BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2016年12月中旬
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台湾 宜蘭県 頭城鎮 ~ 鎮内人口 3万人、一人当たり GDP 26,000 USD(台湾 全体)


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  復元された 日本植民地時代の駅舎 と 駅員用宿舎
  慶元宮、最古の 廟所(1796年創建)
  南門(福徳祠)と 小規模商家群
  北門(福徳祠)と 十三行遺跡
  盧纘祥の 邸宅跡
  かつての海岸線 と 史雲湖
  烏石港 と 頭城(頭圖)の 没落
  烏石港に残る 日本軍のトーチカ跡
  頭城鎮の 歴史




頭城鎮エリアであるが、 蘭陽平野で最も早期に漢民族らが入植した地区で、清代を通じ、 蘭陽平野随一の商業港であった鳥石港を中心に、集落地「頭園」が発展していた(下地図)。 大陸中国や台湾北部との交易窓口を担い、台湾島東部の商都として繁栄していたようである。
また、そのすぐ北側には、1819年に開設された 関所「北関」が立地していた(下地図)。

頭城鎮


  交通アクセス
鉄道にて、宜蘭 駅から頭城駅まで移動してみた。1時間に 1~2本程度しか列車がなく、時刻表の確認が必須だ。筆者は、15:03発の 普通列車(乗車券 21 TWD)に乗車し、15:20に頭城駅に到着した。
それにしても、台湾国鉄のチケットカウンターのスタッフは、いつも不愛想な人ばかりだ。これは老若男女、変わらない。




頭城駅 にて下車後、すぐ隣にある日本植民地時代の駅舎と駅員用宿舎エリアを散策してみた。

そもそも頭城鉄道駅が開通したのは 1920年4月といい、当時はまだディーゼル列車が全盛で、駅の周囲には燃料の石炭が山積みとなっていたという。清朝から日本への統治者が変わっても、頭城の町が蘭陽平野の入り口として交通の玄関口を司り、駅長、その家族、駅の従業員らがここで生活を共にしていたらしい。下写真。

頭城鎮 頭城鎮

第二次大戦後に台風被害で破損し、そのまま荒れ放題で放置されていたそうだが、2005年10月に史跡保存が決定され、復元されたという。
今では 土産物屋 と住民や学生らの創作活動センターに転用されていた。下写真左。

頭城鎮 頭城鎮

そのまま正面の沙成路を前進して、慶元宮にたどり着く(上写真右)。
ここは、頭城鎮で最古の 廟所(1796年創建)という。大規模な移民が蘭陽平野へ移住して最初に建てた廟で、 道教の 女神「媽祖」(航海・漁業の 守護神)が祀られている。

ちょうどこの年は、呉沙が移民らを引き連れ、淡水エリア から河川や山脈を乗り越えて、蘭陽平野に到達し、当地に入植した、まさに同じタイミングにあたる。

頭城鎮

さてさて、この慶元宮の本殿と 中庭の中央部を走るのが 和平路 である。まさに、頭城鎮の旧市街地でメインストリートを成した通りである。

ここを 南門(福徳祠)を目指して直進してみる。下写真は、旧メインストリート「和平路」沿い。

頭城鎮 頭城鎮

旧市街地は、南北で明らかに 街並みの雰囲気が異なっていた。北半分は巨大商家の広い邸宅敷地などが あったが、南側は小規模な商家や長屋らが集積したエリアで、 北側から南側にかけて、集落が延伸されていった様子が想像できた。下写真。

頭城鎮 頭城鎮
頭城鎮 頭城鎮

そして、南門(福徳祠)に行き着くと(上写真右)、 再び旧メインストリートを折り返し、北門 側へ散策してみた。

北門(福徳祠)前には、当地で観光名所となっている、 十三行遺跡があった。もともとは、頭城エリアの 大商家・盧家の倉庫群が連なっていた場所という。
なお、このメインストリートの南北に福徳祠が設置されたのは 1863年といい、 現存する廟殿は 1916年に再建されたものという。集落地の境界線を兼ねつつ、この集落から 富が流出しないように願掛けしていたそうだ。

頭城鎮 頭城鎮

今日、十三行遺跡と通称される 倉庫建物は、住居へ転用されており、また、臭豆腐の販売店を営む 地元民もいた(下写真左)。しかし、多くの建物は無人で、廃墟となっている様子だった(下写真右)。
頭城鎮 頭城鎮

そして、和平路 の中間地点に、 盧纘祥(1903年10月~1957年5月26日)の巨大邸宅が保存されていた(下写真)。 上写真で見た、十三行倉庫群の元オーナー家だ。

頭城鎮 頭城鎮

当地の大資本家だった盧纘祥は、史上初めて民主選挙で選出された宜蘭県の長官であり、 宜蘭県下での商工会開設や 文化振興活動に積極的に従事したとされる。当邸宅は 1928年、 台湾総督府官房営繕課に在籍していた建築家の 宋組平(その子の 宋文薫【1924~2016年】は、後に 明治大学に留学し、帰国後、台湾大学にて考古学の教授となっている)が、設計したものという。下写真。

その敷地は広大で、清代からの素朴な 閩式邸宅(福建省出身の客家伝統の建築スタイル) の風格を保持しつつ、日本植民地時代に流行した和式の屋根と、西洋式の窓枠と 白壁、それらに連なる装飾が混在されたデザインが特徴となっている。
その圧倒的な華麗さは、現地で「盧先生のように金持ちになれても、こんな贅沢な屋敷はもてない、もしくは、盧先生と同じような屋敷を持てても、彼と同じような金持ちにはなれない」という諺を生み、現在 にも言い伝えられているという。

頭城鎮 頭城鎮

この邸宅の眼前には 池(史雲湖)が設けられており、雨天にもかかわらず、青年たちが魚釣りをしていた。下写真。
頭城鎮 頭城鎮

ここは、かつて交易水路として 栄えた河道沿いに接続された、溜め池をイメージして保存された水場という。下絵図

頭城鎮

1878年夏の大洪水により、烏石港と直結した内陸河川がせき止められ、さらに 1883年2月3日、米国籍の大型木造商船が烏石港の入り口で 座礁・沈没し、港湾の出入り口が完全に封鎖されてしまうと、長らく蘭陽平野随一の交易港として君臨してきた烏石港は、瞬く間に機能不全となり、これにあわせて 頭城(頭圖)エリアの落日が始まることとなった。

しかし、財力のある頭城鎮の商人たちは、自力で眼前の海岸線に港湾施設を建設し、荷揚げ活動を継続する。 現在の海岸沿いの 地名「大坑」は、この時に掘削された「頭園」新港の名残りとなっている。
しかし、日本植民地時代の 1924年、さらに洪水被害を受け、せっかく掘削した大坑の港湾地区も 埋もれてしまい、代わりに海岸線が大幅に後退して、陸地が広がることとなる。 こうして形成された沼地や湿地エリアは水田へと開墾され、戦後に住宅地へ改編されて、 古の港湾都市の風景が一変してしまったわけである(下は現在の地図と、旧海岸線)。

頭城鎮

こうして完全に交易港、 貿易都市としての機能を喪失した頭城鎮は、その 200年余りに渡る栄華の記憶を残したまま 忘れ去られることとなり、今日まで残存できた 旧家屋・倉庫群が観光資源として スポットライトを当てられることになったわけである。

最後に、烏石港へも足を運んでみた。
晴れていれば徒歩で行く予定だったが、終日、雨天で靴の中もグショグショ状態だったので、駅前からタクシーに乗る。往復で、180 TWDであった(片道 5分)。

頭城鎮

下写真は、現在の烏石港の 船着き場。かつての海岸線はもっと内陸側にあった。

頭城鎮 頭城鎮

下写真は、烏石港の交差点に残されていた、トーチカ跡。第二次大戦後、国民党政権によって整備されたもの、と 思われる。

頭城鎮 頭城鎮


  交通アクセス(宜蘭駅、そして台北駅へ)

夕方の 17:20、頭城駅(下写真左)発の準急列車に乗車した。32 TWD(全席指定)。17:40 過ぎに 宜蘭 駅に到着した。
そもそも在来線は一時間に 1本程度で、その間に準急が 1本走るという時刻表の下、1本乗り遅れると、30分~60分近くも待たされることになる。この本数の少なさには苦心させられた。
そのまま宜蘭駅のチケット窓口で、台北行きの特急券を購入する(18:15 発)。212 TWD。宜蘭駅発車後(下写真右)、松山駅、そして 台北駅 に到着した(19:39)。


頭城鎮 頭城鎮




 頭城鎮の 歴史

宜蘭エリア一帯は、かつて「Kap-á-lān(卡巴蘭)」もしくは「Kat-má-lán(噶瑪蘭)」(閩南語の発音)と呼称されており、蛤仔鴨や 作葛雅蘭、蛤仔蘭、甲子蘭などと当て字されていた。もともとは平埔族系の タイヤル族(泰雅族)らが跋扈する地域であった。
数千年前より蘭陽平野を拠点として生息してきた彼らを、漢民族らは 生番、野番、もしくは山番などと蔑称してきた。


 タイヤル族(泰雅族)
 現在、その人口は約 8万人余り、主に中央山脈、雪山山脈の標高 500 m~ 2,500 mの広大な地域に分布している。
 祖霊 Ufuxを崇拝し、祖訓 Gaga(共同体の 共通ルール)を遵守するという伝統信仰を継承する。


頭城鎮



一方で、後にフィリピン方面から海を渡って移住した人々は、カバラン人(もしくは 熟番、化番、土番など)と区別されていた。


 カバラン族(噶瑪蘭族)
 清代に、計 36社の集落が確認されており、その人口は 1,200人余りで、蘭陽平野で最も早くに現れた
 原住部族で、初期より平原での生活を基本としていた。階級制度はなく、女性が祭司を司る母系社会を軸とする。
 春~夏期、噶瑪蘭族の男たちはトビウオの漁獲や豊作を祝うため、海辺に集まり海祭を行うという。2002年まで、
 阿美族に含まれてきたが、独立系の原住民として認定を受けるに至る。


頭城鎮


頭城鎮

カバラン族の歴史に関し、最も古い記録は、1632年に遡る。
曰く、
『1632年、スペイン人が乗り込む船舶が台風に遭遇し、「Kap-á-lān(卡巴蘭、カバラン)」の港に漂着する。このとき、船員 50人が無断で原住民の土地に上陸してきたので、反撃を受けることとなった。これに対し、スペイン人とフィリピン人船員共同で 攻撃を加え、原住民の部落を 7か所が焼き払い、住民 12名を殺した。
以降、蘇澳港より北側を「聖塔.卡塔利那」(Santa Catalina)、蘇澳港と その南側エリアを「聖.羅連索」(San Lorenzo)と命名した』という。下地図。
頭城鎮

これは、欧州の新興国 オランダ(プロテスタント派)が台湾島南部に 上陸し、テリトリーを構築し出したことに対抗し、フィリピン・ルソン島を拠点としていた スペイン(カトリック派)も台湾島進出を目指し、1626年、北部の 鶏籠(現在の 基隆市) に最初の拠点を設け、そのまま西の 滬尾(現在の淡水区)、南の「カバラン(噶瑪蘭)」(今の 蘭陽平野)へと、そのテリトリーを拡張させた 最中の出来事であった。オランダ、スペインは最終的に軍事衝突を起こし、 1642年にオランダ軍が勝利して、スペイン勢力は完全に台湾島から追放されるのだった。
以後、オランダ占領下にあって、蛤仔難(今の 蘭陽平野)は未開拓のまま放置されることとなる。

この後に台湾島を統治した鄭氏政権、清朝もそのまま 手つかず状態で放置されていたが、1768年、漢民族の林漢生が、カバラン(噶瑪蘭)平野を探検中、現住民に殺害される。
1776年には、林元旻が烏石港の北側の内陸河川を上流に向かって侵入し、 原住民の集落地の一つ「淇武蘭」を占領して入植する。これが宜蘭平野における、 最初の漢民族のコロニーとなるも、すぐに撤収してしまったようである。

頭城鎮

1796年に漳州唐山出身の呉沙が、漳州泉州 出身ら 1,000名余りと共に台湾島へ移住すると、 台湾島現地で 200人余りの住民も糾合し、淡水 エリアから川をさかのぼり、草嶺古道(上地図参照)を通って、蘭陽平野の北端にたどり着く。 そのまま原住民の集落を襲撃して、原住民カバラン族との激しく攻防戦が発生する。しかし、火器を多用する 華人らの前に、原住民らは圧倒され、早々にも烏石港付近の辛仔罕の 3集落地が占領されてしまうのだった。 華人はここを後圖と改名し、さらに破竹の勢いで、南に隣接する頭圍地区まで進出していったという。
こうして、原住民の集落を乗っ取る形で開墾されたのが、 現在の頭城鎮で、以後、華人移民にとって一気に拡張されていくこととなる。

長い砂浜が延々と続く蘭陽平野にあって、唯一、 複雑な海岸線の地形で内海が形成されていた烏石港と 蘇澳港は、古くから原住民らによって 漁港として利用されていたが推察される。彼らも 内陸河川(一部の内陸河川跡は 現在でも道路脇に池として存在する)網を応用して、海と直結した複数の集落地を築いていたのだった。

頭城鎮

この平原随一の 良港「烏石港」が華人に占領されるところから、本格的な蘭陽平野の開拓史がスタートする。
平野部に網の目のように連なっていた 内陸水脈(湿地帯、河川、池や沼を含む)の起点として、港町は発展し、蘭陽平野における漢人最初の入植地ということで、「頭園」「頭城」と命名されたわけである。 以後、華人の集落地は平原の南側へと拡大し、それぞれ 二園、三園、四園、五園と通称されることとなる。

1812年9月、 台湾府長官の 楊廷理(1747年—1813年)が、自ら噶瑪蘭通判を兼務し、 この 五園村(現在の 宜蘭市の旧市街地)の集落地に、噶瑪蘭(カバラン)庁署が開設し、蘭陽平野の開発事業に乗り出すと、 以降、五園村が蘭陽平野の 政治、経済、文化の中心都市として君臨していくこととなった。翌 1813年9月に楊廷理が過労のため 病死すると、当地の開発が一時的に滞ることとなる。

頭城鎮

そして、1818年8月15日に 高大鏞(生没年不詳。湖南桃源出身で、1800年に科挙合格後、 朝廷に出仕し、1812年に台湾府下の台湾県長官に着任する。1816年12月に、 澎湖庁 海防通判へ異動後に、噶瑪蘭入りした)が、台灣府 撫民通番通判(噶瑪蘭庁通判)に着任して現地入りすると、 彼の在任期間の 2年間(1820年8月29日まで)で、大規模に開発が進められるのだった。 この時、噶瑪蘭庁城の四城門に楼閣を増築し、また噶瑪蘭庁官署自体も新築、 さらに文昌壇を創建している。また、蘭陽平野の統治強化のため、陸路で平野に 至る街道上に 関所「北関(下絵図左)」も設置したのだった。

この北関は、現在の頭城鎮梗枋附近に立地しており、烏石港から北の三貂嶺への街道沿い であった。役所開設後、役人(外委)一名と、官兵 40名が駐屯し、移動者らの貨物検査などを 行ったという。現在もその跡地が残っており、真下に広がる海は風光明媚でも知られる観光地 となっている。

頭城鎮 頭城鎮

しかし、清代を通じ、蘭陽平野へのアクセスはほとんど海路に限定されており、 その最大の貿易港が烏石港なのは一貫していた。
海路からの物資を烏石港で陸揚げし、内陸エリアの他の集落地へ分配する際、 頭園の商人ネットワークを通じて 蘭陽平野全体に物資が流通されていたようである。 そのため、1812年に宜蘭庁城が開設された後も、引き続き、烏石港 ー 頭園(頭城鎮)が 経済都市としての地位を保持し続けたのだった。

頭城鎮

しかし、商都「頭園」には都市城壁の建造は許可されず、 何とか祠廟を兼ねた建物を、北門と南門として設置するのがギリギリで、 その周囲は客家特有の集落スタイルで、住居や倉庫の壁面を連結させて 囲いを設けることで精いっぱいであったという。

こうして清代を通じ、宜蘭平野に進出した華人らは、 原野や森林を開拓して農地開墾を進め、その度に平埔族は生活基盤の 狩場を喪失していき、伝統的な生活スタイルに変容を迫られ、 最終的に大部分は漢民族に同化する道を選ぶこととなるのだった。しかし、 少数の部族残党は、同じ原住民系ルーツを持つ阿美族のテリトリーへと庇護を求め、 南下に南下を繰り返したという。
この原住民との抗争の過程で、戦傷や疫病、天災などで華人側も多くの人命が失われての 土地開墾であったという。この祖先の犠牲者たちを慰霊する祭礼として、毎年旧暦 7月末、 地元で槍孤祭が開催され続けているわけである。

頭城鎮

上の古絵図に見える、烏石港と 蘇澳港(その平野側には、南関という関所が設置されていた) との間は、宜蘭平原が海へと延びる、 だだっ広い砂浜が永遠と続くだけの場所で、大きな船が陸付けするには困難であった。 しかし、この平野は湿地や大小さまざまな河川が入り組んが地形で、 小船へ平野の奥地まで入り込むことができた。こうした水運ネットワークを 牛耳った頭園の商人の、独占市場だった噶瑪蘭一帯も、日本の植民地時代に鉄道が敷設され、 さらに第二次大戦後に草嶺トンネルが開通し 自動車交通の利便性が増す中で、 いよいよ大変化を迫られていったわけである。


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