BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2015年6月中旬 / 2018年11月中旬
海賊王・蔡牽 の栄枯盛衰から見る、中国大海賊時代!






台湾 彰化県 彰化市 ~ 市内人口 24万人、一人当たり GDP 26,000 USD(台湾 全体)


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  彰化県城と 八卦山の 城塞「定軍要塞」
  彰化県を 訪問する ~ 優先順位は 鉄道 > バス > 新幹線
  西城門「慶豊門」跡地に立つ 西門 西安宮と 永興街(西面城壁跡)
  大西門福徳祠と 裏手にある 威恵宮(聖王廟) ~ 漳州移民らの 同郷会館
  彰化市南門公有零商市場 と 南城門「宣平門」エリア ~ 城外に兵営訓練所 や 刑場があった
  1726年創建の孔子廟 と 東城門「楽耕門」エリア
  防空壕を改造した 日清戦争博物館 ~ 1895 抗日保台史跡館
  下関条約の履行、日本軍の台湾上陸 と 平定戦 ~ 彰化・八掛山の役
  八掛山公園 と 定軍要塞 跡地、トーチカ遺跡
  日本時代の 剣道・柔道道場「武徳殿」と 節孝祠(清末、地元女性の貞操を称える)
  彰邑城隍廟と 慶安宮 ~ 福建省同安移民らの 同郷会館
  和平路と 北門福徳祠 ~ 北城門「共辰門」跡地
  【豆知識】彰化県の 歴史 ■■■
  【豆知識】清代後半に 台湾第二の大都市として 栄えた鹿港、1887年に 彰化県に併合 ■■■



かつて この彰化県の中心部にあった彰化県城は、清代を通じ、一帯の 政治、経済、文化の中心都市として君臨し、 台湾史上初めて、石積み城壁が建造された城郭都市であった。それまで、鄭氏政権の名残りを警戒し、 清朝は台湾島内での一切の 石積み城壁建造を許可しておらず、 単にイバラや竹を植樹しただけの”垣根”スタイルの城壁のみが存在していた。

こうして高さ 5 m、全長 3,100 m弱の長大な 石積み城壁が整備されると、 あわせて 4城門が設置され、合計 12門の大砲が城壁、城門上に配備されたという。 しかし今日では、すべて撤去されてしまっており、全く現存していない。 東城門外に隣接した八卦山上にも 城塞「定軍要塞」が建造されており、 両者は一蓮托生の守備陣地を形成していたという。下地図。

彰化県

古城時代の遺構は一切残されていなかったが、 旧市街地に残る路地名や地名には、その名残がしっかりと刻み込まれていた。北門肉園、北門口肉園、大西門(福徳祠)、城中街、 南門市場、城中北街、西門肉園仔湯、李老城肉購専買店(西門跡付近)、西門彰化肉園 など。


  交通アクセス
台北 駅北の バス・ターミナルで、バス・チケットを購入する(彰化市行)。片道 290 TWD。所要時間 2時間30分。
途中、ひたすら台湾東部の平原地帯をまっすぐ南下することになる。

彰化市の市街地に入ると、停留所ごとに乗客を降ろしていく。降車ボタンを押して運転手に知らせるスタイルだった。 筆者は、「彰化鉄道駅」前のバス停留所で下車した。 ちょうど、和平路と 中正路一段との交差点付近で、彰化鉄道駅の斜め前であった。

ちなみに、新幹線だと 台北 から 1時間半で到着するが、新幹線の彰化駅は市街地から結構、遠い。
鉄道かバスだと、ちょうど旧市街地の ど真ん中(彰化鉄道駅)に停車するから便利だった。

また、当地への二回目の訪問時には、台中市 に滞在し、ここから普通列車で訪問してみた(20分、26 TWD)。
小都市の彰化市内のホテルで投宿するよりは、 大都市の台中市内のホテルの方が圧倒的に 数量、値段がお得だったという理由での選択だった。



とりあえず、 日本の昭和期の地方の鉄道駅舎を彷彿とさせる 彰化駅を基点に(下写真左)、駅前通りの中正路二段を南下してみた(下写真右)。

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中正路二段 を道路反対側に渡ると、何やら細い路地の奥に小さな廟所が見えたので、 突き進んでみると、なんと(彰化西門)西安宮だった。下写真左。
注意深く観察して歩かないと、絶対に見つけられない場所にあった。

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そのまま 路地(蘇高薛巷)を突き進むと、永興街沿いに到達する。
上写真右は永興街側から見た(西門)西安宮。

かつて、まさにこの場所に 西城門「慶豊門」が立地していた。 当時、ここから城外へ出ると、直接、鹿港 までの街道が通っていたとされる。なお、西門周辺は古城時代から商業の中心地区を成しており、 下写真に見える旧式の商店街市場は、実に 300年近い歴史を有すると考えられる。

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そのまま永興街を南下すると(上写真左)、中華路との交差点に大西門福徳祠が立地する(上写真右の中央)。
下写真左は正面から撮影したもの。

その福徳祠とは、もともと彰化県城の東西南北の 4城門近くに設けられており、 それぞれの土地の神様を祀った廟所で、城壁や城門の撤去を受け移築や取り壊しが行われていた。 現在も旧市街地に点在する 4福徳祠のうち、この西門福徳祠が最も古城時代の面影を多く残しつつ、 建立当時の場所に立地しているといい、彰化県役所より歴史遺産に指定されていた。

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このまま中華街を渡って永楽街の狭い道路が続く(上写真右)。

なお、大西門福徳祠の裏手には、大きな境内を有する 威恵宮(聖王廟)があった(下写真)。
福建省漳州市 出身の移民らが出資しあって 1733年に創建した同郷会館で、漳州エリアの地元守護神を祀る廟所も兼ねていたという。

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さて、そのまま永楽街を進むと、途中、 彰化市南門公有零商市場の庶民マーケットがあった(下写真左)。 その少し先には、永楽観光夜市商圏という路地があった(下写真右)。

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そして、民族路との交差点から北上し(下写真左)、 中華街との三差路交差点の正面に建つ 開化寺(観音亭)前に行き着く(下写真右)。
この開化寺は 1723年の彰化県城築城の際、同時に開設された古城地区最古の仏教寺で、 本来、境内はもう少し広く前殿門もあったが、中華街の道路敷設工事にあわせて撤去され、現在の真っ白な寺門が特別に建設されたという。

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ちなみに、この 民族路(上写真左)を南下して華山路の交差点までいくと、 大南門福徳祠がある。この傍らに、当時の城門跡の遺構の一部が移築されているという。 ただし、実際の 南城門「宣平門」は、この華山路のさらに東側の民生路との交差点に立地していた。

かつて、この南城門から 諸羅県城(今の嘉義市)台湾府城(台南市)へ通じる街道が続いており、その基点となっていたわけである。下地図。
ただし当時、南門外には兵営訓練所、および臨時の処刑場を兼ねた「校場埔」があり、 それほど商業エリアとして発達した地区ではなかったという。

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このまま中華街を東進していくと、正面に八掛山がそびえ立つのが見えた(下写真左)。

この中華街の東端に、孔子廟(1726年、彰化県長官・張鎬 により創建)があった。 わずかな時間帯しか開門されないようで、筆者の訪問時は閉門中だった(下写真右)。 中華路は孔門路へと名称が変わり、中山路一段との交差点へと続く。

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下写真左の中央にあるモスバーガーが、孔門路と 中山路一段との交差点で、 その向かいには立派な彰化県議会の建物が立地していた。

古城時代、ちょうどこの交差点中央に 東城門「楽耕門」が、 そして中山路一段沿いに東面城壁が連なっていたわけである(東門百姓公廟トイレ前の路地は、かつて城壁巷と通称されており、城壁があった名残りという)。
なお現在、大東門福徳祠は先の孔子廟の 裏手(民生路と 陳稜路の交差点)へ移築されている。 一度は城門撤去に合わせて東門福徳祠も廃止され、ここに祀られていた土地の神は彰邑城隍廟内に合祀されることとなるも、後になって現在の位置に再建されたという。

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下の古写真は東城門を撮影したもので、日本軍が占領した直後の姿という。

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そして、県議会脇を直進して、八掛山を登るべく坂を移動していると、小さな横道に隠れるようにしてある 1895抗日保台史跡館を発見した(上段 写真右。彰化文学館の向かい側)。是非にと、中へ入ってみた(入館無料)。

日本軍の撤収後、台湾島に入った国民党軍によって掘削されたという防空壕を再利用し、 展示スペースが設けられていた。下写真。

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内部は、明治維新を成功させた日本と、 西洋近代化(洋務運動)に失敗した清朝との比較資料や、日清戦争の経緯を図示した解説板などが掲示されており、 詳しく、かつコンパクトな解説が非常に勉強になった。


1894年6月~1895年5月に勃発した日清戦争は中国語では 甲午戦争 と呼ばれ、当時の干支にちなんだ命名となっている。しかし、実際には翌 1895年も戦闘が継続されており、 特に台湾島における戦線は 1895年3月末からスタートし、その終戦は同年 10月末まで待たねばならなかった。
このため、台湾史において日中戦争は、その 1895年の干支をあわせて「乙未抗日之役」と通称されている。

3月末に軍事占領された澎湖諸島に続き5月8日の下関条約発効により、日本が台湾割譲を勝ち取ると、いよいよその実効支配に向けて 5月29日に上陸作戦を展開していくこととなる。

下関条約の内容を急に知らされた台湾島内では、条約撤回を求める市民運動や 朝廷への請願文が出され、 多くの市民らが日本の占領に反対姿勢を表明する(現地統治を図る日本政府も当初は、 台湾住民ら全員を中国本土へ送還させて日本本土から新移民を導入するのか、真剣に議論されるも、最終的に台湾住民らに国籍の選択権を与えると、その 99.84%が日本国籍を取得することとなった ー 1897年5月8日確定)。

清朝も国際法上、その内容を反故にはできないものの、 傀儡政権として 4代目台湾巡撫だった 唐景崧(1841~1903年。広西灌陽出身。1865年に科挙合格後に出仕し、 清仏戦争で軍功を重ね、当時、列強国が狙っていた台湾島の守備を委ねられ、 1891年に台湾布政使に着任する。日清戦争真っただ中だった 1894年、台湾巡撫となっていた) を総統として、台湾民主国という独立政権を樹立させ、清朝とは切り離した独立主体として日本軍に軍事対抗させることで、 台湾住民らを側面支援しようと目論む(日本の満州国樹立パターン と同じ作戦)。

当時、台湾各地では未だ清朝の正規軍が配備されたままとなっており、 各防衛陣地や砲台基地などにそのまま兵士らが駐留していた。実際には、清方の正規軍から台湾民主国の傭兵という形で、引き続き、 全く同じ組織と軍事力が保持されており、清朝廷の意向通り、日本軍の占領政策を阻止する機能が期待されていたのだった。

こうした台湾の内情を察知した日本軍は、 皇族の 北白川宮能久親王(1847~1895年。タレント兼政治評論家・竹田恒泰氏の曽々祖父)を 近衛師団長、台湾通の 軍人・樺山資紀(1837~1922年。5月10日に海軍大将に昇格)を副団長に指名し、陸軍と 海軍の大部隊を派遣する。

清仏戦争(1885年)直後より防衛力強化が図られていた台湾北部の港湾基地、 特に淡水と基隆への上陸は相当な抵抗が予想されたため、 まずは防備が手薄な台湾東海岸の三貂湾にある 澳底(現在の 台湾新北市貢寮区三貂角)からの上陸作戦を展開する(5月29日)。 何らの抵抗もなく上陸できた陸軍はそのまま 陸路、基隆港へ向けて進軍する。また他方、海軍も海路から基隆へ接近し、 両者で挟撃作戦に出る(総攻撃は 6月3日を予定)。 陸軍は途中、瑞芳(今の 新北市瑞芳区)で住民義勇軍の反攻に遭遇するも、すぐに掃討完了し、総攻撃目標の基隆への進軍を完遂させる。

そして 6月3日、海と陸から総攻撃をしかけてくる日本軍の大部隊に対し、清方の 守備兵(形式上は台湾民主国の傭兵)は、 主に日本海軍の海からの攻撃に対抗して大砲で応戦するも、後方より迫る日本陸軍が、 台北府城との重要連絡ルートである獅球嶺砲台陣地を占領してしまうと、 退路を断たれた基隆守備網は崩壊し、駐留兵士らは 鉄道線路(獅球嶺トンネル経由)沿い に一気に 台北城 へ逃げ帰ることとなった。

予定通り、同日内に基隆占領を完了させた日本軍は、そのまま台北を目指して進軍を開始すると、台北府城にあった台湾民主国の 総統・唐景崧は、 国庫の公金を勝手に持ち出し、翌 6月4日に淡水 から アモイ へ逃亡してしまう。無政府状態となった台北府城内では傭兵たちが 乱暴狼藉、略奪の限りを尽くすようになる。 台北府城内の市民らはこの無秩序状態を危惧し、日本軍に早期入城を要請する。こうして 6月7日、台北市民らに歓迎される形で、ついに日本軍が台北城に無血入城を果たすのだった。下地図。

そして 10日後の 6月17日、樺山資紀が 布政使署衛(今の 中山堂)で就任式を執り行い、(初代)台湾総督に就任し、 台北城の治安確立を宣言する。この時、 台北城内から逃亡していた傭兵集団 3,000名はいったん 淡水 に駐留していたが、樺山資紀の降伏勧告を受け、多くが武装解除に応じるのだった。

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6月下旬、日本軍はいよいよ台湾島南部の平定戦に乗り出す。 南部の各集落や 都市では客家の地元集団らが反日で一致団結しており、各地で激しいゲリラ戦に遭遇させられたのだった。
その住民抵抗の中で、特に苛烈を極めたのが、この彰化県城、および八掛山を巡る攻防戦であった。下絵図。

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暑さが厳しい台湾本島での戦役は日本軍に相当な負担を強いるも、 新竹城 や 苗栗(台湾北西部にある苗栗県の県都)など、順調に反日拠点を制圧し、現在の台中市域の平定が完了する。 そして、南半分の攻略戦をスタートし、いよいよ彰化県域に侵攻する。

8月25日、総司令官の北白川能久親王が 大肚渓の河川敷一帯を視察中、 八掛山上の定軍要塞守備のゲリラ部隊に狙撃されて重傷を負ってしまう。 直後の 8月26日、親王重傷の隠ぺいを図ってか、日本軍首脳部は 8月28日での総攻撃を即決する。
早くも 8月27日夜間に各部隊が現地に展開し、28日未明に大渓を渡河すると、早朝 8:00、日本軍の右翼部隊が八掛山への砲撃を開始する。 不意をつかれた定軍要塞側は大混乱に陥るも、すぐに応戦し、激しい砲撃戦が繰り返される。 日本軍は八掛山の東側から尾根伝いに山中を進軍し、徐々に定軍要塞へと迫り、ついに夜 20:00ごろ、定軍要塞が陥落する。
要塞の守備兵らが這う這うの体で彰化県城に落ち延びてくると、彰化県城に進駐していた、 台湾民主国下の 台湾知府・黎景嵩(1847~1910年。湖南省岳陽市湘陰県 出身。 朝廷に出仕後、福建・龍巖直隸州長官、厦門同知、基隆同知などを歴任し、1894年から台南同知に着任後、 翌 1895年に台湾知府となっていた)はその急報を耳にするや、自身のし好品であったアヘンや その吸引器具を放置したまま逃走してしまう。 途中、自殺を図るも一命をとりとめ、大陸側へ帰還し、 清朝の洋務派官僚だった 張之洞(1837~1909年。貴州出身。当時、湖広総督職にあった)の幕閣として迎え入れられることとなる。
翌 8月29日、日本軍は占領した定軍要塞の山頂より 1 km離された彰化県城へ直接、砲撃を加え出すと、 全く抵抗する術を失った彰化県城方は、同日中に開城に追い込まれるのだった。

彰化県での戦いの後、台湾島での猛暑が日本軍の間で疫病を蔓延させ、 その進軍を止めてしまうこととなる。こうして一時休息が図られる。 しかし、別説ではこの彰化県の戦役で北白川宮能久親王が重傷を負ったことから、進軍を見合さざるを得なくなったとも指摘される(台湾現地の主張)。 最終的に、北白川能久親王は 10月28日、台南 で台湾現地病で病死した、というニュースが発表されることになるが、実際のところ、狙撃の負傷がもとで戦死したのか、 もしくは死亡日自体も前後するのか、はっきりと分かっていない。



見学後、博物館を出て、 文学館との間に付設された長い 階段(「文学の遊歩道」と命名されていた)を上まで登ってみる(下写真左)。
途中に防空壕の出入り口もあった(下写真右)。

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現在、この八掛山は大仏が山頂に設置され、 戦没者記念塔が立つなど、巨大な市民公園となって一般解放されていた。下写真。

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かつて、この八掛山の山頂部分には定軍要塞が設置され、 日清戦争での戦場なったポイントであるが、現在は全く遺構が残されていなかった。戦後、日本軍によって完全に撤去されてしまったという。
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また山頂からの眺めも最高で、彰化県城が一望できるロケーションにあった。
先ほどの長い階段の登山途中にあった、城門楼閣みたいな休憩スペースが眼下に見える(下写真の右端)。
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一帯を見学後、遊客サービスセンター側にある掛山路から下山する。
途中にトーチカが残されていた。下写真。

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山麓 にある県立美術館の敷地から下へ降りれたので、ここから公園路まで移動する。この真下には、 日本統治時代の 1930年10月18日に建てられた 剣道・柔道場「武徳殿(下写真左)」があった。1999年の地震で倒壊するも、2005年に再建されたという。

また、その隣には 節孝祠(下写真右)と呼ばれる廟所がひっそりと立地していた。 ここは貞節を守り通した地元の婦人ら 280名を顕彰し、1873年と 1886年に建立された記念堂で、もともとは東城門脇にあったが、 1923年に道路拡張工事にあわせて東城門が撤去されると、この節孝祠も現在の山裾へ移築されたという。

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さて続いて、城隍廟 と 関帝廟を訪問すべく、東西のメインストリート中華路を西進し、 古月民族館を南へ曲がって民生路沿いに南下し、一つ目の交差点で太平路を右折する。

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この太平路沿いの奥まった場所に彰邑城隍廟があった(上写真左)。 まさか。。と思えるような路地の一角だった。しかし、しっかりと地元民によって現代都市空間から守られており、 別時空のパラレルワールドへ移動してしまったかのような印象にとらわれた。上写真右。

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太平路から南へと進み、一本外に走る永楽路に行き当たると、 そのまま西進する。この道路沿いに 慶安宮(上写真右)と 天后宮が立地していた。
なお、この慶安宮であるが、別名・大道公廟といい、1817年、福建省厦門市 同安県出身の地元名士らの発起により、 同郷出身者らが出資し合って開設した同郷会館で、台湾島へ渡河してきた同郷人らの一時宿泊所を兼ねつつ、 地元神を祀った廟所となっていた。現在も当時の会館名だった「銀同邑廟」の額が掲示されている。

そして、往路と同じく、永楽路が民族路と交差するポイントを北上し、 開化寺前の三差路を今度は西進して、和平路を北上してみた(下写真左)。

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この和平路沿いの雑居ビルの入り口に、 「北門福徳祠」の看板を発見する(上写真右)。なんとビルのテナントとして入居していた!しかも、3階!
とりあえず、エレベーターで昇ってみると、そこは管理事務所のようだった(人が誰もいなかった)。下写真。

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ふと、窓の外に厳めしい屋根瓦が見えたので、 このビル裏に福徳祠の廟所が建立されていると確信する。すぐにエレベーターを降り、写真撮影してきた(下写真左)。

この北門福徳祠であるが、1810年に地元名士の呉抜英が提唱して寄付金が募られ、 40坪ほどの敷地に建立されていた。1933年の道路工事で撤去され、1983年に現在の場所に再設置されたという。

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その和平路の北端には彰化銀行の彰化支店があった(上写真右)。 現在は台中市の金融街に本店を構えており、この彰化支店は彰化市における地元本部に相当する。

名称が紛らわしい。。。と思うなかれ。ここで、「台中銀行」と改名しない点が、彰化銀行のメンツなのである。 かつては、台中エリアの中心部はこの彰化県城だったわけであり、その出身地を忘れない気概を見せつけられる瞬間だった。

なお、この 南北メイン・ストリート「和平路」と 東西メインストリート「中華街」こそ、 彰化県の集落地の発端となった半線街の一帯とされる。
和平路の北端、光復路との交差点に、国家三級史跡と大きく掲示された定光佛廟があった。下写真。
かつて、この交差点に 北城門「共辰門」が立地していたわけである(下写真右)。

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彰化県の 歴史

彰化市一帯には、かつて台湾原住民の平埔族系バブザ族が跋扈しており、 半線社や 柴坑仔社、阿束社といった集落地が古くから形成されていたという。当時のエリア地名は、この中の最大集落地に由来して、「半線」と通称されていた。下地図。

後に台湾島に入植してきたオランダ人により、徐々に内陸部への侵攻が開始され、 原住民らを駆逐しながら、統治テリトリーが拡大されていく。現在の彰化市域も オランダ統括地に組み込まれ(ガブラン行政区)、 オランダ東インド会社のフラマヤ北部評議会の管轄区とされた。

明代末期の 1661年、南明政権下で延平王に封じられていた 鄭成功(1624~1662年)が、 台湾島に上陸し、オランダ勢力を追放すると、すぐにオランダ軍の要塞拠点の一つであった プロヴィンティア城塞(今の台南市内に残る赤崁楼)跡に 王都・承天府を開設し、台湾島統治を開始する。同時に、台湾島南部に 万年県(1664年に万年州へ改編)と 天興県(1664年に天興州へ改編)の 2県が設置される。 このとき、現在の彰化県一帯は、天興県の行政区に組み込まれた。下地図。

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しかし、翌 1662年早々、鄭成功は対オランダ戦がもとで死去し、 その後を息子の 鄭経(1642~1681年)が継承する。
台湾島の東側に未開発の平原が広がっており、1666年、 鄭氏政権の最高軍事司令官であった 劉国軒(1629~1693年。福建省龍岩市 長汀県四都鎮溪口村出身。 15歳で初陣を飾り、 1654年から鄭成功軍に参画する。1659年の 南京 攻略戦、1661年の台湾上陸戦にも参陣して活躍した) がこの地に進駐し、平埔族系の 斗尾龍岸社(今の 大甲溪北)や 沙轆社(今の 台中市 沙鹿区)の 原住民集落を制圧しつつ、 積極的に漢民族らを入植させ、農地開墾を指揮することとなる。 その過程で、原住民から奪取した半線社の 集落地跡(今の 彰化県の中心部)に、北路安撫司の役所を新設する。
また、この頃から、海岸部の 鹿港地区(上地図。当時、馬芝遴社と通称されていた)にも漢民族の集落が誕生し、福建省泉州 の蚶江港との交易が開始されることとなった。

しかし、1683年、施琅の率いる清軍が澎湖諸島の攻撃を開始すると、最高軍事司令官であった劉国軒が敗れたため、 鄭氏政権は降伏に追い込まれるのだった

すぐに清朝は承天府跡に台湾府を設置し(福建省に帰属)、その下に 3県を設置して統治体制の確立を図った。このとき設定された 3県とは、鳳山県(鄭氏時代の万年州:今の 高雄市左営城内に開設)台湾県(今の 台南市内の赤崁楼に開設)諸羅県(今の 台南市佳里区内に開設)で、 後者の 2県は鄭氏時代の天興州が分割されたものであった。
このとき、彰化市一帯は諸羅県の管轄下に配された。下地図。

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清朝による直接統治が本格的に開始された 1684年以降、 さらなる大規模な農地開墾が進められる。福建省から多くの漢民族らが移住し、原住民系の平埔族の集落地はますます漢民族に取って変わられることとなった。

1690年代には、すでに原住民系の最大集落地であった 半線社(今の 彰化市旧市街地)も、 漢民族に乗っ取られ半線庄と改称されており、その周囲には灌漑設備を完備した田畑が開墾されていたという。 さらに、1710年代までには、半線街という メイン・ストリートを中心に、東西南北に繁華街通りを有する集落都市が形成されていたようである。
引き続き、一帯は諸羅県の管轄下に帰属された。

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1721年、鳳山県長官代理・王珍之の子が、職権乱用して横暴な執政を行っていたことから、 不満を爆発させた住民らは 朱一貴(1690~1722年)をリーダーに挙兵すると、 反乱軍は明朝復興闘争へと色合いを変えていき、ついには清朝の台湾支配のシンボルだった 台湾府城(今の 台南市)を完全包囲するに至る。
しかし、反乱軍を構成した民衆は 福建省、広東省出身者らの寄せ集めであり、間もなく内部分裂を起こし、 わずか 2か月で鎮圧されてしまうこととなる。

こうした事態を受け、清朝廷はさらに統治体制を強化すべく、1723年、大甲溪より南側、虎尾溪より北側の地に 彰化県 を新設する。 「彰化」の由来は、「顕彰皇化(皇帝への忠誠を賞する)」文言から命名されたとされる。 県役所は、メイン・ストリート「半線街」内に開設され、同時に「彰化街」へ改称されることとなった。

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当初、 彰化県城(別称:彰化県半線堡)は城壁を持たないままであったが、大甲西社エリアの原住民らによる度重なる襲撃に見舞われ、ついに 1734年、県長官であった 秦士望(生没年不詳。安徽宿州 出身。 1729年に科挙合格後に朝廷に出仕し、1734年に 福建・政和県長官、続いてこの彰化県長官へ任命されていた。 この任期中、現存する彰邑城隍廟を自腹で建立している。翌年、淡水撫民同知へ異動した)が、県役所や集落地の周囲にイバラや 竹を植樹して防柵とし(全長 2.6 km。上写真はイメージ)、4城門を有する、簡易な城郭都市を築城する。 当時、その形状から、竹城や竹邑などと通称されたという。

1786年、鄭氏政権時代の残党を主体とする、 天地会(秘密結社)を率いた 林爽文(漳州 出身の客家)が決起し、自身の故郷である彰化県城を占領し、 ここに盟主府を開設する。そして、林爽文、福康安らの率いる 3万の民衆反乱軍が、彰化県城の守備の要であった八卦山で、 清朝の官民あわせた総勢 14,000の守備隊と激突することとなる。 以後、1年半にわたって続いた林爽文の反乱であったが、最終的に大陸から派兵された 4万もの正規軍により鎮圧され、彰化県城も解放されることとなる。

1788年には、安平鎮(鹿耳門)水軍の左営游擊部隊の一部隊が 鹿港 に駐留することとなり、彰化県内で初めて、水軍と陸軍の同時駐留が開始される。

1795年、天地会の残党勢力をまとめた陳周全の反乱軍により、彰化県城は再び落城を許すも、 すぐに鎮圧に成功する。これら 林爽文事件(1786年)と 陳周全事件(1795年)の二回の攻防戦を経て、 彰化県城の城壁代わりであった竹柵や イバラ木のほとんどが損壊してしまう。

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反乱鎮圧直後の 1797年、彰化県長官の胡応魁より再度、植樹による城壁再建工事が進められ、同時に 4城門の上には楼閣も増設される。しかし、度重なる自然災害により、 数十年後にはこれらも倒壊、破損されていき、そのまま修復されることはなかったという。

引き続き、鄭氏台湾政権の残党勢力を警戒して、 台湾島内で石材や レンガ積みの城壁建造を禁止されていた中で、台湾島を席巻した 蔡牽(1761~1809年)の海賊反乱軍の襲撃を受け、 彰化県城はまたしてもピンチを迎えるも嘉義県城台湾府城 と共に、3か月間の籠城戦を耐え切るのだった。
この戦役後、県内の 名士・王松(漳州 出身)や 林文濬(泉州 出身)、詹捷能(客家)ら 36人が、当地を巡視に訪問した閩浙總督の方維甸に対し、意見書を提出し、土壁の城壁建造の嘆願を上奏する。

間もなく、台湾各地の城壁工事が許可されると、東面城壁の建設工事は、 軍宮四品職銜の林文濬が担当し、また西面城壁は 陳大用、羅桂芳、蘇雲従、詹捷能、廖興邦 らが担当し、南面は貢生の王雲鼎が担当し、 北面は捐職州同五品銜の賴應光が担当するなど、各コミュニティが分担作業により工事を請け負った。 それまで城内にバラバラで棲み分けしていた各地域出身や 民族らが、城壁工事作業で一致団結することとなり、 彰化県城民としての意識を醸造させていくのだった。

当初、彰化県城は八卦山のすぐ山裾に立地し、八卦山を占領されてしまうと、 城内すべてがことごとく無力化される弱点が指摘されていた。このため、八卦山から一定距離、離した距離を保つように再設計が図られることとなった。 この時、地方名士らは再び、朝廷に上奏し、土壁ではまだまだ防衛力不足ということで、石材と レンガ積み城壁の建造許可を得ると、 そのまま城域をやや西へずらす工事も並行して実施されることとなる。

彰化県

この作業は膨大な時間を要し、 1811~1824年までの実に 13年間もの時間が費やされたのだった。

この工事では、城壁の高さが増し、また工期が伸びに伸びたことから、計画にあった城壁の全長が 3,426 mから 3,100 m弱へと縮小され、また八卦山自体を城壁で囲い込むことができずに工事を終了せざるを得なくなる。
代わりに、八卦山上に「定軍要塞」なる城塞を建造して、別個での守備体制を整えたのだった。 80年後に直面する日清戦争時、この八卦山上の城塞をめぐって、日本と彰化県民らが死闘を演じるわけである(八卦山の戦役)。下地図。

彰化県

また、この頃、海岸地域に形成された港町の 鹿港 は、台南府城 下に次ぐ台湾第二の大都市として成長し、 多くの台湾米が大陸中国へ輸出される交易港として大発展を遂げつつあった。
1800年代に入るころには、その発展は最高潮に達し、台湾府下の 安平港(今の 台南市)と並んで、「一府二鹿三艋舺」と通称されるまでに、台湾中にその名を轟かせることとなる。
しかし、後半には河川の氾濫などが続き、港湾エリアに土砂が流入して船舶の出入りが困難となり、 ゆっくりと没落の道を歩むこととなった。

清仏戦争直後の 1885年、日本や欧米列強の進出を受け、領土防衛体制の強化を迫られた清朝は、 台湾府を福建省から独立し台湾省へと昇格させる。また同年、彰化県の海岸部にあった 鹿港 の港町地区内に鹿港庁役所が開設される。

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同時に、 台湾省の初代巡撫に就任した 劉銘伝(1836~1896年。安徽省合肥市西郷【現在の 合肥市肥西県】 出身。清仏戦争時に台湾防衛を指揮する)が、 今日の 台中市 中心部に台湾省の省役所を開設する(後に台湾府へ改編、 台湾省は台北府へ転出)と、それまで台湾中部エリアの中心都市として君臨してきた彰化県城は徐々に その地位を低下させ、 最終的には台中市の衛生都市の一つに成り果てていくのだった。

1887年には、台湾省は 台北府 へ移転され、台南府は台湾南部の一行区画へと降格される。同年、鹿港庁 が彰化県へ吸収合併される。
なお、この鹿港地区であるが、現在では旧市街地が観光名所となっている。 ここが古い町並みをそのまま残すことができた所以は、前述のごとく、台湾の近代化に取り残された歴史的背景にあった。 そもそも、福建省との間での重要な港町として、多くの漢民族らが移住し、発展したわけであるが、 より内陸の台中市街区に鉄道が開通され、港湾として台南港が開発されることで、 鹿港地区はその大陸との交易拠点としての役割を終え、歴史から忘れ去られた場所となっていった。 これがかつての旧市街地を今に残すよう作用したのだった。

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日清戦争に勝利した日本軍は下関条約に基づき、1895年、台湾の統治権者として上陸を果たす。 しかし、台湾内では反日運動が巻き起こり、八卦山で激戦が繰り広げられることとなる。このとき、彰化県城も戦場となり荒廃する。
日本軍は全土を鎮圧後、清朝時代の台湾内の行政区を継承して、台北県、台湾県、台南県 の 3県と 澎湖庁 という簡易な統治体制をスタートさせた。
また、1897年には日本当局の近代都市開発にともない、彰化県城の城門と 楼閣の撤去が開始される。
1920年に再度、大規模改編が実施され、彰化市一帯は 台中州 に帰属されることとなる(上地図)。この時、都市開発がますます進み、東城門を除く、すべての 城門、城壁が撤去される。
さらに、この二年後の 1922年、自動車道路を敷設するため、東城門も撤去されてしまい、 ここに彰化県城の遺構は完全に消失することとなった。しかし、都市化に成功した彰化県下では早くも 1930年、その居住人口が 100万人を突破したという。

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