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ベトナム フエ市(順化市)
訪問日:2016年4月中旬 『大陸西遊記』~
ベトナム フエ市(順化市) ~ 市内人口 35万人、 一人当たり GDP 4,200 USD (全国)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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フエ市の アンホア・バスターミナル
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王城の正西門 と 傷み具合が生々しい 外城壁、外堀
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東西南北 2.5 km四方から成る 広大な城内(池や田圃、住宅地もある)
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フエの王城は、三本の川と 三角州から構成されている!!
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ベトナム人のタフさと 寛大さの象徴~ 戦争遺跡のトーチカも祠の台座に
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王宮(皇城)周辺は、かつて水田ばかりだった
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王宮(皇城)の東門 と 城壁、堀
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王宮(皇城)内の 臣下謁見の間
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ベトナム戦争時代、王城や王宮内も戦場となった ~地下壕跡
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王宮(皇城)の 全体模型
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外城壁の最南端にある 旗台
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驚愕!市政府公認「薬局の看板」が萌え萌えだった。。。
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フエ ⇔ ダナンの 都市間バス
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フエ(順化)市の 歴史 ~前漢時代からの 盧容県城
まずは、翌日の
ドンハ
行きの都市間バスを確認すべく、
バス・ターミナル
を探した。王城の北西部に、アンホア・バスターミナルがあった。ホテル地区からバイク・タクシーで 20分だった(10万ドン)。下地図。
ここには、ラオバオ行(ラオス国境直行)、
ドンハ
行、ドンホイ行などの都市間ローカル・バスが、たくさんひしめき合っていた。バスの運転手や勧誘係の者が積極に声をかけてくる。そこにはアジアの熱気があった。下写真。
だいたいの手ごたえを確認してから、通りがかった普通の自動車タクシーで王城の「
正西門
」まで送ってもらった(25,000ドン)。下地図。
この正西門から城内に入る(下写真)。近代的な補修がなされずに、放置された城壁の傷み具合が生々しく、思わず見とれてしまう。
外堀の幅は約 22 m、深さ 4 mで、城壁の高さは 6.2 mほどという。
この城壁内には、広大な旧市街地が広がっていた。まさに、阮朝時代の
王都
そのままの規模である。2.5 km 四方の正方形をしている(城壁の総延長は約 9.9 km)。徒歩だと、東西 30分強、南北 30分強といった感じだ。
その内部の面積の広さに圧倒された。上地図の通り、西門から王宮の南門まで散歩してみた。ページ上の現代地図と直前の阮朝時代の古地図を比べてみると、現在は、住宅こそ増えているものの、池や橋、路地の位置がそのまま継承されていることが分かる。
下写真右のため池は、現代地図にも記載されており、また古地図では「田籍」と記されていた。
さらに、ひたすら東へ進む。そして、 右手に 内城河(かつての河川の一部で、御河【グーハー】と通称されていた)が見えてくると、 河畔まで南進してみた。下写真。
元々、この王城一帯は、
3本
の河川が並走する三角州地帯であったらいしい。
下は、広南国時代(広南阮氏)の 王城(”富春城”と称されていた)が移転を繰り返し、 最終的に三角州を 運河(通称:護河)で変形させて、巨大な王城に整備されていった変遷を表している。
現在、眼前に広がる 城内河(御河)は、もともとが河川なのであった。
西山党(Toy Son)の農民反乱の平定後に建国された阮朝は、その建国過程からフランスの協力を受けており、 その後も政治的、軍事的に多くの影響を与えられていった。この最終形態の王城も、中華王宮風を メインとしつつ、フランス流の稜堡式城郭スタイルを取りいれた形で建造されている。
この城内河を渡る 橋(通称:御河橋)のたもとに、ベトナム戦争時代の
トーチカ
が残されていた(下写真)。地元住民によって、祠に利用されており、ベトナム人のタフさと寛大さを思い知るに十分なシンボルのような気がした。
この他にも、王城や王宮の城壁上などにトーチカがそのまま残されていた。
御河橋(当初は木造であったが、1820年5月に石造化され、橋の上に屋根が架けられていたという)を渡って、そのまま南進を続けていると、またまた巨大な池が見えてきた。前述の古地図では、「農耕」を記された地区である。かつて、王城内には広大な水田が広がっていた。。。。
下の古写真は、1932~33年当時のもの。王宮の回りには、広大な
水田
が広がっていたことが分かる。
さらに南下すると、
右手
に王宮(皇城)の堀が見えてくる。
王宮(皇城)の城壁沿いに南下を進めていくと、南側の王宮正門に到着できた。
下写真は、王宮(皇城)の東門にあたる。かつては、城門があったが、今は埋められている。
東門を越えて、さらに南へ(下写真)。
王宮城壁(全長 2.4 km)の痛み具合が、何とも心地よい(下写真)。
上写真の先に見えるのが、王宮の 正門(南門)。ここで入場料 15万ドンを支払い、王宮へ入場することになる。
王宮に入って正面の建物が、
皇帝
が臣下に謁見する広間となっており、各身分に応じて起立するように表示されていた(下写真)。この辺は、
韓国の王宮(昌徳宮)
でも同じだった。
下の古写真は、阮朝時代末期の臣下たちが整列した様子。
下写真左は、そうした居並ぶ臣下を謁見する際、皇帝が座った玉座である。ここから後ろが、皇族の居住空間である 王宮(皇城)エリアとなっていた(下写真右)。
ここも相当に広い。建物自体は、ほとんど残されていない。
なお、阮朝の 王宮(皇城)も、中国同様に、紫禁城(the Forbidden Purple City Tu Cam Thanh)と 呼称されていた。1802年に初代皇帝の 阮福暎(嘉隆帝)により建造が開始され、 2代目皇帝・明命帝の治世時代の 1832年に完成している。のべ 30,000人の労働力を動員して建設された王宮には、かつて 40以上の建物があったというが、今では 5つしか残っていない。
一方で、皇帝の母君のために建造したという 宮殿(1804年)の裏庭には、ベトナム戦争時代の
地下壕
が残されていた。
この王宮内も、ベトナム戦争の戦場となったことを物語る遺物であった。
出口へ向かう途中で、王宮の東門の楼閣上から城壁や堀を眺めてみた。下写真。
城壁自体はかなり低く、しかも薄っぺらいだけで、特に見応えはないが、このスケール感は圧倒的である。
下は、
王宮の模型
。
外城壁の見事さは特筆に値する。この傷み具合も見ごたえがある。
王宮
観覧後、徒歩でホテルまで戻る。
途中、外城壁の最南端に位置する旗台部分を一周してみた。
なお、もともとはフランス流の稜堡式城郭のセオリー通り、大砲戦を想定して、外城壁は土塁で建造 されていたが、洪水などの被害で土塁が崩落する事件が相次ぎ、急遽、レンガ積みの城壁へと全面改修されたという(1823~32年)。
大砲戦が主流の時代にあって、煉瓦積みの壁は、その破片が飛び散る可能性が高く、フリな構造であったが、いつ起こるか分からない戦争の目的ではなく、日常生活に支障のないように、ということで洪水、治水対策が優先されたのであろう。
フエの街は、相当に外国人の滞在と遊びに慣れているようで、夕方以降になると、急に人力車やバイクタクシーが「女」「女」と声をかけてくる。全部込みで 35 USDでいいとか。
昼間は休んでいるポン引き運転手たちが、涼しくなった夕方から仕事を始めているのだろう。
そもそも、ベトナムは朝 6時から 9時ぐらい、そして、夕方 16:00以降が、過ごしやいタイミングとなる(気温が低くなる)。
これ以外の日中は、
ベトナム人
自体があまり外を出歩かない。 昼間から観光に勤しむ外国人たちを、「大変だね~」と眺めた後、人々は朝と夜に外出しだす。
上の写真は、フエ市内の街角に至るところで見かけた。
何か、特別マッサージのお店か、若者のコスプレ館、女の子のためのコスメ系ショップ かと思いきや、市政府公認の薬局の看板だった。
昼間から、萌え萌えの怪しい雰囲気を醸し出していたが、夜になると、ますますその魔力を増して 見えるのは、筆者だけではあるまい。。。
。
ダナン
→ フエ行のバス
前日までにダナン市内の ホテル・フロントで予約する必要がある(8:00発は 12万ドン、17:00発は 10万ドン)。
7:50ごろに、ホテル・ロビーに迎えにきてくれた。それから 30分ほど市内各所のホテルを巡って、乗客をピックップし、8:25ごろにバス乗り場に到着し、5分後に大型バスに乗換て出発する。
半寝台バス・スタイルだった。乗車の際、靴を脱ぐように言われた。車内は皆、裸足で寝転がる感じ。
大半は寝ているが、一部は携帯電話を眺めていた。
9:30ごろにトンネルを抜けて、Viem Xoang Muiの街に到着した。ここで、30分の休憩タイムがあった。
10:30に再出発し、11:15にフエに到着。
車内は結構、クーラーが効いてくるので、靴下や長袖があるといいかも。
フエの新市街地にある Google Hotelの前に到着した(下地図)。
筆者は Ideal Hotelに宿泊した(上地図)。
Google Hotelからちょうど、まっすぐ Tran Cao Van 通りを東進したところにある。
11:30過ぎに到着したが、そのままチェックインさせてくれた。
フエ →
ダナン
行のバス
出発前日までに、フエで宿泊した ホテル(Ideal Hotel)のフロントで予約する必要がある、ということで、代金 90,000ドンを払って、領収書をもらった。
午前 8:15と午後 13:15の 2便で、料金はともに同じ 90,000ドン(普通に座席に座るタイプ)。
ホテルまで迎えに来てくれるという。
ダナンに到着したのは、11:30だった。Tran Phu通り沿いの、ダナン歴史博物館よりもさらに北側で下車した。
ここからホテルへ移動。11:45に、ホテルに到着できた。バイクタクシーで 40,000ドン。
【
フエ(順化)市の 歴史
】
秦朝滅亡に伴い、中原が乱世の渦中にあった紀元前 203年に建国され、 南シナ海一帯の南海貿易を独占し、巨大な経済力を背景に独立を保ってきた 南越国(本拠地:
広州
) も、ついに紀元前 111年、前漢朝 7代目皇帝・武帝により攻め滅ぼされてしまう。
武帝は南越国の旧領を 9郡に分割する ― 南海郡、蒼梧郡、郁林郡(鬱林郡)、 合浦郡、珠崖郡、儋耳郡、交趾郡、日南郡、九真郡(郡都は 胥浦県城 【現在のベトナム・タインホア省の 省都タインホア市から北西へ 5 km】)である。
この時代、前漢王朝は、現在の
ダナン市
の北に横たわる急峻な山脈地帯 (
ハイヴァン峠
)までをその版図とした。
このとき、現在のフエ市の中心部に、盧容県城が開設される(交州日南郡に帰属)。 当時では、前漢朝の最南端の県城であった。下地図。
光武帝(在位25~57年)により後漢朝が建国された(25年)ばかりの 40年3月、交趾郡を地盤とした地場豪族らにより、独立運動が勃発する。世にいう 徴姉妹(徴側と徴弐の姉妹) の乱である。
合浦郡、九真郡、日南郡一帯の諸県や諸豪族たちも合流し、巨大勢力が結集される。
これに対し、後漢の光武帝は 41年、建国の功臣で絶大な信頼を置いていた 馬援(後漢末期の三国時代に活躍する 馬騰・馬超親子の祖先)を伏波将軍に任命し、 2万の兵士から成る南征軍を送り込む。
洛陽からの遠路と、ベトナムの高温多湿に苦しみながらも、ようやく 42年4月、馬援の率いる朝廷軍は交趾郡入りを果たす。そして、浪泊の戦いで徴姉妹の南越反乱軍を徹底的に撃破し、徴姉妹は共に捕縛され、処刑される。
引き続き、馬援は残党狩りを実施し、中部ベトナムの 日南郡 (郡都は 西卷県城【現在の ベトナム・クアンチ省の省都
ドンハ市
】)全土を回復するに至る。
さらにハイヴァン峠を越え、
ダナン
以南の征服を試みるも、 ベトナムはさらに南へ広く、馬援はいちおうの区切りとして、自身の征服地の最南端の地に二本の銅柱を立て、ここを後漢王朝の南の国境線としたと伝承されている。下地図。
同時に、ハイヴァン峠以南の占領地を統括すべく、最南端の県役所として 象林県(現在の クアンナム州Duy Xuyen区。ホイアン市の南西部)を新設する(日南郡に帰属)。上地図。
しかし、象林県城は援軍要請が難しいハイヴァン峠の南側に位置したこともあり、孤立無援の中、原住民らの反乱に度々襲われ、何度も官舎を焼き払われたという。
ついに後漢末の 194年、象林県の 人事局長官(功曹)の子であった 区逵(別名:区達、区連、釋利摩羅)をリーダーとする反乱軍が象林県長官を殺害し、当地を完全占領すると、直後に 旧象林県城(現在のクアンナム州の Duy Xuyen区)を王都とする 林邑(ラムアップ)国を建国し、完全に漢王朝の支配から脱することとなる。
これ以後、再び 盧容県城(現在のフエ市)が中国側の最南端拠点となるも、度々、林邑国との間で戦闘があり、三国時代に華南一帯を統治した呉でも南端までの監視がなかなか行き届かず、248年の趙嫗の乱が勃発することとなる。
これは、九真郡一帯の豪族らが 23歳の少女であった 趙嫗(趙氏貞)を 頭領「麗海婆王」に祭りあげ、 結集して九真郡内の呉の勢力打破を図ったものだったが、交州刺史に任命され荊州から 駆け付けた陸胤が鎮圧軍を率いて南下すると、半年に及ぶ激戦の末、平定されてしまうこととなった事件である。
これにあわせ、呉は日南郡をも再併合し、再び、その勢力を
ハイヴァン峠
まで回復させている。下地図。
しかし以後も、林邑国は徐々にその勢力を北上させ、最終的に南北朝時代の 南斉朝(479~502年)のころには、日南郡全体を併合するに至る。
劉宋朝が建国された 420年、初代皇帝の武帝が交州刺史の杜慧度を派遣し、林邑国の征伐を企てると、林邑国はすぐに投降し、劉宋朝に朝貢するようになるなど、一時しのぎの服従を繰り返しつつの気の長い勢力伸長であった。
林邑国(757年に占城チャンバ王国へ改名)はバラモン教を国教とし、漢民族からは完全なる異民族として認識されていた。
時は下って 13世紀後半、モンゴル軍が北ベトナムへ侵攻すると、これに対抗すべく、長らく対立した北ベトナムの大越国と、南の チャンパ王国(この当時の王都は佛誓城 ヴィジャヤ。下地図)が連合を組む。
こうした良好な関係は戦後も続き、チャンパ王国の皇室と 大越国(陳朝)の皇室との結婚が決定され、陳朝の上皇であった陳英宗はその妹である玄珍をチャンパ国王へ降嫁させている(1306年)。
その見返りに、チャンパ国王は国境地帯の烏州と 哩州(今のフエ市)を陳朝へ献上する。下地図。
翌年、陳朝は烏州と哩州を、それぞれ順州と化州へ改称する。しかし、これ以降、豊かな土地柄であった両州を失ったチャンパ王国では不満が募り、度々、両者の間で戦端が開かれることとなる。
チャンパ王国の要請を受けて、この対立に介入した明朝が 大越国(陳朝)を滅ぼし、 1405~1426年の間、北ベトナムを占領すると、順州と化州の 2州が合併されて、順化府(今のフエ市)が設置され、交趾布政使司の管轄下に組み込まれる。
間もなく、北ベトナム地方の明の勢力を駆逐した黎王朝は、順化府を順化承宣道へ改編し、この行政区をそのまま継承する。
こうして今日まで続く 順化(フエの中国語名)の地名が定着していった。
しかし、引き続き、北ベトナムでは、度々、王族や有力豪族どうしの戦闘と内紛が繰り返され、この政争に敗れた有力貴族の一派の阮潢が南部の辺境の地であった 順化州・広南州の長官へ左遷されると、フエ(順化府城)を本拠地として、半独立政権(広南国)を作り上げるまでに復活する。
以後は、北ベトナムの鄭氏や莫氏らと戦い、ベトナムを南北に二分する勢力圏を築き上げた。下地図。
この頃から、(広南国)王都フエは南ベトナム側の中心都市として君臨し、最終的に阮潢の後裔である阮福暎が、ベトナム最後の 王朝・阮朝を建国して(1802年)以後も、そのまま中心都市として存続し続けた。上絵図。
こうして 1558~1945年の 400年以上にわたり、広南阮氏、西山阮と阮朝などの各王朝の王城がフエに開設されることとなる。
17世紀中にフエは、順化府城から富春城へ改称されている。また別に、京師、京都、神京、長安などの敬称も使われた。下地図。
19世紀に入り、フランスがベトナムへ進出してくると、間もなく保護国化され、フエ地方は承天省順化市へ改編される。
下の古写真は、阮朝末期の頃の騎馬隊の様子。やはりアジアの馬は、小柄だったようだ。
1945年にはベトナムで八月革命が起こり、フランスによる 80年以上もの植民地統治と、日本の 5か月あまりの軍事進駐が終わりを告げる。このとき、ベトナム最後の皇帝であった 保大帝(阮福晪)もまた、8月30日をもって退位させられる(下写真)。
こうして 順化(フエ市)の、ベトナムの首都としての時代は終焉を迎える。
1947年、フランスが復権を目指して軍事侵攻を開始し、また後に米国による軍事介入が開始されると、ベトナムは 30年以上に及ぶ内戦時代へ突入する。下地図。
1954年のジュネーブ協定に基づき、当初、フエ市は南ベトナムの領土とされたが、南北分断の北緯 17度線に近かったため、ベトナム戦争中、多大な戦火に巻き込まれることとなった。
フエ市の伝統的建築群は、1885年のフランスと清王朝との戦争時にはまだ残存されていたが、1947年の第一次インドシナ戦争と 1968年からのベトナム戦争を経て、完全に破壊されてしまう。下地図。
最終的に 1975年3月26日、北ベトナム軍によりフエは完全に占領されることとなる。
現在は見事に復元され、世界文化遺産(1993年)に指定されている。
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