商品流通を独占するようになる。この徴税分はジョホール王国の国庫に納められた。英国主権下のシンガポールにあっても、巨大生産基地に成長したジョホール地区の王家との協力関係は不可欠であったため、自主的な献金というスタイルであったようである。

なお、当時の華僑資本家は、基本的にシンガポール島内とジョホール地区の両方に事業基盤を構築しており、普通に往来していたようである。その代表的な人物が、陳開順だった。
彼も例にもれず、ジョホール水道を挟んで両方に農園テリトリーの開発と経営を手掛けていた資本家の一人だった。

1844年10月22日、宰相イブラヒムから テブラウ川(ジョホールバル中心部の東部を流れる中規模河川。上地図参照)沿岸部の 開発権(Surat Sungai)を得て、ガンビアとコショウのプランテーション農園の開拓をスタートする。彼が得たこの独占開発圏エリアは 陳厝港(別称:不佬河港区)と通称され、ちょうど、現在のジョホール・バル市の低地住宅街を成す一帯すべてに相当した。彼は自らの出身地である潮州系移民らを労働力として投入した。
1857年、陳開順が死去する(54歳)と、1859年、陳清豊がその後継港主として、当時、最大面積を誇っていた陳厝港エリアの農園経営を継承した。


 その後 ~ 港主制度の終焉

1862年に宰相イブラヒムが亡くなると、その子のアブ・ダカールが宰相職を継承する。
彼は、近代的な立憲君主制度を学ぶべく、度々、渡英して行政組織を学び、また英国皇室とも個人的な交流を深めることとなる。
1866年、イスカンダール・プテリの地名が、ジョホール・バルへ変更される。
華僑系の黄亜福がジョホールの新王宮の建設工事を請け負い、早速、着工される。

1877年に、ジョホール州王国が正式に当地で建国されると、在地の港主らが書道掛け軸を祝賀品として贈呈する。
1878年、広肇会館が新設される。
1881年、海南島出身者らにより、新山瓊州会館が新設される。

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当時、華人グループは 5つの主な 幇(方言集団)に大別された。すなわち、海南、広東、客家、福建、潮州出身らだ。それぞれの集団は同郷意識から結束し、社会経済面での連携と文化交流、子女の教育機関をも包括した相互扶助団体として機能した。
この時代、華僑社会内でのすべての取引は方言で実施されており、それが故に、それぞれの幇コミュニティで得意分野や事業の独占化が図られ、すみ分けが進むこととなる。
潮州出身者らは果物、野菜、乾物などの日用品の交易ルートを支配したのに対し、広東出身者らは建設、大工仕事、機械工などの専門手作業を得意とした。客家集団は 漢方薬、衣料、質屋、鍛冶屋などを専業とした。福建省出身者はゴム農園やその加工業に従事した。海南島出身者は 喫茶店、レストラン、写真屋、パン屋、製菓業経営などに特化した。特に、福建と客家の出身者らは、ジョホール地区内の プランテーション作業員(苦力)として働いた者も多かったという。

1885年、ジョホール王国はついに英国との保護条約に調印することになり、ジョホール王国は英国保護下で独立した主権国家として承認される。
同時に、アブ・バカールが正式に国王に即位する。ジョホール王国はシンガポールのイギリス人高等弁務官よりも高い地位が保証され、国王は高等弁務官を通さずに直接ロンドンのイギリス政府と連絡をとることができた。国王は、顧問官ではなく領事官としての任務を持つイギリス人官吏を受け入れることに同意しただけで、イギリスのジョホールに対する支配をくい止めることに成功したとされる。
この年、国王 アブ・バカールは華僑人コミュニティに墓地用地として Jalan Ngee Heng(義興路)の土地の一部を分与する。現在の国境地帯ジョホールバル・セントラルの北側にあたる一等地。

1890年、英国政府が国王 アブ・バカールに中華コミュニティの 義興公司(秘密結社)の廃止を勧告するも、国王は拒絶する。

1895年、国王アブ・バカールは ジョホール王国憲法(Undang-undang Tubuh)を発布する。
同年、アブ・バカールは崩御し、その実子のイスマイルが王位を継承する。

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1914年、ジョホール王国はついにイギリスの顧問官を受け入れ(国王より上の地位)、ようやく英国植民地政府の支配下に組み込まれたのだった(上地図)。
前国王アブ・バカールは英国王 ヴィクトリア女王(1901年崩御)と 個人的な信頼関係を構築しており、これが英国植民地政府の動きを封じていたが、第一次世界大戦の開始とともに、英国執政下に入ることを選択したのだった。

1917年12月31日、港主制度が廃止される。
イギリスがジョホール王国を支配するようになると、この半独立領主的な 港主制度(キャプテン)が英国の植民地政策の障害となり、全州の一元管理が困難になると判断されたのだった。
これより前の 1873年、港主特権以外の 義興公司(秘密結社)の新設はすでに禁止されていた。

1919年、ジョホール・バル埠頭地区の中華街に暗躍した義興公司も完全に解散されることとなった。

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1941~45年、日本の軍事占領
1957年、マレーシア独立


ジョホール王国領のマレー半島南部で積極的に採用された農園テリトリーの 領主制(港主制度)は、経済開発と 外貨獲得政策(商品作物の黒コショウとガンビアの輸出)を進めたい王国政府の思惑と完全に歯車がかみあうこととなり、大成功を収めたのだった。
当時、複数の農園開発と所有を手掛ける敏腕の華僑資本家らも出現していた。

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王国皇室を親戚化した 陳旭年(37歳)は 1864年以降、常時、7~10 箇所の港主として君臨し(上地図)、マレー半島で最大の農園オーナーとなっており、1870年には、国王より華僑会会長に任命されるに至る。
後に、陳旭年はジョホール州議会の議員を拝命し、最初に登庁した華僑出身議員 2名のうちの一人ともなった。

当時、英国支配下のシンガポールにあって、植民地政府の最大の財源はアヘンであった。陳旭年はこのアヘンの流通網にも目をつけ、ガンビア貿易組合の会長であった陳成宝、福建移民閥を率いた 章芳琳(章三潮の子孫)らと共同で秘密結社「義興公司」を結成し、アヘン販売や交易にも暗躍し巨万の富を手中に収めたのだった。
1877年初、彼はシンガポールへ再移民して、同島内に中国式邸宅である資政第 を建てている。1902年没。

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さてさて、汗を垂れ流しながら、さらに西進し、スルタン王宮博物館となっている、イスタナ・ブザール(1886年着工のジョホール王国の王宮。ヨーロッパ人の設計。 1990年より博物館として一般公開されるも、2017年現在は休館中)の東端まで至るも、閉鎖中であった(上写真)。その門からは、きれいに手入れされた 53ヘクタールもの巨大面積を誇る王宮内の 庭園(イスタナ・ガーデン)が眼前に広がった。

正面から王宮を撮影しようと、湾岸道路(トゥン・ドクター・イスマイル通り)をさらに西へ進む。
とりあえず、王宮の正面入り口を撮影するも、途中から歩道もなくなってきたので、仕方なく引き返した。下写真。

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タクシーで、王宮の西横にそびえたつ スルタン・アブ・バカール・モスクを訪問する(5リンギ)。


ジョホール・バルの最も有名な観光地となっている、スルタン・アブ・バカール・モスクの原義は、「国王アブ・バカールが建てたモスク」という意味である(1892年着工、1900年完成)。
彼は、現存する イスタナ・ブザール(ジョホール王国の王宮。上写真)も建設した人物で、そもそもジョホール王国の王都を、リアウ諸島からこのジョホール・バルの地へ正式に遷都させた国王なのであった。

国王 アブ・バカール(1833~1895年)は、1866年に正式に第 21代国王に即位したが、元々は トゥムングン家(皇室を支えた各属領地の有力豪族の一角で、マレー半島南部を地盤としていた)出身の人物で、正当な皇室ではなかったが、1862年より王国宰相として実質的に国政を一手に司っていた。

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当時の王都は、名目上、リンガ諸島(今の インドネシア・リアウ諸島州)にあり、マレー半島の英国と、インドネシアの島嶼エリアを抑えるオランダとの間で、分裂状態に追い込まれていた。

マレー半島側の他の諸王国が英国植民地に組み込まれていく中、自身の地盤であるマレー半島南部へ王都を移転させることを決意する(1884年。実際に、ジョホール・バルの地に港湾都市が誕生したのは、1855年)。
その時の王都造営の過程で、王宮やモスク、政府庁舎(現在の 州政府事務局)などが建設されていったわけである。この時初めて、ジョホール・バルと命名されたという(1866年)。

他方で、華僑資本を利用した経済開発を進めて自力での近代化を図り、英国皇室との親密な個人的関係をキープして、シンガポール島にある英国植民地政府アジア本部からの直接介入を回避しつつ、王国の体制維持を堅持し、1894年、憲法発布にまでこじつける。国王 アブ・バカールは、今日、「近代ジョホールの父」と尊称されている。


白亜のモスク は、貴族の邸宅のようなイメージで、ここがモスクと知らなければ、派手な趣向を凝らした結婚式場にも見えてくる。

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王宮の真横で、海峡沿いに並び建ち、その丘陵地から見渡せるジョホール水道とシンガポール島に感動する(下写真右)。横の王宮からの眺めが代理体験できる場所なのだから。
筆者の訪問時、韓国人の旅行団体に出くわした。熱気漂う暑さの中でも、日焼け対策で長袖、日よけ帽子の女性ばかりだった。さすが、美容大国だ。

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モスク内は改修中で、内部の見学ができなかったのが残念だ(下写真)。礼拝堂には最大 2,000人が入れる規模という。

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この横には動物園 があった(下写真左はモスクと動物園を分ける自動車道)。入場料は 1リンギットという格安。

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続いて、Art Gallarryへとタクシーで向かったが、ドライバーが場所を知らず、ぐるぐる回って、ようやく到着するも(13リンギ)、客がいないからか、早くも閉館されていた。。。上写真右。月~木曜日は 9:00~16:30、金曜日は 15:00まで開館、しっかり門に張り紙しているのに。。。上写真右。

またの再訪を誓う。


このジョホール・バル アート・ギャラリーの建物であるが、もともとは、Dato Abdullah Jaafar Building(Bangunan Dato Abdullah Jaafar)と通称され、シンガポール出身の Syed Ahmad Sahil bin Ahmad 一族により 1910年に建設されたもの、という。
ここは、Dato Abdullah bin Jaafar(1922~1925年、ジョホール州の第三閣僚を務めた)の公邸として使用された。 Dato Abdullah bin Jaafarは、最初の州長官を務めた Dato Jaafar Muhammad(1893年創建で現存する洋館 Muzium Tokoh Johorを公邸とした人物)の次男であった。

その後、この建物はほとんど空き家として放置されるも、第二次大戦後、中小ゴム生産業開発局(RISDA)や州教育局の事務所として使用された。州教育局時代には、そのスタッフと学生らの官舎としても活用され、 1980年代まで、引き続き、一部が教育局の役人官舎として使用されていたが、その広大な屋敷はほとんど空き家同然であった。
建物は、1994年1月に、当時の州長官 Tan Sri Dato Haji Muhyidin bin Haji Yassin により、正式にアート・ギャラリーとして改装され、再オープンを果たした。民族衣装、伝統家庭用品、武器、硬貨、織物、銀、銅製品、絵画など、ジョホール州内の美術品が展示されている。



ここからタクシーを見つけるのは至難の業だった。丘の麓まで住宅エリアを下っていき、小川を渡って(下写真左)、新築のマンション群の下まで移動した。ここでやっとタクシーに乗車して、JBセントラルまで戻った(6リンギ)。

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そして、路線バス乗り場 JB Sentral(上写真右)①番乗り場から、KSL City (新開発された郊外エリアのショピングモールの名前)へ向かった。 1.5リンギ。釣り銭なし(夕方の時間だったので、バスターミナル出発時点や幹線道路は渋滞ぎみ。夕方の帰宅ラッシュ時のバス乗車と国境越えは避けた方がいいかも)。
なお、この KSL Cityモールが位置する 大通り(Tebrau Highway)向かいに広がる、タマン・セントサ地区は、新興の高級住宅街として知られる。華僑系の子孫たちが多く住んでいるという。

 JB Sentral ⑪ 乗り場
 Kota Tinggi、Ulu Tiram 行
 JB Sentral ⑩ 乗り場
 Larkin バスターミナル 行
 JB Sentral ⑨ 乗り場
 Kulai (古来) 行
 JB Sentral ⑧ 乗り場
 Kota Masai 行
 JB Sentral ⑥ 乗り場
 Taman Puteri、Taman Kota Putri 行
 JB Sentral ② 乗り場
 Jusco、Senai空港、レゴランド 行

ジョホール・バル特別市 ジョホール・バル特別市

夕方、ちょうど大雨が降り出してきたので、このままシンガポールへ戻ることにした。

バス・チケットを購入せずに、先にマレーシア・イミグレを越えて(Woodland=シンガポール国境のイミグレ・ビルの矢印に沿って)、そのままビル下に降り、ここでバス会社やその行き先ごとに列に並んで、直接、バス・ドライバーにチケット代金を支払う。 Causeway Link Busで、Queen’s Street行に並ぶ(3.4 リンギット、釣銭なし)。

このバスで、シンガポールまでの陸橋上を移動する。雨天と夕方のラッシュで、陸橋は大混雑だった。そして、バス下車後、シンガポール側のイミグレでまた並ぶ。そのまま下のバス・ターミナルへ降りて、エスカレーター下の奥にあるトイレ前に配された Causeway Link Busで、Queen’s Street行の列に並ぶ(先程、購入したバス・チケットを見せる)。ここから、30分で到着。
なかなかバスが来ず、長蛇の列になっていた。シンガポール 市街地に到着できたのは、夜 21:00を過ぎていた。これが週末ともなれば、さらに 1時間以上は追加で列に並ぶ必要があるという。


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