BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2017年3月上旬 『大陸西遊記』~
ジョホール王国、その苦節 200年の歴史



マレーシア コタ・ティンギ町 ~ 州内人口 380万人、一人当たり GDP 11,000 USD(全国)


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  コタ・ティンギ町にあった、旧王都 コタ・マカム・タウビド(Makam Tauhid)
  シンガポール国境から、コタ・ティンギ町へ 227路線バス 4.8リンギット(1時間15分)
  コタ・ティンギ町 中心部を俯瞰する ~ バス・ターミナル、屋外市場、中華街 旧通り
  コタ・ティンギ町の旧市街地 中華ストリート と 騎楼群
  華僑コミュニティ学校 と 華人同郷会事務所(海南会館)
  王マフムード・シャー二世の陵墓 と 「墓地村」
  旧王都コタ・マカム・タウビド時代から継承されていた、ジョホール川の渡し場
  ジョホール王国の宰相 トゥン・ハバブ(元国王アブドゥル・ジャリル・シャー 四世)の陵墓
  王都コタ・マカム・タウビドの跡地 と プマンディ川
  プマンディ川にかかる 異様な風体の橋 ~ 何のために角度をつけてる??
  コタ・ティンギ博物館 と バン川
  ラクサマナ・ベンタン水軍提督夫妻の 墳墓
  ジョホール川沿いにきれいに整備された "I 💛 Kota Tinggi" 公園



ジョホール川 の上流域に位置する コタ・ティンギ町は、かつて 開設されていたジョホール王国の 王都コタ・マカム・タウビド(Makam Tauhid)の跡地に発展した都市である。王城は、ジョホール川に注ぎ込む支流である、プマンディ川と バン川に囲まれる地形上に建造されていた。

当地は、ジョホール王国末期のエピソード にまつわる数多くの遺跡が点在していることで有名だが、現在、ここを訪問する観光客の主目的は、蛍や 滝鑑賞、海岸リゾート「デサル」への中継地といった認識程度しかないといい、少し残念にも思える。

コタ・ティンギ町

一方で、マレーシアの歴史上、最も輝かしい王国勢力を築いた マラッカ王国、これに続く ジョホール王国 の正統皇室が途絶えた地として、マレー人らに記憶される地で、最後の国王の暗殺劇にまつわる怨念の呪いは、未だに シンガポール 海峡一帯で信仰されているという。

コタ・ティンギ町


シンガポールから コタ・ティンギ町 へ

コタ・ティンギ町 コタ・ティンギ町

シンガポール との国境イミグレを超えた、マレーシア側の イミグレ・ビル(JBセントラル)下にあるバスターミナル ⑪乗り場から、Kota Tinggi(コタ・ティンギ)行の 227番路線バスに乗車する(運賃は 4.8 リンギットだが、5 リンギット支払っても釣銭なし)。10~15分に一本、運行されており、その頻度は十分だ。

 JB Sentral ⑪ 乗り場
 Kota Tinggi、Ulu Tiram 行
 JB Sentral ⑩ 乗り場
 Larkin バスターミナル 行
 JB Sentral ⑨ 乗り場
 Kulai (古来) 行
 JB Sentral ⑧ 乗り場
 Kota Masai 行
 JB Sentral ⑥ 乗り場
 Taman Puteri、Taman Kota Putri 行
 JB Sentral ② 乗り場
 Jusco、Senai空港、レゴランド 行

途中、ラーキン・バス・ステーション沿いのバス停留所を経由し、合計 1時間15~20分で終点の コタ・ティンギ バス・ターミナルに到着する。

バス下車後、その真横にタクシー乗り場があった。翌日の ジョホール・ラマ 往復の費用を見積もると、 100 リンギットという(直線距離 27 km)。
とりあえず 参考情報とし、先に宿泊予定の ホテル(メイヤーホテル Mayres Hotel)まで移動する。保証金として現金 50リンギットをフロントに預け、チェックイン完了(チェックアウト時に返金される仕組み)。

コタ・ティンギ町

ホテルは 12Fに宿泊し、かなり最上階に近かったので、窓からの景色は最高だった。
眼下には、バスターミナルとその周辺に広がる 屋外市場(Bazar Kota)などが見渡せた(上写真。ホテル南東方向)。左の白く高い建物は寂れたショッピングモールだったが、スーパーマーケットが入居していた。
また、下写真はホテル南方向。中央に縦断する道路脇にある白色の高い建物の前に、ジョホール川が流れる。このジョホール川と 写真中央部の交差点エリアとの間が、中華街の旧市街地である。

コタ・ティンギ町

下写真は、この旧市街地の様子。

コタ・ティンギ町

東南アジアの中華街によく見る騎楼群が軒を連ねており、たくさんの漢字商店名が見える。しかし、ほとんどは廃業した状態で、明らかに旧市街地の役割は終わり、バスターミナル周辺の 屋外市場(Bazar Kota)エリアへ中心機能が移転しまっている感が否めない。

コタ・ティンギ町 コタ・ティンギ町

この直線道路上に、ジョホール川を渡る陸橋が敷設されているのだが、その入り口には物々しい大砲のデコレーションと、仰々しい王冠付の案内板が掲げられていた(上写真右)。

この中華旧市街地の 西隣(上写真の青色の屋根)には、今でも 中華学校(下写真)と 祖先廟が現存しており、さすが華僑一族は市街地区の一等地を占有するのがうまいと感心した次第である。

コタ・ティンギ町

下写真左は、中華旧市街地内から縦断道路と コタ・ティンギ町の メイン・ストリートを眺めたもの。

下写真右は、ちょうど宿泊ホテル横にあった華僑系パン屋で、その上に海南会館レストランの看板があったので撮影したもの。海南島出身者らの同郷会事務所を兼ねているようだ。

コタ・ティンギ町 コタ・ティンギ町

宿泊ホテルのフロントで、コタ・ティンギ博物館(Kota Tinggi Museum)訪問のために、タクシーを呼んでもらった(片道 15リンギット)。街中にも路線バスが 30分に一本運行されているが、 この博物館方面への便は存在しない。当地ではタクシー移動が必須と思われる。

コタ・ティンギ町

しかし、博物館までタクシーで走ってもらうと、思ったより近い距離だった。
全体的に歩ける距離だし、町全体の雰囲気も安全だなと確信し、地図を見ながら、徒歩で巡ってみようと、タクシーの行き先を最も遠い ジョホール国王の墳墓遺跡へ変更した(上地図)。
博物館脇から入る道路 J177を南下し、最後の突当りまで乗せてもらい、ここで 20リンギをあげてタクシーを下車する。

ここは、コタ・ティンギ町 マカン村(Kampung Makam)という場所で、マレー語で Kampung =村で、Makam =墓地 の意味なので、直訳すると、「墓地村」というエリアにあたる。

コタ・ティンギ町

その由来は、ここにマラッカ王国から連なる正統皇室の最後の 国王マフムード・シャー 二世 の 陵墓(Makam Sultan Mahmud Shah Mangkat Di Julang)があるためだ。上写真。
墓前の前に立派なモスクが設置されており(下写真左)、墓地村の人々が金曜礼拝を行う場所ともなっているようだった。

下写真右が、国王マフムード・シャー 二世の陵墓を安置する建物。靴を脱いで上がるように注意文が正面に掲示されている。

コタ・ティンギ町 コタ・ティンギ町

上写真右や、下写真に見えるように、国王の陵墓の前後左右には、小さな地元民らの墓石も数多く点在する。
まさに コタ・ティンギ町の墓地区画といった赴きの土地柄であったが、お墓の規模が小さくシンプルなので、物々しい雰囲気は一切ない。周囲には、多くの民家も密集しており、墓地と民家が混然一体となっている印象だった。

コタ・ティンギ町

この国王マフムード・シャー 二世(在位 1685~1699年)の最期は、ジョホール=リアウ王国の歴史を記述した 歴史書『Tuhfat al-Nafis(トゥーファト・アル・ナーフィス:貴重な贈り物)』(1885年、ラジャ・アリ・ハジ著)にて詳細が記述されている。
そのエピソードを要約してみたので、歴史コラム を参照されたい。彼の死により、マラッカ王国から連なる皇室は断絶し、ジョホール王国は分裂瓦解へと転落していくのだった。

陵墓 を視察後、そのまま道路の突当りの、ジョホール川の川縁まで行ってみた(下写真)。
ちょうど河岸工事中だった。このエリアは非常に水の流れが速かった。ここには、もともと対岸へ渡る 船着き場(Pengkalan Kota)があったというが、今ではその面影は残っていなかった。

コタ・ティンギ町 コタ・ティンギ町

この コタ・ティンギ町は、2006年12月と翌 2007年1月に町全体が水没する洪水に見舞われる被害に遭っている。前者は水深最高 4.9 m、後者は 5.45 mにも達し、 2週間もの間、町全体が完全に水没していたという。
その教訓は生かされているのかいうと、そうでもなく、今でも堤防自体は建設されていない。その他の水害対策インフラも皆無で、きれいに護岸工事を進めているだけだった。突発的な大雨には今でも無力だろうな。。。とは推察できた。

そのまま J177通りを北上して、徒歩で博物館方面へ戻ってみる(下写真)。

コタ・ティンギ町

途中で、巨大な廃屋の工場施設が目に飛び込んできた(下写真左)。すべてがトタン板張りの「要塞」といった趣だった。

さらに 前進していくと、ジョホール王国の 宰相(マレー語:ブンダハラ Bendahara)トゥン・ハバブの墳墓の案内板が見えてくる。ちょうど地元の スクール・バスの発着所になっている道路脇だった(下写真右)。

コタ・ティンギ町 コタ・ティンギ町

彼こそ、先のマラッカ皇室最後の国王マフムード・シャー ニ世の暗殺を主導した宰相であり、クーデターにより、自身が 新国王(アブドゥル・ジャリル 四世)として即位した人物である。
彼は、後継者のいなかった国王マフムードの唯一の従兄弟であり、これを正統性の理由に据えたわけだったが、連合王国を構成した海洋民族らは猛反発し、王権は急速に求心力を失い、次第に 分裂・瓦解していくこととなる。
即位後、19年間は王位にあって何とか連合の分裂を防いだ アブドゥル・ジャリル 四世だが、最終的に有力海洋民族らが推した新国王 ラジャ・クチル により暗殺されることとなる。

刺殺された場所は逃亡先のパハン州内で、なぜこの墓地村に彼の墓所が設定されているのか不思議だった。なお、彼の墓前の肩書きは「アブドゥル・ジャリル 四世」ではなく、「宰相トゥン・ハバブ 【 Tomb Bendahara Tun Habab (Habib) 】」と案内されており、彼が新国王 ラジャ・クチル政権の下、 宰相として降格し、最後はその職位で没したことに由来するためだろうと納得しておいた。

コタ・ティンギ町 コタ・ティンギ町

歴史遺産の保存のため、屋根付きの小屋に格納されていた(上写真)。
ちょうど、墓参り中の地元のおばさんがいたので、中に入りたいと伝えると、右下の写真にある二つの小屋の間にいる管理人に聞くように言われた。今回は辞めておくことにした。

コタ・ティンギ町 コタ・ティンギ町

この保存施設の前には、立派な幹だけを残す大木が残されていた(上写真右)。完全に伐採しないところが、地元民らの歴史尊重の気迫を感じさせてくれる。
また、上写真左の保存施設に入り口に掲げられた解説板には、マレー語、英語、中国語、日本語の解説文が掲載されていた。

コタ・ティンギ町

先の王国陵墓にせよ、この新国王の墳墓にせよ、その周囲には一般庶民のお墓も大量に安置されており、あまり身分の垣根が感じられない雰囲気だった。王政がかなりフラットな体制であったことが伺える。東南アジアの典型的な社会風土の緩さなのだろうか。

コタ・ティンギ町

この墓地前の参道で、見つけた裕福な家庭の家屋。自動車は庭にも、軒先にも止めるスペースがあり、何人家族なんだろうかと気になった。。。

コタ・ティンギ町 コタ・ティンギ町

続いて、さらに少し先の道路 J177 の向かいにある、 王都 コタ・マカム・タウビド(Makam Tauhid)の跡地という場所を訪問してみた。下写真。

コタ・ティンギ町 コタ・ティンギ町

この脇を流れる泥川は、プマンディ川といい、ジョホール川に合流している。

コタ・ティンギ町

現在は、全く史跡保存の活動や案内板の設置はされておらず、単に広々とした庭を持つ民家群と路地だけのエリアに変わり果てていた。このエリア全体が王城であった とされる。。。。

王都バトゥ・サワールでクーデター劇を 起こし(1699年)、国王に即位した アブドゥル・ジャリル 四世 は王権の求心力を保つべく、 前国王マフムード・シャー 二世を埋葬した墓地村にあった、この地に王都を遷都したのだが、 海洋民族らの離反と反発は収まらず、翌1700年、もう一人の皇室親族が州長官を務めていた コタ・パンチョール(Kota Panchor=ジョホール川の中流域)の地へ王都を再遷都することとなる。 以後、墓地村の王城は放棄されたと考えられる。

コタ・ティンギ町

この王都 コタ・マカム・タウビド(Makam Tauhid)の跡地では、 それまでのマレー文化に存在しなかった、加工された サンゴ石、貝殻と石材を 混ぜ合わせた強固な 城壁(建物?)の一部が残されており、これらは当時、協力関係にあった オランダ人技術者の助言による建築スタイルであったという。
今日、当時のアチェ様式の墓石も発掘され、これらと共に保存されているのみという(上写真)。
筆者が訪問したときは、全くその遺構を見つけることができなかったが。 なお、この地が王都であった期間はほんのわずかで、1630~1642年と 1699~1700年のみであった。

コタ・ティンギ町

このプマンディ川の土手の高さが異様に目立っていた(上写真)。かつての王城の城壁の名残だろうか。。
そして、この小川にかかる橋が特徴的だった。両脇の柵の角度が変形した、自動車一台がやっと通行可能な橋だった。

コタ・ティンギ町

このまま橋を渡って、市街地へ戻ることもできたが、博物館訪問を優先し、そのまま J177 を前進した。
だいたい徒歩 15分もあれば国道 J177 の端から端まで移動できる程度の距離だった。
J177 道路の入り口には、仰々しく墓地村の表札が(下写真左)。
また、墓地村内を散策していると、所々に自宅に人を泊める用のモーテル風宿泊所がちらほら目に入った。下写真右の看板では、「ムスリム・イン(ホームステイ)」と記され、電話番号がデカデカと広告されていた。
筆者も、数年前に初めてマラッカを訪問した際、ど田舎を巡っている最中に市街地区へ戻れなくなり、こういう自宅改造版の イスラム風モーテルに泊まった経験があった。トイレ、シャワーは共同だが、部屋は広かった印象。

コタ・ティンギ町 コタ・ティンギ町

国道 J177 を抜けると、すぐ脇に コタ・ティンギ博物館が見えてくる。
月曜日、火曜日、金曜日以外の毎日 9:00~16:00 開館のはずなのだが、この日は内装改修中で閉鎖されていた。。。
仕方ないので、博物館の庭園を一周回ってみる。地元政府が相当に気を使って丁寧に 整備・管理している様子が伝わってくる。

コタ・ティンギ町 コタ・ティンギ町

ちょうど、博物館中庭に付近から出土した墓標が展示されていた。中華圏や欧州とは異なり、こじんまりした墓石の感じが、また東南アジアの素朴さを伝えてくれる。

その社会風土の一環なのか、当地で度々、発掘される王都時代の遺品類、たとえば、武器類や 金銀、錫の硬貨、中国陶磁器などは歴史鑑定に出されることなく、闇市やネットオークションでそのまま売却されることが多いらしく、歴史保護の意識も緩いのだろうな、と合点してしまった。

コタ・ティンギ町 コタ・ティンギ町

そのまま博物館内の見学は諦め、徒歩で バス・ターミナルまで戻ることにした。
だいたい 20~25分ぐらいの距離なのだが、大通り(3号線)沿いには歩道がないので、路肩を歩かざるを得ず、すぐそばを自動車や巨大トラックがびゅんびゅん通過する、危険な行軍だった。
上写真右は、ジョホール川へ注ぐバン川の橋のあたり。

筆者が訪問したのは 3月中旬で、風も強めで、それほど汗ばむことはなかった。午前中に雨が降っていた関係上、ところどころに水たまりがあったのが注意点ぐらい。
この時期、日の出は 7:30 ごろ、日の入りは 19:30 ごろだった。

コタ・ティンギ町

さて再び、バスターミナルに到着すると、ジョホール川の少し上流に位置する ラクサマナ・ベンタン提督の夫妻の墳墓を見学すべく、タクシーに乗り込む(事前交渉で 7 リンギットに決定)。
タクシー交渉時には、地名の「Kampung Kelantan」と伝えた。あとは、道路標識を確認しながら、国道 J178 沿いで自力で下車する算段だった。

道路を走っていると、大きな看板で Makam Laksamana Bentan (ラクサマナ・ベンタンの墓)と記された案内板が見えたので、すぐに下車する。

コタ・ティンギ町

墓標遺跡には国王や宰相の墓所のように建物やカバーこそなかったが、屋根が設置され(上写真)、最低限、雨水による腐食を防ぐ工夫が凝らされていた。

内部には、二つの墓標が並んで安置されており(下写真)、おそらく夫妻のものと思われる。

コタ・ティンギ町 コタ・ティンギ町

保存された墓所の前には解説板が設置されていた。そこには、マレー語、英語、中国語、日本語の解説文が掲示されていた。

コタ・ティンギ町

ラクサマナ・ベンタンは、有名なマレーの戦士で、本名を メガット・スリ・ラマ(Megat Seri Rama)といい、ジョホール王国の水軍提督を務めた実力者であったという。ラクサマナ・ベンタンとは、ベンタン島(現在はインドネシア領)出身の勇者、という意味のニックネームという。

この若い夫妻は、クーデターで王権奪取を企図する宰相 トゥン・ハバブの陰謀にはめられ、まずは妊娠中の妻 Dang Anumが宮廷内で処刑され、続いて、提督 ラクサマナ・ベンタンが私恨から国王暗殺を決行し、その場で自身も戦死してしまう、という悲劇のエピソードの主人公となる

この墓標の周囲には、やや年代もののレンガ積みの土台が設けられており、これは、王都 コタ・マカム・タウビド(Makam Tauhid)から見てジョホール川の上流部に位置し、周囲の見張り台の一部を兼ねた防衛施設だったと考えられている。この墓標遺跡は 1996年に整備されたという。

見学終了後、そのままジョホール川沿いに徒歩で道路を引き返す。途中の小さな 小川(ケマン川 Kemang)は、かつての王城の上流側の堀川を成したのだろうか?などと妄想しながら。

コタ・ティンギ町 コタ・ティンギ町

そして、ジョホール川を渡る歩行者専用橋を発見する(上写真左)。その側面には、 I 💛 Kota Tinggi と大きな看板が。。。
この看板、夜には青色ネオンでライトアップされ、周辺の河岸エリアは地元民の散策ポイントとなっているようだった(下写真の右奥)。

コタ・ティンギ町

ジョホール川であるが、このエリアで川幅はだいたい 100 m程度であろうか。
現在、護岸工事が施され、以前よりも川幅が狭められたことだろうから、かつては周囲の湿地帯を含めると、かなり川幅が広かったと思われる。水の流れは緩やかな印象だった。

川の対岸は、まばらにしか建物が立っておらず、旧市街地側と比べると、明らかにすべてが新しい建物群だった。
対岸への自動車道路の橋の脇に、「i」という大きな看板が(上写真右の赤い屋根の 2F部分)目に飛び込んでくる。ツーリスト・インフォメーションなのだろうか??と思ったが、こんな不便な場所に設置するわけもないだろうと自分で突っ込み、無視しておいた。。。後でわかったことだが、これは 交通警察署(Balai Police Traffic)だった。


なお、ジョホール・バル への帰路であるが、日中の時間帯は、シンガポール系の国境バス会社である Causeway Link社のスタッフとバスが、バス・ターミナル内に貼り付いて、積極的に声掛けしてきたが、もう夕方 18:00以降はいなかった。
しかし、ジョホール・バル行きのローカル路線バス 227 は引き続き、運行されているものの、おんぼろ感が半端ない。 約 1時間半弱で シンガポール 国境前の JBセントラルに帰着できた。


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