BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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四川省 達州市 ~ 人口 550万人、 一人当たり GDP 23,000 元


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  宕渠県城
  礼義城
  宣漢県城



【 達州市の 歴史 】

現在の達州市一帯は、古代より巴の国に属した。

達州市

殷商王朝時代に雍州、春秋戦国時代は巴国に帰属し、中国大陸を統一した秦朝、および前漢朝の治世時代も巴郡に統括される。 なお、この時代に新設された宕渠県城は(下地図)、現在の達州市域がはじめて史書に登場するきっかけを作ることになった。

そして後漢時代の 96年、その宕渠県が南北に分割され、北側に 宣漢県(現在の達州市中心部)が新設される(下地図)。引き続き、両県ともに巴郡に属した。

下地図は 後漢末期~三国時代の様子。
194年に 父・劉焉(?~194年)の跡を継いで益州牧となった 劉璋(?~221年)は、漢中の張魯に備えるべく、最前線基地として巴郡から巴西郡と巴西郡を 分離・新設していた。

達州市

さらに時は下って南北朝時代、劉宋朝の治世下だった 永初年間(420年6月~422年)に、宣漢県城(現在の達州市中心部)内に巴渠郡役所が併設され、宣漢県、始興県、巴渠県、東関県、新安県、下蒲県、晋興県の 7県を統括する郡都となる。

続く梁王朝の治世時代の 536年、巴渠郡が廃止され、万州が新設される。
西魏時代の 553年には、通州へ改名される。

達州市

隋代後期の 607年、通州は通川郡へ変更されも(上地図)、続く唐代初期の 618年に再び通州へ戻される。その後の唐代を通じ、度々、地名変更が繰り返されることとなった。

北宋時代初期の 965年、通州から達州へと改名される。
南宋時代に入ると、華北地方を占拠していた金王朝がモンゴル軍によって滅ぼされ、 ついに南宋領もモンゴル軍の侵攻を受けるようになる(下地図)。

達州市

モンゴル軍は、その圧倒的な軍事力でもって四川省各地を席巻するも、 南宋側の抵抗も予想外に長く続き、次第に長期戦の様相を呈するようになった。
短期攻略を諦めたモンゴル軍は、捕虜とした南宋兵や住民らを使役して、四川省各地で屯田や、軍事拠点や城塞群の 造営(如神仙山、東安山、虎嘯城、母章德山、馬琮山、虎頭山、雲門山、平康寨、章広平山寨、金湯城、方斗城 など)、南宋軍の 軍事要塞(青居城や大良平)の修繕、水軍訓練、造船などを実施し、南宋側の防衛網や補給線を寸断しつつ、中長期的な戦略で防衛戦線は破壊していったのだった。

そして満を持して、モンゴル帝国 4代目皇帝・モンケ自らが大軍を率いて四川遠征を計り、3か月内に 苦竹隘、鵝頂堡、大获城、運山城、青居城、大良平などの南宋側の拠点が次々と開城していくこととなった(上地図の赤色矢印)。

翌年 1259年1月、ついに 礼義城(下地図)への攻撃が着手される(上地図)。
南宋側の 渠州長官・張資はよく攻撃に耐え、1275年1月まで抵抗を続けるも、ついに落城に追い込まれ自害して果てる。まさに、モンゴル軍が最初に礼義城を包囲してから、32年に及ぶ戦いとなっていた。
こうした四川省内の長い戦乱と社会不安は住民人口を激減させ、これから数百年にわたり、四川盆地の経済に大打撃を与えてしまうのだった。

達州市

明代初期の 1376年、達州は達州県へ降格されるも、1514年に再び達州へと昇格される。

さらに時は下って清代後期の 1802年、達州から綏定府へと改称されるも、清滅亡で建国された中華民国時代の 1913年、全国で府州郡制度が廃止される中、綏定府も解消される。
当地で「達州」の地名が復活されたのは、共産党時代の中華人民共和国になってからであった。


達州市

この地も、現在は城壁はすべて撤去されていしまっている。街の路地に少しばかりの名残が残る程度である。大北街、大西街、馬蹄街、大東街、小北巷、三誕宮巷、徐公祠巷、柴園巷、柴市街、南門口、順城街農貿市場。

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