BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2016年12月中旬
海賊王・蔡牽 の栄枯盛衰から見る、中国大海賊時代!






台湾 宜蘭県 員山郷 ~ 郷内人口 3.3万人、一人当たり GDP 26,000 USD(台湾 全体)


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  員山機堡、飛行機格納庫「掩体壕」跡 と 特攻隊 展示館
  金山東路と 軍用道路
  蘭陽平野での 日本軍防衛網 と トーチカ跡
  南飛行場の 跡地
  員山公園(旧宜蘭寺社)
  員山郷の 歴史




前日に投宿した 福星旅館(宜蘭市康楽路 15號)をチェックアウト後、荷物を預かってもらい、自転車を借りて出発する(無料)。
当地でのホテル選択は、直接、オーナーと交渉できて、その自転車をレンタルさせてくれるかどうか、を決め手とすべきかと思う。

員山郷

舊城東路を南下し、舊城南路から泰山路へ左折して、そのまま国道 7号線を一直線に進む(上地図)。
雨天ということもあり、たくさんのバイクや車と一緒に車道を併走するのはなかなか骨が折れた。
楽しいサイクリングどころか、苦痛だけの移動であり、文字通り、「何とか」員山機堡に到着できたのであった。

この 員山機堡 であるが、道路(北横公路。途中、泰山路から名前が変わる)のやや奥まった場所にあり、普通に道路を走っていたら、なかなか気が付けないと思われる。

ちなみに、員山機堡の 住所「員山鄉金山東路 398号」は、ある特攻隊員の隊員番号 398に由来するという。
北横公路沿いのコンビニで自転車を止め、徒歩で員山機堡の 観光センター(無料)を訪問してみた。

員山郷 員山郷

そもそも、「機堡」とは「掩体壕」の中国語訳で、戦闘機用の防空格納庫を指す。敵軍の空襲により、駐機中の飛行機が爆撃されるのを防ぐため、飛行機に鉄筋コンクリートの屋根をつけて、格納していたわけである。

現在、「員山機堡」の中は喫茶室と資料展示室を兼ねていた。上写真。

そもそも台湾島内には、新竹台中、八塊、桃園、花蓮港、竜潭、台南 に特攻隊基地が設置されていたが、その一角を成したのが、ここ 宜蘭県内の員山郷にあった特攻隊飛行場というわけである。
これら台湾島に開設された特攻隊基地は、すべて沖縄戦における米国海軍への攻撃のみに使われたという。
実際、宜蘭飛行場から飛び立った約 10回程度の特攻隊も、1945年4月11日~6月7日のみ記録されており、沖縄戦(1945年3月26日~6月23日)の終結後、これらの飛行場は完全に使用目的を失うこととなる。
員山郷

なお、台湾と沖縄の距離は、729キロ(上地図)。 当時の戦闘機の最高時速が時速 600 kmだったそうだが、250キロ爆弾を積んだ「赤とんぼ(民間人らは日本軍のゼロ式戦闘機をこう呼んでいた)」では、時速 130 km程度しか出なかったという。
つまり、沖縄への片道所要時間は 6時間弱というところだろう。その出征の途上、乗組員たちは澄んだ沖縄海域を愛でながら、片道だけの燃料を積んで、死地へと赴いていったわけである。

特攻隊員らは皆、少年兵が多かった。若い少年兵の方が感化されやすく、上層部も「お国のため」と洗脳しやすかったのだと思われる。特にその血気盛んな性格は、地元で「ガキ大将」的な立場の少年たちが多かったようである。

員山郷

そんなことを考えながら、員山機堡を後にし、南飛行場跡地を訪問すべく、金山東路を南へ向けて移動する。この通りはかつて、格納されていた飛行機が、滑走路までの移動に使った軍用道路でもあった。上写真。

員山郷

また、大戦中の米軍による「飛び石作戦(Island Hopping)」は有名であるが、当時、台湾島内には日本軍の防衛戦線が何重にも張り巡らされていた。 蘭陽平野に至っては、海岸線、平野部、山間部の 3重の防衛線が構築されていたらしい。下地図は、蘭陽平野で日本軍が構築した防衛網を示す。

台湾上陸をスキップした米軍は沖縄攻略を進めたため、こうした重装備の台湾島内の守備陣地群は、結局、全く使用されることなく終戦を迎えることとなった。

員山郷

自転車で金山東路を直進する途上でも、所々に トーチカ、「掩体壕」(飛行機格納庫)などの一部残骸などが残っていた。ぼーっと進んでいると通り過ぎてしまうぐらい、周囲の農村風景に埋もれてしまっており、風化が激しい。下写真。

員山郷 員山郷

道中は一貫して雨天で、視察のため田んぼのあぜ道に入るのも一苦労だった。

員山郷 員山郷

また、所々に 旧宜蘭寺社(今の 員山公園)の石灯篭の一部ではないか、と思われる石材がごろごろ転用されていた。

員山郷 員山郷

そして、南飛行場 の跡地にたどり着く。一部は立ち入り禁止にされたいた(下写真)。

員山郷

下写真は、清華一路沿いにあった掩体壕跡と 封鎖中の旧飛行場滑走路跡。

員山郷 員山郷

下写真は、宜科路の一帯。今は使用されなくなった管制塔がそのまま残されていた(下写真右奥)。 1946年以降、国民党軍により接収され、そのまま軍事利用されていた名残という。

員山郷 員山郷

また道路と道路の間には、深い溝やため池が残っており、日本軍が整備した南飛行場の名残という。

大戦中に整備された 北飛行場、西飛行場、南飛行場の 3つは、当時、軍用道路で直結されていた。

員山郷

もともと存在した民間飛行場を接収し、軍事用に転用された 北飛行場(現在の 金六結新兵訓練センターあたり)と、西飛行場(現在の 金車威士忌酒工場あたり)とは別に、1941年、より広大な南飛行場が造成される。北飛行場と西飛行場は予備用とされ、主にこの新築の南飛行場から特攻隊が飛び立ったという。

飛行場の造成にあわせて、米軍上陸対策として トーチカ、塹壕、飛行機格納庫(掩体壕)などが、近隣住民を動員して建設される。婦女に至るまで労働力として徴用されたという。
特に南飛行場に近い、現在の進士路沿いに、数多くの掩体壕が設置されていた。戦中、これらの格納庫は、空襲から飛行機を守る防衛施設であったが、戦後には近隣住民らが台風の際の避難場所として活用したという。

蘭陽平野への米軍の空襲は一度だけであった。1945年5月31日のことである。
その直後、日本守備軍は宜蘭農業学校の学生らに稲や竹でニセモノの飛行機を作らせ、米軍の空襲部隊の目をそらそうと工夫したという。

南飛行場の視察後、中山路を北上して 宜蘭市 旧市街地 のホテルまで戻った。 4時間近い雨天での自転車走行は、非常に疲れた。予定より 2倍以上の時間を費やしてしまった。
本当は 北飛行場、西飛行場の跡地も巡る予定であったが、靴はグショグショになり、厭戦気分が最高潮に達していたので、泣く泣く 撤収 することにした。


員山郷

なお、員山機堡から南飛行場跡地へ移動する前に、員山公園(旧宜蘭寺社の跡地)にも足を延ばしてみた。
ここの石段は相当に急斜面で、雨天ともなれば、かなり危ない。とりあえず、境内まで登ってみた(下写真)。現在は、台湾国民党のために命を落とした市民や軍人らの忠魂塔が建てられている。また、国民党軍の軍旗が印字された戦車も 2台、展示されていた。

員山郷 員山郷
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大戦中、特攻隊基地や飛行場から近いこともあり、出征当日、隊員たちはここに参拝し、成功を祈願したに違いない。
階段下には、かつての灯篭石や石柵などの残骸が、アートとしてちりばめられていた。下写真。

員山郷 員山郷

そして戦中、この裏手に員山温泉が立地しており(今でも員山温泉旅館として営業中)、かつて 特攻兵らが投宿した宿舎という。彼らの慰安目的の場所であったようである。ここで天皇から賜った御神酒が振る舞われたという。

余談であるが、員山公園の後方にある、現在の員山郷第一公墓の上の方に、長大な軍事用の山中壕が掘削されていたという。その内部を撮影した記録映像が員山機堡の展示室で上映されていた。
この山中壕の一番地下に通信室が設置され、また山頂には平野部を一望できるように、偵察員が出入りする狭い入り口が設けられていたという。


 【 員山郷の 歴史

1793年、呉沙の甥である呉化が、漳州泉州 からの移民集団を引き連れ、このエリアへ進出し、土地の開墾を開始したことから、その歴史が始まる。
当時、漳州出身者が開墾したエリアは地名の最初に「結」の文字が付記され、泉州出身者の開墾地区には、「鬮(阄)=”くじ引き”の意」の文字を冠することが風習として行われていた。
現在も、員山郷には「結頭份」、「三鬮二」、「大三鬮」などの地名が残されている。

1812年8月、清朝により 噶瑪蘭(カバラン)庁が新設された当時、員山郷には員山堡、その南側に溪州堡という 2つの集落地があるのみであった。
後に住民人口の増加に伴い、員山堡の北側に 四囲堡、北東部に 本城堡、東側に 民壮囲堡、西側は 蕃地(原住民の居住区)と細分化されていくこととなる。

員山郷

日本の植民地時代の 1900年ごろ、ここ員山郷で「歌仔戯(台湾オペラ)」が誕生する。
1920年、台湾島で地方行政区の改編が進められると、員山は員山庄へ変更され、台北州下の 宜蘭 郡の行政区に組み込まれる。

戦後、国民党政権により、中華村の三星郷として統一区域にされたが、 郷内に大河の蘭陽溪が流れており、統一的な行政が困難であったため、 1976年7月1日に員山郷のみ独立されることとなり、今日に至る。

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