BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2017年11月中旬 『大陸西遊記』~


ベトナム 首都 ハノイ市 ① ~ 市内人口 770万人、 一人当たり GDP 4,200 USD (全国)


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  日本の函館五稜郭 に近い、フランス流の 稜堡式城郭だった 昇龍(タンロン)城跡
  世界遺産指定されている タンロン城の 皇城ゾーン
  タンロン城の 皇城正門(南門)
  【豆知識】皇城正門(南門)、その 1000年の存在感 ■■■
  旗台広場と 1954年10月10日の 軍事パレード「首都解放の日」のはじまり
  タンロン城内の 皇宮(敬天殿)跡地
  タンロン城内にたくさん残る小門 と 軍事施設群
  ベトナム人民解放軍の 総本部跡の洋館 D67 と 地下壕
  タンロン城の 皇城北門
  中国文化が色濃く残る 旧市街(ハノイ36通り)
  ホアンキエム湖 と ハノイの 繁華街(夜は歩行者天国)
  【豆知識】昇龍(タンロン)城の 歴史 ■■■




昇龍(タンロン)城跡

下絵図は、1886年当時のハノイ市一帯の地図を表す。
右手が北、下側が東となっており、フランス流の 稜堡式城郭に改造された 昇龍(タンロン)城が中央部に描かれている。その周囲には外堀がめぐらされ、現在の 旧市街(ハノイ 36通り)を横断する形で堀川が 紅河(ホンハ)とつながっていたことが分かる。

ハノイ市

もともと中国式城郭であった昇龍城が、フランス風の稜堡式城郭へ改築されたのは、1805年であった(1802年着工)。
西山朝に滅ぼされた広南阮氏の出身で、ベトナムを再統一し阮朝を再建した初代皇帝の 阮福暎(嘉隆帝、1762~1820年)が、その建国戦争の際、フランス人宣教師やその傭兵らの協力を得たことから、その治世下でフランス流の近代知識や 軍備の習得に力を入れたことにより、以後、ベトナム全土で多くのフランス流の稜堡式城郭が建造されたわけである。この昇龍城もその計画に従って大規模改修されている(ハノイ城塞)。
下絵図は、2代目皇帝の 阮福膽(明命帝)の治世時代の 1821~1831年ごろの様子を描いたもの。

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下絵図は、今日、世界遺産に登録されている 昇龍(タンロン)城跡のエリアを示している。
上絵図の緑色の部分が、下地図では③で記されている部分である。

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上地図の ⑤が、本遺跡で最も有名な皇城の 正門(南門)である(下写真左)。
城壁はかなり高く、壁の厚さも圧倒的で、堂々たる王城の威風を漂わせていた。城門へは階段で登ることができる(下写真右)。

ハノイ市 ハノイ市

城門上は、こじんまりとした庭園に整備されており、のどかな空間だった(下写真左)。結婚式の記念写真のスポットになっているらしく、筆者が訪問中にもバシバシ撮影されていた。

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上写真右にあるガラス面は、U字型の皇城正門の裏手で、1999年の発掘調査で出土した遺跡が展示されている。
現在の地表から 1.2 m下には、後黎朝時代の 宮殿中庭(龍庭)の遺跡が出土しており、当時から後方にそびえ立つ 宮殿(敬天殿)までの通路上にはレンガが敷き詰められていたことが証明された。
この地層のさらに 1.9 m地下には、より古いレンガ層が発見されており、レモンの花模様に設計されていたという。これが李朝時代のものといい、こうした発掘調査から、1010年の李朝の遷都時から、皇城 正門(南門)がこの位置にあったことが明らかにされている。
以後、さらに 敬天殿 までの一帯が発掘される予定という。



 皇城 正門(南門)

この堂々たる 皇城正門(南門)は、李朝、陳朝、胡朝、後黎朝の治世 1000年以上もの間、禁城(皇居エリア)の正門を司り、皇帝が執務を行う 宮殿(敬天殿)に直接つながっていた。

1010年の李朝による遷都当初からここに正門が建造されていたわけだが、現存する正門は 前期黎朝(1428~1527年)初期に建造されたものに端を発し、現在のような形状になったのは、17世紀の 後期黎朝(1532~1789年)のころという。
阮朝の 統治時代(19~20世紀初頭)に、さらに改修工事が施され、現存する形状に整えられている。 この城門上にある楼閣も、阮朝時代に増築されたものという。

風水に照らし合わせて、敬天殿と旗台とを結ぶ南北の直線上に位置する。城門の横幅は 46.5mあり、その厚さは 26.5 mと巨大で、城壁の高さは 6mとなっている。主に、石材と巨大な正方形型のレンガ積みで構成される。

皇城正門の中央部に設けられた最も大きな門は、皇帝専用の出入り口とされ、その左右のやや小さめの二つの門が、宮殿の臣下や皇族一族らの通用門となっていた。

この皇城 正門(南門)のことが、最初に歴史に触れられたのは、李朝第四代皇帝の李乾徳(李仁宗、Ly Nhan Tong、1066~1127年)の治世時代の 1121年に霊廟に建てられた石柱に彫られた文言という。
この石碑には、当時、正門(南門)と 巨大宮殿(敬天殿)との 広場(龍庭)で取り行われた 各種行事(政治儀式や文化セレモニー、宗教行事、紅衛兵の閲兵式 など)のことが言及されているという。
ここから、前期李朝、後期李朝を通じて、この正門は敬天殿を取り囲む建物の中でもひと際、重要視されていたことが分かっている。

1802~1805年に昇龍城がフランス流の稜堡式城郭へ全面改修される際も、正門含め皇城内部はそのまま保存され、その敷地をまるまる包み込む形でハノイ城塞が設計されたのだった。



下写真は、この皇城正門前の 旗台広場(上地図 ③)で軍事パレードが盛大に行われた当時のもの。
1954年10月10日、7年ごしの第一次インドシア戦争を経て、フランス軍をハノイから撤退させ、代わりにベトナム解放軍がハノイに入城した際の様子。以後、10月10日はベトナムの「首都解放の日」となり、今日現在、ハノイ市の記念日となっているそうだ。

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明日にでも、当時の歓喜を即座に再現できるかのように、広い草むらがそのままキープされているように見えた(下写真)。
下写真左の奥に見える 国旗台(塔自体の高さは 33.4 m、旗も入れると合計 41m)は、阮朝時代の1812年に建造され、以後、ハノイの町の象徴となってきたという。フランス植民地時代(1885~1954年)には、軍事監視台として利用されていた。
ちなみに、その横の赤い屋根の建物が、昇龍(タンロン)城遺跡のチケット売り場となっている(入場料 30,000 ドン)。

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下写真は、かつて皇宮(敬天殿)が建っていたとされる場所。中央に二匹の龍の彫刻が施された立派な石造りの階段が設けられていたが、立ち入り禁止として保存されていた。

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下絵図は、これから復元工事が始められるに際し、その予想図として掲示されていたもの。現在の洋館は取り壊される予定らしい。

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皇城内 にはいくつも小門が設けられており、その痛み具合がいい味を出していた(下写真)。
なお、皇城内の各所に洋館が建っているが、これらはベトナム人民解放軍の駐留施設跡である。

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特に、下写真左は D67と通称される、ベトナム人民解放軍の 総本部(政治局と中央軍委、国防部と 総参謀部が共同利用)が入居していた洋館である(1954~1975年、第二次インドシナ戦争=ベトナム戦争当時)。建物自体は、1967年に建造されており、内部には作戦会議室が保存されている(下写真右)。建物の壁は、厚さ 6 cmもあり、防音機能もそなえられていたという。

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この建物の特徴は、地下深くに設けられた地下壕内の会議室が観覧できる点であろう。ちなみに、皇城内には無数の地下壕が張り巡らされていたようで、上写真左の右手側にも一つ、地下入り口が頭をのぞかせているのが分かる(当時、皇城内全体が北ベトナム政府と 軍の本部基地として占有されていた)。

下写真左は地下壕会議室への入り口階段。下写真右は分厚い地下壕の鉄扉。重厚な鉄扉をかがんで入らねばならない環境は、何やら戦艦か潜水艦内にもぐりこんだ感覚を覚える。

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地下壕内の廊下や部屋のスペースはゆったりと設計されており、ベトコン兵士や市民兵たちが苛烈な戦地で構築し、血みどろの戦いに利用していた狭く不衛生な地下トンネルとは、似ても似つかない贅沢な内部構造であった。
部屋は2つあり、広い会議室 1つと通信室 1つ、そして廊下に弾薬庫が置かれていた。戦争当時は、もっとたくさんの物資が地下内で保管され、物々しい雰囲気だったことだろう。

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さて、地下壕を出て、さらに皇城の北端まで進む。
下写真は北門跡。2階まで登れる。1段1段の段差がきつい急角度の階段だった。

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タンロン城から出るときは、わざわざ皇城 正門(南門)まで戻らなくても、東西にいくつかある小門からそのまま退出できる気軽さだった。
ここからタクシーで 旧市街地 へ移動する。

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旧市街地は別名、ハノイ 36通りと通称されている通り、たくさんの小さな路地や自動車道路が網の目のように張り巡らされていた。
この無秩序な路地群が旧市街地らしさを醸し出すわけであるが、もっと意味深いのは、その一つ一つの路地に名付けられた通り名である。筆者はベトナム語が解読できないのだが、辞書で調べていくと、きちんと路地にあてがわれた漢字名が見えてくる。

例えば、上写真左は「庄氏坊(Trang Thi)=豪商の庄氏らの商家が立ち並んでいた?」、上写真右は「県坊(Huyen)=地元役所 があった?」となっており、本ページ最初の古地図の漢字表記名と一致することが分かる。

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また、旧市街地エリアには、あちこちに祖先廟が設置されていた(上写真左)。先祖を大陸中国に有する中華系移民意識の強かった阮朝時代までの名残りと言える。今では、皆、自身をベトナム人と自負して疑わない。
上写真右は、ハノイで有名なバックパッカー通り。安宿や旅行代理店が軒を連ねる。

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上写真左は、フランス統治時代に設置された ハノイ大教会(セント・ジョセフ教会、1886年築)の 正面通り(ニャートー通り)。現在、ここの通りはスタバや外資銀行の HSBCが支店を構える高級通りとなっている。
上写真右はこのすぐ近くにあるホアンキエム湖の中央部にある亀の塔。夜はライトアップされる。

このホアンキエム湖を取り囲む形で、ハノイ市の繁華街が形成されている(下写真左)。金曜~日曜日夜には、北岸の一部が歩行者天国になり、多くの市民や観光客が散策していた(下写真右)。

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昇龍(タンロン)城の 歴史

大陸中国が南北朝時代の渦中にあったころ、南朝を支配した 宋王朝(420~479年)により、今のハノイ市 中心部(タンロン城遺跡の 皇城部分)に昌国県城が築城され、宋平郡の郡都に定められる。

隋代、唐代にもこの行政区が継承され、唐代初期の 621年の史書には、「紫城」として記載されていたという。この時代、昌国県が宋平県へ改称される。
唐末の 866年、安南都護府長官として赴任した 高駢(821~887年)により、宋平県城の拡張工事が手がけられ、安南府城として生まれ変わることとなる。以後、「大羅城」と通称される。高駢はそのまま大羅城に駐留し、新設された静海軍節度使の初代に就任して、北ベトナム一帯の統治を司った。その治世時代に大羅城から 広州 までの河川交通路を整備するなど、ハノイ市の基礎を築いた人物として、今日でもベトナム人らに大いに尊敬される人物の一人となっている。

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それから、北ベトナムでは十二使君乱立の 戦国時代(965~967年)や 華閭洞(長州城)を王都に定めた短命政権の丁朝、前黎朝らの時代を経て、 1009年末に政権を奪取した将軍の 李公蘊(974~1028年)により、李朝が建国されると、翌 1010年に王都が再びこの大羅城へ戻されることとなる(昇龍城へ改称)。遷都の理由は、大羅城が北ベトナム平原の中心部に位置し、唐末に高駢が大規模改修を進めて以来、最も栄えた城郭都市であり、人材や物資も豊富ということで即決されたようである。

昇龍城へ遷都後、李公蘊は全国から多くの労働力と資源を集中させ、城内に大陸中国風の建筑群を建造するとともに、大土木工事を進めて城域を大いに拡張させる。
下絵図は、1490年当時の昇龍城の全景。

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李朝以前までは、城壁で囲まれた軍事拠点の意味合いが強かった昇龍城であるが、李朝が王都に定めて以降、都市開発が進み、人口も劇的に増大していくことになる。
当時、王都・昇龍城には 3重の城壁が設けられ、それぞれが重なりあう形で設計されていたという(上絵図)。全長 25 kmにも及んだという外周城壁は羅城(La Thanh)、中側の城壁は皇城と通称され、一番内側の城壁は 禁城(皇居)を守るものとなっていた。

城内は 内城(市区)と外城(郊外区)に分かれており、内城は、禁城、皇城、京城の 3つで構成されていた。
禁城は 皇帝、后妃、そしてその子孫らと近侍の者たちが生活した空間で、そのすぐ外側に隣接した 皇城(敬天殿など)は、皇帝と朝臣らが政治を行う場所であった。
京城はさらに皇城を取り囲むもので、街坊、集市、住民らの居住エリアで構成されていた。

以後、李朝、陳朝、後黎朝の 3代王朝の王都として繁栄する。王権変遷の都度、王城内の建物は建て替えが進められるも、一貫して、この昇龍城内の皇宮エリア内が使用されることとなった。

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1397年にベトナムの王都が 清化(西都)へ移転されると、升龍城は東都と改称される(上地図)。
1408年、ベトナムが明朝の軍事介入を受け、そのまま併合されると、東都は東関へ変更される。以後、北ベトナムでは明朝支配に対する反乱が各地で勃発し、最終的に黎利が率いた反乱軍により明軍は完全に撤退に追い込まれる。直後の 1428年、黎朝が建国され、東関は東京へ改称される。

西山朝の治世時代、東京は北城と通称される。
1802年に阮朝が建国されると、王都は南の 順化(フエ) へ再遷都され、昇龍城(北城)は北城総鎮となり、北ベトナム平原に配された 11鎮を統括する中心拠点に指定される。

また直後より、後期黎朝時代に建造された昇龍城は破却され、大規模な改修工事が手掛けられて、1805年、フランス流の 稜堡式城郭(Vauban)が完成を見る(下絵図)。
城内には北城総鎮の役所が開設された。
この改修工事の際、皇城内の建築群は保存されたようで、宮殿(敬天殿)とそれに相対する皇城 正門(南門)、その間の龍庭はむしろ修復されて再利用されることとなる。

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阮朝建国後、初代期皇帝の 阮福暎(嘉隆帝)はしばしば当地へ足を運んでおり、これに合わせて、敬天殿前の龍庭では、度々、式典などが開催されている。時に、ここで皇帝の勅令が発せられ、また、海外の使節などに対面する場でもあった。
第二代皇帝の 阮福晈(明命帝)が、1821年に 15,000名から成る軍隊のパレードを観覧したのも、正門上の楼閣上からであったという。

1831年10月、明命帝が全国レベルで行政区域の大改革を実施し、全ての鎮を省へ改編する。
北城総鎮は廃止され、昇龍城は副王都に昇格されるとともに、その城下町が紅河の大堤防で包み込まれる形状であったため、河内(ハノイ)省と改称され、以後、これが今日の地名へと継承されることとなったわけである。
新設されたハノイ省の省役所はそのまま昇龍城内に併設された。以後、ハノイ城塞と通称される。引き続き、1882年まで時折、ハノイ城塞は時の皇帝らの訪問を受け、その滞在拠点として利用されていったという。

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1888年、正式にフランスと阮朝は保護条約を締結し、ハノイ と海防(ハイフォン)、 峴港(ダナン)のフランスへの割譲が合意される。以後、フランス人の入植者らによって、ハノイ城塞は占領されるも、ほとんど使用されることなく放置されることとなる。特に、皇城 正門(南門)は3つの城門が閉じたままとなり、さらに東西に設けられていた小門 2つも完全に閉鎖され、城塞内は完全に打ち捨てられ、空洞エリアと化したようである。

最終的に、フランス植民地政府により1894年、ハノイ城塞の撤去が決定されると、1897年までに作業が完了されたという。

さらに 20世紀の激動の時代、わずかに残っていた建築群も破壊されてしまう(北ベトナム政府と軍の総本部が開設された皇城内には地下壕が張り巡らされ、地中の多くの歴史遺産が破却されたものと推察される)。ようやく 21世紀に発掘調査が開始され、一部ながら皇城エリアの遺構が明らかになっていくのであった。
2010年7月31日に世界文化遺産に登録されることとなる。
下地図は、ユネスコで指定された 世界遺産区域。

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