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莱蕪市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
山東省 莱蕪市 ~ 人口 140万人、 一人当たり GDP 57,000 元
➠➠➠ 莱蕪市内の 城跡リスト ➠➠➠
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莱蕪監(【3代目】莱蕪県城)
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【初代】嬴県城(嬴邑城、嬴郡城) 蜀の建国の 功臣・糜竺が郡太守に就任
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【2代目】嬴県城(【2代目】莱蕪県城)
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牟県城(牟国の 王都跡、牟邑城、牟城県城)
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莱蕪県城
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平州邑城
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長勺の古戦場跡
【 莱蕪市の 歴史 】
春秋時代期、莱蕪市内は、牟国の領土下に組み込まれた。この頃に、嬴邑と平州邑の城塞都市が設置されている。
牟国は当初より隣接する魯国の半属国であり、 その王都は現在の 莱蕪市莱城区辛庄鎮趙家泉村(後に 牟邑、牟県城となる)に開設されていた。一方で、嬴邑城は今の 莱蕪市莱城区玉羊鎮城子県村に、平州邑城は莱蕪市莱城区の西部にあったという。下地図。
ちょうど、この一帯は斉国と魯国の国境地帯に位置し、度々、戦火が交えられることとなる。特に有名な戦争である、長勺の戦いは、まさに莱蕪市莱城区苗山鎮がその舞台となっている。下地図。
紀元前 686年、暴君として庶民から多くの恨みをかっていた斉国 14代目君主の襄公が、従弟の公孫無知のクーデターにより殺害される。15代目君主として公孫無知が即位するも、翌 685年に暗殺されてしまい、国主が空位となる。ここに、他国へ亡命していた 2人の皇太子が呼び戻されることとなり、先に到着した公子の小白が 16代目君主(桓公)に即位する。
直後に桓公は、もう一人の皇太子を匿った魯国を征伐すべく大軍を発する。この 戦争(干時の戦い)に敗れた魯国は斉の 皇太子(公子の糾)を処刑し、かつその側近であった管仲を捕縛して、斉国へ送還することで停戦の和議を結ぶ。
いったん撤兵した斉国であったが、翌紀元前 684年、再度、先の戦争で弱体化していた魯国への侵攻を開始する。魯軍は抵抗らしい抵抗もせず、斉軍に国境を超えさせ、反攻に有利な地形であった 長勺(今の 莱蕪市莱城区苗山鎮)で待ち構え、奇襲を加える。魯軍を軽視し過ぎていた 斉軍(総大将は鮑叔)は大敗を喫し、本国へ撤退することとなる。上地図。
敗戦直後、自身の力量を悟った鮑叔は友人であった収監中の管仲を桓公に推挙し、すぐに宰相に就任させ、富国強兵を担当させることとなる。表向きは、魯国と和議を結びつつ、斉国は、属国の宋国や陳国を使って魯国の西側国境を脅かせつつ、自身は東側から圧力を加えるなど魯国への攻勢を諦めることはなかった。
この 君主・桓公と 宰相・管仲のコンビにより、斉国は覇権国家への道を歩むこととなる(下絵図)。
最終的に、先の嬴邑城と平州邑城は、斉国に併合され、戦国時代期を通じて、斉国の領土下に組み込まれた。
戦国時代期、斉国の西の国境地帯の重要拠点として位置付けられていた嬴邑城は、秦代に入ると、嬴県(今の 莱蕪市莱城区玉羊鎮城子県村)へ昇格され、済北郡に帰属された。
前漢時代には、牟県(今の 莱蕪市莱城区辛庄鎮趙家泉村)と 莱蕪県(今の 山東省淄博市淄川区淄河鎮口頭郷城子庄、太河水庫の一帯)が新設される。これら嬴県、牟県、莱蕪県の 3県は、共に泰山郡に帰属された。下地図。
後漢末期に最後の 皇帝(献帝)を大臣として補佐し、李傕・郭汜の勢力との仲介役となった韓融の 父・韓韶が、県長官として手腕を発揮したのが、この嬴県である。当時、多くの飢餓農民らを救ったとされる。下地図。
また 196年、泰山郡から 嬴郡(郡都は 嬴県城【今の 莱蕪市莱城区玉羊鎮城子県村】)が 分離・新設された際、後に蜀の建国の功臣となる糜竺が嬴郡太守に任命される。劉備が曹操の元に身を寄せていた際、その配下として糜竺も同行しており、この時、曹操により推挙され就任している。
時は下って、北魏朝の時代、嬴県の県役所が東側へ移転され、現在の莱蕪市莱城区南文字村に開設される。同時期、莱蕪県が廃止され、旧県域の北部は貝丘県に、南部は嬴県と牟県へそれぞれ分かれて編入された。
北斉時代の 556年、牟県も廃止され、博平県(隋代に博城県へ改称。今の 山東省泰安市岱岳区邱家店鎮後旧県村)へ吸収合併される。
南北朝時代を統一した隋代の 596年、牟城県(今の 莱蕪市莱城区趙家泉村)が復活設置されるも、605年に再び廃止され、嬴県(今の 莱蕪市莱城区南文字村)に併合される。
上地図は、隋朝末期の農民反乱時代に、各地に割拠した軍閥の勢力図を示す。
唐代の 627年、嬴県も廃止され、博平県(今の 山東省泰安市岱岳区邱家店鎮後旧県村)へ吸収合併される。
704年、北魏時代に築城されていた 旧嬴県城(今の 莱蕪市莱城区南文字村)跡に、莱蕪県の県役所が転入し、莱蕪県城となる。
しかし、820年に再び莱蕪県は廃止され、乾封県(705年に博城県から改称。今の 山東省泰安市岱岳区邱家店鎮後旧県村)へ編入されるも、間もなくの 827年に復活設置される(兗州魯郡に帰属)。
宋代初期まで、莱蕪県はそのまま兗州魯郡に帰属したが、行政区の改編に伴い、襲慶府下の魯郡に移籍される。
金代に入ると、天然資源が豊富な土地柄を活かした製鉄業が盛んとなっていた、現在の莱蕪市莱城区一帯を統括すべく、莱蕪監という役所が新設される。上地図。
そして 1172年、現在の莱蕪市莱城区南文字村にあった莱蕪県の県役所自体も南へ移転され、精錬業監督を主とした莱蕪監の旧役所跡に入居することとなる(泰安州に帰属)。これが、現在の莱蕪市莱城区の中心街の起源となる。上地図。
清代も引き続き、泰安州(今の 山東省泰安市泰山区の中心部)に帰属した。
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