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訪問日:2015年2月上旬 『大陸西遊記』~


シンガポール共和国 ~ 人口 550万人、 一人当たり GDP 55,000 USD


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  呉の孫権とシンガポール
  太平洋戦争中のシンガポール占領
  シンガポール国旗のシンボル
  フォ―ト・カンニングの軍事砦跡
  シンガポールの日本人館(クラーキーベイ)
  シンガポール川の今と昔
  シンガポール湾岸エリアの開発計画



【シンガポールの歴史】

シンガポールに関し記述のある最も古い文献は、中国の三国時代に遡る。当時、タイ・カンボジアやマレー半島付近に勢力を拡張中であった扶南の国王・王范が呉へ使節を派遣してくる。これを受け、呉でも孫権により広州刺史に任命されていた呂岱に命が発せられ、 243年、朱応と康泰を責任者として、扶南国への返礼使節団が派遣される。一行はベトナムを経て、マレー半島近くまで航海し、帰国後に、朱応は『扶南異物志』を、康泰は『呉時外国伝』をそれぞれ紀行文として記す。
このうち、康泰の『呉時外国伝』が一部現存しており、その中で百数十か国にも及ぶ歴訪見聞録が言及されていたことが判明しており、ここの一つに「蒲羅中」があり、今のシンガポール島のことを指していたわけである。マレー語の「Pulau Ujong(”マレー半島の最末端の島”の意)」の中国語表記と考えられているという。この文献で、当時すでにシンガポール島の海岸地域に人が住んでいたことが指摘されており、その風貌は15~18cmほどのシッポを有し、人肉を食する風習を持っていたという。原始的な伝統文化をもった原住民らが生息していたようである。なお、別の調査で、古代のマレー半島には食人文化をもった種族がいたことが分かっており(シンガポール国立博物館にも捕食された人の骨が化石として保存されている)、この種族がシンガポール島にも生息していたことになるだろう。
以後も、呉と扶南国双方の間では交易や使節船の往来が続いたという。


シンガポール

1320年、元王朝はイスラム系商人に「龍牙門」という場所で、巨大な象を入手するように注文を出したと史書に記述されているという。その「龍牙門」という場所が、現在のシンガポール西部の港湾地帯である吉宝湾(Keppel Bay)を指したのではないかと考えられているらしい。
また、同じく元代の1330年ごろ、汪大渊という中国人の探検家がその紀行文『島夷誌略』の中で、このシンガポール島にあった居留地を「 Pancur (龍頭の意味)」と呼称しており、すでにこの島に中華系が住み着いていた証拠とされている。

シンガポール

明代初期の1365年に出版された『爪哇史頌』には、シンガポール島は「淡馬鈴(もしくは海城)」と呼称されているという。

1377年、インドネシアを中心に勢力を拡大させていた新興国家のマジャパヒト王国が、古くから東南アジア一帯を支配下に置いていたシュリーヴィジャヤ王国を滅す。この時、シュリーヴィジャヤ王国の王子であったパラメスワラが難逃れてマレー半島へ落ち延び、 1402年、マラッカ王国を建国して、シンガポール島を含む一帯を支配下に治める。

シンガポール

しかし、1511年、ポルトガルの攻撃を受け、マラッカ王国が滅亡する。一部の有力者や王族らはさらに南のシンガポール島へと避難し存続を図るも、1513年、シンガポール島に上陸したポルトガル軍により集落は徹底的に破壊され、以降、2世紀もの間、シンガポール島は歴史から忘れ去られた場所となる。
なお、この戦いでも生き残ったマラッカ王国の王族らによりジョホール王国が建国され、細々とその命脈が保れることとなる。後に、このジョホール王国に目をつけたオランダが接近し、1641年、共同でポルトガル領マラッカを攻撃し、これを占領することに成功する。
オランダはマラッカ海峡の香辛料貿易を独占することとなり、またこのジョホール王国は欧米列強に取り入ることで、その命脈を保ち、王室は現在も存続されている。

1819年、当時は寂れた漁村に落ちていたシンガポール島に、イギリス東インド会社のトーマス・ラッフルズが上陸する。すぐにジョホール王国より商館と要塞建設の許可を得、港湾都市建設を進める。
1824年には、植民地としてジョホール王国から正式に英国領として割譲される。同年、マレーシアの海上交通の要衝であったマラッカも割譲している。こうしてシンガポールの開発が急速に進められ、人口は急増していく。

1832年、ペナン、マラッカと合わせた海峡植民地の首都に選定される。
1858年、海峡植民地がイギリス政府直轄となる。

このころ、シンガポールでも人力車は大繁盛の乗り物であったらしく、最盛期には 2万台もの人力車が街を走っていた。それぞれの人力車にはランク付けがされており、白人専用などの区別があったという。「Jinrichshaw」という英語の単語にもなっていた。直接的には上海から輸入された乗り物だという。

1942年、日本軍がシンガポール島を占領する(昭南島へ改名)。~1945年。

シンガポール

シンガポール国立博物館では、特に日本軍の占領時代の展示が結構なスペースを取られていた。日本軍の快進撃の様子、中国旧正月の2月15日にイギリス軍が降伏したこと、昭和島と改名され、軍票の発行によるインフレと物資不足が深刻化したこと、捕虜の残忍な取扱いなどなどが見られる。また、日本式教育が強制された学校の現場の復元や疑似体験コーナーも設置されていた。

シンガポール シンガポール

1959年、選挙により、完全自治 に移行。
1963年、マラヤ連邦に加入。

シンガポール

現在のシンガポール国旗であるが、これはマラヤ連邦に残る意思を示す国民投票により決定されたデザインという。すなわち、月はイスラムを示し、その横の星5つはマレー連邦を構成するブルネイ、シンガポールを含めた5州を示している(上地図の赤色の5カ所)。

1965年、マレーシアより分離、シンガポール共和国 の成立。


フォ―ト・カンニングの軍事砦跡

植民地初期より要塞が建設され、その後も駐イギリス軍本部として活用されてきた場所であるが、実際に登ってみると、結構、急斜面な丘であったようである。ここに大砲を要した砦があったのだ。現在、丘上には要塞の正門(下写真左)と裏門(下写真右:弾薬や食糧などの搬入口)が残されている。

今日では、市民の憩いの公園となっており、ピクニックや学生団体の演技練習などが行われていた。

シンガポール シンガポール

なお、植民地初期、ここはGovernment Hill(政府の丘)と命名されており、政府関連の施設が最初に建てられていたようであるが、後年に官庁は麓の平地部分に移転され、軍事要塞に特化した丘になっていったようである(下写真右)。

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また、その麓にある、クラーキーベイのショッピング・モール群のうち、Novotel が入るリバーゲート(下写真左)には、多くの日本食レストラン、本屋(紀伊国屋)、雑貨屋が入っており、所謂、世界各都市で見られる日本人街のショッピング・モール版と言えた。ここの地下1階にあるスーパーマーケットの明治屋(Meidi-Ya)には、日本食材やシンガポール土産物なども置いてあった。店舗の中には、お子様向けのテレビコーナーまであり、『ドラエもん』が放映されていた(下写真右)。

シンガポール シンガポール

なお、シンガポールの日本人居住者は相当にハイクラスの方々が多いと見え、本屋の充実ぶりと、毎年度版のタウンページ(下写真左)まで発行されているのには驚いた。

また、B1にあるスーパーの明治屋(Meidi-Ya)のレジ横には、週刊の無料マガジンや情報誌があり、自由に持っていける。筆者も一部ずつ、もらってみた(下写真右)。内容を拝見するに、シンガポール当地の日本人コミュニティの所得層と規模が、相当な厚みも持っていることが雑誌の内容から読み取れた。香港、中国、フィリピンなどで発行されているフリー雑誌と比べても、シンガポール発行版の内容と質は圧倒的である。

シンガポール シンガポール

以下は、そのクラーキーベイ地区を流れる シンガポール川 沿いの今と昔、未来のイメージである。
20世紀初頭のシンガポール川付近。丘の上にはフォ―ト・カンニングがあった。現在、この河口部分の旧市街地は保存が進められており、今ではバー街になっている。

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未来のシンガポールの湾岸エリアの開発イメージ。もちろん、河口部より先はすべて埋め立て地だ。ちなみに、手前右側の平地部分一帯には、イギリス植民地時代、空港があった。

シンガポール

現在のクラーキーベイ地区は、おしゃれなショッピングモールとショップが立ち並ぶエリア。

シンガポール シンガポール

シンガポールはグローバリゼーションの最前線「実験国家」といった印象を持った。

世界中から最高のヒト・モノ・カネ、そして最新の情報や技術、制度、知識を導入し、それを超エリート集団である政府が非常に巧妙に社会へはめ込んでいく手腕は、実にすばらしい。他方で、多様な民族・宗教集団からなる自国民や歴史、風習などを博物館や建築物、文化教育などを通じて積極的に保護しており、グローバリゼーションとロ-カルの舵取りをうまく実践しているように見えた。
地元の人から聞いた話では、しかし、若者世代については、父母以前の世代が有した中国語方言(広東語や福建語など)の伝承がなされず、北京語しか離せない層も増えてきているらしい。もう50年もすれば、シンガポールにおける中国語方言は絶滅し、博物館に並ぶ言語となるかもしれない。

下の写真は、未来のシンガポール都市計画 模型 である。シンガポール政府は全く経済開発とグローバリゼーションのアクセルを緩める気配はなく、次々にイニシアティブをとって、国民全体の意識の鼓舞と「発展」へのリーダーシップに燃えている様子であった。白色のビル群は現存するもの、木製のビル模型が未来の開発計画を示している。

シンガポール

湾岸エリアを望む。新年にはここで花火が上げられるそうだ。

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シンガポールの金融街を望む。One Raffles Placeの屋上にプールが見える。

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シンガポール人の給与だが、大卒で上場会社に勤務している人の場合、新卒の初任給(英語&北京語話者)は毎月2500 SGDぐらい、また30歳ぐらいになれば毎月6000 SGD、これにボーナス(半年以上)も給付されるという。高い所得税が課される日本人から見れば、手取りは圧倒的にシンガポール人の方が大きいことになるだろう。日本語話者の場合は、さらに 1000 SGDの上乗せが相場だそうだ。

最後に、シンガポールのマクドナルドは究極にまずい。あれは、セルフサービスのケチャップとチリ・ソースで味をごまかすことが前提で調理されていると感じる。大陸中国のマクドナルドの方が味は何倍もマシだ(セルフサービスのソース類がない分、味付けで勝負されている)。


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