『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:2015年6月中旬


台湾 台南市 ~ 域内人口 189万人、台湾全体 一人当たり GDP 22,000 USD


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  台南府城跡
  東門エリアと鉄道高架下のスリル満点ルート
  台湾府の府役所跡エリアと城皇廟、鄭成功祖廟
  赤崁楼(プロヴィンティア城、承天府、台湾府)
  安平古堡(ゼーランディア城、熱蘭遮城)
  億載金城
  清末と現在の海外線を比較する!
  納得の「健康路」と台湾海軍基地
  台南市の歴史



滞在ホテル(大立大飯店)で無料自転車を借りて、市内散策してみた。

【 台南府城跡 】

台南市

台南市内にあった旧台湾府城であるが、その城域は相当に広かったことが分かる。

今日 に残る古城遺跡は、台南公園内に残る北側城壁の土塁と、成功大学内に残る東側城壁の土塁、そして、古城の南東端にあった東門(下写真)のみである。

台南市 台南市

東門の城門遺跡へは鉄道の線路をくぐらねばならないが、ここが自動車用とバイク&自転車用に分かれていて、バイク群の中を自転車で一緒に走るのはスリルがあって面白かった!下写真。

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下は南門路と府前路一段の交差点。この付近に延平軍王祠があった。1662年、庶民により創建された鄭成功を祭る廟所という。廟所の前には真っ白な鄭成功の騎馬像が設置されていた(近年になって、大陸中国の 泉州 市民から寄贈されたものという)。

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下写真左は西門跡の円形サークルの交差点。さらに西側の城外に環河路や河中路などもあり、かつての古城時代に 外濠 があったことが伺われた。
下写真右は、かつての台湾府の役所があった付近。路地名にしっかり記憶が刻み込まれていた。

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下は城皇廟の一帯。意外にこじんまりした城皇廟だった。
近くに、鄭経が父の鄭成功を祀るべく1663年に創建した鄭成功祖廟があった。

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  交通アクセス

嘉義 鉄道駅から台南駅まで普通列車で、90ドル。所要時間 1時間。
当地は、台湾島の京都・奈良にあたり、古都というだけあって観光名所には事欠かない。
宿泊ホテルで自転車をレンタルするのがベスト(筆者が投宿した大立大飯店 TA LEE HOTEL では無料サイクルが 5台ほど常備されていた)。




【 赤崁楼(プロヴィンティア城、承天府、台湾府) 】

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鄭氏時代は承天府が、清朝時代は台湾府の役所が入居されていた。
発掘調査の結果、オランダ要塞時代の遺構が発見されたという。上写真右。

広場内にはオランダ総督が鄭成功に降伏する場面の銅像が立つ(上写真左)。この直後、鄭成功はオランダ総督を処刑しようとしたが、後のオランダ側からの報復を考慮して、全員を送還するにとどめたとされる。

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オランダ要塞時代の入り口や井戸が保存されていた(上写真)。


【 安平古堡(ゼーランディア城、熱蘭遮城) 】

台南市

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ここは清朝時代も、引き続き、軍事要塞として使用されたものの、だんだんと戦時体制が緩み、時とともに手入れが施されなくなり、廃墟と化していった。
しかし、清朝末期に欧米列強が中国侵略を進める中で、台湾島の海岸線防備の一環として見直され、軍事要塞として再整備されることとなる。その後、イギリス軍により破壊されたため、付近に改めて建造された 億載金城 の資材として活用され、完全に廃城となった。

日本植民地時代、この敷地は日本軍の駐屯基地に利用され、その城塞跡の大部分は破壊されて、大いに地形が変形されてしまったという。
今に残る赤レンガの城壁はかろうじて残されたもので、わずかにオランダ要塞時代を偲ばせていた。

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途中、小型水車を有した排水路らしき遺跡があった(上写真)。
ここは安平蚵灰窯文化館(Oyster Shell Cement Kiln Museum)で、清朝時代より当地の伝統産業となっていた牡蠣(カキ)養殖所の跡らしい。
当時、オランダ要塞時代の赤レンガの残骸を集めてきて建設されたに違いない。


【 億載金城 】

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小さな砲台砦跡であった。五稜郭ならぬ、四稜郭だった。

清朝末期の1873年に、日本軍が強行した台湾出兵の教訓から、台湾島の防備強化を痛感した清朝は、翌年すぐにこの砲台要塞を建設することとなる。

築城後、戦闘に一度もさらされなかったため、今日でも土塁や外濠が良好な状態で保存されていた。城内は狭い。海側に弾薬庫があったようで、その遺構もはっきりと見られた。

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上写真は、四稜郭の四辺の先端箇所。射撃の死角が生じないように工夫されていた。
下は築城当時の 周辺模型

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億載金城の遺跡から、健康路 の橋を渡って海岸線まで出てみた。バーベキューなどを楽しむ地元民らが見られた。
それにしても、この健康路、本当に健康そのものの道路だった(下写真左)。橋から見える上写真の⑥⑮一帯には、台湾海軍の艦船が停泊していた(下写真右)。
漁夫路まで行ったが、先は行き止まりらしいので、健康路の橋を引き返した。

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台南市の歴史

1623年、オランダが台湾島に拠点を設ける。一時期、大陸中国に隣接する澎湖諸島に上陸していたが、 明朝との紛争が生じたため、交渉の結果、台湾島での拠点設置を黙認されることとなる。 こうして開設された城塞が、後の ゼーランディア城(熱蘭遮城) である(当初はオラニエ城【奧倫治城】と呼称された:後の 安平古堡)。以降、順次、増築工事が進められ、最終的に1632年に城塞が完成する。オランダはここを拠点に城下町(大員市街)を整備し、東アジア交易を進めることとなった。

城塞と大員市街(主に中国商人らが居住した)との間には広場が設けられており、当時、ここが処刑場を兼ねていたようである。

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また、1650年代後半には、湾内の内陸部に プロヴィンティア城(普羅民遮城:現在の赤崁楼) が築城される(下写真)。こうして、現在の台南市内にはオランダ拠点が2箇所設置されることとなった。

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1661年、清朝に抵抗する明の遺臣・鄭成功が自身の本拠地を大陸外に設けるべく、台湾島の奪取戦が決行される。台湾島北部にあったオランダ側の 淡水要塞 と、プロヴィンティア城 は比較的、容易に陥落させたものの、大要塞・ゼーランディア城の攻略では大いに苦戦を強いられることとなる。

このとき、オランダ守備軍はよく持ちこたえ、度々、バタビア(インドネシア・ジャカルタ)のオランダ・アジア植民地本部へ救援を要請するも、大陸中国とのもめ事を避けたいオランダ側はついに援軍を派遣しなかった。それでもゼーランディア城側は、1661年3月末~翌1662年2月まで1年近い籠城戦を展開し、「10人の中国人相手に1人のオランダ人で十分」という余裕意識が守備兵にも蔓延したぐらいに、圧倒的な戦力差を見せつけていたらしい。しかし、アジア本部の救援が来ないことが確定した後、この城塞を守備する意味を失ったオランダ兵らは降伏し開城する。当初、鄭成功はそのオランダ守備軍の指揮官を処刑しようとしたが、オランダ側との関係悪化を避けるべく、全員をインドネシアへ帰還させることとなる。

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台湾島を名実ともに支配下に置いた鄭成功であったが、この ゼーランディア城 の攻城戦での傷がもとで、間もなく死去する。
直後、息子の鄭経(20歳)が後を継ぐ。実質的な台湾行政は鄭経の治世下で進められていった。旧プロヴィンティア城内に 承天府 を開設し、ここを行政の拠点とし、その城下町(今の台南市街地)を東都明京と命名する。また、台湾南部の地方行政の統括機関として、万年県と天興県が新設された。
また、その翌年の1663年、鄭経は父の鄭成功を祀った鄭成功祖廟を城下町の東都明京(後に東寧へ改称)に創建している(今も現存)。下写真左。

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しかし、1681年、その鄭経も40才で病死し、次男の鄭克塽が後を継いだが、1683年、施琅の率いる清軍の侵攻を受け、降伏するに至る。

清朝はすぐに台湾島の統治体制の改編に着手する。鄭氏台湾時代の行政拠点であった承天府跡に台湾府役所を開設し(上写真右)、福建省の直轄とした。

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時は下って、清朝末期の1874年、日本軍が台湾出兵を強行し、台湾島の防備強化を痛感した清朝は、安平要塞(ゼーランディア城跡は清朝時代、海岸防備の一要塞に活用されていた)の城塞資材を解体し、新たに砲台要塞として 億載金城 を建設する。

翌1875年には、台湾島の内政強化も図られ、台北府 が新たに開設され、台湾島は北の台北府と南の 台湾府(今の台南市)の2行政区体制へ改編されることになる。
1885年には 福建省 から分離され、台湾省として独立省となる。当初、台湾省役所(福建台湾承宣布政使司)は台湾府内に併設されたが、日清戦争中の1894年に台北府へ移転されることとなる。

1887年、これまでの台湾府役所が台南府へ置き換えられ、台湾府役所は大墩(台湾県へ改称、後に 台中市 となる)の地へ移転される。こうして、台湾省は3府体制の時代に入る。

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日清戦争に敗れた清国は下関条約により、1895年に台湾島を日本へ譲渡することとなる。日本統治時代に台南県(台南府から改名)が設置され、後に台南庁となる。1920年に台南庁と 嘉義庁 が合併されて台南州となり、その州役所は引き続き、台南市内に設置された。


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