『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:2014年6月中旬 / 2016年12月中旬


台湾 基隆市 ~ 域内人口 40万人、台湾全体 一人当たり GDP 22,000 USD


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  サン・サルバドル城(スペイン植民地拠点)の歴史
  清末、鶏籠港と欧米列強
  日本統治時代の基隆港(鶏籠港)、旧日本海軍基地と旧日本人町
  和平島の今




この地には、元来、原住民の平埔族系ケタガラン族が跋扈した地域であり、この名称が台湾語の鶏籠(ケーラン)に似ていたことから、長らく、鶏籠という地名で呼称されていた。加えて、近隣の山の形状も「鶏籠(トリかご)」に似ているということもあり、容易に定着していったとされる。 清朝末期の1875年、祝辞文句の「基地昌隆」から取って「基隆」と改名されて以降、今日に至る。

基隆市

1626年、スペイン人が社寮島(現在の和平島)に上陸し、その南西部に西洋式の砦「サン・サルバドル城」を築城する。これ以後、先住民や漢人らも移住して、集落地が形成されていくこととなった。

1642年、台湾島の南部を占有していたオランダ人が北上し、社寮島に上陸してくる。サン・サルバドル城のスペイン軍は無血開城し、オランダ人はこの地を北オランダと改名する。

1668年、大陸中国より鄭成功が台湾に渡り、この地のオランダ人拠点を駆逐して、台湾島全域を占領すると、この「鶏籠」の地も、鄭成功に併合される。その後、1683年に鄭氏台湾も清朝に降伏し、清の役人が台湾島へ派遣されてくる。

基隆市

時は下って清朝末期の 1863年、欧米列強からの圧力により、鶏籠港が正式開港される。
ここは、北京条約により強制開港された台湾4港の一つで、すぐにフランス、アメリカ、ロシア、イギリスの領事館が設置されている。当地には今でも、フランス人墓地が存在する。また、対フランス戦争に備えた清国の砲台跡も和平島に残る。

基隆市

英国に触発され、領土的野心を前面にちらつかせたフランスは、台湾島内に軍事拠点を設けようと図るも(上地図)、清朝側の抵抗と、台湾民衆による石炭売りしぶり、またこれに同調した英国商社や領事館の石炭売り渋りなどが重なり、フランスは最終的に台湾島の拠点を放棄し、清朝と和解する方向へ舵を切ることとなった。
こうした激動の時代、前述の通り、1875年に鶏籠から基隆へと改名されたのだった。

日清戦争後の1895年、日本軍が 台湾島 を領有することとなる。日本統治時代下の1924~1931年、基隆は市制へと昇格され、当時の台湾島内でも第四番目の大都市として栄華を誇ることとなる(下古絵図)。

基隆市

市内には、今日でもまだ、日本人がかつて植民地時代に居住していた住居跡がいくつも残っていた。そのうちの幾つかは、観光地として開放されていた。最盛期には1万人以上の日本人が居住していた都市であり(日本往来便の寄港地であった)、こうした理由から、第二次大戦中には米国軍の攻撃を受けたとされる(台湾での日本海軍の基地も併設)。
下写真右には、クルージング用の巨大旅客船が停泊しているが、その先に、台湾海軍の艦船が停泊しているのが見える。

基隆市 基隆市

和平島 へは、基隆駅前のバスターミナルから101番バスで15ドル。だいたい 30分ぐらいで到着する。このルート上に、フランス人墓地、日本人旧住居跡、海軍基地、コンテナターミナルなどが見て回れる。

なお、現在の和平島は、埋め立てが進み、台湾島と陸続きになってしまっていた。かつてのスペイン軍築城の軍事要塞も今は跡形もない。ただ、かつての漢人が住み着いて集落地を形成したであろう名残は色濃く感じられ、狭い路地のあちこちに、祠堂が備えられていた。きっと、昔の人々の信仰(道教)が今もその名残を街中に残しているのであろう。下写真。

基隆市 基隆市 基隆市

基隆には 台北 駅前バスターミナルから45分で到着する(55ドル)。同様に、基隆駅前のバスターミナルから、台北行きが10分に一本あり。

基隆市

台湾のコンビニやスーパーでは、2つ買うと一つ割引、という売り方が非常に一般的である。
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