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訪問日:2015年6月中旬


台湾 彰化県 ~ 域内人口 12万人、台湾全体 一人当たり GDP 22,000 USD


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  彰化県城
  彰化鉄道駅と北門エリア
  彰化県城のメイン・ストリートと南門エリア
  彰化県の歴史



彰化県城

彰化県

なお、国鉄・彰化駅の真正面にあった彰化県城跡であるが、今日では全くその跡形も残されていない。下写真は駅前の様子。

彰化県 彰化県

とりあえず、旧古城地区の一帯を散策してみた。下写真は北門跡付近(中正路一段)。

彰化県 彰化県

下写真左は南北メイン・ストリート「和平路」。ここが彰化県の集落地の発端となった半線街の一帯だ。
下写真右は、南門跡に残る南門市場。

彰化県 彰化県

古城エリア内では台湾で小規模な廟所や祠堂がたくさん見られた。真夏だったので相当に暑い街歩きとなった。

彰化県 彰化県

古城跡らしき形跡は一切残されていない旧市街地ではあったが、一帯に残る路地名や地名には、その名残がしっかりと刻み込まれていた。北門肉園、北門口肉園、大西門(福徳祠)、城中街、南門市場、城中北街、西門肉園仔湯、李老城肉購専買店(西門跡付近)、西門彰化肉園など。

彰化県


  交通アクセス

台北 駅前の西側のバス・ターミナルで、バス・チケットを購入(彰化市行)。
片道 290ドル。所要時間 2時間30分ほど。
途中、ひたすら台湾東部の平原地帯をまっすぐ南下することになる。

彰化市の市街地に入ると、停留所ごとに乗客を降ろしていく。降車ボタンを押して運転手に知らせる。筆者は、「彰化鉄道駅」前というバス停留所で下車した。

ちょうど、古城跡の北門にあたる「和平路」と「中正路一段」との交差点付近。彰化鉄道駅の斜め前である。

ちなみに、新幹線だと 台北 から1時間半で到着するが、新幹線の彰化駅は市街地から結構、遠い。鉄道かバスだと、ちょうど旧市街地のど真ん中(彰化鉄道駅)に停車するから便利だ。



彰化県の歴史

彰化市一帯には、かつて台湾原住民の平埔族系のバブザ族らが跋扈しており、半線社や柴坑仔社、阿束社といった集落地が古くから形成されていたという。当時の地名は、この中の最大集落地に由来して、「半線」と呼称されていたらしい。

後に台湾島に入植してきたオランダ人により、徐々に内陸部への侵攻が開始され、原住民らを駆逐しながら、統治テリトリーが拡大されていったようである。彰化市エリアもオランダ統括地に組み込まれ(ガブラン行政区)、オランダ東インド会社のフラマヤ北部評議会の管辖下に置かれた。

明代末期の1661年、大陸を追われた明の遺臣・鄭成功がオランダ勢力を台湾から追放すると、すぐにオランダ軍の要塞拠点の一つであった プロヴィンティア城塞(今の台南市内に残る赤崁楼)跡に承天府を開設し、台湾島統治を開始する。同時に、台湾島南部に万年県(1664年に万年州へ改編)と天興県(1664年に天興州へ改編)の2県を設置する。このとき、現在の彰化県一帯は、天興県の行政区に組み込まれた。下地図。

彰化県

翌1662年に鄭成功は対オランダ戦がもとで死去し、その後を息子の鄭経が継ぐ。
台湾島の東側に未開発の平原が広がっており、1666年、配下の武将であった劉国軒をこの地に派遣・駐留させ、平埔族系の斗尾龍岸社(今の大甲溪北)や沙辘社(今の 台中市 沙鹿区)の原住民集落を駆逐しつつ、積極的に漢民族らを入植させ、農地開墾を進めることとなった。

その過程で、原住民から奪取した半線社の集落地跡(今の彰化県の中心部)に北路安撫司の役所が設置される。また、この頃から、海岸部の鹿港地区にも漢民族の集落が誕生し、福建省泉州 の蚶江港との交易が開始されることとなった。

しかし、1683年、施琅の率いる清軍が台湾島への攻撃を開始すると、鄭氏台湾は降伏する。
すぐに清朝は 承天府 跡に台湾府を設置し(福建省に帰属)、その下に3県を設置して統治体制の確立を図った。このとき設定された3県とは、鳳山県(鄭氏時代の万年州:今の高雄市左営城内に開設)、台湾県(今の台南市内の赤崁楼に開設)、諸羅県(今の台南市佳里区内に開設)で、後者の2県は鄭氏時代の天興州が分割されたものであった。
このとき、彰化市一帯は諸羅県の管轄下に配された。下地図。

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清朝による直接統治が本格的に開始された1684年以降、さらなる大規模な農地開墾が進められる。福建省から多くの漢民族らが移住し、原住民系の平埔族の集落地はますます漢民族に取って変わられることとなった。

1690年代には、すでに原住民系の最大集落地であった半線社(今の彰化市旧市街地)も、漢民族に乗っ取られ半線庄と改称されており、その周囲には灌漑設備を完備した田畑が開墾されていたという。さらに、1710年代までには、半線街というメイン・ストリートを中心に、東西南北に繁華街通りを有する集落都市が形成されていたようである。

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1721年、鳳山県長官代理の王珍之の子が職権を乱用して横暴な執政を行っていたことを受け、漢民族の移民や流民らが朱一貴(1690~1722年)をリーダーに反乱を起こす。さらに、この動きは反清復明運動へと色合いを変え、ついには 台湾府城(今の台南市)を占領するに至る。
しかし、反乱軍を構成した民衆らは福建省、広東省出身者らの寄せ集めであり、その内部分裂から、わずか2か月後には清軍に完敗し、反乱は鎮圧されることとなった。

こうした事態を受け、清朝廷はさらに統治体制を強化すべく、1723年、大甲溪より南側、虎尾溪より北側の地に 彰化県 を新設する。 「彰化」の由来は、「顕彰皇化(皇帝への忠誠を賞する)」文言から命名されたとされる。県役所は、メイン・ストリート「半線街」内に開設され、同時に「彰化街」へと改名されることとなった。

彰化県

当初、彰化県城(別称:彰化県半線堡)は城壁を持たないままであったが、原住民らによる度重なる襲撃に見舞われ、ついに、1734年、県長官であった秦士望が集落地の周囲に竹林を植樹して防柵とし(上写真はイメージ)、4方向に城門を設置する簡易な城郭都市を築城するに至る。当時、竹城とか竹邑などと呼称されたという。

1786年、鄭氏台湾時代の残党勢力を主体とする天地会(秘密結社)を率いた林爽文(漳州出身)が決起し、彰化県役所を占領し、ここに盟主府を開設する。福康安らと共に八卦山の会戦を展開する、いわゆる、林爽文事件の勃発である。しかし、間もなく清軍により鎮圧される。
1795年、天地会の残党勢力をまとめた陳周全により、再び清軍から彰化県城を再奪取するも、すぐにまた清軍に撃破されてしまう。この二回の攻防戦を経て、彰化県城の城壁代わりであった竹柵のほとんどが破損したという。

戦後の1797年、彰化県長官の胡応魁より、再び城壁の周りに植樹が進められ、同時に4城門の上には楼閣も増設される。
それまでは、鄭氏台湾政権の残党勢力を警戒し、台湾島内で石材やレンガ積みの城壁建造を禁止してきた清朝も、台湾島を席巻した蔡牽(1761~1809年)らの海賊団の襲撃事件を経て、1800年代初頭、ついに石積み城壁を許可することとなり、同時に彰化県城も強化工事が施される(下絵図)。

彰化県

また、このころ、海岸地域に形成された港町の鹿港は、台南の安平地区と並んで、大陸側との海運交易の窓口として大発展を遂げており、多くの台湾米が大陸中国へ輸出されていった。
1800年代に入るころには、その発展は最高潮に達し、台湾府下の 安平港(今の台南市)と並んで、「一府、二鹿、三艋舺」と通称されるまでに、台湾中にその名を轟かせることとなる。
しかし、後半には河川の氾濫などが続き、港湾エリアに土砂が流入して船舶の出入りが困難となり、ゆっくりと没落の道を歩むこととなった。

日本や欧米列強の進出を受け、領土防衛体制の強化を迫られた清朝は、1885年、台湾府を福建省から独立し台湾省へと昇格させる。また同年、彰化県の海岸部にあった鹿港の港町地区内に鹿港庁役所が開設される。

彰化県

同時に、台湾省首任巡撫の劉銘伝が今日の 台中市 中心部に台湾省を開設する(後に台湾府へ改編、台湾省は台北府へ転出)と、それまで台湾中部エリアの中心都市として君臨してきた彰化県城は徐々にその地位を低下させ、最終的には台中市の衛生都市の一つと成り果てることとなってしまうのであった。

1887年には、台湾省は 台北府 へ移転され、台南府は台湾南部の一行区画へと降格される。同年、鹿港庁が彰化県へ吸収合併される。
なお、この鹿港地区であるが、現在では旧市街地が観光地となっているが、ここが古い町並みのまま残された所以は、前述のごとく、台湾の近代化に取り残された歴史的背景にあった。そもそも、福建省との間での重要な港町として、多くの漢民族らが移住し、発展したわけであるが、より内陸の台中市街区に鉄道が開通され、港湾として台南港が開発されることで、鹿港地区はその大陸との交易拠点としての役割を終え、歴史から忘れ去られた場所となっていった。これがかつての旧市街地を今に残す背景となったわけである。

彰化県

日清戦争に勝利した日本軍は下関条約に基づき、1895年、台湾の統治権者として上陸を果たす。しかし、台湾内では反日運動が巻き起こり、八卦山で激戦が繰り広げられることとなる。このとき、彰化県城も戦場となり荒廃する。
日本軍は反乱を鎮圧後、清朝時代の台湾内の行政区を継承して、台北県、台湾県、台南県の3県と澎湖庁という簡易な統治体制をスタートさせた。
また、1897年には植民地政府の近代都市開発にともない、彰化県城の城門と楼閣が撤去されてしまう。
1920年に再度、大規模改編が実施され、彰化市一帯は台中州に帰属されることとなる(上地図)。1930年、彰化地区の居住人口が100万人を突破したとされる。


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