『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:2017年3月上旬 『大陸西遊記』~


マレーシア ジョホール・バル特別市 ~ 人口 50万人、 一人当たり GDP 11,000 USD(全国)


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  一筋縄では行かない ジョホール州観光センター(イミグレすぐ)
  旧ジョホール州政府庁舎、かつての日本軍総司令部跡
  新山華族歴史文物館と陳旭年通り(例にもれず、一等地を牛耳る中華街の象徴)
  ジョホール王国の王宮(イスタナ・ブザール)とその庭園(イスタナ・ガーデン)
  「近代ジョホールの父」第21代国王 アブ・バカールの功績
  ジョホール水道が眼下に見渡せる スルタン・アブ・バカール・モスク
  ジョホール・バル アート・ギャラリー、1910年完成の閣僚公邸跡
  ジョホール・バルの新興住宅地 KSL City と高級住宅地エリア



正午過ぎに、シンガポール内の地下鉄 Bugis 駅へ行き、ジョホール・バル(JB)行きのバスに乗車する(3.3 SGD)。乗客が一杯になると発車する仕組みだった。下写真左。

ジョホール・バル特別市 ジョホール・バル特別市

シンガポール・マレーシア間の国境を超えて(上写真右は国境の海峡橋上から撮影)、ジョホール・バルのイミグレを抜けた頃には、13:50になっていた。

とりあえず、イミグレ建物内にあるジョホール州観光センターへ出向いてみる。パスポート・コントロールを過ぎて直進すると左側にある。
開館中なのかどうか分からないぐらい、電気を消して中は真っ暗な状態で、女性スタッフが一人いた。絶対、「休憩中」の雰囲気を出して、訪問客が来ないような雰囲気を作っていたに違いないと勘ぐる。
不愛想な接客ながら、ジョホール州の地図をくれた。その他、マレーシア東海岸、西海岸などのエリア地図も置いてある。

そのまま陸橋で連結されたモール内のKFCで遅い昼食を取る。それにしても、シンガポールとマレーシアのマクドナルドと KFC は、ケチャップやスパイシーソースが無料で使いたい放題なのがすごい。

ジョホール・バル特別市 ジョホール・バル特別市

14:30、街歩きを始める。
まずは、旧市街のメイン・ストリートを、と思ったとたん、異様な違和感に襲われた。

6年前に当地を訪問した際は、まだまだ雑多な雰囲気が残り、乗り合いバスの激しい客引きが横行していた通りは、緑地遊歩道を有するきれいなおしゃれストリートへと変貌しており(上写真)、その現代風ショッピング・エリアへの変貌ぶりに、相当がっかりしてしまった。筆者は、かつてのアジアらしい無法地帯的な雰囲気が好きだった。世界中がどこも同じような雰囲気になっていく気がする。

そんな悲嘆にくれながら、旧ジョホール州政府庁舎の建物を目指す。

途中、派手な装飾が施されたヒンドゥー寺院があった(下写真左)。その門前町は雑多なアジア風の雑貨屋や食べ物屋が軒を連ね、期待通りの埃っぽさを充満させていた。

ジョホール・バル特別市 ジョホール・バル特別市

上写真右は、重厚さを見せつける旧ジョホール州政府庁舎(現在の州政府は西部のイスカンダール地区へ移転済。事務局のみ入居中)である。その正門は固く閉じられていたので、南側の横道側へ回ってみたが、ここにも警備員が常駐して(下写真左)、中に入れなかった。
ここは、第二次大戦中の1942年に正式に開館し、 当時の日本占領軍の総司令部が設置され、要塞化された場所でもあるという。もともとは、ジョホール王国の 政治の中枢を担うべくして、国王の肝いりで建造が開始されたものだったが、その最初の入居者が 日本軍となったわけである。。。

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そのすぐ隣に、マレーシア中央銀行のジョホール・バル支店があった(上写真右)。
この丘の下には、HSBC銀行、郵便局(下写真左)、地元コミュニティセンター、最高裁判所(下写真右)の建物群が立ち並ぶ。

ジョホール・バル特別市 ジョホール・バル特別市

その東隣 に、新山華族歴史文物館(中国語でジョホール・バルは新山という)と陳旭年街が存在する。 新山華族歴史文物館は、もともとシャングリ・ラ・ホテル・グループの創業者・郭鶴年(Robert Kuok Hock Nien)の 実父・郭欽鑑(Kuok Keng Kang)の自宅で、成功した華僑移民の邸宅として知られており、1942年からの日本軍占領期に 華人協会(1948年に新山中華公会へ改称)の事務所へ改修され(郭鶴年は日帝時代、三菱商事に勤務し、 日本占領軍に取り入った)、2009年から博物館として一般公開されているという。

また、道路の通り名に冠される陳旭年とは、別名を陳毓宜といい、潮州彩塘区金沙鄉 出身の華僑であった(1827~1902年)。ちょうどジョホール・バルの地に湾岸集落が誕生し(1855年)、港湾都市として成長していく中に渡来し、紗玉河の西岸にできた闇市場に参入して、商売に乗り出す。後にその場所が、陳旭年街と命名されたのであった。

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近代化を急ぐ当時のジョホール王国の国王スルタン・アブ・バカールは、その領国内の港湾設備を各商人らに委託管理させており(港主制度)、 1864年、そのうちの10箇所を陳旭年に管理させた。陳旭年が39歲の時(1866年)には、彼はマレー半島で最大の港湾オーナーとなっており、 1870年、国王により華僑コミュニティ長に任命されるに至る。
後に、陳旭年はジョホール州議会の議員を拝命し、当時登庁した華僑出身議員2名のうちの一人でもあった。

彼はさらにマレー半島からシンガポール島まで幅広く事業を手掛け、コショウとハチミツのプランテーション生産で大成長を遂げて、中国式邸宅である資政第 を建設したことでも有名という。

ジョホール・バル特別市 ジョホール・バル特別市

さてさて、汗を垂れ流しながら、さらに西進し、スルタン王宮博物館となっている、イスタナ・ブザール(1886年完成のジョホール王国の王宮。ヨーロッパ人の設計。 1990年より博物館として一般公開されるも、2017年現在は休館中)の東端まで至るも、閉鎖中であった(上写真)。その門からは、きれいに手入れされた 53ヘクタールもの巨大面積を誇る王宮内の庭園(イスタナ・ガーデン)が眼前に広がった。

正面から王宮を撮影しようと、湾岸道路(トゥン・ドクター・イスマイル通り)をさらに西へ進む。
とりあえず、王宮の正面入り口を撮影するも、途中から歩道もなくなってきたので、仕方なく引き返した。下写真。

ジョホール・バル特別市 ジョホール・バル特別市

タクシーで、王宮の西横にそびえたつスルタン・アブ・バカール・モスクを訪問する(5リンギ)。


ジョホール・バルの最も有名な観光地となっている、スルタン・アブ・バカール・モスクの原義は、「国王アブ・バカールが建てたモスク」という意味である(1892年創建、1900年完成)。
彼は、現存するイスタナ・ブザール(ジョホール王国の王宮)も建設した人物で、そもそもジョホール王国の王都を、リアウ諸島からこのジョホール・バルの地へ正式に遷都させた国王なのであった。

国王アブ・バカール(1833~1895年)は、1866年に正式に第21代国王に即位したが、元々はトゥムングン家(皇室を支えた各属領地の有力豪族の一角で、マレー半島南部を地盤としていた)出身の人物で、 正当な皇室ではなかったが、1862年より実質的に国政を司っていた。

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当時の王都は、形式上、リンガ諸島(今のインドネシア・リアウ諸島州)にあり、マレー半島の英国と、インドネシアの島嶼エリアを抑えるオランダとの間で、分裂状態に追い込まれていた。

マレー半島側の他の諸王国が英国植民地に組み込まれていく中、自身の地盤であるマレー半島南部へ王都を移転させることを決意する(1884年。実際に、ジョホール・バルの地に港湾都市が誕生したのは、1855年)。
その時の王都建造の過程で、王宮やモスク、政府庁舎(現在の州政府事務局)などが建設されていったわけである。この時初めて、ジョホール・バルと命名されたという。

他方で、華僑資本を利用した経済開発を進めて自力での近代化を図り、英国皇室との親密な個人的関係をキープして、植民地政府からの直接介入を回避しつつ、王国の体制維持を実現し、1894年、憲法発布にまでこじつける。国王アブ・バカールは、今日、「近代ジョホールの父」と尊称されている。


白亜のモスク は、貴族の邸宅のようなイメージで、ここがモスクと知らなければ、派手な趣向を凝らした結婚式場にも見えてくる。

ジョホール・バル特別市 ジョホール・バル特別市

王宮の真横で、海峡沿いに並び建ち、その丘陵地から見渡せるジョホール水道とシンガポール島に感動する(下写真右)。横の王宮からの眺めが代理体験できる場所なのだから。
筆者の訪問時、韓国人の旅行団体に出くわした。熱気漂う暑さの中でも、日焼け対策で長袖、日よけ帽子の女性ばかりだった。さすが、美容大国だ。

ジョホール・バル特別市 ジョホール・バル特別市

モスク内は改修中で、内部の見学ができなかったのが残念だ(下写真)。礼拝堂には最大2000人が入れる規模という。

ジョホール・バル特別市 ジョホール・バル特別市

この横には動物園 があった(下写真はモスクと動物園を分ける自動車道)。入場料は1リンギットという格安。

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続いて、Art Gallarryへとタクシーで向かったが、ドライバーが場所を知らず、ぐるぐる回って、ようやく到着するも(13リンギ)、客がいないからか、早くも閉館されていた。。。。月~木曜日は9:00~16:30、金曜日は15:00まで開館、しっかり門に張り紙しているのに。。。上写真右。

またの再訪を誓う。


このジョホール・バル アート・ギャラリーの建物であるが、もともとは、Dato Abdullah Jaafar Building(Bangunan Dato Abdullah Jaafar)と通称され、シンガポール出身の Syed Ahmad Sahil bin Ahmad 一族により1910年に建設されたもの、という。
ここは、Dato Abdullah bin Jaafar(1922~1925年、ジョホール州の第三閣僚を務めた)の公邸として使用された。 Dato Abdullah bin Jaafar は、最初の州長官を務めた Dato Jaafar Muhammad (1893年創建で現存する洋館 Muzium Tokoh Johorを公邸とした人物)の次男であった。

その後、この建物はほとんど空き家として放置されるも、第二次大戦後、中小ゴム生産業開発局(RISDA)や州教育局の事務所として使用された。州教育局時代には、そのスタッフと学生らの官舎としても活用され、 1980年代まで、引き続き、一部が教育局の役人官舎として使用されていたが、その広大な屋敷はほとんど空き家同然であった。
建物は、1994年1月に、当時の州長官 Tan Sri Dato Haji Muhyidin bin Haji Yassin により、正式にアート・ギャラリーとして改装され、再オープンを果たした。民族衣装、伝統家庭用品、武器、硬貨、織物、銀、銅製品、絵画など、ジョホール州内の美術品が展示されている。



ここからタクシーを見つけるのは至難の業だった。丘の麓まで住宅エリアを下っていき、小川を渡って(下写真左)、新築のマンション群の下まで移動した。ここでやっとタクシーに乗車して、JBセントラルまで戻った(6リンギ)。

ジョホール・バル特別市 ジョホール・バル特別市

そして、路線バス乗り場 JB Sentral(上写真右)①から、KSL City (新開発された郊外エリアのショピングモールの名前)へ向かった。 1.5リンギ。釣り銭なし(夕方の時間だったので、バスターミナル出発時点や幹線道路は渋滞ぎみ。夕方の帰宅ラッシュ時のバス乗車と国境越えは避けた方がいいかも)。
なお、この KSL City モールが位置する大通り (Tebrau Highway)向かいに広がる、タマン・セントサ地区は、新興の高級住宅街として知られる。 華僑系の子孫たちが多く住んでいるという。

 JB Sentral ⑪ 乗り場
 Kota Tinggi、Ulu Tiram 行
 JB Sentral ⑩ 乗り場
 Larkin バスターミナル 行
 JB Sentral ⑨ 乗り場
 Kulai (古来) 行
 JB Sentral ⑧ 乗り場
 Kota Masai 行
 JB Sentral ⑥ 乗り場
 Taman Puteri、Taman Kota Putri 行
 JB Sentral ② 乗り場
 Jusco、Senai空港、レゴランド 行

夕方、ちょうど大雨が降り出してきたので、このままシンガポールへ戻ることにした。

バス・チケットを購入せずに、先にマレーシア・イミグレを越えて(Woodland=シンガポール国境のイミグレ・ビルの矢印に沿って)、そのままビル下に降り、ここでバス会社やその行き先ごとに列に並んで、直接、バス・ドライバーにチケット代金を支払う。 Causeway Link Busで、Queen’s Street行に並ぶ(3.4 リンギット、釣銭なし)。

このバスで、シンガポールまでの陸橋上を移動する。雨天と夕方のラッシュで、陸橋は大混雑だった。そして、バス下車後、シンガポール側のイミグレでまた並ぶ。そのまま下のバス・ターミナルへ降りて、エスカレーター下の奥にあるトイレ前に配された Causeway Link Busで、Queen’s Street行の列に並ぶ(先程、購入したバス・チケットを見せる)。ここから、30分で到着。
なかなかバスが来ず、長蛇の列になっていた。シンガポール市街地に到着できたのは、夜 21:00を過ぎていた。

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