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台湾 台中市 ~ 域内人口 271万人、台湾全体 一人当たり GDP 22,000 USD


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  台中市の歴史




【 台中市の外観 】

台中市 台中市


台中市の歴史

もともとは原住民の平埔族系アタヤル族が跋扈する地域であった。オランダ東インド会社の台湾島上陸後、このオランダ勢力と度々抗争を繰り広げることとなる。

1661年、明の遺臣・鄭成功が台湾島に上陸し、オランダ勢力と1年にも及ぶ激戦の末、台湾島の占領に成功する。しかし、その鄭成功も、翌1662年に対オランダ戦の傷がもとで死去し、長男の鄭経(20歳)が後を継ぎ、陳永華(台湾の諸葛亮孔明と比喩される)の補佐の下、台湾経営を実質的に進めていくこととなった。首都である 承天府(今の台南市内に残る赤崁楼)の下、万年県(1664年に万年州へ改編)と天興県(1664年に天興州へ改編)が設置される。現在の台中市一帯は天興州に所属された。

台中市

しかし、1681年に鄭経が40歳の若さで死去すると、三代目君主として鄭克塽が擁立されるも、 1683年に清朝により派遣された施琅の侵攻軍を前に、降伏を余儀なくされる。その後、すぐに清朝による台湾島統治が着手され、翌1684年、承天府跡に台湾府が開設される(福建省に帰属)。
このとき、台湾島の南部のみが実質的な統治下にあり、台湾県、鳳山県諸羅県(現在の嘉義県:鄭氏時代の天興州から改名)が設置される。

1705年、諸羅県に駐留していた清軍の台湾北路営参将の張国が、大墩(現在の台中市一帯)の肥沃さ、豊富な水資源の利用可能性を見出し、荒地の開墾を開始する。

台中市

以後、福建省 泉州市 からの移民が多く住むようになり、大いに発展を遂げる(上地図参照)。
1730年ごろ、彰化県 が新設される。現在の台中市一帯もここの管轄下に組み込まれた。

清朝末期の1875年に台北府が設置され、台湾北部が 台湾府(今の台南市)の管轄範囲から分離される。
1885年には福建省から分離され、福建台湾省として独立省となる。
1887年には、もともとの台湾府役所内に台南府が設置され、台湾府役所が大墩(台湾県へ改称、後に台中市となる)の地へ移転される。この頃には、「台湾府」の地位も名前も初期の頃とは異なっており、単に台湾島の中部一帯を統括する地方行政庁となっていた。
台湾島全体を統括する役割は福建台湾承宣布政使司へ移管され、台北府 に併設されることとなる。

日本統治下の1896年、台湾県が台中県へ改名され、1920年に台中市制がスタートする。当初は台湾中部の中心都市は彰化県城であったが、この日本統治時代に台中市に鉄道敷設が進められた結果、彰化県 を追い抜き、台湾島中部の中心都市として台頭することとなった。


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