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中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



福建省莆田市 ~ 人口 331万人、 一人当たり GDP 43,000 元


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  莆田県城(興安州城、興化府城)
  仙游県城
  興化県城



【 莆田市の歴史 】

夏朝、商(殷)朝、西周朝の時代、現在の福建省一帯は七閩の地(百越の一つ)に分類されていた。春秋時代に入り江東地区に勢力を張った越国も、戦国時代初期に楚国により滅ぼされ、その旧越国の民衆や貴族らが福建省一帯へ避難し、原住民らとの混血・同化が進んだことで、閩越の地と総称されるようになる。
紀元前223年に楚国も秦に滅ぼされ、221年には秦による中原の統一が成る。 秦朝はすぐに中原周辺に割拠した蛮族らの土地へも勢力拡大を図り、 最初にこの閩越の地(現在の福建省一帯)へ遠征軍が発せられ、 そのまま併合されることとなる。この閩越の地にも中央集権支配体制の導入を図るべく、 翌年、秦朝により閩中郡の郡役所が東冶県(今の福州市閩侯県)に開設される。しかし実際は 閩越族長の無諸による地元支配を追認した間接支配となったようである。

この閩越族長の無諸は、秦末の中原における戦乱の際、前漢の初代皇帝となる劉邦を 支持したことで、建国の功臣の一人に列挙され、引き続き閩越の地の直接支配を追認されることと なり、紀元前202年、閩越王に封じられる。引き続き、「東治県(冶県)」の地に閩越国の王都が開設された。 現在の莆田市域もこの領土下に含まれた。

莆田市

しかし、前漢第七代皇帝の武帝により、紀元前111年に広州に勢力を張った南越国が滅ぼされ、その討伐戦に協力した閩越国はその領土保全を 引き続き認められたが、翌紀元前110年より前漢朝は閩越国への締め付けを強化する。領土内の閩越族らの一部が江東地区へ労働力として強制移住させられ、 閩越国の王都として繁栄を極めた「東冶県(冶県)」も人口・産業激減から衰退していくこととなる。
長らく衰退の一途をたどり瀕死状態にあった王都「東冶」であるが、最終的に紀元前85年、閩越国が廃止され、 前漢朝による直接統治が導入されることとなる。「東冶県(冶県)」の地に県役所が新設され、 この地方の復興が推進されていく(会稽郡に帰属)。

後漢朝初期の26年、冶県城内に東部侯官都尉という役所が設置される(そのまま会稽郡に帰属された)。

後漢末期の196年、孫策が江東地方の軍閥平定戦を展開した際、 賀斉を孝廉(監督官)に就け、この福建省北部一帯の安定化を進めさせた。 間もなく、孫策の支配地拡大に反対する会稽郡太守の王朗が挙兵するも、 孫策軍に敗れ、東治城(福州市閩侯県)へ逃亡する。

このとき、東治県長官にあった商升が 王朗を保護して挙兵したため、孫策は永寧長官であった韓晏を会稽南部都尉(後漢朝により設置されていた 東部侯官都尉を改編して孫策が新設した官位)として 商升と王朗の連合軍追討を進めさせた。しかし、韓晏は商升らの軍に敗れ、 代わって賀斉が会稽南部都尉に任じられる。この知らせを聞いた商升は、 賀斉の武名を恐れ、投降を図るも、連合軍を組んでいた張雅と詹彊らの反対にあい、 暗殺されてしまう。こうして、張雅は自ら尤上将軍を名乗り、 会稽太守を称するようになる。しかし、張雅は賀斉の軍に大敗し、すぐに詹彊も賀斉に投降することで、 孫策は福建省の地の平定に成功する。 このとき、東治県(治県)が侯官県へと改名されることとなった。 現在の莆田市一帯もここの管轄域に組み込まれる。

最終的には260年、会稽南部都尉から建安郡(郡役所は建安県城内【今の福建省建甌市】に開設)が分離・新設され、 侯官県はここに移籍された(典船校尉が併設される)。

西晋朝時代の282年には晋安郡(建安郡から改称)侯官県に、
南北朝時代の東晋朝の治世下では南安郡に属した。

南北朝時代の陳朝の統治下の568年と、隋朝初期の589年の2度、侯官県から莆田県が分離・新設されるも、都度、すぐに廃止される。このころ、莆田市一帯は豊州(今の泉州市)南安郡と泉州(今の福州市)に帰属していた。なお、”莆田”の地名であるが、元来、この地域は蒲草が生い茂り、遠浅の海と沼地が広がる土地柄で、最初に開拓した人々はまず蒲草を取り除き、海水を締め出して、農地を開墾してきた歴史を反映して命名されたとされる。

唐代の622年、南安県から分離され、莆田県が再設置される(豊州に帰属)。 699年、莆田県の西部が分離され清源県が新設される。この清源県と莆田県は武栄州(後に泉州へ改称)の管轄下に配された。 742年、泉州が清源郡へ、また清源県は仙游県へそれぞれ改称され、莆田県と仙游県の2県はそのまま清源郡に属した。またこの後、清源郡の地名は泉州、清源軍、平海軍へと変更されていくも、その間、一環して莆田県と仙游県はここの統括下に置かれた。

莆田市

北宋時代の979年、宋太宗は北漢を滅ぼし、中原の統一を成す。すぐに全国の統治体制の再編を進め、その一環として、莆田県、仙游県、永福県(今の永泰県)、福清県の4県の一部ずつを分離して、興化県(県役所は今の仙游県游洋鎮に開設)が新設され、同時に、この県城内に太平軍役所も設置される。
翌980年、太平軍は興化軍へと改称される。あわせて、平海軍(今の泉州市)の管轄下にあった莆田県と仙游県の2県がこの興化軍の管轄下へ移籍される。
当時、興化軍は両浙西南路に属し、建州、福州、泉州、漳州、汀州、南剣州、邵武軍とあわせて、八閩と呼称されるまでに繁栄した重要都市に成長する。その興化軍の行政区域はだいたい今の莆田市域と同じ範囲となっていた。983年、興化軍役所が莆田県城へ移転される。 985年には、両浙西南路が分離され、福建路が新設され、以後、興化軍はこの福建路に帰属されることとなる。

南宋時代の1276年、恭帝が王都・臨安(今の杭州市)にてモンゴル軍に降伏する。しかし、南宋の残党勢力は益王趙昰を担ぎ出して、さらに南方へ逃げ延び、同年5月に福州城内にて王位継承を宣言させ、端宗を擁立するに至る。このとき、元号を景炎に改め、福州は福安府に昇格され、暫定的な王都と定められた。しかし、同年11月、モンゴル軍の攻撃により福州城も陥落し、南宋軍はさらに海路、華南地方への逃亡を余儀なくされる。
翌1277年、南宋軍はモンゴルの手に落ちていた興化軍城の再奪取に成功する。この快挙を記念して、 端宗が興化軍を興安州へと改称するに至る。このエピソードから、莆田市の別称は今でも”興安”と 呼ばれることとなっている。しかし、すぐにモンゴル軍により興安州城は陥落してしまうのであった。その後、さらに南へ移動した南宋勢力とモンゴル軍との戦いは1279年の崖山の戦いまで続くこととなる。

元朝は占領地に行中書省を設置し、統治体制を整備していく。このとき、興安州も興化路へと改称され、江浙行中書省の管轄下に置かれる。興化路役所が開設された莆田県城内には総管府や録事司が同時開設され、莆田県、仙游県、興化県の3県を統括することとされる。
また、1313年には興化県役所が游洋鎮から広業の湘溪(今の莆田県新県郷)へ移転される。

莆田市

元朝末期には中国各地で反元抗争が勃発し、泉州莆田でも亦思法杭の兵乱が起こっている。 1367年には、福州参政の文殊海牙が莆田県城を開城し、明の朱元璋軍に降伏することで、興化路もまた明の勢力下に組み込まれることとなる。

明朝建国の翌年である1369年、興化路が興化府へと改称される(福建行中書省【後に福建承宣布政使司へ改称】に帰属)。興化府役所では録事司が廃止されるも、元朝時代と同じ莆田県、仙游県、興化県の3県を統括するものとされた。
明代の中期になると、現在の莆田市一帯に疫病が流行し、田畑は荒れ、さらに野生の虎や倭寇などの海賊集団の跋扈もあり、人口が激減する。これにあわせて、行政区の合理化が図られ、 1448年に興化県役所が閉鎖される。さらに、武化郷と長楽郷が合併され広業里となり、また莆田県と興泰里、福興里、来蘇里が合併されて興泰里となり、仙游県の行政区に編入される。

時は下って、清朝の時代、基本的には明朝の行政区がそのまま継承される。興化府はそのまま残され、莆田県と仙游県の2県を統括するものとされ、福建省閩海道に属した。清朝中期の1705年には莆田出身の林麟焻と朱元春が『莆田県志』36巻を編纂している。また清末より教育制度の充実が図られ、この時に設置された哲理中学(1878年)は今の莆田第二中学となり、創弁興郡中学堂(1906年)が現在の莆田第一中学へと継承されているという。

莆田市

なお、莆田市中心部にあった莆田県城跡(興安州城、興化府城)であるが、南宋末期には一時、対モンゴル戦の勝利の地として漢民族のシンボルとまでなった城跡も、今では全く城壁も城門も残されていない。北門側にわずかに堀川跡が公園池として残るのみである。しかし、城郭都市の様子は、旧市街地に残る路地名や地名にしっかりと刻みこまれており、かなりスケールの大きな城域を有していたことが見えてくる。古城路、倉后路、衛后路、南門路、東大路、東門肉店、西門小区、辰門兜市場、府前路、馬巷街、后巷街、北大北街、城門路など。


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