BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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安徽省 黄山市 ~ 人口 145万人、一人当たり GDP 15,000 元


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 ▼ 黎陽県城(二代目・海寧県城、休陽県城)
 ▼ 黟県城
 ▼ 歙県城(歙州城、徽州府城)
 ▼ 海陽県城(初代・海寧県城)



【 黄山市の 歴史 】

黄山市の一帯の歴史は古く、市内からは周王朝時代 中期(紀元前 10世紀ごろ)の古墳が発掘されているという。

紀元前 5世紀ごろの春秋時代期には、呉国、続いて楚国の版図下に組み込まれた。

秦国が中原を統一した紀元前 221年、すぐに全国に郡県制が導入され、 現在の黄山市一帯は鄣郡下の黟県と歙県に分かれて管轄されることとなる(下地図)。

黄山市

前後漢代には、丹揚郡、会稽郡、広陵国の管轄下に置かれた。下地図。

時は三国時代。
208年秋に赤壁の戦いで勝利を収めた孫権軍は、そのまま荊州北部に 主力軍(周瑜・呂蒙ら)を展開し、曹操の残党勢力の掃討戦を進めていた。
この最中の 12月、孫権は将軍の賀斉を派遣し、黟県と歙県一帯に跋扈した 独立系勢力(呉の孫権は当時、まだ江東一帯に勃興中の軍閥勢力であったため、その周辺はいまだ独立系の豪族や民族が割拠していた)の駆逐を図ることとなる。この地域は険しい山々が連なる山岳地帯で行軍も困難を極めたが、賀斉の指揮の下、安勒山や 烏聊山、林歴山などの要害に立てこもった賊軍を撃破し、これらの鎮圧に成功する。
平定地の統治にあたり、賀斉の上奏が採用されて、歙県が分割され、南部に 新定県(現在の 浙江省杭州市淳安県汾口鎮木連村)、西部に黎陽県(現在の 黄山市屯溪区一帯)、同じく西部に休陽県、東部に 始新県(今の 浙江省杭州市淳安県威坪鎮:ダム開発により、旧市街地は既に水没している)が新設され、これらと従来からの黟県と歙県を加えた 6県体制がスタートする。

黄山市

丹揚郡(郡役所は 宛陵城内【今の 安徽省宣城市宣州区】に開設)から分離される形で、上記の 6県を統括する新都郡が新設される(上地図)。郡役所は新定県城内に開設されるも、翌 209年に 治賀県城(今の 浙江省杭州市淳安県千島湖鎮)へ移転された(揚州に帰属)。

新都郡太守には賀斉が任命され、そのまま駐在することとなる。下地図。

黄山市

211年に、呉郡の余杭県で郎稚の乱が勃発した際、すぐ西隣の新都郡から援軍を率いた賀斉が駆け付け、瞬く間に鎮圧してしまう。この後も賀斉はこの地を中心に統治や対魏戦で孫権を助けていくこととなる(227年に死去)。

その孫権も 252年に崩御し、末子の孫亮が第 2代目皇帝に即位するも内部統制に欠け、国内が大きく乱れる。258年にはその兄の孫休が 3代目皇帝に即位する(264年まで)。このとき、「孫休」の名前とだぶる、ということで、休陽県が海陽県へ改称される。

その呉も第四代皇帝の孫皓の治世下の 280年、西晋の侵攻を受け、ついに滅亡する。直後より、西晋朝は旧呉領の行政区改編に乗り出し、新都郡は新安郡へ改称される(下地図)。これは、郡内の西部にあった 新安山(今の 黄山市祁門県)にちなんで命名されたとされる。同時に、新定県も遂安県、海陽県も海寧県へ変更され、これらと従来からの 始新県、黎陽県、歙県、黟県の 6県を統括することとされた(引き続き、揚州に所属)。下地図。

この行政区は、続く東晋朝、南北朝時代においても継承される(下地図)。

黄山市

南朝の宋王朝の治世下の 464年、黎陽県(現在の 黄山市屯溪区一帯)が 海寧県(今の休寧県)へ吸収合併され、新安郡は 歙県、黟県、海寧県、遂安県と始新県の 5県を統括することとなる。

続く南朝の梁王朝の治世下の 522年、これまで呉郡に帰属してきた 寿昌県(今の 浙江省杭州市建徳)が新安郡へ移籍され、新安郡の管轄は 6県に戻る。
553年には、新安郡が二つに分割され、遂安県、始新県、寿昌県の 3県はそのまま新安郡を構成し、海寧県に編入されていた黎陽県が復活して、この 2県と歙県、黟県の合計 4県で、新設の 新寧郡(郡役所は 海寧県城内に開設)を構成することとなる。

さらに、陳朝の治世下の 562年、再び 黎陽県(現在の 黄山市屯溪区一帯)が廃止され、海寧県に吸収合併される(なお、河川交通の港湾都市として機能していた旧黎陽県城内に海寧県の県役所が移転され、二代目・海寧県城となる。初代・海寧県城は廃城となる)。同時に、新‎寧郡も廃止され、新安郡へ編入され、新安郡は以前と同じ 6県を統括することとなる。下地図参照。

黄山市

隋代、唐代を通じ、歙州の管轄下に配された(江南道に所属)。下地図。

唐代の 745年、太平県(今の 黄山市黄山区仙源鎮)が新設され、宣城郡の下に配されるも、766年、太平県が廃止され、その行政区は涇県に吸収合併されることとなる。

黄山市

宋代の 1121年、歙州が徽州へ改称される。このとき、徽州は 歙県、黟県、休寧県(海寧県より改称)、婺源県、績溪県、祁門県の 6県を統括することとなり、現在の 黄山市、績溪県、および江西省下の婺源県を含めた管轄域を有したという。下地図。

黄山市

黄山市

黄山市

明代、清代には、徽州府へと改編されるも、宋代からの行政区がそのまま継承される。

1987年11月より、現在の黄山市制がスタートした。


なお、現在の黄山市 中心部(屯溪区)は、 陳朝の治世下の 562年、黎陽県が廃止され、海寧県に吸収合併された際に、 すでに河川交通の港湾都市として機能していた旧黎陽県城内に海寧県の県役所が 移転される形となった。すなわち、それまでの地名が黎陽県から海寧県へと変更されたわけであるが、 この地域の 経済、政治の中心地として、以後も発展していくこととなる。
明代の 1548年ごろには、休寧県(海寧県より改称)の中心部、すなわち、現在の黄山市 中心部(屯溪区)は すでに中国でも屈指の茶市場の一角を形成するまでになっていたという。 ちなみに、清代、中華民国時代も引き続き、山岳部の重要交易都市として君臨し続け、日中戦争時代には、 多くの商人らがこの地に避難してきて、「小上海」と形容されるまでに繁栄することとなった。 しかし、近代以降の都市開発により、現在、旧市街地は完全に姿を消している。

他方、秦代より設置された黟県城跡と歙県城跡であるが、前者は全く城門も城壁も残されていないものの、 後者は一部が歴史保存され、観光資源として活用されている。

黄山市

上は現在の黟県の旧市街地の様子。わずかに路地名や地名に かつての記憶が刻み込まれている程度である。東門路、北街、直街、沿河東路(かつての東側の堀川跡)、老街大薬局など。

黄山市

上は現在の歙県の旧市街地の様子。ここには、数多くの城壁都市時代の遺物や記憶が保存されている。 北城門、西門の瓮城跡、徽州府署博物館(かつての徽州府の府役所跡)、徽州古城景区、大北街、城東路、新南街、西街、打箍井街、府学街、東門郵便局、東門家和スーパ―マーケットなど。


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