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中原統一後の 秦の始皇帝 と 華南遠征

0、秦の始皇帝の 登場以前(秦国の強大化)


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中原統一後の 秦の始皇帝 と 華南遠征



1、秦の始皇帝 年表

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紀元前
年度
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始皇帝
数え年

259年
2月
1歳  趙国の 王都・邯鄲 にて、人質生活中の子楚の子として誕生する。
 「政」と命名される。

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251年 9歳  秦国王在位 56年に及んだ、曽祖父の 昭襄王(3代目秦王。紀元前 325~前 251年)
 が没する。

 彼の治世時代の紀元前 260年に「長平の戦い(下地図)」で趙国軍を大破すると、
 そのまま紀元前 258~257年にかけて趙国の 王都・邯鄲を攻撃する。人質だった
 政の 実父・子楚は処刑の危機に直面するも、大商人・呂不韋の手引きで邯鄲を
 脱出し、そのまま秦国の 王都・咸陽 に帰国する。その妻と政は、呂不韋から
 賄賂を受けた趙国豪族に預けられる形で保護されるも、さまざまな嫌がらせを受
 けたとされる。
 さらに翌紀元前 256年、秦国は西周王朝にとどめを刺し滅亡に追い込んだ。

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250年 10歳  祖父の 安国君(紀元前 302~250年)が即位し、4代目秦王・孝文王となる。
 この時、秦国に戻っていた 実父・子楚が皇太子に指名される。
 しかし、高齢だった孝文王がわずか在位 3日で死没すると(53歳)、同年中に
 子楚が 5代目秦王・荘襄王として即位する。同時に呂不韋が丞相に、政が
 皇太子に任命されると、趙国は人質だった政とその母を丁重に秦国へ送り
 返すこととなる。

 荘襄王の治世時代、即位翌年の紀元前 249年には東周王朝を滅ぼし、さらに隣接
 する 魏国、韓国、趙国へ侵攻して一層の攻勢を強めていくと、紀元前 247年、
 魏国昭王の 皇子・信陵君が 5ヵ国連合軍を編成して函谷関まで押し返してくる
 (河外の戦い)。この時、秦は魏国・安釐王(信陵君の同父異母の実兄に相当)
 と信陵君との兄弟不仲を利用して信陵君を下野させ(後に憤死する)、窮地を脱
 することに成功する。

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246年
5月
14歳  父の荘襄王が死没すると(35歳)、13歳で政が 6代目秦王に即位する。
 補佐役として、呂不韋が相国に就任する。

 紀元前 242年、秦軍は反転攻勢して魏領へ再侵攻を開始し、長平、雍丘、山陽など
 20城を占領する。これに危機感を抱いた 楚国、趙国、魏国、韓国、燕国の五ヵ国
 は連合軍を組み秦を攻撃することとなり(総大将は楚の考烈王で、前線総指揮は
 配下の春申君が執る)、翌紀元前 241年、五国合従軍が再び函谷関にまで攻め込ん
 でくる。しかし、秦の抵抗激しく函谷関の戦いで敗退を余儀なくされると、
 以後、諸邦らは秦によって各個撃破されていくこととなる。

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238年 22歳  元服する。大后(政の母親)の 愛人・嫪毐(ろうあい)の反乱鎮圧に乗じ、
 呂不韋の勢力を排除する。

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237年 23歳  呂不韋を相国職から罷免し、 封地・河南洛陽 での蟄居を命じる。
236年 24歳  未だ強大な存在だった呂不韋を封地から追放し、蜀への流刑命令を出す
  (翌年、流刑地への移動途上、呂不韋は失意のうちに服毒自殺して果てる)。

233年 27歳  食客として招いた法家の韓非子が毒殺される。
230年 30歳  韓国の 王都・陽翟 を占領し、韓国が滅亡する(内史騰が征討)。下地図。
  紀元前 238年から即位していた韓王安は、僻地へ流されて軟禁され、
  最終的に始皇帝によって処刑される(紀元前 226年、享年 不明)。


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228年 32歳  趙国の 王都・邯鄲 を占領し、趙国が滅亡する(王翦が征討)。下地図。
  紀元前 235年から即位していた趙王迁は、房陵(今の湖北省十堰市房県)の山奥
  へ流され、そのまま天寿を全うした(紀元前 222年までに死去。享年 不明)。


 趙国の残党勢力が北の地に「代国」を建国。
 母の大后が死去。

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225年 35歳  魏国を滅ぼす(王賁が征討)。下地図。
  紀元前 228年から即位していた魏王假は、王都・大梁城が水攻めされる中、
  秦軍に降伏し、その場で処刑される(享年 不明)。


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223年 37歳  楚国を滅ぼす(王翦が征討)。下地図。
  紀元前 228年から即位していた楚王负刍は、庶民の身分へ落とされ、
  以降は不明(享年 不明)。


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222年 38歳  燕国を滅ぼす(王賁と李信が征討)。下地図。
  紀元前 254年から即位していた燕王喜は、逃亡先だった遼東郡へそのまま流された後、
  天寿を全うした(享年 不明)。


 嶺南地方と長江水脈をつなぐ 大運河「霊渠」の建設が着手される。

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221年 39歳  斉国が降伏し(王賁、蒙恬、李信が征討)、中原が統一される。下地図。
  紀元前 265年から即位していた斉王建は、今の河南省新郷市輝県の山中に
  幽閉され、食糧を与えられず同年中に餓死する(享年 59歳)。


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 全国を 36郡に分け(下地図)、中央集権統治体制の導入を図る。

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 始皇帝と称し、別邸の信宮を造成し、極廟と命名する。
 (天上で不動の北極星になぞらえた)


220年 40歳  一回目の諸国巡行を実施。
219年 41歳  屠睢を総大将、趙佗を副将とし第一次嶺南遠征軍(総勢 50万)を派兵する。

218年 42歳  二回目の諸国巡行を実施(下地図)。

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215年 45歳  韓終・侯公・石生らに、仙人の不死薬を探索させる。
 蒙恬に兵 30万を託し、胡を討伐しオルドス地域を平定する(下地図)。

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214年 46歳  8年にも及ぶ大工事の末、運河「霊渠」が完成する。
 任囂を総大将、趙佗を副将として第二次嶺南遠征軍を派兵する。

213年 47歳  嶺南地方の平定に伴い、桂林・象郡・南海の 3郡を設置する。
 万里の長城の修築工事を開始する(オルドス地方に駐屯中の蒙恬が担当)。
 李斯の進言で書物をすべて焼く(焚書)。

212年 48歳  巨大王城・阿房宮の造成を開始する。
210年
7月
50歳  五回目の全国巡行中の旅先で死去する(下地図)。

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209年 --  始皇帝の末子である胡亥が、2代目皇帝として即位する。
 陳勝・呉広の農民反乱が勃発する。下地図。

207年 --  2代目皇帝が宦官趙高により自殺に追い込まれ、子嬰が 3代目皇帝となるも、
 翌年、劉邦に続いて項羽が咸陽城に入城してくると、一族ともども処刑される。
 秦王朝の滅亡。下地図。

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206年 --  楚漢戦争に勝利した劉邦により、前漢朝が建国される。
203年 --  趙佗により、華南地方に南越国が建国される



2、秦の始皇帝と華南遠征


中原統一後の 秦の始皇帝と 華南遠征

前年に 強敵・楚国を滅ぼし(上地図)、中原統一が目前となっていた紀元前 222年、 始皇帝は 嶺南地方(大庾嶺・騎田嶺・萌渚嶺・都龐嶺・越城嶺の「五嶺」より南部、 現在の広東省と広西省一帯を指す)の越族らとの交易ルートの整備拡大、および百越族が跋扈する華南エリアの武力併合を企図し、 霊渠という運河建設を開始する。 (中原側)北向きの長江水系である湘江南の広東平野へ流れる珠江水系の漓江 とをつなぎ合わせる、 東西 34 kmにも及ぶ高原地帯での運河建設となった(下地図)。

嶺南地方との間には、 巨大で分厚い山々が遮り、華南の高温多湿の気候風土にあって、寒冷な中原エリアの漢民族が得意とした兵馬の機動力や 水運ネットワークが活かせないため、この水運ルートの整備による短期決戦が企図されたわけである。

しかし、この大工事の前後より、嶺南地方の 諸部族(百越民族)らの反秦意識が急速に高まっていく。

その背景として、下記の点が指摘できる。

1、嶺南貿易を独占してきた旧楚国の商人、豪族や嶺南地方の有力者らが既得権益の喪失を危惧
2、運河工事の夫役要請や漢民族の流入といった秦朝側からの圧力への不満
3、前年に滅亡した旧楚国の残党勢力の跋扈

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そもそも春秋戦国時代以前、嶺南山脈以南に住む人々は、中原の漢民族から「南蛮民族」と呼称されていた。 春秋時代後期の紀元前 473年、越国が呉国を滅ぼし、呉文化を吸収した越国文化はますます隆盛を極めるも、 紀元前 334年に楚国により滅亡に追い込まれてしまう。このとき、大量の旧越国の民衆らが 流民と化して南方へ避難し、南蛮民族らとの融合が進むこととなった。こうして派生した数多くの 文化集団や集落地が、以後、中原の人々から「百越民族」と蔑称されていたのだった。

こうした背景により、嶺南地方の諸豪族らとの関係断絶が決定的となる中、運河工事が作業途上の中、紀元前 219年、秦の始皇帝は屠雎を総大将、趙佗を副将として、総勢 50万(多くの罪人らが捨て駒として含まれた)の大軍を嶺南征伐軍として派遣する。ここから足かけ 5年、第一次、第二次に及ぶ嶺南戦線が始まる。

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第一次遠征軍は 5隊に分かれて、下記のルートから嶺南地方への侵入が図られた。

第一軍は、今の江西省の南にある康県一帯から東へ侵攻し、東越と閩越地域を平定する。ここは作戦が始まった紀元前 219年内に易々と平定に成功する。占領後間もなく、中央集権統治の一環として 閩中郡(郡役所は今の 福建省福州市 に開設)が設置された。

また広東地方へは二方面から迫った。第二軍は南昌から大庾嶺を超えて広東省北部へ入り、第三軍は長沙から騎田嶺を経て番禺へ至るルートとされる。この 2ルートも大した抵抗を受けることもなく、難なく制圧に成功する。

しかし、残る西甌地方へ派遣された 2ルートは過酷な戦線となったようである。第四軍は萌渚嶺を超えて広西省賀県へ入るルートであり、また最後の第五軍は越城嶺を超えて広西省桂林およびその南部へ迫るルートであった。 密林地帯が続く華南地方、特に広西省一帯の山間部への進軍は、困難を極め、兵馬や物資の輸送がままならなくなり、疫病も蔓延し、かつ天然の地の利を活用したゲリラ戦術を展開する西甌部族らの頑強な抵抗という 3大苦に苦しめられることとなる。
特に、首領の譯吁宋とその配下の将軍である桀駿の率いる西甌軍の勢力が強大で、紀元前 214年には、秦軍総大将であった屠雎が伏兵に遭って戦死させられるに至る。ちょうど、夜半に西江河畔の 三羅(現在の広東省雲浮市下の 羅定市、郁南県、雲安区と雲城区の一帯)に至って、ある大木を通り過ぎたときに、林の地面に伏せていた部族兵らが一気に立ち上がり、屠雎の軍めがけて弓矢を浴びせたという。屠雎はその顔面と体に 2本の矢を浴び落馬する。それらの矢は現地の毒蛇から採取した毒に浸されており、屠雎はそのまま即死したとされる。

過酷で不慣れな自然環境と困難な兵站ルートが、秦軍の死傷者を数十万にまで押し上げることとなる。

ちなみに、この三羅地区にある 羅定瀧江河、羅鏡河、太平河の流域には、 4000~5000年前より人類の生息が確認されており、 戦国時代期の巨大な 墳墓(史書に「百粤之君」との記述あり)や貴重な埋葬品類が、羅平横垌背夫山にて発見されているなど、 2400年以上前に既に高度な文明が発達していたことが分かっているという。雲開大山と雲霧大山に挟まれた豊かな大地には、古代王国が成立していたようである。第一次遠征時の秦軍はすでに、この王国があった巨大な部族勢力の本拠地まで迫っていたようである。

紀元前 214年後半、秦の始皇帝はすぐに 任囂(?~紀元前 206年)を総大将とし、再び趙佗を副将軍に任じて第二次遠征軍を発する。ちょうどこのころ、運河「霊渠」の建設工事も完成し、湖南方面の長江上流域からの河川水運を活かした兵馬や物資の大規模かつ安定的移送ルートの確保が成る。任囂は湖南方面と広西省方面より 3ルートに分かれて進軍し、大庾嶺、騎田嶺、萌渚嶺のそれぞれを超えて嶺南地方に侵入する。

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同年中に秦軍は嶺南地方の奥地まで侵入し、 当地の首領だった譯吁宋を討ち取り、軍事的な制圧が成功する。 そして、秦将軍の任囂と趙佗らはそのまま現地に残り、占領地に秦朝の中央集権統治の確立を企図し、 桂林郡、象郡、南海郡を設置の上、さらにその下に県役所を開設していく。

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いったんは嶺南地方の武力併合が完成されたかに見えたが、実際のところ、主要水脈の周辺のみ占領し得たに過ぎず、山間部の奥地は、引き続き、秦朝の中央統制が行き届かない部族自治が続くこととなったようである。


3、任囂将軍と、広州市のはじまり

ところで、第二次遠征軍の総大将となった任囂であるが、もともと秦国名将の 任鄙(秦の武王時代の勇将)の孫にあたる人物で、紀元前 222年の第一次遠征の折は参加していなかった。このとき、総大将の屠雎に随行したのは、副将とされた趙佗であった。
しかし、この第一次遠征は総大将の屠雎の戦死もあり、失敗に終わる。
続く紀元前 214年の第二次遠征の折、任囂が総大将に任じられ、再び趙佗が副将とされて、嶺南方面へ進軍し、ついに数か月後、嶺南地方の平定を果たす。
翌年、南海郡、象郡、桂林郡の 3郡が設置され、任囂はこれら 3郡をまとめる 初代南海郡尉(軍事総督にあたる)となる(東南一尉、嶺南王とも別称された)。また、番禺(今の広州)に南海郡役所を開設し、ここを自身の居城とした。ちょうど、現在の倉辺路附に番禺城が築城され、別名、任囂城と呼ばれている。これが、現在の広州市の始まりとなる。

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南海郡設置以後、秦朝廷に対し、民族同化と産業振興策を兼ねて、中原より 50万人もの漢族移民策が建議され、多くの移民が華南地方へ導入されていったという。しかし、紀元前 210年に秦の始皇帝が死去し、翌年より農民反乱や中原の豪族らの反秦戦争が巻き起こる中で、中原からの漢族移民が自然発生的に急増していく。任囂は中原の戦乱が飛び火しないように管轄地に激を飛ばし、移民受け入れを鼓舞するも、紀元前 208年、突然の病に伏し、腹心であった趙佗に南海郡尉の代理を委ねる。紀元前 206年、任囂は秦朝滅亡の報に触れ、ますます病状が悪化し、同年のうちに番禺城にて死亡する。 その遺体は趙佗により手厚く番禺城内の 法性寺(後に光孝寺へ改名)前の東 20 mほどに葬られたという。

今日でも、その任囂の墓が残されている。現在、広州市で最も中心地域に位置する ホテル「広東迎賓館」の敷地にある古いガジュマルの木の下に、高さ 6~7 mぐらいの土崗製の石碑が残されている。

なお、任囂は儒教の創始者孔子の七十二弟子のうちの序列十七位とされた 任不斉(紀元前 545~紀元前 468年) の 7代目子孫でもあった。


さて、後を継いで 南海郡尉(軍事長官)に就任した趙佗であるが、もともと任囂が南海郡尉の時代、南海郡下には 博羅県、龍川県、番禺県、掲陽県の 4県が配されていたが、この中でも、龍川県は最重要の要衝であったため、趙佗が県令として龍川県城に赴任されていた。ちょうど、現在の龍川県佗城鎮の旧市街地付近である。

任囂が進めた移民政策もあり、数十万人規模の軍事力を有するまでになった南海郡一帯は、北の匈奴族の冒頓と並んで、南北の雄と並び称されるまでになっていく。前任の任囂の臨終の言葉とされる、「秦は天から見離され、民は苦しむ。番禺の地は嶺南山脈― 江西省の大庾県と広東省の南雄県に連なる大庾嶺、湖南省の郴州市と広東の間に連なる 騎田嶺、湖南省藍山県と広東西北部に連なる 龐嶺、湖南省と桂林一帯にある萌渚嶺、そして広西省興安県と湖南省との境にある越城嶺 ―に阻まれる天然の要害で、東西南北に広大な土地を有する地であり、自立も可能である」という言葉の後押しもあり、それを実践していくことになる。
間もなく、主に元秦軍の駐留部隊で構成された南海郡の兵力を使って、象郡、桂林郡を併合し、紀元前 204年、南越国を建国するに至るのである(趙佗は南越武帝と称した)。任囂が築城し、自身が後継者となった 番禺城 が王城に選定された。

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下の地図は、番禺城(広州城)域が、秦代、前漢時代、後漢末・三国時代呉 ~ 唐代、宋代、明代、清代に渡って、拡張されていく様子を示す。

中原統一後の 秦の始皇帝と 華南遠征

下の絵図は、清末の最終的な広州城域を表す。




4、中国最初の運河工事と 「霊渠」遺跡

「霊渠」は秦代の三大水利施設の一つに数えられ、複数の 陡門(水門)が設置されて、巧みに水位を上下させて船舶を移動させた。中国古代の中でも屈指の水利施設でもあり、世界で最古の運河の一つとされる。紀元前 222年に着工し、紀元前 214年に完成する。

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この運河建設を担当したのが、「監禄」である。ただし、その姓は史書に記されておらず、不明とされる。「監」とは監御史という官職を表し、名を禄といい、後世になって「史禄」とも呼ばれていく。今の広西省桂林から北へ 66 kmにある興安県附近に着任時より滞在し、運河「霊渠」の開発工事に携わった。最終的に湘江と桂江支流である漓江がつながったのは、ちょうど第一次嶺南遠征失敗の直後の、第二次遠征軍の兵站ルート確保が求められていたタイミングであった。この運河の開通により、秦軍の 兵馬・物資輸送能力が格段に向上し、第二次遠征軍の短期間での嶺南平定に大きく貢献する。後に、霊渠は 興安渠(興安運河)、もしくは湘桂運河とも呼称されることとなる。

そもそも、紀元前 221年に中原を統一した秦の始皇帝は、中華全土に中央集権支配の導入を図っていくわけであるが、その一環として全国的な道路網を整備している。
そもそも春秋戦国時代、敵国からの素早い騎馬軍団の侵入を防ぐべく、輸送能力の高かった馬車の車輪幅を自国独自の長さで製造させており、これが道路整備にも反映されていた。このため、他国の馬車が通過するとき、道路に設置された「わだち」が合致せず、移動に往生することになっていた。
始皇帝はこの車輪幅を統一したため、全国規模で道路のわだちが一定となり馬車での移動が格段に便利となる。始皇帝の治世下、整備道路は総延長 12,000 kmに及んだというが、そのうち約半分が幅員 70 mの大道で、「馳道(ちどう)」と呼ばれたそうである。そのうちの一部は、北方の匈奴戦線へ向けた約 750 kmの 軍用道路「直道(ちょくどう)」である。
この「馳道(ちどう)」の道路網は四川省や雲南省へも拡張されていく。下の地図の赤色の線が、当時、整備された街道である。

中原統一後の 秦の始皇帝と 華南遠征

なお、嶺南地方への交通ルート、特に現在の広西省の地域において、湖南省との間に高い山脈が遮る中、 馬車移動よりも水運を活かしたルート開発が急務とされたわけである。

強敵の楚国平定の翌年より運河工事が開始されたわけであるが、これまで楚商人と嶺南地方の有力者らが独占してきた南部地域の 特産品(犀角象歯や翡翠珠璣)交易への秦国による介入、さらに嶺南地方と関係のあった旧楚領の残党勢力からの加勢、そして、運河工事などの夫役への不満から、楚滅亡当時は秦国とは楚と同じように友好を結ぼうとした嶺南地方の部族らも、反秦へと結集したいったものと推察される。

こうした始まった 5年にも及ぶ嶺南戦線であったが、結果として、楚国も手出しできなかった嶺南地方の領有が成り、初めて中国華南が正式に中華文明に組み込まれることとなったわけである。「正式に」というのは、つまり古代よりすでに陸上、海上交易を通じて、漢族商人や中原文化の影響はすでに流入していたわけであり、政治的な意味で支配下に入ったのが、この時は最初である、という意味を込めた。

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