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ベトナム ハノイ市 ~ 人口 770万人、 一人当たり GDP 4,200 USD (国全体)


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  昇龍(タンロン)城跡
  旧市街(ハノイ36通り)
  ホーチミン廟とホーチミンの家
  ベトナム軍事歴史博物館
  古螺(コーロア)城
  華閭洞(ホアルー)城跡 と 天然の要害 チャンアン
  龍編(ルイロウ)古城【交趾郡城】と士燮を祭る墓所と廟「士王廟」
  清化(タインホア)王城跡(胡朝の王都)
  麋冷(メリン)古城
  白藤江(バクダン川)の古戦場 ~ 対南漢、北宋、モンゴル戦 大勝利の場所



ハノイ(河内)の歴史

古螺城での考古学的な発掘調査の結果、ハノイ一帯には20,000年前より狩猟採集生活中心の人類の生息が確認されているという。

しかし、ほとんど考古学的物証のない空白の時代となっており、ようやく紀元前4~5世紀に入って、新しい人種がハノイ一帯に住み着いたことが分かっている。
この時代、蓬原文化、同豆文化、坵門文化と東山(ドンソン)文化という原始文明時代が存在したとされ、関連する文物がハノイ市南部のタインホワ州の遺跡群から出土している。

最大の特徴は、銅鼓などの青銅器で、中国の 昆明 地方から北ベトナムにかけて、各地で発見されているという。北部ベトナムには間もなく中国から鉄器も伝わり、青銅器と鉄器が併用される特異な文化圏が誕生する。

民間伝承によると、この北ベトナムには、紀元前2879年から文郎国という王国が建国されており、すでに一定の文明圏的なまとまりを有していたとされる。その遺跡からは、石器時代から鉄器、銅器時代などの歴史変遷が読み取れる文物が発掘されているという。

しかし、長きに渡って存続した文郎国も、紀元前258年に安陽王(本名:蜀泮)らの侵攻を受け、雄王らの率いた文郎国は滅亡に追い込まれることとなる。
蜀泮はもともと古代蜀国の皇族の一人で、紀元前316年に秦国により古蜀国が滅ぼされた後も(下地図)、その勢力は 広西省雲南省 などの山間部に残存し、南へ南へと移動を繰り返していたらしい。そして、北ベトナム平原に到達し、当地の文郎国を占領することで、新たに甌貉国を建国したのだった。

ハノイ市

このとき、甌貉国の王都として、紅河三角洲の北部で河の流れが緩やかになっているポイントに、もともと形成されていた集落地を拡張する形で「思龍城」が築城される。その形が貝殻のような楕円形をしていたので、一般的に「コーロア(古螺)城」と通称されることとなった。現在のハノイ市の北東 18km、ドンアイン県コーロアに遺跡が残っており、築城当時は、巨大な建筑群が立ち並び、多くの労働力と資源が投入されて建造されたといわれる。

内外に高さ 2m以上、幅 15mの巨大な土積み城壁が 9重も張り巡らされていたと考えられている(現在は 3重の城壁跡のみ残る、下地図)。
その最大の外周城壁は全長 8kmにもなり、城内の総面積は 5 km2あったとされる。 現在、城内の跡地には安陽王とその子孫らを祀る廟所が設置されているのみで、王宮跡地や城壁跡などは付近の村落や田畑と一体化してしまっているという(下地図)。しかし、2200年以上も前の都市遺跡として、世界でも屈指の歴史遺産となっている。

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紀元前214年、華南エリアを平定した秦の始皇帝は、さらに甌貉国への攻撃を進めるも、幾度も失敗に終わる。紀元前210年に始皇帝が病没するが、その知らせが未だ華南地方に届いていなかった当時、南海郡尉の任囂と副将の趙佗(龍川県 長官)の率いる大軍が甌貉国に攻め寄せるも、北江の僊遊山で安陽王らの迎撃を受け、秦軍は敗走に追い込まれる。趙佗は武寧山へ撤退し、講和の使者を派遣して和平締結に持ち込む。

始皇帝の死後、中原が大いに戦火で混乱し、秦王朝の権威が失墜する中、紀元前208年、南海郡尉の任囂が病死すると、副将の趙佗が郡尉の職務を継承する。紀元前206年に秦が滅亡すると、紀元前203年には桂林郡と象郡をも武力併合して、南越国を建国するに至る(下地図)。この過程で、紀元前208年に和平条約を破棄して甌貉国へ再侵攻し、ついに滅亡させたのであった(この戦争秘話として、金亀と媚珠姫の伝説が生まれている)。

南越国の占領後も、旧王都の「コーロア(古螺)城」は、そのまま当地の中心都市として機能したものと推察される。

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南越国(本拠地:広州)は、以後、南シナ海一帯の南海貿易を独占し、巨大な経済力を背景に 100年間、独立を保つも(上地図)、ついに紀元前111年、前漢朝の第7代皇帝の武帝により攻め滅ぼされてしまう。

武帝は南越国の旧領を9郡に分割する ― 南海郡、蒼梧郡、郁林郡(鬱林郡)、合浦郡、珠崖郡、儋耳郡、交趾郡、日南郡、九真郡である。
このとき、現在のハノイ市一帯は、交趾郡に属された。新設された麋冷県城(ハノイ市北西部の紅河の北岸に位置するメリン県)には交趾郡都慰(軍本部)が、羸𨻻県城には交趾郡役所がそれぞれ開設され、両者あわせて交趾郡の中心都市を構成した。
この他、交趾郡下には、安定県、苟屚県、曲昜県、北帯県、稽徐県、西于県、龍編県、朱觏県など、合計 10県城が新設されている。下地図。
この頃には、旧王都の「コーロア(古螺)城」は、県城にも選定されない田舎町に成り下がっていたものと推察される。

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前漢王朝は、現在のハノイ市の北に横たわる急峻な山脈地帯(ハイヴァン峠)までをその版図とした。下地図。

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時は下って、光武帝(在位25~57年)により後漢朝が建国された(25年)ばかりの40年3月、交趾郡下の紅河の流域を地盤とした地場豪族らにより、独立闘争が勃発する。世にいう徴(チュン)姉妹(徴側と徴弐の姉妹) の乱である。
この時、近隣の合浦郡、九真郡、日南郡一帯の諸県や諸豪族たちも合流し、巨大勢力が結集された。

姉の徴側は自らが女王「徴王」となり、自身の故郷である峯州麋冷県(ハノイ市メリン県)城内に宮廷を建造し、独立政権の本拠地とした。前漢時代以降、麋冷県城には交趾郡都慰(軍本部)が設置されており、漢王朝の重要な軍事拠点となっていた。

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これに対し、後漢の光武帝は41年4月、建国の功臣で絶大な信頼を置いていた馬援(後漢末期の三国時代に活躍する馬騰・馬超親子の祖先)を伏波将軍に任命し、 2万の兵士から成る南征軍を送り込む。
洛陽からの遠路と、ベトナムの高温多湿に苦しみながらも、ようやく42年4月、馬援の率いる朝廷軍は交趾郡入りを果たす。そして、浪泊の戦いで徴姉妹の南越反乱軍を徹底的に撃破し、そのまま徴姉妹の二人を捕縛して処刑する(同年5月)。

引き続き、馬援は残党狩りを実施し、中部ベトナムの ハイヴァン峠 を越え、原住民らが跋扈するダナン以南の征服を試みる。
しかし、ベトナムはさらに南へ広く、馬援はいちおうの区切りとして、自身の征服地の最南端の地に二本の銅柱を立て、ここを後漢王朝の南の国境線としたと伝承されている。

同時に、ハイヴァン峠以南の占領地を統括すべく、最南端の県役所として象林県(現在のクアンナム州Duy Xuyen区。ホイアン 市の南西部)を新設する。下地図。
しかし、象林県城は援軍要請が難しいハイヴァン峠の南側に位置したこともあり、孤立無援の中、原住民らの反乱に度々襲われ、何度も官舎を焼き払われたという。

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後漢朝廷は、交趾郡役所を羸𨻻県城から龍編県城(ルイロウ古城跡、今のハノイ市東郊外バクニン県の天徳江の北岸あたり)へ移転する(以後、南北朝時代まで交州の州都、及び交趾郡の郡都として君臨することとなった)。
龍編県城の名は、周囲に湿地や小さな水路が網の目のように蛇行してあり、その間を縫うように築城された都市であったことに由来するという。


そして、時は後漢末。
184年に、交州の州都・交趾郡(龍編県)城で駐屯兵らの反乱が勃発すると、朝廷より賈琮が交州刺史に任ぜられ、無事、これを鎮圧する。この時、交趾郡の南に隣接する日南郡に地盤を有した豪族勢力の士燮の協力が認められ、賈琮の推挙により、士燮(47歳)が交阯郡太守に任命される。そして、187年に賈琮が中央へ帰任すると、続いて交州刺史には朱符が就任するも、間もなく臣下の反乱で殺害されてしまう。
こうして中央からの直接統制の限界を悟った後漢朝廷は、士燮の実弟らを合浦郡、九真郡、南海郡の太守にそれぞれ任命し、士氏を通じた間接統治体制を採用する。

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赤壁の戦い(208年末)前まで、荊州の劉表と対立した士燮は曹操に接近し、朝貢関係を維持するも(上地図)、 210年に孫権が交州へ歩騭を総大将とする大軍を派遣すると、士燮は戦わずして孫権に降伏する。
四川省を地盤とする蜀の背後を脅かす存在として孫権に重宝され、士燮もまた 雲南省 の有力豪族・雍闓らを呉側へ寝返らせるなどの工作に尽力している。こうした功績が称えられ、士燮は呉から龍編侯に封じられている。
士燮が226年、90歳で居城の交州首都の交趾郡(龍編県)城で没すると(ルイロウ古城跡地に廟や墓所が残る)、呉は交州の直接統治を企図し、孫権から交州刺史(220年~)に任命されていた呂岱によって子孫らが処刑され、ここに士氏の交州支配はあっけなく終焉してしまうのであった。


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さらに時は下って南北朝時代、南朝の宋王朝(420~479年、上地図)が、今のハノイ市中心部に昌国県城(タンロン城遺跡の皇城部分)を築城し、宋平郡の郡都に定める(下地図)。
宋朝の後、南朝では斉、梁、陳などの王朝が次々に建国と滅亡を繰り返す。そうした中で、南朝の勢力圏も徐々に北へ押し戻され、北ベトナムでは李賁、李天寶、趙光復をはじめとする軍閥らが割拠することとなる。

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541年、交州の土豪であった李賁が挙兵し、南朝の梁王朝が派遣していた交州刺史の萧咨を追放し、このエリアに勢力を張ると、ついに544年には皇帝を名乗り、万春国を建国する。その王都は、龍編城(今のハノイ市北東部)に開設された。

その勢力基盤を継承した李佛子(518~602年)が、後李南帝(後リ・ナム・デ)として即位すると、古代ベトナム王国の旧王都であった「コーロア(古螺)城」跡地に遷都される。古螺城はこの570~602年の間、再び、北ベトナムの中心都市に帰り咲くこととなった。
この李賁と李佛子によるベトナム独立時代は前李朝と通称されている。
しかし、中原を統一した隋朝初代皇帝の文帝との関係が悪化し、その配下の将軍・劉方の攻撃を受けて大敗し、601年に降伏後、翌602年に一族ともども処刑されてしまう。

北ベトナムを平定した隋朝は、昌国県(タンロン城遺跡の皇城部分)を宋平県へ改称し、交趾郡(宋平郡から改名)の郡都をそのまま継承させる。また、前漢時代から続く羸𨻻県城(今のハノイ市の北西部)は交趾県へ改名される(下地図)。
戦火に巻き込まれ荒廃した 旧「コーロア(古螺)城」はそのまま放棄されることとなった。

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唐朝初期の618年ごろ、初代皇帝の李渊が全国を統一すると、交趾郡の郡役所が宋平県城から龍編県城へ移転されるも、間もなくの621年、再び、交趾郡は廃止され、新設された交州総管府(後に安南都護府へ改編)の府役所が宋平県城(タンロン城遺跡の皇城部分)へ戻され(上地図)、同時に大規模な拡張工事が実施されることとなる。以後、ベトナムは安南の地と総称されるようになる。

その後、宋平県城はベトナムの北部の政治、経済、文化の中心都市として発展し、紫城や後に羅城(大羅・ダイラ)城などと通称されようになる。 2007年の発掘調査で、唐朝時代の安南都護府の遺跡が発見されている。

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唐朝後期の9世紀末、チベット ・ビルマ語族の王国である南詔国(8世紀半ばに中国西南部、雲南省 の洱海の湖畔エリアに勃興した部族勢力)が860年、交州(安南の地)を占領する。

866年、安南都護に任命され朝廷から派遣された高駢が南詔国の勢力の駆逐し、再び、宋平県城(交州城)を奪還すると、すぐに城壁の強化・拡張工事を手掛ける。こうして、羅城はさらに巨大化され、大羅(ダイラ)城と通称されることとなった。また、同時に周囲の河川整備も実施され、結果的に今日のハノイ市の基礎を築き上げることとなり、高駢はこの業績から、後世のベトナム人に非常に慕われ、高王と尊称されている。

平定後、安南都護は廃止され、静海節度使が新設されると、高駢が初代節度使に就任して、当地を統括することとなった。下地図は静海節度使の管轄区域(968年まで)。

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904年に広州で静海軍節度使(広東・広西)が反乱を起こすと、商人出身の劉隠がその鎮圧に成功し、そのまま静海軍節度使を踏襲する。
907年に唐王朝が滅亡しても、そのまま南海貿易から上がる利益を背景にその地位を継承し、劉隠は後梁朝から南平王(南海王)に封じられる。そして、その実弟の劉龑が917年に南漢国(王都・広州)を建国すると(下地図)、完全に中原から独立を果たすこととなる。しかし、北ベトナム平原では楊廷艺、呉権(ゴークエン)などの反乱が頻発し、その統治は決して安泰ではなかった。

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938年、北ベトナムで勢力を張った呉権の制圧のため南漢国は大軍を派遣するも、大敗を喫する(白藤江の戦い、下地図)。そして、翌939年には、呉権は王を称し、こうして中華帝国圏からの完全独立が初めて勝ち取られることとなった。

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この時、呉権は王都として旧「コーロア(古螺)城」を選定し、その在位期間中の 939~944年に居住している(上地図)。
呉権の死後、北ベトナムでは再び、戦乱が勃発し、 12人の有力な土豪が互いに争う十二使君時代へと突き進むこととなる(下地図)。
こうした戦乱の中で、王都の「コーロア(古螺)城」は荒廃したようで、以後、その名は歴史から忘れ去られることとなった。

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この十二使君乱立の戦乱を統一したのが、丁朝(966~980年)を建国した丁部領である。彼はそのまま自身の地盤であった 長州城華閭洞。ハノイの南約 90km、ニンビン省の北東部に位置するホアルー)を王都に定めた。

続いて、丁朝から権力禅譲される形で権力を引き継いだ将軍の黎桓により、前黎朝(980~1009年)が建国されると、華閭洞(長州)城がそのまま王都として継承される。 1005年に初代皇帝の黎桓が死去すると、皇族どうしの内乱が勃発し、 1009年末に禁軍の指揮官・李公蘊(974~1028年)が残党勢力をまとめる形で王位に就く(後李朝の建国)。

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李公蘊は即位後すぐの翌1010年、王都を山間部の華閭洞城(長州城から長安府城へ改編)から紅河デルタの中央部に位置した大羅城(今のハノイ市中心部)に遷都する(上地図)。
史書『大越史記全書』によると、李公蘊が船で大羅城下まで至ったとき、一匹の黄金色の龍が天空へと舞い昇る姿を目撃し、李太祖はこれを天の意思に合致した吉兆として大いに喜び、大羅城を昇龍城(タンロン城)へ改称したとされる。

これに続く王朝下でも、都度、王城(昇龍城、タンロン)はその名を変えることとなったが、それまでの中華王朝支配の象徴であった旧大羅城(宋平県城、交州城)が、以後、後李朝、陳朝、黎朝、西山朝などの諸王朝の王都に選定され続けることとなり、その都市的価値はゆるぎないものとなっていく。王朝の変遷の度に名称が変更され、龍渊、龍編、中京、京都、東郡、東京、中都、上京、北城などと通称されたという。

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後李朝以前までは、城壁で囲まれた軍事拠点の意味合いが強かったハノイ市であるが、後李朝が王都に定めて以降、都市開発が進み、人口も劇的に増大していくことになる。
王都・昇龍城は内城(市区)と外城(郊外区)に分かれており、外周の全長は約 25kmにも及んだという。内城は、禁城、皇城、京城の3つで構成されていた。
禁城は皇帝、后妃、そしてその子孫らと近侍の者たちが生活した空間で、その外周に隣接した皇城は、皇帝と朝臣らが政治を行う場所であった。
京城はさらに皇城を取り囲むもので、街坊、集市、住民らの居住エリアで構成されていた。

後李王朝(1009~1225年)、陳王朝(1225~1400年)のころには、61条の街坊があったとされるが、後黎王朝(1428~1789年)と阮王朝(1802~1945年、王都はフエ)のころには 36条の街坊で構成されていたという。現在の 旧市街地 にあたる部分である。

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陳王朝の治世時代の13世紀中葉、モンゴル軍が王都・昇龍城(大羅城、ダイラ)へ侵攻し、甚大な被害をもたらす。占領された王都には、短期間ではあったが、モンゴル軍の軍政(ダルガチ政治)が敷かれることとなった。

この元軍による3度の攻撃は、陳朝の領土を荒廃させ、人口を激減させることとなる。こうして国力を弱めた陳朝に対し、対モンゴル戦争で共同戦線を張っていた南ベトナムのチャンバ王国が領土侵犯を繰り返すようになり、王都・昇龍城は幾度も占領、蹂躙される憂き目を見る。

こうした陳朝の衰退期、権臣の胡季斄が政権を掌握するようになり、1397年に王を称して、胡朝を建国するに至る(王都はタインホア ー タインホア省の省都タインホア市【清化市】)。その遷都にあわせて、タインホアは“西都”、昇龍(タンロン)は“東都”と改称されることとなる。

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しかし、朝貢関係にあった陳朝の復権を要求する明王朝の介入を受け、胡季斄が拒否すると、明朝第三代皇帝の永楽帝は大軍を派遣し(明・大虞戦争)、 1407年に王都タインホアは陥落し、胡季犛とその子の胡漢蒼は 南京 に連行され、両名ともに処刑されてしまう。

以後、北ベトナムに陳王家出身の傀儡政権(後陳朝)が擁立されるも、実質的には明朝の直接支配を受けることとなった。
昇龍城(タンロン)は東関県城へ改称された上、明朝直属の交趾承宣布政使司(交趾省)の省役所が併設され、交州府と通称された。しかし、北ベトナムでは反明を掲げる豪族、民衆反乱が頻発し、また傀儡政権の後陳朝の皇族らも反乱に加わったことで、明軍は大いに手を焼かされることとなる。

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最終的に1427年、山岳地帯の豪族であった黎利(1385~1433年)が明軍を駆逐すると、翌1428年に後黎朝を建国し、再び、ハノイ(昇龍城)は王都に定められ、 1431年、東京と改称されるに至る。
同時に、自身の挙兵の地「藍山」を藍京と改称させた(西都清化の近く)。下地図。

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1466年、黎聖宗が再び、黎朝下の行政区を改編し、昇龍城は中都奉天府へ改称され、その下に永昌県と広徳県の2県を統括することとされた(下地図)。

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その後黎朝も1789年に滅亡すると、西山朝の阮恵が 富春(フエ)を王都に定め、東京は北城と改称される。そして、自身の長男である阮光垂を派遣し、この北城に駐屯させ、北ベトナム一帯を統括させた。

1802年に阮朝(1802~1945年)が建国されると、王都フエ(富春)は 順化(フエ)へ改称される。
同時に、昇龍城は北城総鎮となり、その配下11鎮を統括する北ベトナムの中心拠点に指定される。

また直後より、後期黎朝時代に建造された昇龍城が破却され、大規模な改修工事が手掛けられて、 1805年、フランス流の稜堡式城郭(Vauban)が完成を見る。城内に北城総鎮の役所が併設された。
このとき、昇龍城は昇隆城へ改称され、あわせて、奉天府が懐徳府へ、広徳県が永順県へ改名されている。
この時代、ベトナム各地に軍事要塞が建造されており、一様に稜堡式城郭スタイルが採用されることとなった。 阮朝の初代期皇帝の阮福暎(嘉隆帝)はしばしば当地へ足を運んでおり、敬天殿前の龍庭では、度々、式典などが開催されている。時に、ここで皇帝の勅令が発せられ、また、海外の使節などに対面する場でもあった。 第二代皇帝の阮福晈(明命帝、下絵図)が、1821年に15000名から成る軍隊のパレードを観覧したのも、正門上の楼閣からであったという。

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1831年10月、明命帝が行政区域の大改革を実施し、全ての鎮を省へ改編する。 北城総鎮は廃止され、ハノイ省が新設される。昇龍城の城下町が紅河の大堤防で包み込まれる形状であったため、河内(ハノイ)省と命名され、以後、これが今日の地名へと継承されることとなったわけである。 新設されたハノイ省の省役所はそのまま昇龍城内に併設され、以後、ハノイ城塞と通称されるようになる。

このハノイ省の下には、懐徳府、応和府、常信府と里仁府の4府が配された。
さらに、懐徳府の下には永順県、寿昌県、慈廉県の3県が、応和府の下には山明県、青威県、彰徳県、懐安県の4県が、常信府の下には上福県、青池県、富川県の3県が、里仁府の下には維先県、金榜県、平陸県、南昌県、青廉県の5県が配された。

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1873年、フランス植民地軍がハノイを占領する。このとき、阮朝の重臣だった阮知方がフランス軍と交戦し、戦死している。
清仏戦争の時代、中国人の劉永福が統率した黒旗軍がハノイ市橋でフランス軍を撃破している。

下絵図は、ちょうどこの時代のハノイ城下全景を描いたもの。フランス植民地政府が作成を指示した。

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1888年、阮朝は正式にハノイ割譲に合意し、同時に、海防(ハイフォン)と 峴港(ダナン)もフランスに譲渡される。ここに仏領インドシア政府の直轄都市とされ、ハノイはフランス風の都市開発が進められることとなる。

1890年、フランス植民地政府は里仁府城内に河南省を新設する。
すぐ直後に、ハノイ省は梂多省と河東省へ分離される。
1900年代初期、フランス植民地はハノイ外城(郊外区)を環龍県とし、河東省の管轄区に組み込まれる。

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1902年、ハノイはフランス属インドシナ連邦の総督府の本拠地に選定され、その首都がサイゴンから移転される。同年に、インドシナ工業博覧会がハノイで開催された。

第二次世界大戦が勃発すると、1940年、仏領インドシナに進駐した日本軍によりハノイも占領される。 1945年に日本軍が無条件降伏すると、ベトナム連盟のリーダーであるホーチミンが主導して八月革命をスタートさせる。ホーチミンはハノイの バディン広場 で《独立宣言》を読み上げ、ハノイがベトナム民主共和国(北ベトナム)の首都ととして高らかに宣言された。

フランス植民地軍らが翌1946年に再びハノイに侵攻し、これを占領すると、ベトナム連盟はハノイ退去を余儀なくされ、ベトナムの北山エリアに籠ってゲリラ戦を展開した。
7年間もの戦争を経て、ついに北ベトナム解放軍は 1954年10月10日、首都ハノイの奪還に成功する

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その直後より、アメリカとの間でベトナム戦争が勃発すると、ハノイの交通インフラや陸橋、鉄道線路などは米軍により激しい空爆を受け、その被害は甚大となるも、ベトナム人らはすぐに自力でこれらを修復してみせたのだった。

戦争が終結し、南北ベトナムは1976年7月2日に完全統一され、ハノイが正式に統一国家の首都となる。

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