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定西市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
甘粛省 定西市 ~ 人口 270万人、 一人当たり GDP 6,000 元
➠➠➠ 定西市内の 城跡リスト ➠➠➠
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定相城(定西県城、定西州城)
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狄道県城(隴西郡城)
【 定西市の 歴史 】
定西市の歴史は長い。黄河文明発祥の地の一部を成し、新石器時代の有名な馬家窑文化や 斉家文化、寺洼文化、辛甸文化が花開いた場所である。また、シルクロードのルート上にあり、欧米やアジアをつなぐ重要な交易拠点の一つとしても栄えた。
紀元前 279年、秦国は隴西郡を設置し、郡都を 狄道県城(今の臨洮県)に定めた(上地図)。郡都・狄道県は、付近を流れる隴水の西部にあったので、「隴西」と命名されたという。今日の定西市全域はこの郡内に統括されることとなった。
以降、隴西郡や天水郡、秦州などに属していく(下地図)。
時は下って五胡十六国時代、この地は群雄による戦場と化した。前凉、後凉、前趙、後趙、前秦、後秦 など支配王権は目まぐるしく変化していく。
この南北朝時代を通じ、現在の定西市一帯は二分され秦州と河州に統括されていた。
下地図は、北魏朝の治世下の 497年当時の様子。その北魏朝の統治下で、渭州が新設されることとなる(530年)。
最終的に南北朝時代を統一した隋代末期の 618年、臨洮郡が岷州へ改編される。
続く唐代前期の 742年、岷州は和政郡へ変更されるも、758年には岷州へ戻される。
761年、吐蕃国(チベット族)に岷州を攻略され、その後、臨州も陥落する。引き続き、吐蕃国は渭州まで進出し、これを奪取している。かつては世界帝国を築いた唐王朝も、安史の乱の後、大幅に国力を減退させており、中央アジアはおろか、西域一帯を統括する力も失い、逆に西域民族らにその領土を西から徐々にはぎとられていった。この地を占領した吐蕃国の統治は、 300年以上にも及ぶことになる。上地図。
北宋時代の 1081年、時代は変わって、西域一帯を支配していた西夏王朝の勢力を排除し、 漢民族の宋が再奪取することに成功する。
改めて、西部地域を再平定した宋王朝の神宗により、「定相城」が建設される(今の 定西市中心部)。これが、「定西」の地名の始まりとなる。1216年には、定西県が定西州へ昇格された。
元代初期、定西に代わって隴西行省が設置される。
元代末期の 1352年、この地で大地震が発生する。定西州から安定州へ改名される。
明代の 1377年、州から県へ降格された。以降、明代~清代を通じて、定西県は隴西承宣布政使司鞏昌府に帰属する。
清朝滅亡後の中華民国時代初期の 1914年、安定県から定西県へ変更され、今日に至っているわけである。
なお、この定西古城であるが、今日では完全に城壁も撤去されており、かつての面影もわずかな路地名に残されているのみである。北城巷、小北街、大南街。
これに対し、秦国により隴西郡役所が設置された 狄道(今の臨洮県)古城跡の方が、多くの路地名が残り、かつての城郭都市の外観を実感しやすい。西関(西門あたり)、糧食市(かつての 庶民の食堂&市場通り)、北大街、東大街、灰塩市、老西街、南街村(かつての城外にできた郊外集落)、西街村、北街村。
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