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洛陽市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
河南省 洛陽市 ~ 人口 660万人、 一人当たり GDP 51,000 元
➠➠➠ 洛陽市の 城跡リスト ➠➠➠
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【初代】洛陽県城(周王城、成周城、洛邑城、河南県城、三川郡城)
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【2代目】洛陽県城(河南郡城、後漢王都【雒陽城】、【初代】洛州城)
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【3代目】洛陽県城(【2代目】洛州城、河南府城)
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偃師県城
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宜陽県城
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平県城
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平陰県城
【 洛陽市の 歴史 】
紀元前 18世紀ごろ、夏王朝を滅ぼした湯王により 商(殷)王朝が建国される。このとき、商(殷)王朝は 亳の地(今の 洛陽市偃師市翟鎮鎮に残る二里頭遺跡)に王都を開設する。以後、紀元前 1260年ごろまでの 300年間、商(殷)王朝の王都として君臨することとなった。
紀元前 1146年、武王が 商(殷)王朝を滅ぼし西周王朝を建国する。この後を継いだ誦が第 2代大王に即位するも、まだ幼少であっただめ、叔父の周公旦が摂政として政治を補佐する。しかし、幼少の大王に対し、殷王室の残党勢力や武王の遺児らが反乱を企て挙兵すると、周公は 呂尚、召公奭らと共にこれを鎮圧し、さらに東方各方面の武力平定に成功する。
その直後、東部地域の統制のため、天然の要害の地であった「洛邑」に東都を設置し、東方鎮定の要とした。これが洛水の北岸に築城された 周王城(別名:成周城)である(今の 洛陽市中心部にある鉄道駅の南側一帯。後に【初代】洛陽城となる)。上地図。
このとき、同時に大王の誦は成人して成王と称するようになる。
以降、西周時代を通じ、周王城は 洛邑、新邑、大邑、成周(下地図)、天室、中国、周南などと通称されることとなった。
西周王朝 12代目大王として、紀元前 782年に即位していた 幽王(紀元前 795年~前 771年)が 16歳の時(紀元前 779年)、後宮で褒姒を見初めて以降、決して笑わない彼女を溺愛するようになり、間もなく男児の伯服が誕生する。以降も、側室である褒姒を喜ばすためにあらゆる手を尽くした幽王は、皇后(申后)との間の息子だった 太子・宜臼(後の平王)を廃し、褒姒と伯服を皇后と太子の地位につけたり、さらに偽の烽火を挙げて諸邦の軍勢を集めるという芝居を打ったりしていく。
こうして国王に翻弄された諸侯らは幽王を見限るようになっていく。
さらに、もともと皇后だった申后を後宮から追放された実父の 申侯(申の国【現在の陝西省宝鶏市眉県】を本領とした)は激怒し、北部の山岳地帯に割拠していた蛮族の犬戎らと結託して反幽王で挙兵する(紀元前 771年)。これに対し幽王が緊急事態を告げる烽火を挙げても、すでに諸侯に見限られていたため加勢する軍勢もなく、そのまま幽王と 太子・伯服は殺害され、王都「鎬京」は掠奪の限りを尽くされるのだった。
こうして西周王朝は滅亡し、その直接的な原因を作った褒姒は「傾国傾城の美女」の代表格として、歴史にその名を残すこととなった。反乱軍に捕縛された彼女のその後は分かっていない。
幽王の死後、申侯ら反乱軍は元太子だった宜臼を滞在中だった申国内で即位させると(平王)、王都・鎬京が荒廃してしまったため、副王都だった洛邑へ遷都し、新たな王都に定める(翌紀元前 770年、平王東遷)。上地図。
以降、東周時代と呼ばれることとなる。
ただし、こうした王朝の成立過程もあって大王の権威は一貫して弱く、これを支えた諸侯らが各地で独自の勢力を持って互いに鎬を削るようになったことから、春秋時代とも別称されていくわけである。この時、権力の空白地帯となっていた鎬京含む関中盆地は、 犬戎らを討伐&吸収した秦国が占有することとなる。下地図。
この平王以降、23代の大王がこの 王都・【初代】洛陽城(洛邑城は洛水の北岸にあったので「洛陽城」と通称されるようになる)に居住し、実に 500年もの間、中華の首都として機能したのだった。
最終的に紀元前 249年、30代目・秦国王である 荘襄王(秦の始皇帝の父親)が 魏国、韓国、趙国へ度々、攻撃をしかけ中原進出を図る過程で、東周王朝の皇室を廃止させたことで、王朝は滅亡することとなった。
以降、東周朝の王都だった【初代】洛陽城は、三川郡の郡都に改編される。
そして、紀元前 221年、始皇帝により完全なる中原統一が成る。
しかし、その秦朝も紀元前 206年に項羽により滅ぼされると、項羽は自身の付き従った申陽を河南王に封じ、この地域一帯を統括させる。この河南国の王都が、洛陽城内に開設されている。
この項羽の分封体制も間もなく瓦解すると、 劉邦との間で楚漢戦争が勃発し、勝利した劉邦によりに前漢朝を建国されることとなる(紀元前 202年)。
当初、その王都は東周時代からの 古都・洛陽城に定められるも(秦末~楚漢戦争の騒乱期を経ても、特に大きなダメージを被っていなかったため)、直後より新王都の建設が大規模に進めることとなる(上地図)。これが後に【二代目】洛陽城(今の 洛陽市偃師市古城村一帯)となるもので、それまでの【初代】洛陽城は河南県城として再利用されることとなった。下地図。
しかし、この地は守備には便利だが、王都近郊の土地は狭く、かつ交通不便で全国支配の拠点として不向きとされたため、間もなく関中盆地(長安)へ遷都される。築城途上であった【二代目】洛陽城内には、河南郡(三川郡より改称)の郡役所が併設され、郡都として機能することとなった。
以降、河南郡は 洛陽県(新洛陽城)、河南県(旧洛陽城内には新設された県役所)、偃師県、緱氏県、平県(偃師県の西北部)、平陰県(孟津県の東北部)、新成県(伊川県の西南部)、榖成県(洛陽市新安県の東部)および 鞏県、滎陽県、新鄭県、中牟県、開封県などの 22県を統括する。
前漢朝 7代目皇帝・武帝の治世下の 121年、全国に十三州部刺史が設置されると、河南郡都であった【二代目】洛陽城内に司州役所も併設され、一帯の行政の中核都市としての立場を明確にされることとなる(下地図)。
前漢朝より権力を簒奪した王莽により新王朝が建国されると、洛陽は宜陽へ改名され、東都と中市の行政庁が併設される。しかし、その新王朝の治世も長くは続かず、25年に後漢朝により滅ぼされる。
後漢朝を復興し初代皇帝となった劉秀は、この要害の地だった【二代目】洛陽城に王都に定め、洛陽を雒陽へ改名する。周王朝時代と同様、王都が東部へ移転したことから、この後漢朝は中国語では「東漢朝」と呼称されるわけである。
39年には、河南郡が河南尹へ改編されるも、引き続き、河南尹役所は【二代目】洛陽城内に併設された。
後漢時代中期の 140年の記録によると、河南尹には 208,486戸、1,010,827名の住民登録があったという。
220年、その後漢朝も魏の文帝曹丕により権力禅譲が強行され滅亡に至る。曹丕は魏国の王都を、それまでの許県城から洛陽城に定め、地名も雒陽から洛陽へと戻す。また司州が司隷校尉部へ改称される。下地図。
その魏も、265年に西晋を建国した司馬炎により権力簒奪され滅亡する。西晋は同じく洛陽を王都とした。
東晋時代、かつての王都であった洛陽は中京と改称される。南北朝時代下、東晋朝から権力禅譲された宋朝の 武帝、文帝、明帝の治世下まで継承された。
しかし 436年、北朝側の北魏が南朝の宋から黄河流域一帯を奪取し、その勢力圏に組み込む。この直後、洛陽城内に洛州役所が開設される。
6代目皇帝・孝文帝は急激な漢化政策を進め、494年には、王都を 平城(今の 山西省大同市)から洛陽へ遷都する。
この後、北周王朝の治世下で洛陽は「東京」へ改称され、6つの府役所が同時併設されたので、東京六府と通称されることとなる。下地図。
南北朝時代を統一した隋朝 初代皇帝・文帝の治世下、洛陽に 東京尚本省(後に 河南道行台省、洛州刺史領総監へ改称)が設置される。
2代目皇帝・煬帝が即位すると、王都を 大興城(長安)とし、その副王都として洛陽を「東都」と定め、新たに城郭都市の建設を開始する。605年、前漢時代より君臨してきた【二代目】洛陽城の西 9 kmの地点で築城工事が着工される。上地図にある【三代目】洛陽城の誕生である。
ここに、洛州の州役所が開設され、河南県、洛陽県、偃師県、緱氏県、閿郷県、桃林県、陕県、熊耳県、渑池県、新安県、鞏県、宜陽県、寿安県、陸渾県、伊闕県、興泰県、嵩陽県、陽城県などの 18県を統括することとされた。
唐代も引き続き、【三代目】洛陽城は東都と称され、副王都に指定される。
621年に 洛州総管府(713年、河南府へ改称)が開設され、洛州、鄭州、熊州、榖州、嵩州、管州、伊州、汝州、魯州の 9州、及び、洛陽県、河南県、偃師県、緱氏県、鞏県、陽城県、嵩陽県、陸渾県、伊闕県の 9県を統括した。
唐朝 3代目皇帝・高宗の皇后であった 武則天(武后)が 40年近く女帝政治を取り仕切る。 684年には東都を神都とし、大規模な城郭拡張工事を進める。このとき、明堂や万国天枢などが建立された。下絵図。
690年には、武則天(武后。下家系図)は自ら帝位に就き、国号を「周」と改め、王都を【三代目】洛陽城に定める。この王朝は後世、武周と通称されることとなる。仏教を厚く保護し、龍門石窟や奉先寺の盧舎那仏などが建立されたのも、この頃である。
また、唐朝 7代目皇帝・玄宗(在位:712~756。上家系図)も洛陽城内に長く滞在し、仏教寺院や佛塔などの建立を積極的に推し進めた。
下絵図は、唐朝末期の洛陽城の様子。
最終的に 907年、唐は滅亡し、中原一帯には 後梁、後唐、後晋、後漢、後周の短命な 5王朝が誕生する、五代十国時代が始まる。その中で、後梁、後唐、後晋は洛陽を王都とし、後漢と後周は洛陽を副王都に定めた。この時期、中原の 政治、経済、文化の中心都市として洛陽は大いに繁栄したという。
宋代には、洛陽は西京となり、河南府役所が併設される。
宋朝廷により国子監が洛陽城内に設けられると、多くの家臣や 元老、学者、文化人らが集う場となった。趙普、呂蒙正、富弼、文彦博、欧陽修などが洛陽の地に居を構えた。その他、理学家の 程氏兄弟、邵雍なども足跡を残している。他方、洛陽城内では有名な私学校が多数、開設された。また、この洛陽城内で司馬光が歴史書の名著とされる『資治通鑑』を書き上げている。
金国による華北統治下、洛陽は中京へ、河南府は金昌府へ改称される。あわせて、河南県が洛陽県へ吸収合併されることとなる。このとき、洛陽城の城内は長年の戦火で荒廃が激しく、再建が必至の状態であった。
このため、金王朝により、隋&唐代に建設された城壁の北東部分の一角を転用し、新たに城郭都市が造営される(下絵図)。その城壁は全長 4.5 km程度のものであった。まさに現在の洛陽市街地の前身にあたるもので、隋唐代に建設されていた洛陽城のほんの一部に過ぎない小規模なスケールに留まるものだった。
元代以降、城域が大幅縮小された洛陽城は「京」と呼称されることもなくなり、河南府の府都として機能するだけとなる。
明代に入っても河南府は継承され、洛陽県、偃師県、鞏県、孟津県、登封県、新安県、渑池県、宜陽県、永寧県、嵩県県の 10県を統括した(下地図)。
明代初期には、伊王や福王が封じられており、その王都が開設されていた。
清代も引き続き、洛陽城は河南府の中心都市として君臨した。
中華民国が建国された 1912年、河南府が廃止され、河洛道が新設される。道尹公署(道役所)が洛陽城内に開設され、洛陽県や偃師県など 19県を統括した。 1923年には河南省の省都に選定される。1932年に日本軍が上海へ上陸すると、国民党政府は洛陽を首都に定める。
華北の大部分が日本軍の手に落ち、洛陽は北方における抗日戦線の最前線基地となる。
1939年秋に首都が南京へ再移転されるに至り、洛陽は再び、河南省の省都に戻された。
▼ 下写真は、現在の【二代目】洛陽城跡
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