『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:2016年12月中旬


台湾 新竹市新竹県 ~ 域内人口 55万人、台湾全体 一人当たり GDP 22,000 USD


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  台湾国立清華大学と北京清華大学
  竹塹城の東門(迎曦門)跡
  外濠公園
  影像博物館(旧新竹有楽館)
  日本植民地時代から継承された新竹市庁舎、消防署、警察署
  新竹城隍廟(1748年創建)
  北門跡エリアと外媽祖廟(新竹長和宮)
  進士第、台湾生まれで最初の科挙合格者となった鄭用錫の邸宅跡
  かつての城壁上に相当する勝利路と南門公園
  新竹市の歴史




新竹市 は台湾の第7位の大都市で、首都 台北 に隣接するITハイテク工業地帯(台湾のシリコンバレーとも異名を取る)を形成している。

また、当地が有する国立清華大学は、その前身が清末の1911年に北京で開設された清華学堂(当時、北京旧城の北西側にあった清華園に開設された)で、 1925年に大学へと改編された清華大学である。日中戦争時代、北京 から昆明 へ移転され、国立北京大学と私立南開大学と共に、国立西南連合大学へと統合(1938年)された、当時の中国最高大学の一角を担った名門であった。
戦後の国共内戦時代に清華大学は二分割され、この新竹市(1955年~)と北京市に存続することとなる。現在、国立清華大学は台湾第2位の難関大学に位置付けられている。

なお、新竹市は、毎年冬の季節風が非常に強いため、風城とも別称される。 2016年10月に、資生堂が完成させた新竹工場の建物が「風」をテーマにデザインされたことが、ちょうどニュースになっていた。


  交通アクセス

 台北駅の北側に隣接する Qスクエア内のバスターミナル 1Fのチケットカウンターで、14:30発の国光バス(新竹市行き)と乗車券を購入した(120 ドル)。

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 15:40ごろ、新竹鉄道駅の南側に隣接する新竹市バスターミナルに到着する(下写真左)。
 バス下車後は、線路の下を通る地下通路から、反対側の駅前ローターリーへ出られる。
 街歩きの前に、新竹鉄道駅内の観光案内センターで旧市街地の地図をもらってからスタートする。



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とりあえず、駅前ロータリーから、新竹鉄道駅の駅舎を撮影してみた(上写真右)。 松ヶ崎萬長により、ゴシック様式とバロック様式が合成されたデザインで設計されたという(1913年完成)。 台湾で現存する最古の駅舎らしい。

このまま5分ぐらい先にある 東門広場 まで歩く。

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当地を象徴する遺跡、旧竹塹(ツーチェン)城の東門(迎曦門。1829年設置)とその二階建て城門楼閣である(上写真)。
城壁上にはレンガ積みの凹凸壁があり、城門台座の石材は唐山石と花崗石で構成されているという。

城門と楼閣部分の外側地下に残された、コンクリートと 鉄骨の遺物は、日本統治時代の1910~1920年に 施された東門橋と外堀川の拡張工事の際(外濠川の中央部に橋脚を一つ増設)、外堀川の水流を弱める目的で、 橋脚の土台石として配されたものの残骸という。
清代、外濠川は川幅 150cm程度の狭いものであったが、水流が激しかったようで、 船首のような突起状に切り出された石材が(下写真左)、水流による橋の両端の土台部分の 浸食を防ぐ目的で、縦、横45度に組み合わせて配置されていたものを、日本の 植民地時代の架橋工事でも、同じ形状でコンクリートと鉄骨製の土台が造られて、 川底に配されていたのであった。
1999年4月の公園整備工事の過程でたまたま発見された当時、清代の工法からアイデアを得た、日本統治時代の遺物として脚光を浴びたという。

現在は、この人通りの少ない遺産展示スペースで、若者たちがストリートダンスの練習をしていた。

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この東門と河濱(護城河:かつての 外濠跡)公園の一帯は、文字通り、市民の憩いの空間となっていた。
外濠跡はわずかに流れが移転され、東門の南北に一部が残されているのみである。 現在は、川幅も6mほどあり、川底は驚くほど浅く維持されている。下写真。

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そのまま旧市街地に入城し、中正路を北上したみた。かつての城壁跡の通りである。

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途中、左手に洋館が見えてきた。影像博物館 である(下写真左)。当初は新竹市営有楽館と呼称され(1933年開設)、 台湾初の冷房付きヨーロッパ・スタイルの劇場であった。1946年以降、国民大劇院と改名されるも、1991年に営業赤字から閉館したという。

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また、そのすぐ隣に、公営アーケード市場があった。こんなアーケート路地でも、普通にスクターが往来していた(下写真)。

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八百屋さんから衣服店まで、昭和の香りがするアーケード通りに日本人として、どこか懐かしさを感じる。台湾には、現代の日本が忘れた「古き良き日本」が残っているのが実にいい。

その横道の 大同路 からさらに北上を続け、中央路を横切る。そして、中山路との交差点で、東側へ移動してみた。
その先には、新竹市庁舎がそびえたつ(下写真左)。日本植民地時代の1925年に建設された、木骨瓦葺き屋根の和風アレンジが加わった近代洋館の威容は今なおも健在であった。

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向かい側には、昭和の香り漂う消防博物館と警察署(上写真右)があった。

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消防署ではちょうど救助訓練の真っ最中だった。先輩消防士がマイクで後輩に指示を出していた。
それにしても、消防車がミニトラックを改良した感じで、街の消防団みたいな印象だった。上写真。

そのまま中山路を西へ移動して、城郭の守り神(鎮守神 City God)「城隍廟(1748年創建)」を訪問する。下写真。
下写真右に見る通り、本体部分は三殿式で構成されており、 本殿に掲げられている「金門保障」の額縁は、清朝の光緖帝(在位:1875~1908年)の直筆文で、 1891年に下賜されたものという。このため、当地の城隍廟は台湾最大級のスケールを誇り、 台湾島内の全城隍廟の最高位に 位置する威霊都城隍が祀られている。

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ここの門前町として発達した露天市場はザ・アジアって感じでいい雰囲気を醸し出していた。そして、城隍廟の中に公共トイレがあったので、使わせてもらった。

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トイレは奥の方にあり、図らずも、城隍廟の奥行きの広さに圧倒された(上写真)。

さて、このまま中山路を西進すると、西大路に突き当たる。
もう少し先の石坊街(この路地沿いには、楊氏旧家という 1824年に建てられた新竹市最古の家屋が現存する)との交差点あたりに、かつて西門があったわけであるが、ここは割愛して、そのまま西大路を北上する。
その途上、怪しいSPAを発見した(下写真)。
外観には、湯船とかサウナ施設の写真はいっさい無く、あやしいカプセル部屋の写真が電光看板に映し出される。これはテレビで見たことがある、ゲイたちが相手を見つけるために集うっていう、アレなのか!?
下写真右は、ゲームセンター。中には、カジノのバカラ機械まで置いてあった。

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続いて、北大路 の十字路から東側へと右折する(下写真左)。
そして、巨大なカールトンホテル(明らかに国際トップブランドのリッツカールトン・ホテルをイメージした命名)との交差点が目印の北門路に出くわす。
ちょうど、この交差点は北門があった場所だ(下写真右)。

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そのまま旧北門の城外、北門街をさらに北上してみた。すぐに水仙宮、長和宮が目に飛び込んでくる(下写真左)。 1742年創建で、旧竹塹城の外側に位置したため、外媽祖廟や外天后宮とも通称されてきたという。

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台湾の人は、こういった祖先が守ってきた廟所や祠堂を大事にしているものだ。と感心した瞬間、その北門街の通り沿いに突如現れた、進士第 の姿に目を見張ってしまう。

その姿はあまりに無残で、ビックリしてしまった。。。家門を雨風から守ってきた鉄筋屋根は鉄板がはがれ鉄骨だけとなっており、その塀は草が生い茂り、崩落しかけているではないか。。。。このままではますます痛みも早まってしまうことだろうに。。。

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これが、台湾生まれで最初の科挙合格者(1823年)となった人物(鄭用錫)の旧家なのだろうか。。。その横の鄭氏家廟(1853年創建)だけはきれいに保存されていた(下写真右)。 なお、この廟所はもともと進士第の正面向かいにあったが、鄭氏邸宅の門の一部を改修したときに、移築されたという。

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進士第の中が心配になったので、北門街から裏通りへ回り、路地へ入ってみた。
かつてはこの鄭氏の大邸宅であった敷地は、すでに多くの住人らに占拠されており、草むらと化している前方の部分のみが、豪邸跡の一部なんだろうが。。。完全放置状態である。。。。

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竹塹城の石積み城壁への全面改修を清朝政府に陳情し、地元の人々の意見と協力をまとめるべく奔走した地元の名士・鄭用錫は、その自宅(現在の進士第)が新規に築城される城郭都市の城外に出てしまうこともいとわなかった献身的な人物であったのだが(下の解説文に詳述あり)。。。

さらに驚いたことに、駅構内の観光案内センターでもらってきた地図を見ても、全く観光名所として掲載されていない。。。。
祖先や故人を大事にする台湾人諸君よ、この人物のことは忘れてはいけないのではないだろうか。。。。

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さて、日も暮れてきたので、あまり長くは落胆していられず、そのまま北門街を南下して(北門老街は古城時代、最も繁華街だったエリア)、城隍廟広場へと戻る。
夜になると、ネオンがきらびやかに照り出し、城隍廟エリアは歴史的廟所から純然たる門前市場と屋台街へと完全変貌していた。
そこを左折し、東門街をしばらく南下する。途中、中央路から西へ移動し、南門街をさらに南下する。

途中で 関帝廟 を見つけた。ここも門前町が発達したようで、屋台マーケット集合エリアとなっていた(下写真)。

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南門街をさらに進み、林森路との交差点の先に、南門公園があった。かつて、南門が設置されていた場所である。

現在は、南門公園としてきれいに整備されていた。
地元の自警団と集会所を兼ねた小屋がぽつんと公園内にたたずんでいた(下写真左)。

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ちょうどこの前を通る勝利路上に(上写真右)、かつて西側から南側、東側へと至る城壁が連なっていたわけである。
勝利路を東へ進んでいると、外濠公園の南端にたどり着く。

そのまま駅前ローターリーへ直進した。駅前広場には、かつての線路がそのまま残されており、若者らがリラックスしてたむろする憩いの広場になっていた(下写真)。

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このすぐ向かいにあった複数の屋台が入居するフードコートで飯を食べようと思ったが、下校中の学生らが大量に並んでいるので、やめた。
結局、中正路沿いの吉野家とSubwayをハシゴして空腹を満たした。


  交通アクセス(台北駅へ)

 駅舎横の地下通路を通って、再び、反対側のバスターミナルヘ移動する。
 トイレを使用すべく、探してみると、2Fにある表示が。台湾で新設されたバスターミナルは、一様にして、重い荷物をもった乗客の利便性を完全に無視した2階建て構造になっている。もちろん、階段を登らされることになる。

 そんな理不尽な設計内容に疑問を感じながら、トイレから戻ると、 1F部分のカウンターで若いスタッフが大声で台北行きの客寄せしていたので、値段を聞いたら 79ドルというではないか!
 すぐに購入して、飛び乗った。
 バス会社の名前は、新竹客運社というローカルバス会社らしい。途中の道中で次々と乗客をのせていた。国光バスが120ドルだったことを勘案すると、この値段の差はいったい何なんだろうか。。。

 ローカルバス会社だけあって、新竹市内で何度か停車して、先々で乗客をピックアップしていた。
 19:00にバスターミナルを出発後、20:10ごろに終点の台北駅北側の承徳路沿いで降ろされた。




新竹県新竹市の歴史

新竹市の旧市街地エリアは台湾島の北部では、かなり早期より開発が進められた地区で、当時の平埔族系タオカス族の集落地として、すでに一定の人工空間となっていたようである。 その集落地は、後に漢民族により、原住民語の発音を漢字であてはめた「竹塹(ツーチェン)社」と呼称されることとなる。

1626年、オランダが台湾島の北部を占領すると、オランダ人たちは竹塹にも足を運び、初めてキリスト教を伝播している。 1647年のオランダ東インド会社が残す資料で、「Pocael社」とか「Pocaal社」という名称で、竹塹社の人口調査報告が残されている。 オダンラ語では漢字に表現できなかったわけであるが、漢民族が開発を開始してから、漢字名があてはめられることになる。

しかし、実際の当エリアの開墾活動は、1661年に鄭成功が台湾島を接収してから開始された。漢民族らは蓬山、後龍(下地図の苗栗)地区へと入植を進め、その勢力が北上していく中で飲み込まれることとなる。 間もなく、この平埔族系タオカス族の集落地「竹塹社」にもその支配が及ぶこととなり、鄭氏台湾政権の下、天興県(今の台南市佳里鎮内に開設)の管轄区に組み込まれ、役所支部が竹塹(ツーチェン)番社内に開設される。

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しかし、1683年、その鄭氏台湾も清朝に降伏し、台湾島が清朝に接収されると、竹塹社は諸羅県(現在の嘉義市)の管轄下に組み込まれる。

1691年(一説に1711年)、王世傑が清朝の許可を得て、故郷の福建省金門島から一族、流民ら 180名余りを引き連れ、竹塹(ツーチェン)社内の暗仔街(今の新竹市東門街)に拠点を定めて、一帯の土地開発を再開する。



 王世傑(1661年2月13日-1721年10月5日)

本名を王公禄、字を元安としい、号して世傑と称したという。
福建 泉州の同安県金門城外東沙(今の泉州市金門県金城鎮珠沙里東沙)に生まれるも、 3歳の時(1663年)、鄭成功が支配していた金門島、厦門 エリアが、南下する清軍に占領されてしまうと、王世傑は両親(王尚春と何媛娘)と二人の兄(王世什、王世伝)らとともに、他の村人らに紛れて海を渡り、同安県城内へ避難するが、間もなく両親が相次いで他界してしまう。

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1674年に三藩の乱が勃発し、鄭成功の後を継いで台湾島を支配していた鄭経が、耿精忠の檄に呼応して福建省へ侵攻すると、土地を解放された金門島、厦門エリアの住民らは、ようやくそれぞれの故郷へ戻ることが可能となった。

この時、王世傑は鄭経の率いる台湾軍に加入する。しかし、1680年に金門島が再び清軍に再占領されてしまうと、王世傑はそのまま鄭経に従って台湾島へ避難することとなる。

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鄭経が死去し、その子の鄭克塽が王位を継承するも、台湾島北部の現住民らの反乱が度々勃発するようになり、王世傑は食糧調達官の立場で前線での鎮圧作戦に従軍することになる。
その時の手柄により、竹塹エリアの広大な土地の開墾権を下賜される。

しかし、1683年、清朝から派遣された施琅の遠征軍を前に、鄭克爽が降伏し、鄭氏台湾が滅亡してしまうと、清朝は台湾島で反乱が再発しないように、海禁政策をさらに強化し、王世傑は新たな漢人移民の獲得が困難となり、わずかに残さた人員のみで小規模な開発を進めざるを得ない状況に追い込まれる。

ついに1688年、王世傑は故郷の金門島へ戻り、兄二人とともに同安県城内にあった両親の墓を参拝する。同年11月12日、両親の遺骨を故郷の金門島の蘭厝山の麓へ移転した。

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清朝による海禁政策が緩和されると、1691年(一説に1711年)、王世傑は再び、台湾島の竹塹エリアへ戻ることを決意する。このとき、一族や流民ら 180名余りを引き連れて、台湾海峡を渡り、土地の開墾に精を尽くすこととなる。水田開発は順調に進み、以後、大陸からの移民らもますます増加していった。
当初は、竹塹社内の暗街仔(今の東門街)を拠点として、ここから北西、南西方面への土地開発から開始されたと言われる。順次、竹塹北庄と竹塹南庄と命名された。

一方で、王世傑は故郷の金門島に残った一族に対しても配慮し続け、彼の寄付金により金門島の海岸線に大きな祖先を祀る廟所が建設されたという。また、土地の祭りも執り行い、毎年、その収穫物の一部を故郷の金門島へ仕送りし続けたという(王世傑の死後も継続され、台湾島が日本に接収されるまで続いた)。

同時に、竹塹エリアに移住した一族の精神的支柱として、故郷の金門島から土地神を分納してもらい、竹塹社内に祖先の供養廟を建設している。それが、集落の中心地である暗街仔(今の新竹市東門街)に現存する東門堡福徳祠(俗称:東瀛福地)である。
その他、多くの寄進を行い、新竹都城隍廟や竹蓮寺などの建設にも尽力したとされる。現在も、新竹城隍廟内に彼の禄位が安置されている。

1721年10月5日、地方の開拓地を視察中に、土地を追われた原住民らに襲われ、首を切られることとなる。一族らはその遺体に金属の頭部を繕って埋葬したという。
遺体は金門島の蔡厝にある太武山の山裾に葬られ、その墓所(別称:金頭壳墓)は地元の史跡として今でも保存されているという。
王世傑の直系子孫たちはそのまま台湾島に定住したため、彼の墓所は故郷の金門島に残った王世傑の長兄の子孫によって代々守られることとなった。

竹塹社に残った王世傑の家系は、その三代目の時代に法令違反をとがめられ、没落していったという。
その子孫で有名な人物としては王士俊がいる。彼の教え子が、台湾島生まれで初の科挙試験合格者となる鄭用錫である。



1725年には、広東省出身の徐立鵬が同じく一族や流民ら引き連れ新竹、竹北、香山、新豊一帯へ入植し、各地で農地開墾を進めていった。以後、客家移民らの流入は加速度的に増えていく。

こうした入植者の増大を受け、当時の台湾島北部の監督行政府であった淡水庁(彰化県城 の管轄下)は、1723年、この竹塹(ツーチェン)社内に出先機関を設けて直轄統治を開始する。
豊かな人口と稲作生産により、清代を通じて、台湾島北部の重要経済都市へと大変貌を遂げることとなった。

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しかし、清朝が台湾島を接収した初期のころ、大陸から逃亡した避難民らが台湾島で反清運動を起こすことを阻止すべく、台湾島内でレンガと石材を使った城壁の建造を禁止していた。

このため、竹塹城は初期のころ、竹林を集落の周囲に植樹し防柵としただけの簡易な城壁都市でしかなかった(下写真はイメージ)。この時代の旧市街地区が、 現在の新竹市の心臓部を成しており、昔から竹林が一帯にたくさん存在していたことから、 「竹塹城」という異名をとっており、それが現在の新竹市の名称につながる遠因となっている。

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1733年に淡水庁が 彰化県城 から正式に竹塹城内へ移転し、淡水同知(副長官。任地での警察・防衛、食糧管理、屯田開発、水利工事などを統括・指揮した、実質的な現地行政のトップ)として徐治民が 赴任すると、竹塹城はさらなる拡張工事が手がけられる。 最終的に、全長 1408mほどの竹林の囲いで集落地を 4重に取り囲み、外濠を巡らせて城郭都市の 防衛力強化が図られた。城内は東・西・南・北の4地区に区分され、それぞれ東門、西門、南門、北門の 4城門が設けられる。これが記録に残る、竹塹城の最初の姿となった。
1756年に淡水庁の支部庁舎が正式に開設される。
しかし、1759年には外壁を成した竹林がすべて枯れてしまう。
以後も、竹林の防柵は何度も植え替えが進められる形で、メンテナンスされることとなった。

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1806年、海賊団を率いた蔡牽らが台湾島の沿岸を蹂躙した際、竹塹城も被害を受けたことにより、同知(実質的な現地行政のトップ)の胡應魁が住民らと協力し、竹塹城の周囲に土壁の増設を進める。

1811年、同知であった查廷華が土壁のさらなる強化工事を手掛け、厚みも高さも 3mずつ増強されることとなる。この時の土壁の全長は約 5000mに達しており、その外側にはさらに竹林が植樹され、そのさらにその外に外堀が掘削されるという、入念な防衛システムが構築される。2年後の1813に完成した。

1826年、竹塹在住の進士であった鄭用錫らが台湾府(今の台南市)へ上奏し、竹塹社に石積み城壁の建造を上奏を開始する。
翌1827年、鄭用錫らは当地へ巡回に訪問した閩浙總督の孫爾準に建議し、レンガと石積みによる城壁と四城門(楼閣付き)の建設を改めて陳情する。
初期のころの竹林の防柵は規模が小さ過ぎ、近年に建造された土壁は全長が大き過ぎたため、 逆に人口比で防備が手薄になる危険性が生じたためだった。

こうして、清朝廷より築城許可が下されると、早速、1827年6月に着工される。
古い土壁はそのまま放置されることとなり、新たな全長 約 2,752m、高さ 4.8m(城壁上の凹凸壁の頂上までは 5.76 m)、厚さ 5mで、レンガと石材を積み上げ、上部に凹凸壁を有する城壁の建造が進められる。

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城隍廟を城内の中心に配し、4城門が配され、東門(迎曦門)、西門(挹爽門)、南門(歌薰門)の3城門には砲台が1つ、北門(拱宸門)には2つ設置される。 各城門内には、貯蔵室、砲台、見張り台、貯水桶などが整備され、城壁の外には幅 2.6m、深さ 2.4mの外堀が設けられ、その上に吊り橋(長さ 8.2 m、横幅 1.6 m)が2箇所に懸けられる本格的な城郭都市「竹塹城」が誕生することとなった。

それぞれの城門に通じるように東門街、西門街、南門街、北門街が城外に配置され、50年前に建造されていた土壁の一帯とあわせて、現在の新竹市の市街区に相当するエリアがここに出現されたのだった。
その完成は、その2年後の1829年秋で、直後に、淡水庁城へ正式に改名される。

現在、台湾島で残存が確認されている外濠跡としては、 高雄市の 鳳山県城東門エリアにある外濠跡とあわせて、この2箇所しかないという。

なお、完成した城壁は以前の土壁よりも相当に小さくなっており、 もともと土壁時代の城壁内に位置した鄭用錫の邸宅(北郭園)や竹蓮聚などはすべて城外に はみ出す形になったという。

しかし直後より、附近で水田莊や湳雅莊などの集落地が勃興し、住民らの要請で、 城壁のさらなる拡張が上奏されるようになると、1839年、台湾道の姚瑩便が淡水同知の龍大惇に、 追加で外周部分に土壁の再建造が必要かどうかの調査を命じている。

3年後の1842年にアヘン戦争が激化すると、英国軍艦が附近の大安港にまで姿を現すようになり、 当時の同知であった曹謹と村長らが石積み城壁のさらに外側にも土壁(高さ 3.4m)を設けることを決定する。

全長4,985 m、その外側には竹林が植樹され、また外濠(幅 6.7m)が設けられた。土製の城壁には、大小 8箇所の城門が設けられる。
それぞれ、大東門(賓暘門)、大西門(告成門)、大南門(解阜門)、大北門(承恩門)、小東門(卯耕門)、小西門(觀海門)、小南門(耀文門)、小北門(天樞門) と命名されたという。



 鄭用錫(1788年6月10日-1858年3月21日)

鄭用錫の祖先は、明朝末に福建 漳州府下の漳浦から 泉州府同安県下の金門島(浯江)へ移住していた一族だった。
1775年、祖父にあたる鄭国唐の息子の鄭崇和を伴って台湾島へ移住し、淡水庁下の後龍(今の苗栗県)に住み着くこととなる。
鄭崇和は後に国子監監生に就任する。

1788年、後龍にて鄭用錫(次男として)が生まれる。
1806年、一家は竹塹(今の新竹市)へ移住する。
鄭用錫は幼少期より総明で神童の誉れを一身にうけ、成長する。

1810年に秀才に一発合格し、そのまま彰化県学附生となり、1818年には恩科挙人に、 1823年(道光3年)には科挙に合格して進士となる(109名中の上位成績者だった)。
台湾が清朝に併合された100年余りの中で、すでに陳夢球、王克捷、莊文進の三名の進士を輩出していたが、いずれも生後に台湾へ移住した人々で、鄭用錫が最初の生粋の台湾出身の進士となる。こうした背景から、彼は「開台進士」または「開台黄甲」として、地元台湾の誇りと崇められることとなる。

その後、明志書院で教鞭を8年執る。その傍ら、竹塹社の社会貢献活動にも積極的に参加していった。特に、1816年には文廟(現在の孔子廟)の建設を提案し、また1826年には、鄭用錫と台湾府淡水撫民同知の李慎彝らが協議し、淡水庁城としての竹塹城に城壁整備を上奏したことは後世に大きな影響を与えている。

翌1827年に、朝廷から許可が下りると、林国華、林祥麟などと共に工事総責任者として、経済面でも労働力の点でも建設に尽力し、台湾道道員の孔昭虔から基礎設計の協力も得て、 2年後、ついに竹塹の城壁が完成する。
それまでの土壁から、石積みの城壁への改築である。

新竹の城壁建設の功績により、鄭用錫は「同知(副長官)」の官職を下賜されるも、 1834年は離職し、再び王都北京へ出仕し、「籤分兵部武選司」や「礼部鋳印局員外郎」などの職を歴任する。
しかし、1837年(道光17年)、慣れない宮遣いに疲れ果てた鄭用錫は、老いた母親の世話を理由に中央官職を辞し、故郷の竹塹城(新竹)へ戻り、翌1838年、北門の外側に邸宅(今の進士第)を建て、読書と著作による悠々自適の生活を送るようになる。

新竹市

1842年にアヘン戦争が勃発し、英国艦船が大安港を脅かすようになると、鄭用錫は義勇隊を組織して救援に赴くなど、国難には積極的に協力した。戦後、その功労を称えられ、花翎(高官が帽子に付ける頭飾り)を下賜される。
また、土地公港で外国艦船を拿捕した功績により、四品の官位も授与される。

3年前より開始していた竹塹城の北側に北郭園の造園工事が1851年、完成する。以後、鄭用錫は接客と憩いの場としてここを活用し、潜園と並んで竹塹の二大名園となる。

1852年より勃発していた淡北での福建系移民と広東系移民との間で暴力紛争に際し、翌1853年、台北在住の仕紳であった陳維と共に、仲裁に加わる。同時期、鄭用錫は「勧和論」を著し、和を持って最上とする旨を説き、動乱の鎮静に努めている。
翌1854年には、進士の施瓊芳らと共に、鄭用錫は民兵の組織や天津の食糧不足のために糧食を寄付した功績により、二品の官位を賜り、二代にわたる特権も保証される。
父親の鄭崇和と並んで二品の官位を授けられた鄭用錫は淡北の誇りとして、地元民から厚い信頼を寄せられたという。
1858年、鄭用錫は享年70歳の人生を終える。



清朝末期の1875年、淡水庁が廃止されると、竹塹城は新竹城へと改称され、新竹県の県役所が新設される。

日清戦争後、新竹県城は台湾島を接収した日本政府に頑強に抵抗するレジスタンスたちの台湾島北部の重要拠点となった。 その反抗も鎮圧され、日本の植民地統治が開始されると、新竹県は台北県に併合され、新竹支庁へ降格される。

1901年、北門大街の金徳美商店を発端に大火災が発生し、北門をまるごと焼き尽くすまでの被害を出してしまう。
翌1902年、日本の植民地政府は近代都市計画を策定し、間もなく、東門を除く、城壁や城門、城楼がなどの完全撤去が決定される。焼失した北門に続き、南門、西門も破壊され、東門(迎曦門)のみは撤去を免れ、これが現存する史跡につながることとなる。
もともとあった外濠は河川として活用され、田畑の用水路へと転用される。

1920年9月には、新竹支庁と桃園支庁が合併され、新竹州へと改編される。そのまま州役所は、新竹城内に開設された。
1935年、東門(迎曦門)が台湾総督府から史蹟に指定され、正式な保護対象とされる。
1945年に日本軍が撤退すると、同年10月、新竹県へ改編される。


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