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広安市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
四川省 広安市 ~ 人口 470万人、 一人当たり GDP 26,000 元
➠➠➠ 広安市内の 城跡リスト ➠➠➠
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始安県城
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漢初県城
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恒升古城
【 広安市の 歴史 】
現代中国において、当市を何よりも有名にさせているのは、鄧小平(1904~1997年)の生家遺跡である。
もともと彼は地元で裕福な客家系の地主の家に生まれ、16歳までこの地で過ごした後、同年中にフランスへ渡海する。名目は留学であったが、第一次大戦直後の疲弊したフランスでは十分な教育を受ける機会を得られず、ほとんどの時間を生活費のためのアルバイト中心に送っていたという。
渡仏 2年後の 1922年に中国少年共産党に入党すると、めきめきと頭角を現し、 3年後の 1925年、中国共産党ヨーロッパ支部のリーダーに抜擢される。翌年、フランス政府より国外退去を命じられると、モスクワヘ移住し、さらに翌年の 21歳の時に中国に帰国し、そのまま革命活動に没頭していくのだった。
ちなみに鄧小平はこの 16歳で故郷を出て以後、地元には一度も戻っていないという。
さて、広安市の歴史であるが、大河の渠江沿いの交易集落として古くから存在していたようである。
最初、梁州に属し、殷王朝時代には雍州、周王朝時代には、武王が派遣した王族傍系による巴子国の建国にともない、この版図下に組み込まれた。
春秋戦国時代の紀元前 316年、秦国の恵文王が 大将軍・張儀、司馬錯らを四川盆地へ派遣し巴蜀両国を滅ぼすと、直後に蜀郡と巴郡が設置される。こうして現在の広安市域は、巴郡(郡都は 江州城【今の重慶市】)の管轄下に置かれることとなった。下地図。
続く前漢時代には新設された 宕渠郡(郡都は 宕渠城【現在の達州市渠県】)の管轄下へ移籍される。
後漢時代~三国時代を通じても、宕渠郡下に組み込まれていた。現在の広安市一帯は、あくまでも渠江沿いの集落地程度の位置づけであったようである。
そして時は下って 200年後、すなわち 南北朝時代の南斉朝の治世下の 479年、墊江より北岸一帯が分離され、漢初県が新設される(県役所は、現在の広安市武勝県に開設)。
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さらに、40年後の梁王朝の治世下の 522年、前漢時代より継承されてきた宕渠県が廃止され、始安県が新設される(上地図)。ここに現在の広安市域が史書に初めて登場することとなる。
唐代の一時期、「恒升古城寨(現在の広安区恒昇鎮古城村)」へ始安県役所が移転されていたこともあった。上地図。
北宋時代に至り、初めて「広安」と命名されるも、以後も、度重なる所属地や地名の変更が繰り返されている。
広安市のかつての城壁は、すべて撤去されてしまっている。
しかし、かつての城郭都市の様子は、今に残る路地名から、だいたいの規模や位置関係を推察することができる。城墙街、北街、小東街、大東街、東門街、学街、新南街、水塘堡街 など。
当地は水資源が豊富で、水力発発電のためのダムが市内に複数建設されている。
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