BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~

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訪問日:2015年6月中旬
海賊王・蔡牽 の栄枯盛衰から見る、中国大海賊時代!






台湾 高雄市 ~ 市内人口 280万人、一人当たり GDP 26,000 USD(台湾 全体)


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  鄭氏政権の水軍拠点であり、万年州役所があった地に、築城された 鳳山旧城(左営旧城)
  鳳山旧城 と 鳳山新城の パワーバランスが、今日の高雄市の原型を 形作った
  鳳山旧城の 北城門、南城門、東城門エリア、馬道の 今昔
  南面 ~ 東面城壁 と 水門、外堀跡
  かつて、海岸線だった 蓮池潭公園。ここに生々しく残る、北面城壁片に 思いを馳せる
  元々は 塩田地帯、そして 租界地区(洋行区)へ(旗後砲台 と 駐打狗イギリス領事館跡)
  鼓山区の台山から、高雄市を一望する
  高雄市の 歴史



鳳山県城(左営旧城)

高雄市

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近代に入るまで、上地図の巨大湖を有する蓮池澤公園は、海岸線の一部であった。 つまり、この海岸線沿いに立地した亀山は、当時、海岸に突出した独立系の 小山(岬?)で、 集落や船着き場にもってこいの地形だったことは、想像に難くない。案の定、 台湾島を占領した当初より、鄭氏政権はこの亀山一帯に水軍施設を設置していたという。

ただし、この 興隆庄(左営地区の旧称)に初めて城郭が築城されたのは、鄭氏が清朝に降伏した直後の 1683年のことであった。 清朝により、鄭氏政権の水軍拠点兼万年州役所が設けられていた当地に、竹とイバラを植林して城壁と成した、簡易な鳳山県城が築城される。 1721年に朱一貴の乱で県城が荒廃すると、翌 1722年、土壁による城壁整備が朝廷より許可される(台湾初の 土塁城壁の建造)。
しかし、1787年の林爽文の乱でも、鳳山県城は落城の憂き目に遭ってしまう。 翌年に反乱が鎮圧されると、荒廃した鳳山県城は放棄され(以後、旧城と呼ばれるようになる)、新たに 埠頭街(今の 鳳山市)に新城が築城される。下地図

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しかし、1806年12月、蔡牽(1761~1809年)率いる海賊反乱軍の襲撃を受け、 新城も落城し、 さらに 1824年に楊良斌の乱で完全に破壊されるに及び、翌 1825年、鳳山県役所は再び旧城地区へ戻されることとなる。 このとき、かつての古城地区を懐かしむ住民らは歓喜し、 その古城修築の全費用の 73.15 %が、この住民らの寄付で賄われることとなったという。 立地は山裾からさらに海岸線沿いへ移動され、その敷地も、亀山をまるごと取り囲んでしまう大規模なものに設計される。 城壁は総石積みの本格的なもので、翌 1826年に完成を見る。

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当地は海岸の港エリアに近く、市街区が大いに繁栄するに伴い、 亀山(打鼓山)付近で盗賊が出没するようになる。 しかし、清朝の駐屯兵団の大部分は、未だ 埠頭街(今の 鳳山市)の新城内に残留しており、 せっかく改修した旧城もその防備力を発揮することかなわず、最終的には 1847年、再び、 鳳山県役所は新城側へ移転されることとなる。1853年の林恭の乱に際し、 この新城での籠城戦が見事に成功したことをきっかけに、本格的に 政治・経済拠点の新城側へのシフトが進み、 この頃から海岸線近くに残された左営旧城地区は寂れていったようである。

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下写真 は、かつての南城門と 北城門付近。

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東城門の脇には、城壁上まで続く 坂道(馬道)が残されていた(下写真左)。台湾島内でこの馬道が現存するのは、恒春古城 北門 とこの 凰山県城 東門(下写真右)だけという。
また東城門上には、かつて楼閣が建っていた台座が残されていた。

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下写真は南城門。ここは城門楼閣が現存する。

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城壁の外周部には、外堀が残されていた(下写真左)。城壁と外堀の間に、城内運河と連絡する 水門跡(排水溝)も見られた(下写真右)。

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この東城門から南城門に至る城峰路沿いは、 城壁と外堀がほぼ完全な形で保存されていた(下写真)。

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下写真左は、蓮池潭公園内に残る 北面城壁 の一部。ちなみに、蓮池にそびえ立つ 七重の塔(下写真右)は上ることができる。

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交通アクセス
高雄鉄道駅からはバスが便利。
245番バス:1時間に 一本運行(12 TWD)。高雄駅の西回り。所要時間 20分。
南城門あたりで下車できる。バス停「北広場」で下車。一つ前の バス停「果貿社」を過ぎた直後に、車窓から南城門が見える。南城門から東へ延びる城峰路沿いに、城壁と外堀がある。東城門まで来ると、城内は 象山公園(蓮池澤公園)となっている。

301番バス:30分に 一本運行(12 TWD)。高雄駅の北周り。 東城門沿いの城峰路沿いで下車できる。所要時間 20分。
もしくは、国鉄線の左営駅からでも徒歩 10分。地下鉄駅からだと、やや遠い。
下写真は、高雄旧市街地の 台山(鼓山区)から古城地区を眺めたもの。

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高雄市内の 旧租界地区

上写真の台山から、旧高雄港、および 旧租界地区(洋行区)まで、 徒歩で移動してみた(下写真左)。

以前は列車の車庫や貨物駅があった敷地であるが、今は市民公園や 遊歩道に再整備されていた。 線路をそのまま残して、緑地化しているアイデアはなかなか面白い(下写真右)。

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たくさんの市民らが凧上げや、 犬の散歩、一家団欒の時間を楽しんでいた。凧上げだが、凧をレンタルする業者が公園内に陣どっていたのには驚いた。 わざわざ凧をレンタルし、公園内の市民は凧揚げに興じているのだった!!

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この港湾部分は 租界地区(洋行区)を兼ね、 開港当初、多くの外国企業が事務所や 倉庫を構えていたらしい(上写真)。 また、イギリスが台湾島内で初めて洋館に入居したのも、この打狗英国領事館という(賃貸した)。

1858年締結の天津条約に基づき、 淡水港安平港(台南)基隆 とともに、打狗港も開港させられると、 イギリスは最初に淡水領事館を開設し、続いて、 打狗港に副領事館を開設する。1864年に正式開港されると、副領事館はすぐに領事館へ昇格される。1867年5月に洋館が完成すると、 1910年までここに入居したのだった。その後、日本統治時代、国民党政権時代には、 水産試験場として転用されていたが、2005年に高雄市政府により史跡指定を受けるに至る。

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現在、旧租界地区(洋行区)一帯はきれいに整備されていた。 上写真左は鼓山漁港の上流地区。この下流域に港湾地区があるわけであるが、開港前は、塩田が広がっていたらしい(上写真右)。

この先の海の対岸にある岬に、灯台 や清朝末期の旗後砲台陣地跡が残る。


  交通アクセス
列車で 台南 から高雄へ移動。片道 106 TWD。指定席の快速列車で 35分。

高雄駅前の路線バス乗り場より、56番路線バスに乗車。このまま終点の 台山(鼓山区)へ向かう。 終点は動物園だが、ここから徒歩で下山すると、美しい高雄市の遠景が眺められる。下写真。

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地下鉄の西子駅で下車後、徒歩 5分ほどで旧港湾地区、凧上げ公園へ行ける。



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六合夜市の西側にある自立二路沿いのステーキ店は、とても良心的なお店だった(上写真左)。 ボリューム満点、スープ、ジュースはおかわり自由で、ステーキが 90~150 TWDで食べられる。男にはうれしい内容だと思う。


高雄市の 歴史

オランダ人が台湾島に入植する以前、高雄平原一帯には、平埔族系のシラヤ族が生息し、 大傑巓社、阿猴社、放索社、打狗社 などの集落を形成していた。 また山岳地帯は、曹族、排湾族、布農族、魯凱族らが割拠し、 両者は棲み分けが行われていた。

明代に入ると、中国系、日本系の海賊らが台湾島沿岸に拠点を設けるようになる。 しかし、中国大陸で清朝が、日本列島で江戸幕府が誕生し、 治安と交易体制の確立が図られると、これらの海賊集団は徐々に廃業に追い込まれていった。 ちょうど、同時期の 1624年、オランダ人が 台湾島へ上陸してくる(清朝との交渉により、澎湖諸島で築いた拠点を台湾島へ移転してきた)
オランダ人は早速、現在の台南市の安平に ゼーランディア城(熱蘭遮城)を築城する。 1635年ごろまでには、原住民の平埔族らを掃討し、支配地域を内陸部へと拡大していくこととなった。

当時すでに、打狗(今の 高雄市)の地には、一定規模の港町が形成されており、 多くの漁民や海上交易民らが生活していたとされる。

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1661年、 鄭成功(1624~1662年)がオランダ東インド会社の勢力を駆逐すべく、 台湾島を襲撃する(上絵図)。9か月もの攻防戦を戦い抜き、オランダ軍を退去させると、 いよいよ台湾島が南明政権に組み込まれることとなった。
この時、鄭成功による台湾経営は、ほぼ南部に集中しており、旧オランダ要塞跡に 承天府(王都)を開設し、また地方行政の監督庁として、万年県と 天興県を設置する。 このとき、万年県の県役所が 埤子頭(今の 左営区の港湾部)に開設され、現在の高雄市エリアも含めた、台湾島の南部一帯を監督することとされた。 この鄭氏政権の台湾支配により、島内には中国文化が一気に伝播され、 大いに文化発展が進むこととなった。また、大陸から付き従ってきた多くの兵士らが、 土地の開墾に振り向けられ、この時期、「屯田」と名のつく行政区が数多く誕生する。

しかし、翌 1662年、この対オランダ戦の傷がもとで鄭成功が死去すると、 長男の 鄭経(1642~1681年)が後を継ぐ。1662年にすでに昆明で南明政権が滅ぼされていたため、 1664年、鄭経は台湾島に独立政権の樹立を目指し、行政改革を進める。その一環で、 承天府が廃止されて東寧府へ改称され、また万年県は万年州へ、天興県は天興州へと改編されることとなった。 しかし、1681年に鄭経が 40歳の若さで病死すると、その次男の 鄭克塽(1670~1707年)が後を継承するも、1683年、 ついに清軍の大侵攻を受け降伏するに至るのだった

台湾島を接収した清朝は、すぐに東寧府を台湾府へ改め、 その統治下に 諸羅県台湾県、鳳山県の 3県を新設する(福建省に所属)。 鄭氏台湾時代の天興州が諸羅県へ改名され、万年州が台湾県と 鳳山県の 2県に分割されたわけである。

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このとき(1683年)、 清朝は鳳山県役所を鄭氏政権時代の万年州役所跡に開設し、引き続き、興隆荘(今の 左営)が台湾南部の拠点集落を継承することとされたのだった。 この時、竹とイバラを植林し、城壁と成した「鳳山県城」が築城される。以降、当地の経済や人口はますます発展し、多くの集落が誕生していく。 打狗港(今の 高雄港)は、1680年代ごろにはすでに南部筆頭の港町となっており、清朝末期の対外開放時代においては、 列強諸国からの通商要求で開港させられた港湾都市の一つに指名されるほどであった。 開港後、多くの外国資本が打狗の町に進出することとなる。

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日本統治時代の 1920年、 「打狗(犬を殴る)」の漢字名があまりに下品ということで、日本語の発音に近い「高雄」へと改名される。 1924年には高雄郡から高雄市へと改編され、市制がスタートされた。

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