BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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四川省 成都市 ~ 人口 1,420万人、 一人当たり GDP 64,000 元


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  成都府城



成都市滞在中、近郊にある 三星堆遺跡(四川省徳陽市広漢県三星堆)を訪問してみる。 ここは中国でも屈指の歴史遺跡ということで、成都市内から直接アクセスできる選択肢が複数あった。

そのうち、専用バス(成都公交三星堆旅游直通車)の乗車ポイントは下記の通り。いずれも大型バスで、三星堆博物館行(遺跡公園南門広場)。乗車時間は 90分。

1号線 春熙路駅(太古里商圏エリア、IFS国際金融中心の隣)
2号線 金沙遺跡博物館(青羊区)
3号線 成都大熊猫繁育研究基地(西門)駅


【 成都市の 歴史 】

今から 4500年前の宝墩古城と呼ばれる新石器時代の集落群が、現在の成都市新津県にて発見されている。この環濠集落は、横 2,000 m、縦 1,500 m、周囲の長さ 6,200 m、総面積 276万 m2 にもなる巨大な楕円形のものであったという。ちょうど、サッカーフィールド 386個分に相当する広さであったらしい。新石器時代から、もう既に中国はスケールが大きい。

これまで成都平原では、このような環濠集落が 8箇所発見されているという。新津宝墩古城、郫県古城、温江魚鳧城、都江堰芒城(上芒城)、崇州双河古城(下芒城)、紫竹古城、大邑塩店古城、高山古城 である。

成都市

このころの成都平原での古代集落文化は、宝墩文化(紀元前 2700~1800年)と呼ばれている。その一つが、三星堆遺跡に代表される 三星堆文化(紀元前 1800~1200年)であった。この三星堆遺跡こそが、古蜀国の都城であった。上地図。

紀元前 5世紀中葉に、古蜀国の開明王朝九世によっては、都が 広都樊郷(現在の双流)から、成都の地へ遷都される。これが現在の成都城の始まりとなる。「成都」とは、当時の成都平原の原住民 言語で「終の都」という意味の造語という。

成都市

そして紀元前 316年、秦が 巴国、蜀国を滅亡させた後(上地図)、漢民族の大量移民政策が採られ、これら成都平原の独自文化は消え去っていくこととなった。

直後より、秦国から蜀郡太守に任命された李冰は、成都城周辺の治水事業に乗り出す(下地図)。これが有名な、都江堰と呼ばれる灌漑遺跡である。この工事は彼の次男の治世時代になってようやく完成され、当時、李次郎坊と呼ばれた次男にちなんで、二郎廟がたくさん四川省内に設置されていくことになる(治水の神様)。

成都市

成都市

秦代末期~前漢時代初期、成都平原は戦乱で荒廃する中原地帯に代わって、重要な食料生産を担う「天府の地」と称される、豊かな土地に成長していく。同時に綿産業が発達し、「錦城」とも別称されたという。成都はすでに秦代、前漢時代には中国でも 6大都市(長安、洛陽、邯郸、臨洮、宛、成都)の一つに数えられるほどに巨大化していたという(人口 40万)。

前漢時代の 141年、蜀郡太守の文翁によって、中国初の地方官養成学校である文翁石室が、この地に設けられている。また、前後漢の時代を通し、中国の漆器工芸品の生産でも有名となり、中国の飲茶文化の発祥の地とされている。

前漢朝 7代目皇帝・武帝の治世時代(紀元前 106年)、中国全土は 13州制度に改変されると、益州に属する。この時、益州役所が 雒県城(現在の広漢市)に併設される。このころは、まだまだ三星堆遺跡のあった、古蜀国の都城跡の雒県の方が政治的、経済的な中心都市であったようである。

成都市

前漢王朝の滅亡後、新王朝が建国されると、益州は庸部へ改名されるも、その行政府は引き続き、雒県に置かれた。そして、後漢王朝時代に入り、益州と広漢郡が復活するも、雒県は州役所から、広漢郡の郡役所として降格され、州役所は一時、綿竹城に移ることになった。

しかし、後漢末期の 益州牧「劉焉」はこの綿竹城から、雒県へ益州役所を再移転するも、州都たる器ではないと判断し、自身の 孫「劉循」に雒城を任せ、さらに南の成都城へ引っ越す。ここから現在の成都市が行政の中心地として歴史に登場することになる。

成都市

つまり、成都が本当に行政都市としてその地位を確立できたのは、後漢末の三国時代からであった。

そして、劉焉の 末子「劉璋」統治時代の 214年夏、劉備に降伏し、この地で 221年、劉備が蜀漢を建国することになる。
その蜀漢も、263年の魏軍の侵攻を受け、2代目皇帝の劉禅が成都城を無血開城することで滅亡する。

翌 264年1月15日に、蜀の 降将「姜維」は鍾会とともに、反魏で決起を行うも、将兵らに反発され、この宮殿内で刺殺されている。これと同時に、そのトバッチリを食うかのように、張翼、廖化、関羽の遺族らも殺害されてしまうのだった。


成都市

その後も、五胡十六国時代の成漢の李雄が成都城を王都と定めるなど(上地図)、四川省での歴史的イベントで成都は外せない場所となっていく。

唐の時代、成都の経済力はますます高まり、文化は栄え、中国でも 4大都市(長安、楊州、成都、太原)の一つに挙げられるまでになっていた。唐の太宗の後半期、中原の反乱により、皇帝はこの地に避難し、成都府として仮の都とまで指定している。

907年、その唐王朝もついに滅亡すると、中原では後梁王朝が建国される。続いて建国される 前蜀国、後蜀国も含め、成都がやはり首府として機能した。
しかし、五代十国時代の大戦乱時代に、蜀の国土は大いに荒廃してしまうのだった。

北宋朝による中国統一後は、急速に回復を遂げ、全国有数の大都市に返り咲く。
しかし、南宋時代の 1257年、モンゴル軍により成都は占領されている。

成都市
成都市

その後、モンゴル族が建国した元朝を北へ退けた明王朝が中原統一を成就させると、すぐに蜀の地に建国されていた大夏国への軍事侵攻に着手する(上は、当時の 王都・成都城のイメージ図)。間もなく夏国も明軍に帰順すると、明朝初代皇帝・朱元璋は、自身の第 11子である朱椿子を蜀王として成都府へ封じている(上絵図は成都城の様子。中心部には蜀王のための王城が見える)。

明末の戦乱期の 1644年、張献忠の率いる白蓮教軍が 成都(西京と改名する)へ入城し、国号を大西として、独立国を建国する。しかし、四川省内の豪族らの反乱が頻発し、戦乱と虐殺が続くことになった。総人口が 1割近くまで激減してしまう。

この後、中国全土を平定した清王朝により、湖北省、湖南省、広東省からの移民政策が実施され、100年かけて四川省復興が進められることになった。
しかし、1863年の太平天国の乱の折、4大王の一つ「翼王」に封じられた 石達開(1831~1863年)が四川省内の清軍拠点を攻撃し、この地は再び戦火の被害を受ける。清軍は重慶城を落とされるも、成都城は守りきることに成功する。

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しかし、1911年6月、反清運動が成都で勃発し、清軍の四川駐留軍が武力鎮圧に乗り出す中、人々の怒りは頂点に達し、ついに辛亥革命へとつながっていくことになる。その後、軍閥割拠の時代を迎え、1914年、新政府の中華民国により平定される。


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この地も、現在はかつての成都府城として繁栄した巨大城郭都市の古城壁はすべて撤去されていしまっているが、その規模が分かる堀川はほぼ原型をとどめて残されている。また、旧市街区の路地に数多くの名残が残る。北大街、北門大橋、正府街(かつての行政府跡)、東城根街、西府南街、馬棚街、紅壁巷、西華門街、東華門街、御河沿街、順城大街、東打銅街、鼓楼街、東馬道街、関廟街 などなど、非常に多い。


▼ 成都郊外にあった 華陽県城(今の 四川省成都市成華区の旧・華陽地区)
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