BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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四川省 巴中市 ~ 人口 317万人、 一人当たり GDP 22,000 元


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  巴州城



【 巴中市の 歴史 】

古代には梁州に属し、秦代や前漢時代には巴郡に統括された。

巴中市

後漢時代の 永元年間(89~105年)に、漢昌県が新設される。下地図。

そして三国時代。194年に 父・劉焉(?~194年)の跡を継いで益州牧となった 劉璋(?~221年)は、漢中の張魯に備えるべく、最前線基地として巴西郡を 分離・新設すると、以降、現在の巴中市域はこれに属することになる。

巴中市

しかし 215年3月、魏の曹操が散関より武都郡を経由し、漢中に攻め込んで来る。張魯は強硬派だった 弟・張衛に主力を預けて陽平関を守備させ、当初は曹操軍の撃退に成功するも、最終的に魏の 名将・夏侯淵の活躍により陽平関を失陥してしまう。上地図。

領内に侵入を許した張魯は早々に降伏を検討するも、部下の閻圃から「追い詰められての降伏は軽んじられる」との進言を受け、蜀領内のこの巴中の一部を占拠して勝手に亡命してくるのだった。
この時、劉備は 214年末にようやく劉璋を降伏させ、益州牧を継承したばかりのタイミングで、益州領内を完全掌握しているわけではなかった。こうした蜀の混乱期にあって、張魯はこの漢中と蜀の空白地帯に避難することができたわけである。

この危機的状況の中、忠義の士として劉備から厚い信頼を得ていた黄権が、「もし漢中を失陥すれば、三巴(巴・巴西・巴東)の力が弱体化するのは必至。巴中方面にいる張魯を味方に引き入れるが得策」と、劉備に進言する。

これを受けて劉備は黄権を総大将に任じ、巴中を不法占拠中だった張魯を軍門に加えさせようと図ったが、先に魏軍に懐柔されてしまい、張魯は漢中の南鄭に引き返して曹操に降伏してしまうのだった。

巴中市

こうして 漢中郡、三巴地区の大部分を掌握した曹操は、張魯が改名した漢寧郡を漢中郡に戻しつつ、漢中郡下の 安陽県と西城県の 2県を分離して西城郡を、錫県と上庸県の 2県を分離して上庸郡を新設していく。それぞれの新設郡に太守と都尉を配置させた後、曹操自身はすぐに本国へ帰還したのだった。
215年9月には、三巴の七豪族のうち、朴胡と杜濩も曹操方に帰順していた。こうした時流から、幕閣だった司馬懿や劉曄らが、このまま体制の整わない劉備のいる益州侵攻までも進言するも、曹操は深追いを避け撤兵を選択したわけである。

総大将として巴中方面に派遣されていた黄権は、曹操に三巴の太守として任命された 杜濩・朴胡・袁約らの撃破に成功する。あわせて、劉備ら成都からの本軍も巴郡の鎮圧を進めていく。このとき、巴郡出身で地元の信任厚かった厳顔が活躍したのかもしれない。

こうした劉備側の動きに対し、曹操は張郃を派遣し、残りの巴東・巴西 2郡の住民を強制的に漢中側へ移住させてしまう(当時の資源は、租税負担や経済、軍事を支える住民そのものであった)。

巴中市

ここにきて、漢中や益州北部の巴東西を魏に攻略されてしまった劉備は、荊州 2郡(長沙・桂陽)を呉の孫権に返還することで呉側と和議を結び(215年)、まずは益州内の領土固めに注力することになる。その最優先事項こそが、漢中と巴東西一帯の魏勢力の排除であった。

これら一連の作戦は、すべて黄権が練った戦略と言われており、こうして最終的に、蜀軍は法正を軍師として漢中侵攻作戦を決行する運びとなるわけである(218~219年)。

引き続き巴東郡、巴西郡一帯に進駐する張郃軍に対峙すべく、劉備は巴郡 江州(今の重慶市)に滞在する(荊州での呉との和議を締結した直後に長江をさかのぼって蜀に帰還していた)張飛を派遣し、張郃率いる魏軍の駆逐を命じる。張飛と張郃は、この巴東西の 宕渠・蒙頭・盪石において、50日以上に渡って対峙を続けることとなった。

巴中市

最終的に張飛は奇襲作戦を採用して、張郃軍を狭い山道に誘い込み、前後の軍を分断して壊滅させることに成功する。張郃自身も馬を乗り捨て供まわりの者 10人と間道を縫って、漢中の南鄭へ這う這うの体でたどり着く始末であった。こうして張飛の大活躍により、劉備は 巴西・巴東郡の制圧に成功するわけである。

この益州占領間もない混乱期が劉備にとって最も過酷な時期だったが、法正、黄権らの益州出身の賢人らの尽力により、不慣れな地理と人材をうまく使いこなして、窮地を脱していったのだった。

巴中市

直後、劉備により巴西郡がさらに分割され、宕梁郡が新設されると、今の巴中市一帯はこの管轄下に組み込まれた。

益州、三巴の統治が落ち着いた 3年後の 218年、法正の建議を受け、劉備は 漢中郡、武都郡方面へさらに侵攻していくことになる。翌 219年には魏軍が総撤退し、この年、劉備が漢中王を宣言するわけである。



三国時代の後、この巴中の地には 帰化郡、大谷郡等が設置されると、都度、これらに帰属することになった。

巴中市

時は下って南北朝時代、北魏朝の治世下にあった 514年に、巴州が新設されると、その管轄下に組み込まれる(上地図)。
その後も帰属行政区の変動はあったが、そのまま県役所、州都として清末まで存続することになった。

中華民国建国の翌年 1913年、全国で州制が廃止されると、巴州から巴県へ改編される。中華人民共和国の時代の 1993年、巴中エリアは達州市に組み込まれるも、2000年に地級市に昇格され巴中市が誕生する。


巴中市

この地も、現在は城壁はすべて撤去されていしまっている。街の路地に少しばかりの名残が残る程度である。中城北街、文廟街、厳公廟街(前漢時代に実在した厳子陵を祭る)、鼓楼街、本院街、魁皇楼巷、東城街、小東門街、大東外街、南門街、南泉寺街。


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