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湖州市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
浙江省 湖州市 ~ 人口 310万人、 一人当たり GDP 86,000 元
➠➠➠ 湖州市内の 城跡リスト ➠➠➠
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【二代目】烏程県城(呉興郡城、帰安県城、湖州府城)
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項王城(高墩頭、湖州子城)遺跡
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菰城(【初代】烏程県城、菰城県城)
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東遷県城(東安県城)
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長興県城(長城県城、長興州城)
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義郷県城
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武康県城
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徳清県城
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安吉県城(安吉州城)
【 湖州市の 歴史 】
商(殷)王朝の末期、姫昌(後の文王)が殷王朝の打倒をかかげ、牧野の戦いで殷軍を撃破 した後、鎬京(後の長安)を王都とする周王朝を建国する。
この事件より 50年ほど前、文王の祖父にあたる季歴には、 長兄・太伯と、次兄・虞仲(仲雍)がいたが、この二人の兄は父親の 古公亶父(周の土地の領主)が溺愛した 季歴の家系を尊重すべく、殷朝の中央政界から離脱し、江東の辺境へ移住してしまう。彼らは髪を短くし、全身に入れ墨を施した風習を有し、後の日本人、朝鮮人らの漁民文化に影響を与えたとされており、一部は日本列島に移住し、 そのまま現地民と同化されたと考えられている。
この太伯と 虞仲(仲雍)の 2兄弟は、江東の地で独立領を打ち立てることとなり、勾呉を建国する。 このとき、現在の湖州市一帯もこの勾呉国の版図下に組み込まれた。 当時、すでに主要な集落地を形成していた 蘇州・湖州・会稽の 3都市は、 以降、三呉の地と通称されることとなる。
しかし、その呉国も長年の抗争を経て、紀元前 473年、ついに越国に滅ぼされる(臥薪嘗胆のエピソード誕生)。また、その越国も紀元前 334年、長江や淮河の流域エリアへ勢力拡大を図る楚国により滅ぼされる(下地図参照)。
楚国の治世下、紀元前 264年に頃襄王の後を継いで王位を継承した考烈王は、その即位に尽力した黄歇に淮北 12県を下賜する。しかし、楚国自体は引き続き、西側の秦国からの度重なる領土侵犯にさらされ、紀元前 248年、ついに王都を寿春へ遷都する。同年、楚国の有力政治家として確固たる地位を築いていた 黄歇(春申君と号した)は、自身の拝領地を淮北エリアから、より辺境の江東エリアへ移封してもらう。
春申君の新領地となった江東エリアでは、早速、行政地の改革が進められ、この一環で、菰城(今の 湖州市南側の金盖山の 山麓 【呉興区雲巢窑頭村】 にある菰城遺跡)が築城される。周囲に数多くの菰草が繁茂していたことから命名されたとされる。
しかし、その楚国も紀元前 223年に秦国の総攻撃を受けて滅亡する。その翌年の紀元前 222年、 秦により新たに郡県制が導入され、菰城に烏程県役所が設置され、烏程県城に 生まれ変わる(会稽郡に帰属:上地図)。
秦国はそのまま翌紀元前 221年に中原統一を 成し遂げるも、その治世は短命に終わり、紀元前 206年、項羽により滅亡に追い込まれることとなる。
この秦国の治世下において、楚の名門将軍家の血筋を引く項羽は、この烏程県の兵法部署の客人として隠匿生活を余儀なくされていた。ちょうど同時期に、秦の始皇帝が全国巡遊中の一環として烏程県を訪問した際、 始皇帝の大行列を目にしたエピソードが今日に伝わる。このとき、叔父の項梁によって、項羽は早る殺気をいさめられている。
秦の始皇帝の 死後(紀元前 208年)、各地の豪族や諸侯らが挙兵する中、項梁と項羽もこれに参加する。二人は旧楚の残党兵力を結集すべく、烏程県城の近くに小さな軍事要塞の築城を開始する。これが今に残る 項王城(高墩頭)で、今日の 湖州市呉興区の愛山広場の 高台(3~4 m程度)エリアとなっており、現在、湖州市内の 筆頭観光名所となっている。 現在、古城地区北端の項王公園は、後に地元市民らが項羽を記念して設けられたものである。
この挙兵から一年後、項梁は項羽に会稽郡太守の殷通を殺害させ、会稽郡一帯を占領し、配下に 8000の精鋭を手に入れて、この 項王城(高墩頭)の要塞に凱旋している。さらにその翌年、淮水を渡河して北上し、対秦戦争をリードしていくこととなった(上地図)。
しかし、その項羽も諸侯を束ねた劉邦軍により討たれ、紀元前 202年、劉邦により前漢朝が建国されるに至る。
劉邦は当初、建国の功臣らを諸侯に封じて、領地経営を委ねるも、徐々に彼らを粛清し、自身の一族らを各地の国王に封じて、劉氏一色の中原支配を目指すこととなる。この一環で、紀元前 195年、劉邦は自身の実兄である劉喜の 長男・劉濞を呉王に封じる。この湖州市一帯も劉濞の支配する呉国に所属された。
しかし、前漢朝 6代目皇帝・景帝の治世下の紀元前 154年、呉王の劉濞の 長男・劉賢が景帝との個人的なトラブルで死去すると、これに激怒した劉濞により(呉楚)七国の乱が勃発する(上地図)。しかし、 反朝廷軍は 1年もたたずに撃破され、首謀者の劉濞が討たれると、この呉国の地は前漢朝の直轄地に組み込まれることとなる(呉郡の設置)。
時は下って、後漢末期。長沙郡太守や烏程侯に封じられていた一大軍閥勢力のリーダー孫堅は、袁紹と対立関係にあった袁術の配下に加わって各地を転戦するも、荊州攻めの最中の 192年、劉表の部下の黄祖の守る襄陽城戦で討ち死にしてしまう。
こうして孫堅の 長男・孫策も含め、孫堅に率いられた諸軍はすべて袁術の指揮下に組み込まれる。孫策はその後も転戦を続け、揚州牧であった劉繇を滅ぼして勢力を一気に拡大した頃から、 袁術の軍門より離脱することとなる。
江東地方の平定戦では、孫策はこの烏程県一帯で山賊集団の厳白虎と 長期にわたり戦火を交えた(下地図)。
その孫策の弟にあたるのが孫権で、兄から引き継いだ江東の地を中心にさらに領土を拡大し、呉国を建国するに至る(下地図)。
その呉国も 4代目皇帝・孫皓の治世となっていた 266年、旧項王城跡地に郡役所を開設し、呉興郡を新設する(「呉国興盛」の意味を込めて命名された)。以降、呉興郡の 守り神の一人として、この地域にゆかりの深かった項羽が祀られる習慣が形成されていくこととなる。
西晋朝により三国が統一された 280年代に、呉興郡下の行政区は大幅に 改編され、長城県や 東遷県、武康県などが新設され、また烏程県役所が呉興郡城へ 移転され、県城と郡城が統一されることとなった。
以後、南北朝時代を通じて、呉興郡は今の湖州市全域と 銭塘(今の 杭州市)、陽羡(今の 江蘇省無錫市宜興市)などの諸県を含めた一帯を統括することとなる。
南北朝時代の戦乱を統一した隋朝の治世下の 602年、全国で郡制度が廃止されると、呉興郡が湖州へ改編される。 北側に隣接する太湖に由来して命名されたという。
続く唐代には、湖州府(烏程県、武康県、長城県、安吉県、徳清県の5県を統括)下の戸籍登録人口 477,698(73,360戸)あったとされる。
五代十国時代の 908年、唐王朝の正当後継政権であった後梁国の 太祖・朱温の父である朱誠と同じ名称ということで、臣下の礼をとっていた 呉越国の 初代皇帝・銭鏐は、すぐに長城県を長興県へ改称させる。
北宋初期までこのまま 湖州府(府全体の戸籍登録人口は 361,689人)の行政区が継続されるも、1034年に昭慶軍節度へ昇格され、1225年には安吉州へ改称される。引き続き、烏程県、帰安県、安吉県、長興県、徳清県、武康県の 6県を統括 した(下地図は南宋時代の様子)。
元代には、安吉州が湖州路へ改編される。その管轄域は宋代のままとされた。後に、長興県は長興州へ昇格される。
元朝末期の 1366年、明の朱元璋の勢力下に組み込まれ、湖州府へ改称される。その下には 烏程県、帰安県、長興県(1357年に長興州から長官州へ、1362年に再び、長興州へ戻されるも、1369年、長興県へ降格される)、徳清県、武康県、安吉州(1506年に州へ昇格され、孝豊県を統括することとされた)の 6県1州が配された。
清代に入っても、明代の行政区がそのまま継承される。清代も後半に入った 1773年、安吉州が安吉県へ降格され、湖州府下の 7県(烏程県、帰安県、長興県、徳清県、武康県、安吉県、孝豊県)は すべて同列とされた。
中華民国が 1912年に建国された直後、烏程県と帰安県の 2県が合併され、呉興県が成立する。共産党中国が建国された 1949年には、呉興県を中心とする呉興市制が施行されるも、すぐ翌年の 1950年、湖州市へ改称され、今日に継承されていくこととなる。
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